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ひとつ前の当ブログの最後のところで、「コンプレックス」をキーワードに三島由紀夫さんと仲代達矢さんについて書きました。このお二人は映画で共演されています。勝新太郎さん主演の『人斬り』(1969五社英雄監督)です。勝新太郎さんが扮したのは、幕末に「人斬り以蔵」の異名をとった、土佐の岡田以蔵です。(大河ドラマ『勝海舟』では萩原健一さんが演じましたね)その人斬り以蔵を操るのが仲代達矢さん演じる武市半平太で、無学で単純、人のいい以蔵を演じる勝新太郎さん、以蔵を利用する冷酷な切れ者役の仲代達矢さん、い
高瀬川周辺は観光客が押し寄せ、春になると桜が満開になります、高瀬川周辺は江戸末期に暗殺が多発しました。土佐藩邸跡があり、龍馬の活動の痕跡がありますが今回は龍馬は登場しません。古高俊太郎寓居跡、阪急河原町駅の高瀬川沿いは幕末に暗殺事件が度々起こりました。古高俊太郎は、桝屋湯浅喜右衛門と称して築前藩御用達商人を装いながら長州志士らに武器類を調達していました。下京区木屋町四条下ル西入ル古高俊太郎は新選組に捕縛され土方歳三の凄惨な拷問に耐えかねて京都御所を焼き払い孝明天皇を奪い
京都へ先日、久しぶりに京都を訪れました。目的は仙洞御所と桂離宮の見学です。仙洞御所は京都御所の東南に隣接する、上皇のお住まいです。建物の多くは嘉永7年(1854)の火災で焼失したままで再建されていませんが、美しい庭園は必見の価値があります。桂離宮は教科書でもおなじみの日本を代表する名建築で、庭園の美しさでも有名です。いずれも事前に宮内庁に申し込んでおき、当日は職員の方のガイドで園内を参観します(所要時間は各1時間)。暑さと体力を考え、午前11時から京都御苑内
ひとつ前の当ブログで、『人斬り』(1969五社英雄監督)の劇中、三島由紀夫さん演じる薩摩の暗殺者・田中新兵衛の切腹シーンを取り上げました。土佐の武市半平太(仲代達矢さん)の陰謀にはまり、覚えのない「暗殺」の疑いをかけられます。「私の刀を盗まれたのだ!」と訴えていいところですが、いきなり切腹してしまうのです。この潔さ、演じる三島由紀夫さん自身と一体化したように感じられてしまいます。はたして、今、三島由紀夫さんが生きていたら、疑惑を受けてゴニョゴニョと言い訳したり、平然とウソをつくような政治家
ひとつ前の当ブログの続きです。『人斬り』(1969五社英雄監督)で、薩摩の「人斬り」田中新兵衛に扮した三島由紀夫さんは出番は少ないものの、圧倒的な存在感をはなちます。「坂本龍馬を狙っている」と言って登場したのと同じ居酒屋で、新兵衛と以蔵(勝新太郎さん)は再会します。このとき、以蔵は武市半平太(仲代達矢さん)に放り出され、飲み屋の払いもできなくなっています。落魄の以蔵に、新兵衛は「あこぎなマネをするな、土佐藩も」と言って去っていきます。このあと、新兵衛は自分がやっていない「暗殺」の濡れ衣を
ひとつ前の当ブログで、『人斬り』(1969五社英雄監督)を取り上げました。「人斬り以蔵」と恐れられた岡田以蔵(勝新太郎さん)は、土佐藩の非情な武市半平太(仲代達矢さん)に利用されることに嫌気がさし、縁を切りますが、他藩は雇ってくれません。カネに困り、武市のところに舞い戻り、攘夷派がかついでいるはずの公家の暗殺を命じられます。まるで、今の日本の「非正規雇用者」や「外国人労働者」のような扱いです。勝新太郎さんはその単純さをつけこまれ、使い潰される以蔵を熱演。仲代達矢さんも冷酷な感じを出していま
文久二年(1862)閏八月二十二日の夜、宇郷玄蕃を襲撃し殺害に及んだ犯行グループに、肥後脱藩の堤松左衛門が加わっていたのは、土佐勤王党五十嵐幾之助の証言から間違いない一方で、岡田以蔵の関与の可能性は低いと思われることを前回お話しましたが、では他に誰が関与していたのか考えてみたいと思います。宇郷玄蕃の暗殺に関与した可能性がある人物として、まず真っ先に挙げなければならないのが、久留米藩郷士の松浦八郎です。松浦八郎は五十嵐幾之助の証言によると、宇郷玄蕃をはじめ、この頃に暗殺された人物に対する
内容を確認しないで衝動買いした漫画です。新選組の隊士が戦った剣客でだれが一番強かったというのを各々の隊士が語っていくという展開です。当然すべてフィクションでしょう。1巻は沖田総司と芹沢鴨です。2巻は藤堂平助と田中新兵衛です。思ったより面白かったです。
さくらば〜六の約束〜6/30配信(7/1さくらば〜革命〜の配信)さくらば2022配信公演|蛇ノ目企画Tickets血で血を洗い刀と刀で互いの身を削り合った動乱の時代アーカイブも何日か残るようですよ!よかったら是非!田中新兵衛タイソン大屋
先週の土曜日に放送された『ブラタモリ京都・鴨川』(NHK)で、長年見たいと思っていたあの場所が取り上げられていました。それは二条木屋町の高瀬川の樋口、現在は某料亭の庭園となっている場所です。文久二年七月二十日の夕方のこと、安政の大獄や和宮降嫁問題に暗躍し、勤王の志士たちに命を狙われていた九条家の家臣島田左近は、木屋町二条下ル東生洲町の町家に潜んでいたところを薩摩の田中新兵衛らに襲撃され、塀を乗り越えて逃げたところを角倉(すみのくら)屋敷裏の空き地の、高瀬川の樋の口のあた
さくらば〜六の約束〜終演しました。ありがとうございました。久しぶりの斬り合い、ってわけじゃないけど!楽しかった〜蛇ノ目企画、立ち上げのパフォーマンス以来の参加!嬉しかったし中島大地くんの作演ってのも嬉しかったし新しく出会ったみんなと作り上げていくのも嬉しかったし本番でみんなと客席と舞台が照明音響と響き合うのも嬉しいですしお芝居って素敵っすね。込山弘一/井上源三郎泥臭くも熱き男。お茶を飲んでて茶屋で寝てしまうよ
#さくらば2022〜六の約束〜幕末の動乱期その熱に浮かされた時代の剣客達の物語。剣でしか生きることが出来なかった男達の物語。今でも。チャンバラです!くぅーーーっ!!!剣劇っ!!!タイソン大屋の参加ステージは「さくらば2022〜六の約束〜」◆日時6/15(水)19時〜終演6/17(金)14時〜終演6/18(土)18時〜売切れ(若干の当日券アリ!)6/19(日)13時〜残若干◆劇場:シアター・アルファ東
昨年は三島由紀夫が自刃してから丁度50年目と云う事で、様々なイベントが行われたが、映画”三島由紀夫vs東大全共闘50年目の真実”も公開された、今日は三島が過去に出演した映画”人斬り”等に就いて書いてみたい。幕末の尊王攘夷派の“人斬り”と呼ばれた田中新兵衛役で出演した三島は、『ただ矢鱈と人を斬った末に突然謎の自決を遂げる、この船頭上がりの単細胞のテロリストは私の気に入った』と語った。共演は、石原裕次郎、仲代達也、勝新太郎だった。
床屋に行きたくても、ためらわざるを得ない昨今、こんな店頭幕を見てしまうと、なおさら足が遠のく。「斬」という字から、1969年公開された、五社英雄監督の『人斬り』という、幕末のテロリストを描いた映画を思い出した。人斬り以蔵の異名を持つ、土佐の岡田以蔵を勝新太郎が、薩摩の人斬り、田中新兵衛を三島由紀夫が演じた。血糊一年分を使ったという血なまぐさい映画だった。冒頭の吉田東洋暗殺シーンには、鳥肌が立ち、脇の下から冷たい汗がしたたり落ちた。新兵衛の切腹場
【Q16444】2020年ギャル流行語大賞では「やりらふぃー」「○○しか勝たん」「きゅんです」に次いで4位となった、可愛く泣いている様子を表す「ぴえん」の進化系で、より感極まって今にも泣きそうな状況を表す言葉は何?【ぱおん】【Q16445】創刊号で表紙・巻頭を飾った漫画はおおた綾乃の『ぽけっとジャーニー』。2002年に萌え系4コマ漫画専門誌として創刊された芳文社発行の4コマ誌で、『トリコロ』『三者三葉』『スロウスタート』『ゆゆ式』『けいおん!』などが連載されたのは何?【まんがタイムきらら】
以前から見たいと思っていた映画がYOUTUBEにアップされていました。『京洛の舞』(松竹/昭和17年)です。この映画、薩摩の「人斬り新兵衛」こと田中新兵衛を主人公としているのですが、実はメロドラマで、斬り合いのシーンはまったくありません。田中新兵衛を演じるのは上方歌舞伎の大物坂東寿三郎。一人二役を演じているのですが、そのもう一人というのが新兵衛に殺されることになる姉小路公知なのです。ここらへんがどうなっているのかは実際に見てのお楽しみです。一応、田中新兵衛なの
人斬り1969年勝プロ・フジテレビ(配給大映)監督五社英雄出演勝新太郎仲代達矢石原裕次郎三島由紀夫倍賞美津子勝新太郎、仲代達矢、石原裕次郎、三島由紀夫四大スターの競演作品です作家の三島由紀夫が薩摩藩の人斬り・田中新兵衛役で登場です三島由紀夫・田中新兵衛は割腹自殺をするのですが・・・・この翌年に三島事件で本当に割腹自殺をしてしまいましたこの映画は、勝新太郎・岡田以蔵と仲代達矢・武市半平太との関係がメインのストーリーでした幕末の京都薩摩、
目下、映画『三島由紀夫vs東大全共闘50年目の真実』が公開されているが、今日は三島が過去に出演した映画「人斬り」に就いて書いてみたい。幕末の尊王攘夷派の“人斬り”と呼ばれた田中新兵衛役で出演した三島は「ただ矢鱈と人を斬った末に突然謎の自決を遂げる、この船頭上がりの単細胞のテロリストは私の気に入った」と語った。“舐めたらいかんぜよ!”の「鬼龍院花子の生涯」や「三匹の侍」「極道の妻たち」「吉原炎上」等製作の五社英雄が三島自決の1年前の昭和44年、映画「人斬り」の出演依頼をしたのだ
こんにちは、皆さん。勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。【勝、諸大夫拝命を断る】今しばらく文久三年(1863年)のお話が続きます。朝廷から製鉄所建設などの命令書を受け取った日の前日(5月8日)、勝に対し板倉老中から諸大夫(官人の階層の一つで四位または五位の者。〇〇守と称することができる)を授ける内意がありました。有難くお受けせよと言われた勝ですが、「徒(いたずら)
先日、滋賀県草津市の姥(うば)が餅屋跡を訪ねて来ました。姥が餅屋の跡は、南草津駅の東口を出て、ひとつめの大通りを左(北)側に進み、すぐに現れる矢倉前交差点の三叉路の左側の細い道(旧東海道)を進むと着きます。徒歩でだいたい15分ほどでしょうか。その名の通り「姥が餅」が名物の店でしたが、昭和13年に廃業してしまったらしく、現在、同地には瓢箪(ひょうたん)専門店(らしい)瓢泉堂さんが営業しておられます。文久二年九月二十三日、江戸へ向かっていた京都町奉行所与力・渡邉金三郎お
文久二年七月二十一日早朝、二条木屋町の長州藩邸裏の高瀬川に首のない遺体が浮かんでいるのが発見されました。その遺体は、東生洲町の妾宅で前日三人の武士に襲撃されたあと行方不明となっている島田左近である可能性が高く、京都町奉行所は、関係者として九条家の家臣二人と、左近の叔父もしくは伯父とされる、綾小路通大宮西入ル坊門町・聖徳寺住職の随誉(もしくは実正)を呼び寄せ、遺体を検分させました。そして、この左近のおじの聖徳寺住職の「膝の擦り傷あとや足の指の特徴に見覚えがある」という証言から、遺体が島
さて、本題に入る前に、やはり古高俊太郎の略歴を書いておかねばなりません。前回も言いましたが、古高に関する研究は中村武生先生の『池田屋事件の研究』(講談社現代新書・2011)がもっとも進んでおり、今回はほとんどその丸写しのようになってしまうかも知れませんが、何とぞご容赦下さい。古高俊太郎は、文政十二(1829)年、近江国栗太郡古高村(現・滋賀県守山市)に生を受けました。父は周蔵といい、大津代官所の手代を務めていました。母の名はすみといい、公家・広橋家の家来・松本多門の娘でした。ま
文久二(1862)年九月二十三日、あるひとつの偶然が起こりました。江戸の登る途中の脇坂安斐の一行と、大坂から京に戻る途中だった松平定昭の一行が近江石部宿でたまたま一緒になったのです。あるいは久しぶりの兄弟再会に喜び、酒宴でも開いたでしょうか。しかしこの夜、石部宿では凄惨な事件が起こってしまいます。江戸へ向かう途中であった京都町奉行所の与力渡辺金三郎と同心大河原十蔵、森孫六、上田助之丞の一行が過激浪士たちによって惨殺されてしまったのです。この大事件に際し、譜代大名たる脇坂安斐と松平定昭
文久三年五月二十日夜、田中新兵衛ら三人の刺客は御所朔平門外猿ヶ辻に尊攘派公卿姉小路公知を襲撃しました。姉小路卿の従者金輪勇は太刀を持ったまま逃走し、姉小路卿を守るのは若干十九歳の吉村右京ただ一人となってしまいました。また金輪勇に太刀を持ち去られてしまった姉小路卿は、やむなく手に持っていた扇子で応戦せざるを得ませんでした。新兵衛は姉小路卿に激しく斬りつけましたが、武術の心得のあった卿は、ひるまずに新兵衛の刀を素手で掴み、奪い取ろうとしたといいます。そうして揉み合っている間に、吉村
実は石部宿での天誅事件(文久二年九月二十三日)の少し前、田中新兵衛は武市半平太ら同志にある考えを打ち明けていました。『隈山春秋』(土佐勤王党平井収二郎の日記)文久二年九月十七日田中新兵衛ここに国へ帰る。予(平井収二郎)及び久坂玄瑞、武市半平太の旅亭に会いて別れの盃を酌する。まずこれ伏見の挙(寺田屋騒動のこと)、森山新蔵誅され、家は没(とりあげ)を蒙るとの報せ至る。新兵衛奮いて曰く、新蔵誠忠にして誅を蒙り、よろしくその身を止めん也。しかして家は滅さる。義に忍ぶべからず。すなわ
武士となった田中新兵衛でしたが、悲劇はすぐに訪れます。久光一行に先行していた森山新蔵が、主命を待たずに勝手に上京したとして、西郷吉之助や村田新八と共に捕縛され薩摩に連れ戻されてしまったのです。更に文久二年(1862)四月二十三日、伏見の寺田屋に結集していた有馬新七ら薩摩藩士が、島津久光の命によりその鎮撫に当たった同じ薩摩藩士奈良原喜八郎らにより殺傷されるという事件が起こります。俗に言う寺田屋騒動です。この斬り合いで森山新蔵の息子新五左衛門も重傷を負い翌日切腹、その報を耳にした新蔵もま
「人斬り新兵衛」こと田中新兵衛については、このブログでも散々取り上げて来ましたが、時々思い出したように書いていたので、飛び飛びだったり、途中で終わったりしてしまったので、ここらでひとまずまとめておきたいと思います。田中新兵衛は天保三年(1832)に鹿児島城下で生まれました。ただし実家や両親については何もわかっていません。『忠義公史料』に「下町に住す。幼年の時、森山新蔵が手伝いとなりたる者なり」とある事から、幼い頃から森山新蔵の元に奉公していた事がわかります。森山新蔵は薩摩の商人で、そ
清水寺の島田左近が建てた常夜燈の側に立つ四体の首のない石仏。アップにしたのが下の写真です。いずれも首の部分で切断されているのがわかります。中でも驚いたのが前列真ん中の石仏です。他のものは切断面がゴツゴツしているのに対して、これは非常に滑らかでした。わざわざ磨いたとも思えないので、この石仏は刀で文字通り一刀両断したのではないかと思われます。だとしたら、実行者は凄まじい剛力の持ち主だったかも知れません。やはり実際に左近本人を殺害した田中新兵衛が有力候補でしょうが、左近を狙い
安政の大獄で志士の弾圧に暗躍したとされ、一連の天誅事件の最初の犠牲者となった島田左近。その左近が寄贈した常夜燈が、安政の大獄で命を落とした、つまり弾圧された側だった月照・信海兄弟が住職を務めていた清水寺に今も残されている事を以前ブログで紹介しました。その側面には九条殿御家臣嶋田源龍章建立之と彫られています。さて、本題に入る前に一つ訂正させていただきます。以前、この西門前階段を挟んで立つ二対四基の常夜燈すべてが左近の寄贈したものだと