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「歴史の父」33「楽書」25孔子が継承した、文王の「天下的世界観」は、「敬愛」に満ちた、春風駘蕩、和気藹々たる世界である。この「天下を一家」とする世界の縮図が、孔子学園であった。その和やかな家族を表現したのが、我々が43回にわたって分析した、先進篇最終章である。論語漫歩161「春風に吹かれて」にその世界が描かれている。今一度、「春風に吹かれて」の当該部分を引用してみよう。春の暮れ仕立て上がりの春服をみんなで着込み成人
「歴史の父」31「楽書」23前回我々は、仁斎が一部の小論語と呼ぶ論語首章と論語最終章に、論語全体と孔子の全生涯がこめられ、この首章と最終章にはさまれた498章が、その全体像の解説であり、細部である事を予告した。今回は、その全体像の解説1番手である、学而篇第2章「孝弟章」についてである。もう1度、後半のみを引用しよう。有子曰く孝弟なるものはそれ仁の本たるか論語首章は、論語の全体と孔子の全生涯をかかげた。続く第2章は、論語と孔子の究極
「歴史の父」29「楽書」21前回我々は、孔子が祖国を去った時、祖国残留組と外遊組の年齢確認を行い、ある事に気づいた。それは、弟子たちの「年齢層」についてである。B・C497年、魯を去る時、孔子は56歳であった。この時、琴張・子路らは、孔子より数歳年下の、いわば「弟」年代であった。これに対し、30歳年下の子弓たちは、いわば‹「子」年代であり、両者を合わせて、弟子となる。ところで、この年齢構成は、外遊中も同じであったのである。陳国での「望郷の嘆」の時、孔子が68歳と
「歴史の父」28「楽書」20我々は今、孔子に帰郷を促した者は何か、を探究中である。論語ではわが党の小子孟子ではわが党の狂士前回我々は、孟子の挙げた「狂士」がかなりの高齢であることをつきとめた。琴張60代曾皙50代これは、論語の「小子」、すなわち「若者」と余りにも違いすぎる。果たしていずれが真か。孟子の言う高齢者狂士か。論語の言う小子若者か。ここで一応、孔子が56歳、B・C497年に祖国を出た時、故郷に残った残留組と、孔
「歴史の父」27「楽書」19前回我々は、「狂士琴張」の友、宗魯の壮絶な最期を見た。彼は己の命をなげうって主君に殉じた壮士であった。この壮士の友であることから、琴張がいかなる人物であったかを知ることができるのである。我々はこのことからもう一つのことを知ることができるのである。それは、琴張の年齢である。この衛国の内乱は、B・C522年に起きた。宗魯は、衛の国王霊公の兄であり、衛国の実力者であった公孟の「参乗」に抜擢されたのであるから、恐らく20代であったと思われる。なぜなら、前回も記し
「歴史の父」26「楽書」18我々は今「狂士琴(きん)張(ちょう)」を追究中である。前回引用した論語と『荘子』は短文であったが、今回引用する『左伝』昭公20年B・C522年の記事は、非常に長い記述である。幸い『孔子家語』曲礼子夏問第43に、これを簡略にした記事があるので、それを引用することにしよう。孔子の弟子の琴張は、宗魯(そうろ)の親友であった。斉(せい)豹(ひょう)が彼を衛の霊公の兄である公孟に推挙した。公孟は彼が気に入って、参乗とした。参乗とは、戦車に乗る時、主
「歴史の父」25「楽書」17前回は、『荘子』大宗師篇の「莫逆の友」について見た。今回は、「莫逆の友」の1員である孟子反について見てみよう。彼もまた論語に、ただ1度だけ登場する。雍也篇第13章である。全文を引用しよう。論語では「孟之反」(もうしはん)と表記する。子曰く孟之反ほこらず奔りて殿(しんがり)すまさに門に入らんとして、その馬にむちうちて曰く「あへておくるるにあらず、馬進まざればなり」とこれを『左伝』が詳述している。哀公11
「歴史の父」23「楽書」15前回は『孟子』の指名する3人の「狂士」、琴張・曾晳(そうせき)・牧皮のうち、曾晳にふれた。今回は琴張について。琴張は、姓は琴、名は牢、字(あざな)は子張、または子開。論語には、曾晳と同じく、1度だけ登場する。子罕(しかん)篇第7章である。牢曰く子云ふ吾もちひられず故に芸ありこれで全文である。先ず「牢(ろう)」について。牢は琴張の名である。論語漫歩111「天命と君子」でふれたように、論語の地の文はすべて字(
「歴史の父」22「楽書」14我々は今『孟子』尽心下第37章の「狂士」について考察中である。今一度、論語公冶長篇第22章と併記してみよう。子陳に在りて曰く帰らんか帰らんか(帰ろうよ、帰ろうよ)わが党の小子は狂簡なり(論語)孔子陳に在りて曰くなんぞ帰らざる(さあ帰ろう)わが党の士は狂簡なり(孟子)両者を見て気付くことが一つあ
「歴史の父」19「楽書」11我々は今、『孟子』尽心下第37章を読解中である。この章で孟子は言う。天下を救い、天下に「聖人の道」を実現する、すなわち「有道の世」を実現する、協力者として、孔子は3段階の人物を挙げる。第1位中道(中行)の士第2位狂者(狂士)第3位簡者(簡士・獧士・狷士)第1位の「中道」と「中行」について一言。「行」は、「四辻」の象形文字で、「道」が原義。従って「中行」と「中道」は同じ意味である。さて、孟子が
「歴史の父」18「楽書」10前回孔子の「望郷の嘆」の原文を見た。今回は、「望郷の嘆」の中の狂簡(きょうかん)の2字について考えてみたい。諸書は「狂簡」を、「志が大きく、おおざっぱ」と訳しているが、それでは『孟子』の狂簡なり。進取にして、その初めを忘れずの「その初めを忘れず」が意味不明となる。ここは、狂簡は孟子尽心下篇では狂獧(きょうけん)に作るという木村英一氏の論語(講談社昭50119頁)の説に従いたい。もしそうだ
「歴史の父」17「楽書」9前回我々は、『孟子』尽心下第37章の前半を引用した。孔子の有名な「望郷の嘆」である。この望郷の嘆は、ある意味で、「人類史」を2分すると言っても過言でないかもしれない重さを持つ。今やその解明が始まろうとしているのである。今回は、その準備段階として、前回引用した中の必要部分を、原文で抜き出し、論語と対比しておこう。1孔子陳に在りて曰くなんぞ帰らざるわが党の士は狂簡(きょうかん)なり進んで取り