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12月1日。早いことで術後2年。学校の授業のとき時計を見た。そしたら9時を指していた。2年前の9時に手術が開始されたな、あの時は怖かったな等の記憶が蘇ってきた。泣きじゃくっていた自分を鮮明に覚えている。特に変わったことはなくて日常にも支障は出てない。主治医からは定期検診を受けるように言われたから冬休みに行く。リハビリもやる。体力をつけることを目標に頑張る。
こんにちは。いつもブログに書いているのは中2の長女の側弯症について。側弯症は遺伝的要素もあると大学病院で聞いたので気をつけて見ていましたが小6の次女も側弯症が始まってしまったようです…定期的に前屈でチェックしていましたがついに高低差が出てしまいました長女に比べると角度はもちろん小さいのですが数カ月前に見たときより確実に前屈時の高低差が出てる。長女がもう少しで装具卒業できるか?というところで2歳下の次女も装具の可能
もうすぐで術後2年が経とうとしている。そんなことを頭の片隅に置きながら体育の授業を受けていた。そんなある日、体育の先生が「マット運動やれてなかったからレポート書いてね。400字程度で。」とのこと。気になった内容は病院で受けられるサポートについて、役所からの助成についてなど、、、最初は、先生にそのこと言ったんだけど…とか気持ちはあった。けど書くしかない。面倒くさいけど頑張る。
先日大学病院の検診に行ってきました。前回の受診時の記録はこちら『装具をつけて9ヶ月目の検診』こんにちは。お久しぶりになります。装具をつけることに慣れてからはなかなかブログを書くタイミングがなくなります。それぐらい装具が日常になっているんです…ameblo.jp昨年の8月に装具を作ってから一年経過しました。娘は現在中2。装具治療には前向きでしっかり毎日つけてはいますがやっぱり外せるものなら外したい!と気持ちはもちろんあります。当たり前よね。前回の受診時にそろそろお昼
2025/9/1大学病院で特発性側弯症の診断がつきました。娘の異変に気づいたのは、8月上旬頃。あれ?左右でウエストのラインが全然違う。気のせいかな?でも、やっばり変なので、まっすぐ立たせてチェック。やっぱり、違う!片方がえぐられたようになってる⋯お盆休み明けに、近所の整形外科に連れていき、初レントゲン。診察すると、曲がってるねー、紹介状かくから、大学病院に行ってください。専門の先生に診てもらって。少し回旋もしてる気がする。ビックリ!コルセットかなー?と考えてたのに、大学病院へ行
特発性側弯症が発覚してからリハビリが始まって約4年の時が経った。術後のリハビリを続けて1年半。そろそろ終止符を打ちたいと考えていた。私は理学療法士さんに相談した。私「聞きたいことあるんです。」理学療法士「なになに?」私「リハビリ続けて4年経つのですがそろそろゴールにしてもいいのではないでしょうか。」理学療法士「確かに。そろそろいいかもね。一度、先生と診察してみてそれで良かったらゴールだね。」診察をした。医院長「じゃあゴールということで。もしまた何かあれば来てください。」よし。こ
私の親の友達の娘さんが側弯症の手術が終わり退院したと聞いた。まずは退院おめでとう。私はその人の顔を知らないけど今までよく頑張ったと思う。私と固定した範囲は異なり骨盤?近くまで固定したみたい。だから足の方に痛みが出るという。コブ角が90度近くまでだったのが約40度になったらしい。また手術の可能性がとか言ってた。そしてコルセットはというと骨盤の方もあるみたいでその人は高校生なので制服の上から着けようとしたのだけれど入らずスカートを直すとのこと。術後は不便が多いかもだけど頑張ってほしいし
目に留めていただきありがとうございます色々あったなぁって私が1番に思い出す事②はじめて気づいた背中政府が4月に緊急事態宣言の発令後、入学式は例年とは異なる状況下で執り行われ。徐々に制限がありながらも、学校生活が始まり少しづつ学校生活にも慣れ、娘はテニス部に所属しました。夏休みになると新人戦に出場し、やる気に満ちた学校生活を送っていました。私たちは夏休み明けの9月にラケットやテニスシューズなど一式揃えるために、テニスショップに行きました。一通り買い揃え、店を出た私は娘の後を歩いていま
今日は2025年8月10日。この日から遡って2年前、私は側弯症の手術を受けるはずだった。けれどその年の7月末に新型コロナウイルス感染症になってしまった。最後の貯血が控えていたが医者から言われたのは「中止にしましょう。」だった。聞いたときは絶望した。今までの分は?とか。ちなみに今までの分は捨てて一からの貯血だった。大変だったな。その年の12月1日に手術を受けて今に至る。これから受ける人に向けて私が言えるのは体調に気をつけて欲しい。これだけだ。
色々あったなぁ…って私が1番に思い出す事🌿それは。2020年12月娘が中学1年生の時、特発性側弯症の手術をしました。特発性なのではっきりとした原因は分かりません。しかし、もっと早く気付けてあげられなかったのか…と自分を責める毎日でしたこの頃の日本は新型コロナウイルスの感染拡大を受け、政府が4月に緊急事態宣言を発令し。12月には新規感染患者が過去最多の水準に達していました。怖い世の中でしたあらゆる制限がある中で、約12時間にも及ぶ大手術と娘と過ごす二週間の入院生活。私たち親子も無
3週間の入院やっと退院しました退院から2週間は自宅療養です入院が長いと思ったより体力が無くなっていて少し動くだけでダルくなる感覚がありました自宅療養を開始して約1週間が経とうとしていますが、少し距離を伸ばしてお出かけをしてみています。先日は電車に乗って2〜3駅先まで買い物へ座らないで乗ってたらかなり疲れてしまったので、座るのが良さそう。仕事が始まったら、始発に乗れるように、勤務開始時間を9時に変えていただきました(私の最寄りは都内地下鉄某線の端っこの駅なので、1日に始発が何本も
私の学校は体育の授業でマット運動をしている。先生には伝えてある。先生「出来そう?」私「難しいです…」先生「そうか。じゃあ手伝ってくれる?」というように手伝いをしている。(マット運動は柔軟性が必要で無理にやると危険が生じると判断したからやれない)毎回、体育でマット運動をするときに同じことを聞いてくる。正直、人の話聞いてるのか…って思う。これだけではない。私の友達と仲良い人がマット運動をやりたくないからってあえて見学しようと企んでた。教室でそのことを3人で話してたら同じクラ
今長女は中2。今年に入って3rdゲンシンゲンを作った。良くなったり悪くなったりを繰り返し、2ndのときは成長期なのか、すぐに調整が必要になり、1〜2ヶ月くらいの頻度でS接骨院へ通った。覚悟はしていたけども、こんなに早く3rdを作ると思っていなかった。今のところ順調で、つけている限り悪くなることはないと思って頑張っている。いつもS接骨院の先生方は熱心で優しい。長女が痛くないように何度も何度も調整してくださる。この間は長女と夫は新幹線の終電で帰ってきた。側弯症のせいなのかはわからない
私、救急車で運ばれました腰椎椎間板ヘルニアの持病があるのですがトイレでズボンを上げようとしてそのまま激痛で動けなくなり、救急車を呼びました(^◇^;)半日痛みで動けず、いい歳こいた人がボロボロと涙を流しながらシクシクしているのには、きっと病院の方も苦笑いだったでしょう😅救急外来から、入院が決まり、病棟へ。めっちゃいい景色なんですよね自宅から近い病院なので、家族も来やすく助かります。だがしかし娘はテスト期間中…邪魔はできないが、家事はしてもらわなければならない(旦那は使えない💢)
コルセットを外して1年?久しぶりの受診です。もはや慣れたもんで、さくさく進む娘受診の結果は、コブ角25°まぁ、こんなもんでしょ。とお医者さん。私も娘も、真っ直ぐには戻らないと思っているし、特に支障があるわけではないので、いったん先生の言う通りにします。つぎはまた半年後。さらに進んだらまたコルセットなのかな…。と不安そうにしてましたが、その時はその時に考えよ!!と励ましにならない励ましをする母なのでした2022.9→17°2023.2→19°2023.7→20°2023.1
側弯症の手術を受けてから約1年半が経った今。ある日、親が「会社の人の子どもが側弯症の人が居て…」と言っていた。その人は夏に受けるみたい。聞きたいことが山ほどあるから私の経験を基に伝えるみたい。同じ県でも病院は違うけど少しでも役に立ちたい。そして最近知ったのが同じクラスに自分と同じ特発性側弯症を患っている人がいたということ。その人は私に躊躇なく話してくれた。話すだけでも勇気がいるし今までの葛藤だって多かったはず。まだ手術はしてないとのこと。今度、定期検診に行くみたい。手術を経験
近所のリハビリに通い始めたのは中1のとき。学校の健診で検査をして"側弯症の疑い"が書かれた紙を貰ったから。診察をして結果は特発性側弯症。大きく曲がった背骨。まさか自分がなるとは…リハビリをすることになった。というのが今から約4年前のこと。今は術後でもリハビリをしている。術後初めて近所のリハビリに行ったら医院長「リハビリ続けていきましょう。」私「(術後でもやるんだ…)」なんて不思議な感じがした。そして理学療法士に呼ばれてリハビリ室へ。この日やってくれたのが顔見知りの理学療法士だ
去年の12月の冬休みに術後1年ということで定期検診に行ってきた。病院に着くと今までと同じように受付を済ませた。機械から紙が出てきてそこに書いてあったのはEOSと肺機能の確認、診察そしてリハビリ。EOSを待っているとき入院患者さんらしき人がレントゲン室から呼ばれるのを待っているのを見た。私の入院してた時を思い出した。検査入院の時、脊髄の検査怖がってたっけ…とか。ほかにも患者さんがいた。その人は術後間もないのだろうか。ストレッチャーで運ばれていた。ストレッチャーに乗って手術室ま
今から遡って去年の夏が術後半年だった。久々の名城病院。入った時に思い出が蘇った。そういえば手術入院のとき入った瞬間から泣いたなとか重い足取りでエレベーターに乗って病室に行ったなとか…そんなことは頭の片隅に置いとき受付をした。この日もやはりEOSと医者の診察だった。レントゲンが終わり待合室で診察の順番を待った。その前に体重と身長を測った。身長は術前と比べて少し伸びた。体重は増えていた…(運動できないからしょうがないか…と思った)そして主治医の診察。主治医「うん。問題なさそう
こんにちは。お久しぶりになります。装具をつけることに慣れてからはなかなかブログを書くタイミングがなくなります。それぐらい装具が日常になっているんですねさて。先日4ヶ月ごとの定期受診に行ってきました。朝8:30の予約なのに車が混んでいてついた時点で5分遅れ出遅れてしまったので2〜3時間コースを覚悟していきましたがとってもスムーズでしたラッキー!前回の受診が先生のあたりが悪く一言問診だ
術後1ヶ月に定期検診があった。やはりこの日も貯血に来たであろう人や私と同じように定期検診に来たであろう人達で溢れかえっていた。診察の前に毎度お馴染みのEOSと身長と体重測定をやった。そして機械に呼ばれて診察室に入った。主治医「これが先ほど撮影したレントゲンです。」私(真っ直ぐになってる…良かった…)主治医「聞きたいことある?」私「コルセットはいつ柔らかいやつになりますか?」主治医「今日、型取りして次回来た時に渡してそこから半年間着ける感じね。」親「カバンとかって重さはどれぐ
退院したということで家族がお祝いしてくれた。というのも入院食ばっかりで食べたいものをあまり食べれなかったから好きなものを食べさせてくれた。ちなみにびっくりドンキーかマックに行きたいと候補を出したら退院した日がマックで次の週がびっくりドンキーになった。マックでは当時の期間で販売していたグラコロ。そして次の週びっくりドンキーでは満喫セットを食べた。久々に外で食べたから味が濃かった。学校で朝、友達と待ち合わせて中学校まで行っていた。私「実はLINEでも話した通り特発性側弯症で…
朝が来た。いつまで続くかと思ったら明日で退院の日だった。いやぁ…長すぎる!今日でリハビリも最後だなんて考えていたら朝食が来た。入院初日のご飯を食べたとき味薄だなって思ったけど慣れたらそこまで薄いと感じなくなった。完食した。9時20分からリハビリだったから小学生1人と一緒に行った。着いて暇だったから私「明日で退院なんだ!」小学生「私はその次の日!」と会話をしていた。そしたら鬼ハードな理学療法士がのこのことやってきた。理学療法士「〇〇ちゃんは明日で退院だから今日がリハビリ最
同じ病室でリハビリ仲間だった小学生1人が「明日で退院!」と言っていた。私よりも先にいたし、そろそろかなと思っていたら明日だった。その子にとって3人でやる最後のリハビリ。いつも通りにリハビリ室へ向かった。理学療法士「明日で最後か!まだいてもいいけどな…」って言ってて小学生「嫌だね!早く家に帰りたいもん!」って言ってた。このやりとりを聞いていて私も家に帰りたいなって思った。あと何日続くのだろうかと思ってたら数日後に退院できると教えてくれた。もう1人の小学生は自分より前に退院す
リハビリが終わって病室に戻った時の話。小学生2人が一緒の病室だったことに初めて気付いた。理学療法士に一緒に来てねと言われた。明日から一緒か…なんて思いながらゴロゴロした。歩行器が外れて自由になった。昼ご飯を食べた後、暇すぎて屋上を徘徊してたw屋上に行くと患者さんや職員さんが沢山いた。屋上に自販機があった。そこで飲み物を買って病室に戻った。病室にて暇すぎて頭がおかしくなりそうだった。スマホでゲームしたが暇になった。ピロンと音が鳴った。LINEだ。友達からだった。友達「1週
術後、何日か経ってコルセットを作った。ギプス室?までどうやって行くのかな…と考えていたら看護師が病室に来てくれた。看護師「〇〇さん、ギプス室に行きますよ。」私「どうやって行くんですか?」看護師「ストレッチャーに乗って行きますよ。」とうやらストレッチャーに乗るみたいだった。看護師さんの「3,2,1!」という掛け声と同時に体が持ち上げられた。正直、発狂するほど痛かった。ギプス室にて作る人「じゃあ型取りしていきますね。」私「お願いします。」元気ない私を見てなのか作る人が話を振
手術が完了した。目が覚めたのは16時過ぎだったみたい。目が覚めた時にはicuだった。そのときは意識があったがボーっとしてた。看護師「目覚めた?親呼んでくるね。」私「はい。」親「どう?大丈夫?」私「大丈夫じゃない。痛い…」麻酔が切れてからが1番痛かった。泣いた。大号泣だった。点滴を入れるから名前を聞かれた。麻酔の副作用で声が出しにくかった。夜になった。怖くて痛くて泣いた。本当にして良かったのかなんて考えたりした。痛い痛い。ただ感じるのはそれだけ。そんな私を見てかicuの
手術前日の日になった。朝起きたけど明日かという無気力感に襲われた。朝ごはんが出たけど食べる気力がしなかった。それはそうだ。明日に手術を控えていたから。看護師「麻酔科の先生とオペ看に来てもらって説明を受けるからいてね。」私「分かりました。」やっぱ夢じゃなかった…。夢であって欲しかった。昼になって麻酔科の先生が来た。麻酔科「術中は管が入って…」とか説明された。私には難しすぎる説明が多かった。麻酔科「同意書にサインをお願いします。」同意書にサインをした。そのときの手の震えが
手術をするにあたって自己貯血が必要だった。何回かやるみたいだった。学校の先生には事情を説明した。担任に「明日、遅刻すると伝えてね。」と言われた。友達に話そうかと思ったけど勇気が出ずに話せなかった。適当に通院しないとだからってはぐらかした。そして貯血の日。朝からなので私たち学生が多く目立った。カーテンに仕切られた空間。おそらくほかのベッドのところにも私と同じ側弯症の人。平日だけなので学校を遅刻せざるを得なかった。私の場合、血管が出てきづらい体質だったので看護師さんが渋って
ついに二泊三日の検査入院の日が来た。場所は名城病院。近くもないが遠くもない。病院に入り、病室に案内された。整形外科は7階と12階にあり、私は12階の病室に案内された。ドラマで見たような光景が広がっていた。ナースステーションには看護師さんが沢山いた。そして私が中に入ると看護師さんが出てきて12階の案内をしてくれた。ここがお風呂で予約して入ってね。そしてテレビカードはここで買ってね。など覚えることがたくさん…そしてようやく病室に着いた。4人部屋だった。このときは自分含めて4