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25-8-27(水)今日もまだ午前9時なのに鎌倉では30度を超える暑さとなっている。もっとも鎌倉などまだましで、東京では今日猛暑日(最高気温が35度を超える日)となると記録更新となる。あまり気持ちの良い新記録ではないが。これだけ暑くて、夜も熱帯夜が続くと、流石に身体に応えてくる。今週の日曜日には午前の礼拝に出られなかったので、夕方7時からの礼拝に出た。どうしても小宮山牧師と話しておきたいことがあった。新約聖書学者として有名な田川建三先生がお亡くなりになった。今年の2月に群馬県の病院
2025年8月13日水曜日先ほどある聖書学者の訃報が届きました。【訃報】田川建三さん(新約聖書学者、大阪女子大学名誉教授)2025年8月13日新約聖書学者の田川建三さん逝く。田川さん…と言えばこのブログでもちらりと紹介しています。猫町俱楽部「レクチャー:初めて読む聖書講師:橋爪大三郎」ルーテル派の熱心な信徒でもある橋爪大三郎先生が「ユニークな」とご紹介した方です。このブログ日記にもちらりと私がコメントを書いています。田川さんにお
■おふでさきの区切り毎日読むおふでさきの区切り方はいくつかあるようですが、わが家では以下のもの(教校専修科の朝礼で使用されていた・故・安井幹夫先生作?)を使っています。赤字はきょうの拝読箇所です。一号1~20、21~38、39~57、58~74(4)二号1~17、18~30、31~47(3)三号1~14、15~27、28~41、42~58、59~76、77~91、92~112、113~127、128~149(9)四号1~20、21~39、40~59、60~78、79~95、96
さて、以前書いた件についてまだ触れておきたいと思い、残しておく。ネット界隈では、来年7月5日に起こるとされる件で話題に事欠かないが、私も聖書の謎解きをしながらも、この話の真偽を見定めたいと考えている。一応聖書にはそのことを預言しているのではないかとも読み取れる記述もあるにはある。第三の御使いがラッパを吹いた.すると、たいまつのように燃えている大きな星が、天から落ちてきて、川の三分の一と水の源の上に落ちた。(ヨハネの黙示8.10)これは宇宙からやってくる小惑星或い
本記事は前回の続きである。イエス復活の真相についてChatGPT4o(AI)と議論した結果たどり着いた事実とは?質問:それでは話を少し変えましょう。その神学ではゴルゴダの丘にいたイエスの愛する弟子についてどのように考えていますか?また誰がイエスの愛する弟子だとしていますか?またどのような意義があったと考えていますか?回答:イエスの「愛する弟子」として広く知られているのは、使徒ヨハネです。ヨハネは、ゴルゴダの丘でイエスの十字架のそばに立っていた弟子であり、イエスが彼の母マリアをヨ
24-9―20(金)新約聖書学者で、東京大学名誉教授の荒井献(アライ・ササグ)氏が先月の16日にお亡くなりになったのを最近知った。(新聞などにも載ったようであるが、私は新聞をとっていないし、家にはテレビがないので、気にかけていないと訃報はなかなか入らない)。葬儀は近親者だけで行ったそうである。荒井献氏について一応紹介しておくと、彼は東京大学教養学科ドイツ語専攻を卒業後、大学院に進学し、学者の道を歩み始める。ドイツに留学して、当時世界中の学者の間で懸案となっていた新訳聖書外典の『トマ
24-5-24(金)私の荒井献に対する嫌悪感はほとんど生理的なものにすらなっている。(こういうことを書いていいのかどうか解らないが)大体私は彼の顔からして嫌いだ。彼が極左の無神論者であることは前も書いたので、今回は割愛するが、“極左の無神論者”であっても私は必ずしもその人を全否定はしない。現に田川建三先生のことは尊敬しているし、今一番待ち遠しい本は田川先生のライフワークとなるであろう『事実としての新約聖書』(仮題)であり、この本が完成した暁には日本人は初めて真の意味での不偏・不党の立場か
←リチャード・パワーズ著『黄金虫変奏曲THEGOLDBUGVARIATIONS』(森慎一郎/若島正訳みすず書房)「34歳の若きパワーズが持てるすべてを注ぎ込み、小説の四隅を押し広げようとした長編第3作にして、全著作のなかでも屈指のマスターピース。」本日二か月ぶりに書店へ。車で。日曜日だからかデパートの駐車場入り口は混んでた。本の纏め買い。頂いた図書カードも使った。持参していたクレジットカードが使えなかったことにショック。一万円以上だと暗証番号が必要だって。そうか、普段はせ
←森秀樹著『「黙示録」を読みとく』(講談社現代新書)「千年王国、ハルマゲドン、メシア思想など数々の幻と象徴の正体とはなにか。背景となるユダヤ民族放浪の歴史をたどり、秘められた謎とその魅力に迫る。」【戦う殉教思想】──「黙示録」が成立したと言われる迫害激化の1世紀末には、アジア州の教会はおおかた腰砕けの状態であった。……また、各書は1部の使徒書簡をのぞけば、諸福音書のようにどちらかというと穏便で叙事的な内容であり、激動の逆境の時代にはおとなしすぎて不向きであり、心的な決起(気構え)をうなが
←裏庭のボケ。いま開花?(11/1115:24)スマホを買い替えて2ヶ月。初めて(!)電話に出ることができた。今まで何度も掛かってきても、受け方が分からず、切れてから掛け直していた!それがやっと今、相手の電話に出られたのだ。コングラチュレーション(congratulations)!電話に一度で出るのに2ヶ月!(11/1115:28)(頂いたおめでとうのコメントに)感激してます!嬉しいです。電話に出られて感動するなんて思いもよらなかった。(さらに別に頂いたコメントに
あの柄谷行人が八十一歳になっていたのである。僕もそれと同じく年老いてしまったのだ。よりラディカルに物事を問いつめようとした柄谷の功績は、初期の文芸評論にあるのではなかろうか。僕にとっては、昭和四十七年二月に発刊された『畏怖する人間』が最高傑作なのである。僕もまた柄谷の『マルクスその可能性の中心』『終焉をめぐって』なども読んだが、混濁しがちな意識から抜け出し、明晰さを求めて格闘しただけではなかったか。既存の思考から逸脱しながらも、結局は同じような縮小再生産にとどまるといった、消耗戦を強いられ
Youtubeのヒストリーチャンネルにて、ある動画が公開されているので紹介しておこう。キリスト教圏では真面目にこれらの内容が語られているのだが、ほとんどの方が面食らうのではないだろうか?このイエス再臨の前に起こると言われている携挙について、一般人の感覚としては、実際に起こる出来事なのかどうかは正直分からないとしか言いようがない。いや、そんなことが起こるとは到底信じられない・・というのが正しいだろうか。クリスチャンらはそれが実際に起こると信じているのだろう
21-6-2(水)東京都、大阪府など10前後の地域に発令されている「緊急事態宣言」は5月いっぱいで解除される予定であったのが、今月の20日まで延長されることになった。神奈川県は緊急事態宣言は対象外であるが、別の宣言(蔓延防止なんとか)が出ているらしい。私は相変わらず鎌倉市と実家のある横浜市の間を行ったり来たりしていて、県をまたぐ移動はしていない。そろそろ梅雨に入る頃なので、午後の散歩もあきらめる日が多いので、外出の機会はますます減っている。父が亡くなった後のいろいろな手続きもようやく
新約聖書、読むならまず、この三篇!桜井芳生文化社会学・遺伝子社会学著作権保持201023+++「聖書」(今回は、新約聖書にかぎりましょう)を、教養として読んでみよう、としたひとはすくないないでしょう。が、よく「ホテル」にある、和英対訳のを読み始めても、なーんかにているのになんで4つもあるのかわからない「福音書」、だれがだれだかわかない「使徒行伝」、何通もある「書簡(手紙)」、、、、、とかあって、↓結局、かなりいい「睡眠薬」となるだけですよね?+++イエ
拙著、復活したイエスが描かれていたダ・ヴィンチ「最後の晩餐」について、少し書いておきたい。復活したイエスが描かれていたダ・ヴィンチ『最後の晩餐』Amazon(アマゾン)1,980円レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画「最後の晩餐」についての謎解きをしていく中で、説明の一部に誤解を招く表現があったため、今回補足する次第である。レオナルドが題材にした新約聖書の「最後の晩餐」について書かれてある箇所は、それぞれ4つの福音書、すなわちマルコ、マタイ、ルカの共観福音書とヨハネ福音書にある。
プロテスタントの女子校育ちの私はお祈りも礼拝も聖書の学びも、何の抵抗もなく当たり前にあった。今、母親は教会の礼拝へ行って、毎週日曜日お祈りしてる。内の1人息子は、この夏、物理を深く学ぶため院試験があり、祖母である母は孫のためのお祈りをしてる。でね、お祈りの仕方が面白くてなんと!私が感じたことは母親は『イエスと交渉してる』イエスをビジネスマンに見立て孫の希望が成就することと自分のイエスへの信仰とこの2つを交換条件で、イエスと交渉してる母
J-STAGEで田川建三さんの論文が5件ほどヒット検索結果ページへもちろん光の速さで全部ダウンロードコレクションが増えた。
新約聖書学者の田川建三先生の本を短い期間に読み上げた。私は毎週近所の教会のミサには通っていて、今通っている教会の神父さんはアメリカ人である。彼はオールド・カトリックに凝り固まった人で、私がこういう本を読むことを好まないであろうから内緒にしておく。私がキリスト教についていろいろ書くので誤解されているらしいので書いておくが、私は有神論者であり、またイエス・キリストを神の子であるということは疑いなく信じている。要はキリスト教の教義の根幹の部分は信じているのである。では何故カトリックにならないのか?と
今週はお盆の週で、流石にクライアントの数もちらちらと減っている。暇で何もしないのは耐え難いので(人間というのは、案外勤勉なものである。この点、私は人間学的心理学を支持する)昨日は『書物としての新約聖書』(田川建三)というものすごく難解で部厚い本をデニーズにもっていって、一日中読んでいた。この本は20年前にある女性にもらって、その時は夢中になって読みふけったが、今読んでみると何が書いてあるのか良く解らない。もっとも読書などはかどらなくても良いのである。クーラーにあたっているだけで、何もしないとい
なんだか気せわしくて仕方がない。年を追う毎に“夏”と“冬”が長くなって“春”と“秋”が短くなってきている。特に今年は冬がいつまでもしつこく長くて、本当に春らしい“緑の萌える”季節は令和に入ってからであるから5月になってからであり、実質、春は1か月しかなかった。そしてもうすぐ梅雨入りする(沖縄ではすでに梅雨入りしている)ので、それまでに冬物と夏物を入れ替えたり、炬燵を片付けたり、寝室を移動したりとやらなければならないことが沢山あり、何か大事なことをし忘れたような気がして仕方がない。元来が強迫的な
多くの高校生は何故偏差値の高い学校に行きたがるのであろうか?実はある時期まで私はそれを知らなかったが、どうやら「良い会社」に就職したい、というのがその動機のようである。(ここで言う良い会社とは、給与を沢山くれて、福利厚生の面でも充実しているというような意味。)あるいは「国家公務員上級試験に通って財務省に入り、行政の中核をにないたい」というような人もいるかもしれない。何にしても「高い給与」「高い地位」「高い名誉」というようなものが動機であるようだ。そういう動機を私は全面的に否定する気はないが、も
年一回の神保町古書店の蔵出し、11月1日夜コーカサス旅行で成田から帰宅して、その翌日2日、金曜日に出かける。期間は10月27日から11月4日までなので、一休みしてから出かける、という手もあるのだが、土日はゆっくり休みたい、と少し強引に出かける。今回のコーカサス旅行は、宗教、という視点から見るとアゼルバイジャンーイスラム教モスクとかつての拝火教(ゾロアスター教)の史跡アルメニアーキリスト教を最初に国教とした国。古式ゆかしい教会や修道院。ユダヤ教のシナゴーグ
明日は白露である、それが過ぎると待ちに待ったお彼岸だ。今年の夏は例年になく身体に応えた、何日もクーラーをつけっぱなしにしていた時期もあった。その時には「お彼岸が来れば、暑さも収まるはず」という定跡を信じてひたすら耐えた。実際には1週間ほど前から急に涼しくなり、それ以来空調はつけていない。相談室にいらっしゃるクライアントの方も暖かい飲み物を注文してくるようになった。真夏日(最高気温30度以上)、熱帯夜(最低気温が25度を下回らない)はもう来なくなり、季節が進んだのがはっきりと意識させられる。