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官邸山は二〇四空隊の宿舎だ(元オーストラリア)の領事館であった。此の防空壕に四〇名ほど入り爆撃で生埋めになった。Theofficialresidenceofthe24thAirCorpsDormitory(formerAustralia)Wasaconsulate.Approx.40peopleenterthisairdefenseItwasburiedlivebybombing.写真ブログ村に
◇瑞生乃松(昭和九年)下多寄二十五線天塩川の麓に大竹神社あり、大竹団体と言って(滝)大竹といふ村より団体で入植したので此の名が言伝えられた此処の境内に巨大な松オンコの木があった友達と登り実を食べた。此の松は段々有名になり地方からも見に来人が多くなった瑞生橋着工と同時雨竜発電所工事などで往来が激しくなり一躍名所となった。終戦後原因不明のまま枯れてしまった↩夏休み【生立ち・幼少】No.1目
【生立ち・幼少】No.1目次私の一代記(牧野行雄)水彩画編
電気昭和6年頃風連市街より二十五線道路下多寄(しもたよろ)西二号までの間電気つく。学校から帰ると銅線の切れ端をもらうのに走る【生立ち・幼少】No.1目次私の一代記(牧野行雄)水彩画編
治水工事が完備していないので春の出水で河の姿が変り色々なあそび場を作ってくれる。烏貝(からすがい)を取って焼いて食べる。昭和の川【生立ち・幼少】No.1目次私の一代記(牧野行雄)水彩画編えびすくい
石をまくるとカニが居た←薪切り【生立ち・幼少】No.1目次私の一代記(牧野行雄)水彩画編
私の一代記(牧野行雄)水彩画編<生立ち・幼少No.1>目次前書き1-01平村渡原村1-02生家1-03ほ乳ビン04背負って畑1-05農繁期1-06いたどり1-07なわとび1-08竹馬1-0910イタチ1-1112姉が嫁ぐハーモニカ1-13魚釣り121-14パッチ日光写真1-15自転車1-16天霊帰る1—17薪切り牧野氏近況現在9
学校から帰ると薪切り友達を連れてきて手伝ってもらう。天霊帰る【生立ち・幼少】No.1目次私の一代記(牧野行雄)水彩画編
昭和七年満州事変、旭川師団砲兵隊(はっとり隊)は馬賊の夜襲にあい全滅。郷土出身の土田源ニさん戦死、遺骨帰る『軍神帰る』で駅まで道路清掃する今も教岸寺の境内基線道路淵に石碑がある涙の凱旋とも言った↩自転車薪切り➝【生立ち・幼少】No.1目次私の一代記(牧野行雄)水彩画編
←パッチ【生立ち・幼少】No.1目次私の一代記(牧野行雄)水彩画編--------------------------------------------------------日光写真銀紙油紙どの字なのか、与の字は鳥じゃなかった、
パッチ武者絵軍人の絵がおもであったこれも上手下手があった←魚釣り【生立ち・幼少】No.1目次私の一代記(牧野行雄)水彩画編
五月中旬になると赤はら・うなぎ・ますなど産卵に河を上がって来る。現在の二十線えん提が出来る前は天塩川のあちこちに釣り場があった朝三時より起きて兄貴と行く←【生立ち・幼少】No.1目次私の一代記(牧野行雄)水彩画編
←ハーモニカ➝【生立ち・幼少】No.1目次私の一代記(牧野行雄)水彩画編
◇ハーモニカ学校に持って行き先生の命令で皆なの前で吹く「月の沙漠」「森の娘」など此れが私の楽器好きの初まり←姉が嫁ぐ【生立ち・幼少】No.1目次私の一代記(牧野行雄)水彩画編
◇姉が嫁ぐ姉が嫁ぐ日が決まってからは寂しい小さい時から親代わりだった姉だった片見に愛用のハーモニカをもらふイタチ【生立ち・幼少】No.1目次私の一代記(牧野行雄)水彩画編
イタチの最後屁(さいごっぺ)これは臭かった↩イタチ姉が嫁ぐ➝【生立ち・幼少】No.1目次私の一代記(牧野行雄)水彩画編--------------------------------------------------------イタチって最近見かけていないな、と調べてみたらイタチって小さい動物。ガンバの冒険でとても怖い印象でした。イタチってあだ名の先生が居ましたね。夏目漱石の三四郎
←縄跳び【生立ち・幼少】No.1目次私の一代記(牧野行雄)水彩画編
←いたどり竹馬→【生立ち・幼少】No.1目次私の一代記(牧野行雄)水彩画編
学校帰り道路は馬車が通るだけの道幅だいたどりがうっそうと茂って学校帰り此れを食べたり笛を作ったりした←農繁期縄跳び→【生立ち・幼少】No.1目次私の一代記(牧野行雄)水彩画編
農繁期など姉に連れられて学校に行く姉の同級生は休み時間に遊んでくれるNo.1-12【文】農繁期には姉に連れられ学校に行く遊び時間は姉の同級生にちょされるお菓子など買えないのでおにぎりだ。←背負って畑仕事農繁期【生立ち・幼少】No.1目次私の一代記(牧野行雄)水彩画編----------------------------------上の文は色鉛筆で書いた日記の文です。HPにリンクします。
◇母は私をハンモックに入れ兄貴の長男秀雄を泣かさせない様背負って畑仕働(畑仕事)をする←ほ乳瓶-背負って畑仕事-農繁期→【生立ち・幼少】No.1目次私の一代記(牧野行雄)水彩画編
お爺は東鷹栖より移住時三戸分の土地を買ふ、兄貴達は働き者であった。長男延吉は二十九線に分家する。次男長太郎は軍隊に入隊。満期するやブラジル移住の波に乗り六男護を連れて移住する。当時日本は不景気に凶作、働くに職は無い時代であった四男敏郎は、軍隊除隊後、大阪に行く。支那事変で三人の子をのこして北支山西省にて戦死するお爺は名前を呼ぶのが面度になり番号制であった。二番三番四番五番と近所の人も牧野の何番さんと呼んで居
富山県砺波群平村渡原村は秘境五筒山の、山間の村である昔は平家の落人の集落だ。民謡に麦屋節、といちいさん・こきりこぶしなどある、昭和六十三年四月十八日私は父母の古里平村に、行く現在はダム工事とダムが出来暮も豊で亦庄川峡は県定公園で集落かやぶきの家も文化財になって居り観光客で賑わってゐた。田畑にする様な広い所は少なく昔の暮らしが忍ばれる。現在風連町に有る獅子(風連獅子)は此所の地より風連町下多寄(瑞生)に移住した先人によって初めたものが
北海道名寄市風連町の元農家、牧野行雄さんの絵日記をデジカメで撮影し、日記を読み本文を入力しています。大正から昭和の時代、農家を営みながら書き綴られた日記に現在を築いた先人の苦労がああります。昭和初期の時代生活を知って頂けたら幸いです。牧野さんの日記を読み驚いたことが多くありました。知られず聞かされずに昭和の記録が失われつつあります。先人の苦労を多く人に知って欲しい。沢山の目に留って欲しい読んで欲しいと見直しながら修正も逐次しています。先人
幼少・小学・高等科時代私の一代記牧野行雄母は私をハンモックに入れ兄貴の長男秀雄を泣かさせない様背負って畑仕事をする
◇保乳ビン母は母乳が無く兄貴姉さんが朝ご飯をたく時煮上がる汁を取り此れがオッパイの代わりで現在の様に砂糖もなく栄養不足で誕生日が来ても歩けなかった貴兄の長男秀雄は歩いて居た私はハンモックに居て保乳ビンを落として姉さんが田圃(たんぼ)から上がって来たらビンビンと言って居たそうです私の一代記牧野行雄
幼少・小学・高等科時代私の一代記牧野行雄◇私は末の児で、母は母乳が出なく、当時ミルクなど無いので重も湯で育った為誕生が来ても歩けなかった兄貴の長男秀雄は誕生前から歩き私を馬だと言って乗る。叔父さんを馬乗りするとは当時お母さんと嫁さんと子供が同じ年に生まれる事は目づらしくなかった
對交ピンタ週番司令が帰ると古参一等兵が威張りだす夜る点呼は辛かった
演習初めの兵科は有線だ、線を引っぱって走る後から上等兵が氣合をかける農家の近くで小休止農家のお母さんが牛乳を御馳走してくれる内務より演習は楽しかった
◇銃棚戦時中は小学校の廊下に銃と銃剣の棚があって訓練日は此れを身につけて習ふ本物は十丁程なので木制を使用訓練する