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家康が御三家という制度を作ったわけではないし、吉宗が御三卿という制度を作ったわけでもありません。ここは誤解しがちなところですが、家康が徳川家が断絶しないように深慮遠謀の結果御三家という制度を考えて「これでいくぞ」と宣言したわけではない。成り行きでそういうふうになった、というだけのことです。最初から尾張、紀伊、水戸の三つで御三家が結成されたわけでもない。「将軍のスペアの資格のある家が、結果的に三つ残った」というまでのことです。御三家は、万が一のときに将軍になる可能性がある、という以外は、普通
去年の大河も終わったところで、「一橋慶喜とは何か?」っていう話を、もういっぺん、しようかな、と。御三卿というのは、八代将軍吉宗が、「自分の子孫で永久に将軍位を独占させたい」と考えて作った、いわば「新御三家」です。が、御三家とは決定的な性質の違いがあります。御三家は、家康の息子の下から三人が、城と領地を貰って分家したものです。「いざというとき将軍の跡継ぎを出す資格を持つ」という以外は、他の大名と同じです。領国経営の仕事があり、地元振興、産業育成などに心を砕いているわけです。水戸は江戸定府ですが
御三卿というのは、八代将軍吉宗が、「自分の子孫で永久に将軍位を独占させたい」と考えて作った、いわば「新御三家」です。が、御三家とは決定的な性質の違いがあります。御三家は、家康の息子の下から三人が、城と領地を貰って分家したものです。「いざというとき将軍の跡継ぎを出す資格を持つ」という以外は、他の大名と同じです。領国経営の仕事があり、地元振興、産業育成などに心を砕いているわけです。水戸は江戸定府ですが、尾張と紀州は参勤交代もします。ところが御三卿は、江戸城の中の屋敷に住み、城もまとまった領地も