ブログ記事94件
今回は「息長真手王(おきながまてのきみ)が、「継体の妻の父」と、継体の孫である「敏達の皇后の父」として二度登場することの考察です。生野先生は「息長(気長)」は奴国王家嫡流を意味する名前だと考察されていますが、この「息長真手王」も個人に付けられた「固有名詞」ではなく、「奴国王家嫡流」を意味する「代名詞」ではないかと考えてあります。➀継体:推定在位期間=507年頃~527年(『古事記』の没年。』『日本紀』は531年没となっている)②欽明:推定在位期間=536年頃~571年(『日本紀』の
お気に入りのテレビ番組「Qさま」。今回のテーマ「中高生が選ぶ女性偉人ランキング」に卑弥呼が堂々の2位1800年も前の人物でありながら2位って素晴らしいって思う反面、相変わらず「邪馬台国の女王卑弥呼」って紹介・・・・やれやれ卑弥呼の名前は日本の史料にはなく、唯一『三国志』の中のいわゆる「魏志倭人伝」に「倭王卑弥呼」の記述がある。しかもその時、魏の明帝から贈られた印には「親魏倭王」と刻印されている。卑弥呼は倭王です!その流れで卑弥呼関連のネット記事を読んでいると、卑弥呼が魏に朝貢し
今回は、日本根子(やまとねこ)の「根子」や足尼(すくね)の「尼」と同じように「息長(気長:おきなが)」も奴国王家の名で、それも嫡流(宗族)の名ではないかという生野先生の考察です。生野先生は、後の時代、神仏戦争で敗れた物部一族や、平家の落人、足利氏など敗者が氏姓を変えて落ち延びていったように、敗者の奴国王家もその尊称の「おほな」を改姓した上で、ヤマト王家との共生の道が与えられたのではないかと考えてあります。<その理由>この名が、「日本根子」や「足尼」と同じく、神武の近畿東遷後(奴国王
福岡県飯塚市で11月16日に開かれた古代史歴史講座「邪馬台国論争の現在」に関する記事がネット(読売新聞)に出ていた。記事では考古学から邪馬台国近畿説に否定的な関川尚功さん、九州説否定の高橋徹さん、そして邪馬台国東遷をあり得ないという高島忠平さんの3人がそれぞれの意見を交換したが、結局決め手はなく、いつもどおりの「お開き」だった様子。パネラーの見解はともかく、その記事に寄せられているコメントの内容の乏しさも昔から変わらない。相変わらず「倭人の条」が正しいと注意書きするコメントもあったり
前回の続きで、今回も「記紀」成立より250年ほど前(辛亥年:471年)の稲荷山鉄刀の銘文に刻まれている「足尼」の考察です。生野先生は、本来「足尼」は「足✙根」の意味ではないかと考えてあります。先述(※12/2の書き込み)した「日本✙根子」と同じ用法で、「ヤマト王家✙奴国の氏族」のことで、ヤマト王家の中での両家の共生・融合を意味しているのではないだろうか。ただし、「日本✙根子」と「足✙尼(根)」の違いは、「日本根子」が元奴国系王族の称号であるのに対して、「足尼」はその臣下の氏族に与
前回は後半部分で集中力が切れてしまい、今日仕切り直しです(長い文章の書き込みは、再訪者数が少ないような気がします)さて、言い訳は止めて、今回はダミー天皇の中で「倭根子(日本根子:やまとねこ)」が付く「孝霊・孝元・開化」の三人は、神武が東遷した時に倒した「奴国王家の人たち」だったという生野先生の考察内容です。奴国との戦いに勝利した神武は、彼らを迫害せず、むしろ積極的に彼らをヤマト王家の中に「根子」として迎え入れたと思われる。それは、奴国王家の権勢と影響力が大きかった為でもあり、また
今回は、大和王朝に先興していた奴国王家の王や御子に付けられていた名前の「主」や「耳」が神武東遷以降、「根子」に変わっているという生野先生の考察です。生野先生は、「根子」とは「奴国王家の子孫」という意味ではないかと考えてあります。「記紀」では、奴国の「な」の名が消されているが、それを「ね(根)」に書き変えていると思われる。<その理由>まず、音韻上、ナ行の「な」と「ね」が相通(音便)することと、「魏志倭人伝」にある「次に奴国有り。此れ女王の境界の盡(つき)る所」の記事を利用して、そ
今回は、「記紀」が表向き消し去っている「奴国王家」について、実は天皇やその御子たちの名前に付けられた「耳」と「足」がその存在を示唆しているという考察です。生野先生は、古代にはヤマト王家の血筋を身体の部位で表現する時は「足(たらし)」で、奴国王家の場合は「耳」だったと考えてあります。「記紀」の天皇やその御子たちの名を見ると、「ヤマト王家と奴国王家」が結婚して生まれた「ヤマト王家の御子」の名には「耳(美美)」が付くという特徴がある。その典型例が「天照大神」と「神武」の御子の名です。
今回から、第3章先興「奴国王家」と新興「ヤマト王家」との闘いを紹介します。<その前に・・・生野説の大要>11/6に掲載している生野先生の「推定年表」の大要です。➀「魏志倭人伝」の冒頭に書かれている「舊(もと)百餘國、漢の時朝見有り。今使譯通じる所三十國」とは、百余国の内、倭王(やまとのおおきみ)卑弥呼が糸島ヤマトを都として出雲国以西の三十国を統治し、残りの七十国は元盟主の奴国王が支配していたということ。その卑弥呼を魏朝が一国家の統主「倭王」に封じたのは、卑弥呼が魏に朝貢していた
今回は、生野先生がこれまでの検証・考察のまとめとして作られた「推定年表(実年代)」を掲載します。※表裏2ページ(P233とP234)に掲載されている年表を中央で張り合わせて一つの画像にしました。年表中の「298年・吉備国を素通りして、~」の意味がよくわからず、勉強会資料や「記紀」の記事をあれこれ読み直ししていますが、今ひとつ・・・『日本紀』では乙卯(295)年春に吉備国に入り高嶋宮を作らせたと書いてあり、『古事記』にも「吉備の高嶋宮に八年坐しき」とあるので、吉備を素通りって事にはならな
今回は生野先生が作られた「神武天皇の実在と実年代」についての「推定年表」を紹介するつもりでしたが、著書では割愛されていた日本武尊の陵と聖徳太子の関係に関する考察を先に紹介した方が「推定年表」を理解してもらえるかなぁと思い、平成27年(2015)3月勉強会資料の概要を書いてみようと思います。<聖徳と神武は辛酉革命説で結ばれ、相互に史実を示唆している>「記紀」は、日本の古代における二人の英雄「神武」と「聖徳」を「辛酉革命」で結び付けて史実を改竄編纂したわけだが、その二か所及びその周辺で直
今回は、稗田阿礼がつけた三代安寧天皇から十二代景行天皇までの10人の和風諡号に彼らがダミー天皇であることが示唆されているという考察です。安寧から成務までの11人の天皇は、「阿礼が創作したダミー」であり、その11人には当然「天皇としての諡号」は無かったはず。しかし、『古事記』編纂時にその全員に諡号が書かれているということは、その諡号は「稗田阿礼が創作した」と考える以外ないが、その内の10人(成務以外)の諡号だけが明らかにおかしい書き方になっている。諡号は、貴人の没後に贈られる尊号だが
今回は、『日本紀』が綏靖即位前の記事に書いている綏靖兄弟による手研耳命暗殺決行の年「太歳己卯」についての考察です。生野先生は、日本武尊は手研耳命をモデルとした分身であり、『日本紀』はその日本武尊が即位していたと推察出来るような書き方(天子の四点セット)をしているが、他にも手研耳命本人自身に対しても即位していたことを窺わせるような示唆があると考えられています。それは、綏靖即位前の手研耳命殺害の日について『日本紀』が本来天皇が即位した時に用いられる「即位元年干支法」という『日本紀』だけの
前回は、『日本紀』が春秋の筆法を駆使した「天子の四点セット(日本⇔倭、尊⇔命、崩⇔薨、陵⇔墓)」で、日本武尊(景行の御子:手研耳命の分身)が実は天皇(天子)に即位していたという生野先生の考察を紹介しました。今回はその考察をもとに日本武尊のモデルとなった「手研耳命(神武の長子)」も即位していたという説明です。「記紀」はどちらも、手研耳命が即位したとは書いていないが、「即位したのではないか」と疑えるような書き方をしている。(まるでサスペンスドラマのような展開です)A『古事記』神武紀
今回紹介するのは「記紀」の中で悲劇のヒーローみたいに描かれている「日本武尊」に関する生野先生の考察です。生野先生は、日本武尊を神武の長子「手研耳命(たぎしみみのみこと)の分身」、つまり「手研耳命=日本武尊(分身)」だと考えてあります。「記紀」に記定された景行の御子の日本武尊そのものは架空だが、日本武尊には「モデルの手研耳命」がいて、その手研耳命は、神武の長子ということ。また、手研耳命(『記』では「当芸志美美命」)は神武崩御後に即位はしたが、翌年の319年(己卯)、神武の葬儀が畢(お
今回は「神功・応神」に用いられている「頭神と下神」の考察です。漢風諡号を創った淡海三船は、前回紹介した「神武・崇神」の場合と同様に「頭神と下神」の方法で「神功・応神」の間が母子で一代であることを示唆している。『古事記』は、「仲哀紀」の後に「応神紀」が書かれていて、その間は「二代紀」だが、『日本紀』は、神功を卑弥呼・臺与の時代に設定せざるを得なかったために、天皇のいない「神功皇太后摂政紀」を創り、「仲哀紀」と「応神紀」の間に挿んで「三代紀」にしている。しかし、「記紀」双方とも、神功
今回は、『日本紀』が「即位元年干支法(元年、即位。是歳、太歳○○)」で記述している三代安寧天皇から十二代景行天皇までのそれぞれの即位年に在位期間を加算して得た没年(干支)をもとにした考察です。下表をみると彼らダミー天皇たちの没年干支が28年間に収まっていてすべてが4世紀初頭に亡くなっていることや、『古事記』では崇神の没年干支は「戊寅」と書かれているが、実際は「辛卯」であることが分る。(神武の没年「戊寅」を崇神に移し替えている傍証)(下表は7/24の書き込みと同じものです。『日本紀』では
テレビニュースで香椎宮の勅祭の様子が放送されていた。勅祭を受ける神社は全国で16社(伊勢神宮は別)しかなく、九州内では「宇佐神宮」と「香椎宮」の二つだけ。どちらも神功との関わりの深い神社で、宇佐神宮の主祭神は「応神天皇」で神功の息子、香椎宮は神功の夫である「仲哀天皇」となっている。ただ、生野先生の考察では、この仲哀天皇が主祭神として香椎宮に祀られたのは大正四年(1915年)で、それまでは摂社に祀られていたとのこと。それ以前の記録(『神祇全書』や『筑前国続風土記』)では、香椎宮は「神功皇
生野先生は「記紀」にある辛酉革命の記事から文献で実年代確認できる卑弥呼・臺与の時代の3世紀から120年後の4世紀中葉までの還暦ごとに巡って来る「甲寅~辛酉」の8年間(甲寅:日向出発→辛酉:天皇即位)をもとに、神武の時代の辛酉年は301年だと比定し、神武の没年を318年と推察されました。(6/15,7/13,7/16あたりの書き込みです)しかし、著書の前半では神武の没年干支を「戊寅」とする説明はないまま『日本紀』の編年に関する考察が進んだため、モヤモヤ感がぬぐえませんでした。で、今回は、
ネットニュース(毎日新聞)に出ていた徳島県の古墳群保存に関する記事を読んで、『古事記』の「国生み神話」を思い出した。生野先生は、銅鏡と銅鐸の出土状況から四国は東西に奴国王家(銅鐸)とヤマト王朝(銅鏡)二つの勢力圏に分かれていたのではないかと考察されていました。その傍証として、『古事記』の国生み神話に書かれている「伊予の二名島」は、「記紀」史上から消された「奴国王家」の実在を示唆する表記ではないかと・・・。平成30年(2019年)4月勉強会④を参照していただきたいのですが、少しだけ内
今回は、中国の度量衡のルールを前提とした「魏志倭人伝」に記録されている卑弥呼の墓に関する生野先生の考察です。〇「魏志倭人伝」・魏の正始八年(247年)の条其の八年、~卑弥呼、以て死す(「以て(すでに)死す」と読む可能性もある)。大いに「冢」を作る。「径百餘歩」。徇葬(殉葬)する者、奴婢百餘人。~上の記事を読んだ当時の中国人は、次の要領で卑弥呼の墓をイメージしたと考えられる。まず、「冢」の文字を見て、それが「墓場(兆域・境内)」なのか「墓そのもの」なのかを考えた。なぜなら「冢」
今回は、箸墓は卑弥呼とは無関係であることの考察です。ずいぶん前の勉強会で、生野先生は「魏志倭人伝」に記述されている当時の倭人は手食で「箸」はまだ使われておらず、その点からも箸墓と卑弥呼の墓を結びつけるのは無理があると説明されたことを思い出します。生野先生は、この著書の中で「箸墓と卑弥呼の墓とは無関係」についての詳細は別稿で紹介しますと書かれています。多分2019年11月発行の『倭の女王卑弥呼』(櫂歌書房)の事だと思います。よかったらぜひご一読くださいm(__)mさて、「卑弥呼の
前回に続き「箸墓伝説」の考察です。「箸墓伝説」は『日本紀(崇神紀)』にしか書かれていない大物主命の神婚説話だが、似た話が『古事記(神武紀)』の「神武の皇后選び」の中に出てくる。どちらも大物主命が登場する話でありながら『古事記』では初代天皇の神武の時代、一方の『日本紀』では十代天皇の崇神の時代で、その間には大きな時間的隔たりがある。この矛盾は「神武と崇神が同世代」であり、ひいては崇神がダミーの天皇であることを示唆するものだと、生野先生は考えてあります。今回はさらにこの「箸墓伝説」
生野先生は、初代天皇「神武」こそ実在した天皇であって十代の「崇神」は「記紀」が大和王朝万世一系を建前とするために系譜を改竄した「ダミーの天皇」の一人だと考察してあります。また、「記紀」は歴史を改竄しながらも後世の我々に史実を解くヒントを「記紀」双方の記述の矛盾や不審点として示唆しているので、そこを検証すれば必ず史実を解明することが出来ると考えてありました。(過去形・・)今回は考古学界しかも「邪馬台国=近畿説」派に、根強い人気(?)の「箸墓古墳(伝説)」についての考察です。最初に押
前回、『延喜式』は「ダミー天皇の崇神」の存在を見破られないために、「天皇としての実体のある天皇」を祀っている神社すべてを神名帳には記載しないという手法で、「記紀」の歴史改竄に手を貸している(共犯?)という生野先生の考察を紹介しました。今回は、稗田阿礼が『古事記』の系譜のなかで、崇神がダミーの天皇であることを示唆しているという説明です。『古事記』には、神武が近畿東征した後、大物主命の娘「伊須気余理比売」を正妃(大后)に迎えたと書いている。また、その大物主命には男子の「意富多多泥古(おほた
今回は『延喜式』神名帳(式内社)には、天皇を主祭する神社がほとんど記載されていない事の考察です。なぜ、『延喜式』神名帳には「八幡大菩薩」と書かれた「応神」以外、天皇を主祭する神社の記載がないのか?また、なぜ実際の神社数より『延喜式』神名帳の神社が「1,000社」以上も少ないのか?<「式内社」=天皇以外を主祭する神社>例えば、「仲哀天皇」を主祭する福岡県(P175の「県」は「市」の誤字ですね)東区の「香椎宮」は『延喜式』神名帳には書かれていないが、同書・巻十八・式部上の「橿日廟の司
生野先生は、「記紀」に「ハツクニシラス」と書かれていながら崇神天皇を祀る神社が一社もないことは、崇神が「神武のダミー」であることの傍証だとされています。今回は、『延喜式』神名帳が崇神だけではなくほかの「天皇」たちを主祭する神社もほとんど記載していない点に関する考察です。<延喜式神名帳>『延喜式』は、後醍醐天皇の延長5年(927年)に藤原忠平が撰進したもので、その中に「神名帳」(第九[上]・第十[下])がある。『延喜式』には、北海道と沖縄を除く全国68国(対馬嶋・壱岐嶋含む)の神
神武の事跡が十代から十二代天皇「崇神・垂仁・景行」の三人に移し替えられている、という生野先生の考察もいよいよ後半部分です。今回は「記紀」が「崇神の事跡」は本当は「神武の事跡」であり、崇神は神武のダミー天皇だということを示唆するために「ハツクニシラス」という尊称を利用しているという考察です。『古事記』は「崇神」を「知初国之御真木天皇(はつくにしらすみまきのすめらのみこと)」と称したと書くのに対して『日本紀』は「神武」を「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と書き、さらに「崇神」
前回まで、「記紀」それぞれが近畿東遷前の「神武と手研耳命」親子の事跡を「景行と日本武尊」の二人に分けて書いている、という生野先生の考察結果を紹介しました。今回は、それと同じような現象が有名な「国思歌(くにしのびのうた:思邦歌)」の歌にも起きていることの考察です。この歌は『古事記』では倭建命(やまとたけるのみこと)が東北蝦夷を征伐して「近畿ヤマト」に帰還する途中、病に罹り、能煩野(のぼの:三重県鈴鹿辺り)に到って亡くなる直前に「国を思う歌」を詠ったことになっている。一方、『日本紀』の
今回も前回に引き続き、神武の事跡であった九州平定の史実を『日本紀』がどのように「景行紀」に書いているか、という生野先生の考察です。『日本紀』は、「熊襲梟帥誅殺」や「豊前・豊後・日向の平定譚」などを「景行の事跡」として書いているが、そもそも『古事記』にはそんな記事は無い。『日本紀』が『古事記』と異なる形で殊更に書くのは、その事跡が本当は「神武の事跡」であることを読者(後世)に示唆するためだと考えられる。本当は、「近畿東遷前」の「糸島ヤマト」時代の神武の話を「近畿東遷後」の12代景行紀に