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5月23日主人の礼服を新調する為に付き合わされましたなんで、1人で行けないのかなぁ〜😩買い物終わって主人とは別れ、私は地元をふらふらぁ〜久々にマンガ寺へ行って見ることにしましたまんが寺こと常楽寺地元では、ちょっと名の知れたお寺様です庚申塔や石仏が点在してます手水舎常楽寺の縁起は過去記事で↓🙏宝佛殿宝篋印塔本堂本堂扁額堂内先代住職の代に改修工事を行った時、ご縁のあった漫画家達が襖に絵を描き奉納以前は拝観出来たと聞きますが、今はタイミング良くないと拝観出来ないみたいで
令和7年3月12日どうも晴天が続きません、今日水曜日早くもですね。気温は14℃ぐらいということですが、朝は寒いですね、やはり、ダウン、革ジャンはまだ仕舞い込めません。1月25日のお参り、御朱印めぐり、豪徳寺の次は同じく東急世田谷線で世田谷駅まで行きます。宮の坂駅から三軒茶屋方面へ二つ目の世田谷駅で下車この駅から徒歩で2分たらずで大悲山円光院に到着です。円光院の寺号標大悲山円光院(だいひやまえんこういん)山号:大悲山院号:円光院寺
新宿の鎧神社の次は京王線経由で世田谷区千歳台の東覚院へ〜🏃🏃🏃世田谷区千歳台の東覚院の寺号標と山門ちょろっと細い参道宝篋印塔とお地蔵様木遣り塚手水舎弘法大師様本堂真言宗智山派寺院の東覚院は、青林山東覚院薬王寺と号します正応元年(1288年)月空により開山月空は大和長谷寺の僧で、この地に草庵を結んだのが起源とされ、永禄元年(1558年)に大願寺と称したその後、青林山東覚院薬王寺と改めたと言います御本尊薬師如来玉川八十八カ所霊場42番札所江戸閻魔44本堂扁額
西澄寺(さいちょうじ)は、東京都世田谷区にある真言宗智山派の寺院。1574年(天正2年)、隆向によって開山された。幕末から明治初期にかけて、住職不在で荒廃していたが、1892年(明治25年)に慧荘が中興した。慧荘は高野山で習得した灸術を施したことで、「霊灸」の評判がたち、多くの人で賑わった。当寺の梵鐘は灸術を受けた患者から奉納されたものである。当寺の山門は、1922年(大正11年)に旧徳島藩江戸藩邸の門を移築したものである。東京都の有形文化財に指定されている。(Wikipedia)
四国八十八ヶ所霊場巡りをする人はお遍路さんとよばれます。今朝のTVで、四国霊場巡りに惹かれる西洋人が紹介され映像が流れていました。信仰とは関係なく心の慰撫が得られるのかもしれません。ちなみに西洋にもお遍路さんに相当する行為者がおりその人々のことはピルグリム(巡礼者、pilgrim)と呼ばれます。四国八十八ヶ所霊場巡りを真似たのでしょうが、関東にも霊場巡りがあるようです。私が住んでいる所から歩いて20分くらいのところにも霊場の一つがあります。案内に「武相不動尊霊場第十九番札所」「玉川
3月31日の御朱印巡りの続きです。密蔵院に行った後『2023.3.31③大田区明楽山密蔵院』3月31日の御朱印巡りの続きです。新田神社に行った後『2023.3.31②大田区新田神社(桜詣の御朱印)』3月31日の御朱印巡りの続きです。元町厳島…ameblo.jpそこから歩いて、東光院に行ってきました。有慶山東光院真言宗智山派開創年代は不明だが、開山義賢が文禄3年(1594年)に示寂しているので、この頃に創立されたと推察される毎年、さくら坂の桜を見た後は東急多摩
3月31日の御朱印巡りの続きです。新田神社に行った後『2023.3.31②大田区新田神社(桜詣の御朱印)』3月31日の御朱印巡りの続きです。元町厳島神社に行った後『2023.3.31①横浜市中区元町厳島神社(※参拝のみ)』3月31日の御朱印巡りについて書か…ameblo.jp東急多摩川線で沼部駅に移動しまして密蔵院に行ってきました。明楽山森立寺密蔵院真言宗智山派開創年代は不明だが、観音堂を起源とすれば鎌倉時代に遡ると考えられる玉川八十八ヶ所霊場の第56番札
2023.3.6.東神奈川駅すぐ側の金蔵院を参拝して玉川八十八ヶ所霊場の御朱印をいただきました。真言宗智山派のお寺です。御本尊は阿弥陀如来。玉川八十八ヶ所霊場専用ではない、通常の御朱印もありました。どちらも書き置きになります♪【関連記事】東神奈川駅そばの古刹、金蔵院を参拝しました♪『東神奈川駅そばの古刹、金蔵院を参拝しました♪』2023.3.6.横浜での用事の帰り、東神奈川駅すぐ側の金蔵院を参拝しました。真言宗智山派のお寺です。こちらも東神奈川駅までGoo
2023.3.6.横浜での用事の帰り、東神奈川駅すぐ側の金蔵院を参拝しました。真言宗智山派のお寺です。こちらも東神奈川駅までGoogleマップを見ながら、ふらっと歩いていて参拝したお寺で、偶然ですが玉川八十八ヶ所霊場の札所でした。京都醍醐寺三宝院の開祖、勝覚僧上によって平安末期に創建された古刹で、玉川八十八ヶ所の第3番札所です。御本尊は阿弥陀如来。山門が閉まっていて入れないのかなぁとか思いましたが、そのまま寺の敷地の塀に沿って右方向に進むと入り口がありました。本堂です。修行大師像。
東京都【等々力不動尊】等々力渓谷にある真言宗智山派の【等々力不動尊】明王院は、滝轟山と号し、等々力満願寺の別院です。玉川八十八ヶ所霊場33番、関東三十六不動霊場17番。等々力渓谷を散策しながら等々力不動尊に行くような感じです。所在地:東京都世田谷区等々力1-22-47東急大井町線等々力駅下車徒歩12分。全国御朱印巡りのツイッターhttps://twitter.com/GOSHUINMEGURI
2022年、最後の参拝です。「無量寺」この寺号どこかで記憶がある思い出しました。まさか同系列じゃないですよね。ちょっとテンションが下がった、あそことは違いますよね・・と思いましたら、宗派が違いますのでちょっと安心しましたでは、2022年最後の参拝です。遍照院は、(正式名称光明山遍照院無量寺)京都智積院を総本山とする真言宗智山派の寺院です。御本尊は阿弥陀如来。ほか、不動明王、十一面観音をお祀りしています。蒲田駅から多摩川線で一駅
真言宗智山派寺院の金剛院は、円日山と号します。創建年代は不詳ですが、慶長年間(1596-1615)に小林坊という庵室が既にあり、当寺の旧名だと伝えられています。本尊の大日如来は、大田区有形文化財に指定されています。また、玉川八十八ヶ所霊場65番、東海三十三観音霊場11番です。(猫の足あと)最近予期せず玉川八十八か所霊場のお寺さんを参拝することが多いです。これは本格的に廻るお導きなんでしょうか?いずれ専用御朱印帖を得て、廻ってみようかと思いますがそもそも専用御朱印帖ってあるのだろ
寺院紹介徳川二代将軍秀忠ゆかり、葵の紋の蒲田不動尊大楽寺大楽寺の開基は寛仁三年(一〇一九)と伝えられ、その証拠に境内からは当寺の石碑が多数出土しています。しかし行基(六六八~七四九年)研究家によると、写真で残る焼失した本尊が場所と大きさからして近隣寺院の本尊(和銅三年・七一〇年・五尺五寸)と同時期のものだと考えられるため、一三〇〇年の歴史が確実とのことです。この頃は極楽寺と呼ばれ寺運勢大、七堂伽藍の整った壮麗な道場であり、現在地より二〇〇メートルほど南から門の礎石が出土してい
1月21日の初大師小杉陣屋町の次に向かったのは、小杉御殿町の西明寺仁王門山門山門扁額手水舎弘法大師像本堂縁起等はリブログの方で、ご確認を〜大黒天川崎七福神をお祀りしています今は石碑だけですが、西明寺のそばには徳川2代将軍秀忠が建立した小杉御殿がありました御殿が建立する前には、西明寺に徳川家康公がお泊りになっていました御朱印は、住職がお留守でしたので拝受してません以前にも玉川八十八ヶ所の札所打で御朱印は頂いているので、良しとしましょう
1月21日は弘法大師のご縁日初大師なので、本当なら川崎大師に行きたかったのですが、病院へ行かなきゃだったり、実家へ行ったりで時間がなかったので、近場の成就院へ〜成就院山門庚申塔お地蔵様弘法大師像手水舎六道地蔵石仏本堂真言宗智山派寺院の成就院は恵日山成就院と号します成就院は法印尊秀が創建したと言います御本尊阿弥陀如来玉川八十八ヶ所霊場19番札所扁額丁度、法事が始まる時間だった様で、本堂内はちょっと覗く事は出来ませんでしたが、本堂には弘法大師像が安置されているので手
東八幡神社から第二京浜を渡りいや、正確に言うと多摩川沿いを歩きましたので第二京浜の下をくぐり東福寺さんに到着です。真言宗智山派寺院の東福寺は、諏訪山と号します。創建年代は不詳ですが、僧栄感(天和元年1615年寂)が中興開基と伝えられています。また、玉川八十八ヶ所霊場66番です。(猫の足あと)本堂ですが・・左側の庫裏?が被さるように建っています。本堂へはビビって上がりませんでした。また御朱印を頂こうかどうか迷いましたがいずれ「玉川八十八か
延命寺から圓應寺さんへ向かいます。お!あれって多摩川ですよね。あ、いかん、ここを曲がらなければ・・曲がった先の左側に祠がありました。草が茫々です。見る限り入り口がありませんでした。ちょっとどうなの、これってせっかく古い時代、あるいはご先祖様の代からこちらにいらっしゃるのだから手入れはしようよ。罰が当たるかもよ。と思いつつ圓應寺さんに到着。創建年代は不明である。寺の公式サイトでは「約六百年の歴史をもつ由緒あるお寺です。」
「花光院」さん「けこういん」と読むんですね。知る前までは「かこういん」と読んでいました。真言宗智山派寺院の花光院は、福田山蓮花寺と号します。快智(延宝2年1674年寂)が開山となり創建、廃寺となった真福寺を合併したといいます。また、玉川八十八ヶ所霊場62番です。「新編武蔵風土記稿」によれば、古くは福田山蓮花寺と称し、六郷宝幢院末で、開山快智は延宝2年(1674)示寂すとある。矢口新田神社の別当寺、同宗真福寺が、大正末年に廃寺となり、当寺に合併された。再三無住時代があり
蓮光院さんに辿り着きました真言宗智山派寺院の蓮光院は、壽福山円満寺と号します。蓮光院は源清(天正2年1574年寂)が中興開山したといいます。また、玉川八十八ヶ所霊場59番、境内には備前池田家の表門であったと伝えられる武家屋敷門が山門として使用されています。手前の門が閉まってる。山門の門は開いているので中に入ってもいいのだろうか。それとも早く到着しすぎたのかな。ちょっと思案しましたがビビりの僕にはあの前門を開ける勇気がなかったので断念。遠くからズームで
勝国寺しょうこくじ世田谷の勝国寺へ西福寺同様にこちらも赤い門が鮮やかです手水舎にて手と口を清めます本堂へわりとこじんまりとした境内でした□創建不詳□宗派新義真言宗□御本尊不動明王□開基吉良政忠□山号青龍山□別名丸香山薬師院□札所玉川八十八ヵ所霊場48番元々は丸香山薬師院と言う薬師如来さまを本尊とするお寺だったと伝わっています吉良氏5代目当主政忠が開基とされ歴史は少なくとも1554年(天文23年)まで遡ると思われます室町·戦国時代ですね…
閻魔賽日に閻魔詣での続きです目黒の祐天寺から大田区の六郷土手に移動します目指すは古川薬師コト安養寺山門古川薬師道の道標古川村の人々によって延宝2年(1674年)造立道標の案内板その昔、川崎大師から古川薬師や池上本門寺を巡るルートが人気だった様です大銀杏🌳薬師堂行基創建と言われ、安養寺は別当寺を努めていました本堂真言宗智山派寺院の安養寺は医王山世尊院安養寺と号します永伝法印(永禄11年1568年寂)が創建、永伝が中興開山したと言われています藤原時代のものと見られる木
円光院えんこういんこちらも前から気になっていた円光院世田谷線世田谷駅からすぐのところにありますホントにすぐの所ね。大悲山円光院の石碑玉川八十八ヶ所霊場第四十九番札所弘法大師山門を通り境内へ例によって誰もいない…本堂へ進みますよ□創建天正年間(1573-1591)□宗派真言宗豊山派□御本尊不動明王□開基円光坊盛尊□山号大悲山□寺号明王寺□札所玉川八十八ヶ所霊場第49番その前に地蔵堂へ行きます中はよく見えず…本堂正面全体的に白い建物…十
令和4年4月17日参拝JR大井町駅から徒歩10分でした。入り口に来福寺の境内が『しながわ百景』と銘板が出ていたので楽しみ。海に架かる橋のような参道参道の両脇には沢の流れに削られたいい〜感じによもぎ色の石が大小、大小、大小と並ぶ庭石コレクションはおもしろかった。その中のひとつがこれ。(๑°ㅁ°๑)ハッ‼まだ門をくぐってないのにかなり時間経っていた!赤い旗は南無延命地蔵菩薩。明治43年に佐賀講が建てた御府内札所26番札所の標石がありました。もともと札所は四谷南寺町の文殊院だったの
八雲氷川神社参拝のあと金蔵院さんに来ました。金蔵院氷川山虚空蔵寺金蔵院は真言宗の寺で、慶長5年(1600)頃に頼栄上人によって創建されたと伝えられています。古い記録としては享保年間(1716-1736)に俊海法師が本堂を建て直したことが残っています。もとは隣接の八雲氷川神社の別当寺で、明治7年(1874)に一旦は無住廃寺となりましたが、明治16年に再興され、玉川八十八ヶ所霊場の第53番札所になっています。本尊の大日如来像と脇侍の「木造不動明王及び両童子立像」(区指定有形文化
慈眼寺をでたあと本日は田園都市線「池尻大橋駅」にちょっとした用が有りますので二子玉川駅に戻るか用賀駅まで歩くかで悩みましたが進行方向側の用賀駅まで歩くことにしました。用賀駅に向かう途中ふと「そうだ、時間の余裕が有り余っているので用賀駅に行くならちょっと足を延ばして用賀神社さんまで歩こう」と用賀駅を通り過ぎテクテクとするとおや?この寺号標は真言宗智山派の眞福寺さん創建は天正年間。開山は法印宗円和尚で、開基は用賀村の開拓の功労者飯田図書(ずしょ)である。開基の飯
当初計画の最終目的地真言宗智山派寺院の慈眼寺は、喜楽山教令院と号します。徳治元年(1306)法印定音が小堂を建てたのを始まりとし、天文2年(1533)長崎四郎左衝門が、この小堂を崖上の当地に移し真言宗慈眼寺と称しました。玉川八十八ヶ所霊場37番です。by猫の足あとさん先ほどの瀬田玉川神社さんのお隣です。山門の仁王像ですがそれぞれに鬼を踏んでいます。しかしこの踏まれている鬼のポーズが・・・美意識なのかインスタ映えを狙っているのか脚の組み
等々力不動尊・明王院さんでソフトクリームも食べて目的達成後は次の目的地へ約1.7キロ(グーグルマップ調べ)なのでまたまた頑張って歩きます。目的地覚願寺「やったー、辿り着いたー!、お、あの右側の建物が幼稚園ですね」「了解了解、園児さん達の大歓声が聞こえる。何してんだろう?」真言宗智山派寺院の覚願寺は、自性山聖徳院と号します。覚願寺の創建年代は不詳ながら、文禄三年(1594)の「武州荏原郡世田谷領上野毛郷縄打屋敷帳」の記載や、覚願寺檀家墓碑の記載から天文年間(1532-1
別院である明王院さん(関東三十六不動尊霊場・等々力不動尊)の方が名が通っていますがこちらが本院ですね。伝承によれば平安時代末期の創建とされる。文明2年(1470年)、吉良氏の祈願寺として世田谷城の出城、兎々呂城(とどろき)に再興され、中興開山は定栄和尚と伝わる。総本山での機能を有した常法談林所である。天文年間に深沢の兎々呂城(現在の都立園芸高校)から現在地に移転された。江戸時代になると御朱印寺寺領13石を与えられた。このときそれまでの山号医王山を現在の致航山と改め、本尊を薬師如来か
参拝した日は4月28日です。ご住職曰く、眼前のカヤの木はほぼ樹齢1000年だそうです。枝が地面に着くと樹齢1000年だということです。善養寺は多摩川のほとり、国分寺崖線沿いに位置する。正式の名を「影光山仏性院大毘廬遮那殿善養密寺(ようこうさんぶっしょういんだいびるしゃなでんぜんようみつじ)」といい、京都市東山区の智積院の末寺である。一時期無住の時代もあったが、2012年の時点で判明している歴代住職は開祖の祐栄から数えて20人である。新編武蔵風土記稿巻之四十九には「真言宗新
さて境内に入ります。というか、ここから境内なのか等々力渓谷すべてが境内なのか。かつては本寺の満願寺さんすべての寺領だったのかな。ま、とりあえず中へありゃ?あちらが正門なんですね。入り直してきます。ことらで御朱印を頂きました次の目的地へ移動するため、また階段を降ります。今度は上から見て左側を通ってみます。この方はどなたでしょうか落語家さんかな?あそこにいらっしゃるお方は観音様ですね。