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ブログテーマ『城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」』にスポットを当てて、具体的なお城の写真をお届けしています。「平櫓(一重櫓)」については、「はじめに」をブログで掲載していますのでどうぞご覧ください。「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓『城郭建造物『全国「平(一重)櫓」を巡る”はじめに”』』今回からのブログテーマを城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」に絞ってお届けしようと計画しています。過去に、全国「復元、復興、模擬」の「天守シリーズ」「三…ameblo.jp※全国の「
天下人・豊臣秀吉(とよとみのひでよし)亡きあと、秀吉の残した政権や家は幼い男子秀頼が相続することとなりました。秀頼の後見となったのが、生母の茶々と家老の片桐且元ですが、茶々および秀頼と且元は最終的に決別し、秀頼親子は滅亡することとなります。本書はわずかに残された茶々の書簡を頼りに、且元についてどう思っていたのか、且元の羽柴家家老としての立場はどのようなものだったのか最終的に決別するに至った経緯を読み解いていきます。驚かされるのは関ケ原合戦以降の且元に課せられた家老の重責とそ
1607年7月3日家康は、秀忠に将軍を譲る。家康は駿府に入り、対西の対策に乗り出す。駿府と江戸の二大政治家康がいっきに天下を取ったわけではなく、この時は秀頼に西を任せるしかないのかという状態だった。1611年3月28日秀頼と家康が二条城で会見する。この会見が今後の豊臣家を左右することとなった。家康が「対等の立場の礼」を提案すると秀頼は遠慮して先に礼をした。横に並ぶらしかった。しかし秀頼は先に礼をする。この場面は、「どうする家康」でもやっていた。イメージがわき
茨木市役所に片桐且元の像が置かれている。片桐且元は、賤ケ岳七本槍としても知られる豊臣秀吉子飼いの家臣だ。信長死後の後継争いにおいて、最大級の戦いは賤ヶ岳の戦いだった。この戦いで活躍した武将に秀吉は感状を出した。感状は9名に出されており、功名を認められた槍武者はあと2名存在した。その二名とは石河兵助と桜井佐吉だ。石河兵助は賤ヶ岳で戦死し、感状は弟宛てに出された。桜井佐吉もこの時の負傷が元で数年内に死亡しているから、七本槍に入っていないとされる。秀吉は織田家累代の家臣ではない。信長は、出自よ
真説片桐且元(第二話)大仏建立で莫大なリベートを取り大儲けする『駿府記』同年九月二十五日の記載には、「今日大阪へ戻った片桐且元より急使が駿府へ到着、その状によると、さる十八日に戻ってより大御所様思召しを伝えているが、鐘銘に<国家安康君臣豊楽>などと国家のため家康を二等分すれば、豊臣の運勢は逆転し、秀頼君は楽になると呪文を入れた償いに、秀頼を江戸表へ差し出すか、それとも淀君を送り
真説片桐且元(第一話)2016年に放映されたNHKの大河ドラマ真田丸では佳境に入ってきて、片桐且元も登場して来た。片桐且元・史実にのっとって豊臣家に尽くし最後は敵になった悲運の武将として描かれている。しかしこれは史実でもないし、明治時代の芝居その儘で、実像とは全く違う。豊臣家臣団の中で裏切ったり、日和見した武将は数多く居る中で、この男ほど悪質で酷い仕打ちをした者は他に居ない。後段で詳細を記すが、難攻不落の大阪城が落城したのも片桐のせいなのである。何故ならこの
今日(2/13)の午前中に大阪市内の都島で用事を済まし、マクドで簡単ランチをした後に「天満橋」まで足を伸ばし「大坂城」(大阪市中央区)に訪城しました。天気予報は、快晴で最高気温も15度予想でしたので、この時期としては「大坂城」の写真が綺麗に撮れるだろうと思い、カメラを用意して用事にでかけました。案の定、天満橋に着いた時の天候は、雲一つなく真っ青な空で、太陽がサンサンと照っていたので、「大坂城天守」の金装飾も光輝いて非常に美しい光景でした。私は今日の鑑賞テーマは何にしようかと考え
豊臣から徳川の世へ(なかには意図せずに)貢献した滋賀県長浜市出身の三人の武将の話です三成さんも長浜出身ですけど脇坂安治、田中吉政、片桐且元以前にも書いたことのあるこの3人ですがそれぞれ長浜市内のこんなに近い地の出身です田中吉政さんの出生地に関しては宮部町か三川町あたり(滋賀県高島市の説もありますが)脇坂安治さんは賤ヶ岳の七本槍の一人関ヶ原の戦いで小早川秀秋と共に東軍に寝返った人田中吉政さんは東軍で関ヶ原の戦い後に三成の佐和山城を攻めたり逃げて再起をはかろう
「どうする家康」第46話「大坂の陣」を見ました。徳川秀忠の子・千姫を中心とした話でした。豊臣秀頼、淀殿、大野治長は割と好戦的でした。徳川と豊臣の取次・片桐且元は苦心。徳川家康の要求、秀頼の参勤、淀殿を人質、豊臣の移封のいずれかを飲めと言う話。片桐且元は豊臣に持ち帰るが、できるかーーー(怒)となる。片桐且元暗殺計画が持ち上がり、千姫が織田信雄に助命のお願いをする。片桐且元と織田信雄が京に逃れて、いよいよ徳川軍が動く。すでに豊臣は全国から牢人を集めていたので好戦的。で、徳川秀忠
前回放送第45話「二人のプリンス」は、秀頼と秀忠、そして家康と氏真の二重の意味合いをもつ題となっていました。特に、家康と氏真との掛け合いは素晴らしく、今回も、前回と同様に神回となっています。特に、二人の老けメイクの自然さにビックリします。さて、やっと最終的なキャストが発表されました。浅井三姉妹の次女・お初役に、NHK火曜ドラマ「大奥」season2で平賀源内役を好演した鈴木杏さん、そして、予想された通りに、語りを担当していた寺島しのぶさんがお福(春日局)として出演することが決定
9月23日、片桐且元は、織田信雄より、薄田兼相等を討手とする、暗殺計画を知らされ、]屋敷の篭り守りを固めた。片桐且元の殺害は、木村重成、渡辺糺、石川貞政、青木一重、薄田兼相等が、行おうとしていたとされる。また、京都所司代の板倉勝重は、大野治長と織田頼長による、片桐且元の暗殺計画があったと把握している。片桐且元は、豊臣秀頼及び、淀殿と何度か、手紙を送り合ったが、隣家の織田有楽斎の屋敷との間で、互いの家臣が、武装して警戒し合する、事態態となっていた。大野治長が、軍勢を集めたため、片
方広寺鐘銘事件は、バカバカしい程の徳川家康の言い掛かりであるため、本項において、簡略化して説明する。方広寺は、京の大仏と呼ばれ、豊臣秀吉が、発願し、建設された。しかし、理由は、不明であるが、その後、焼失していたため、1607年(慶長十二年)に、豊臣秀頼が、方広寺大仏殿を再建することになったのである。徳川家康は、豊臣秀吉が、大阪城に貯蔵した、莫大な金銀を豊臣家に散在させるために、豊臣秀頼に方広寺大仏殿の再建を勧めたとの説がある。方広寺大仏殿の再建は、片桐且元を奉行として、進められ
小谷城落城後の家臣達続きになります。前回はこちら『小谷城跡⑦大広間〜山王丸』小谷城散策の続き続きです。『小谷城跡⑥番所から桜御門へ』小谷城散策へいよいよ小谷城跡へ。麓の無料駐車場に案内板がありますが、今日はガイドさんおすすめの通り、…ameblo.jp浅井長政が今なお人々に愛される戦国武将である理由。義に厚かったと言われるものの。浅倉家への恩義を取ったとは言いますが、義兄である信長を裏切り背後から突こうとしたわけで。しかし、家臣や地域の民に慕われていたのは事実のようです
一葉落ちて天下の秋を知る片桐且元肌荒れ手荒れで天下の秋を知るまめぞう毎年、10月に入ると踵のガサつきや、手の甲がカサついてくる、この肌感覚で秋が本格的になったと感じる、逆に5月下旬から6月上旬にこの肌荒れが収まると夏が近いと感じる。
司馬遼太郎『城塞』上中下、新潮文庫徳川家康が、豊臣家を亡ぼした大坂冬の陣と夏の陣。これは戦争というよりも「家康の犯罪だった」と司馬遼太郎は言う。あの手この手で豊臣家に金を使わせ、その家中を調略で切り崩し、火のないところに煙をぼうぼう立て……。著者は「どうです、悪い爺でしょう」と、家康のやり口を嬉しそうに語っては「けど魅力的だよね」と匂わせて読者を巻き込む。主人公は家康と、それに踊らされる敵味方の人々。次々と登場する、多数の人の出自、性質、能力、お国柄、人間関係を鮮やかな
「茨木城跡」(大阪府茨木市片桐町)を訪問郡山(白井河原の)合戦(当連載No.6参照)で荒木村重は茨木佐渡守を、中川(瀬兵衛)清秀は和田惟政を討ち取り、茨木氏は滅亡しました。清秀は、村重の従兄弟です。「中川年譜」をはじめ、通説では郡山合戦直後〜清秀が茨木城主になったとされています。しかし、元亀四(1573)年5月27日付のフロイスの書簡には「〘元亀四(1573)年4月〙茨木主の荒木信濃」との記載があります。また、村重は、織田信長方に移行するまでは、池田家中の最有力者でした。池田城主は池
前回からの続き(令和4年11月12日のこと)になります八竹庵の対面くらいの家の玄関とこに石碑がありました室町時代祇園社領三条町織田信長時代この附近羽柴秀吉旅宿跡側面これより従是東片桐且元終焉地松田政行邸跡解説板もありますアップ織田信長時代羽柴秀吉旅宿跡室町時代祇園社領三条町片桐且元終焉地・松田政行邸跡京都市中京区新町通三条下ル三条町は、平安京の条坊表記では左京四条三坊一町(西側)および八町(東側)にあたる。11世紀末から12世紀初頭には、兵衛佐皇后宮
今日の一粒万倍日いつも行く神社⛩にお参りに行くつもりでいたらふと一度訪れたことがある神社が思い浮かんで…「これはこのふと湧いた感覚に従うやつだ❣️」と思い片道約40分のドライブに出掛けた🚐そしたら道中以前標識が気になり近くまで行ったけど行かなったと言うのか行けなかったが正しいのか名前が「誓願寺」と今日の一粒万倍日にふさわしいじゃない❣️と思いつきお目当ての神社に御参りした帰りに立ち寄ってみたそしたらお寺の境内そばにグレー色の鷺(たぶん🤔)がジーと立っている
…誰を奉行に再興したものか?北野天満宮の祭神は道真。右大臣の道真は、左大臣・藤原時平との権力争いに敗れ、大宰権帥(ダザイゴンノソチ)に左遷されて延喜3年、大宰府で没した。天暦元年に北野に道真の鎮魂の社を建てたのが北野天満宮である。道真は文才に恵まれ、詩人としても有名。文章(モンジョウ)博士になってから大臣の要職に就いた。学問の弟子となって出世した貴族も少なくない。故に道真は学問・文芸の性格を強くしていった。社殿前の中庭
さてさて……………風情ある京の街並をてくてく歩いて………おっ目的地への案内が見えてきたぞーーっまず到着したのは、予定していたひとつめの目的地である…………【方広寺(ほうこうじ)】京都府京都市東山区大和大路通七条上ル茶屋町527−2本尊は盧遮那仏で、通称は「大仏」または「大仏殿」。『方広寺鐘銘事件』の引き金となった「国家安康」の梵鐘を有することで知られる。慶長7年(1602年)大仏殿が焼失する徳川家康の勧めで、慶長13年(1608年)より片桐且元を奉行として再建が開始され、慶
所在地〒636-0153奈良県生駒郡斑鳩町龍田南特徴賤ヶ岳七本槍の一人片桐且元が、関ケ原後に2万8千石で築いた陣屋。水堀跡であるL字の池から西の龍田公園までが城址で、一番高所の公園内に説明板がある。感想東側は市街地で、西の公園内も改変が大きい。
このところ大坂の陣(慶長19年:1614~同20年:1615)が面白くて、関係史料を読んでいます。戦国最後の合戦とされるこの戦には比較的多くの記録が残っているんですが、現代の状況と比較してみても実に面白い情景が繰りひろげられています。前回は「大坂城のパフォーマンスマネジメント」と題した記事で、牢人大将のひとり、北川宣勝の回顧をみてみました。大坂城のパフォーマンスマネジメント|落人の夜話(ameblo.jp)前回が「現場」視点とすれば、今回はいわば「本部」の視点。つまり大坂
〖コロナ終息祈願!!〗⚫ちょっとテスト的に復活。⚫【戦国庵】紋次郎のオリジナルアイテム通販∞SUZURI(スズリ)#suzuri∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞〖ニッポン城めぐり歴史クイズ〗【本日の問題】大坂冬の陣の直前、片桐且元が大坂城を退去した際、弟の貞隆は次のうちどのような行動を取ったか?◎兄とともに茨木城へと退去した○兄の行動を恥じて切腹して果てた○兄の行動を糾弾して縁を切った○兄の間者として大坂城に留まった答え:◎兄とともに茨木城へと退去した【解説】片桐且元と
【問題】大坂冬の陣の直前、片桐且元が大坂城を退去した際、弟の貞隆は次のうちどのような行動を取ったか?【選択肢】兄とともに茨木城へと退去した兄の行動を恥じて切腹して果てた兄の行動を糾弾して縁を切った兄の間者として大坂城に留まった【正解】兄とともに茨木城へと退去した【解説】片桐且元とその弟・貞隆は、豊臣家の家臣として徳川方との折衝を担っていたが、次第に大坂城内で内通を疑われるようになったことから、兄弟ともに城を出て、居城・茨木城へ退去した。
昨日の続きです。今回は楼門周辺です。下図⑫の復元楼門のところに戻りました。人が通ったので、門の大きさが分かると思います。馬に乗って通れるかは微妙ですね。⑳のところが旧馬引口町なので、城郭中心部へは下馬して、内堀を渡り入ったのでしょう。茨木市立文化財資料館の資料です。(上が北)上図Aには小学校内ですが、ここに片桐且元在城の石碑があります。昭和3年に建てられた、片桐且元在城の石碑です。校内に入らないと撮影出来ません。(茨木市立文化財資料館より)
昨日の続きです。今回は楼門から天守台跡です。下図⑫にある復元櫓門(楼門)です。前回での解説板では、櫓門とありましたが、楼門と呼ばれています。裏に回ると裏側から見たところです。オリジナルの楼門は、奈良県大和郡山市の慈光院山門として残っています。茨木城の楼門だった慈光院山門です。(慈光院Webページより)このお寺は片桐且元の甥により建てられました。上が北の地図です。⑫から⑬の所に行くと⑫と⑬の中間地点です。道路の右側には内堀がありまし
画像を追加したので再UPしました。今回から茨木城の紹介です。2022年1月8日に訪問しました。茨木(いばらき)城は大阪府茨木市にあった城です。南北朝時代1334年~1336年に楠木正成がが家臣に築城させたと言われますが、明確な証拠がありません。室町時代1428年に茨木氏が文献に登場します。1482年に摂津で国人一揆が勃発、修験道に熱心な細川政元が鎮圧に乗り出します。同年6月に三宅城を攻略、ついで同年7月には茨木三郎が守る茨木城も攻略し、同年10
大坂城の豊臣氏の処置を決め太平の世を確定させに掛かる家康さん、コンプレックス(?)からか父、兄を困らせ、周囲に利用されがちな松平忠輝と高田城(行ったのはもう5年も前)、ここで山岡荘八さんの出身地は新潟県小出町。高田城から近い?土地勘ないので分かりませんが、この時の高田藩63万石に含まれていた土地柄で思い入れが強いのかも家康さんの真意を酌み、影の動きをする柳生宗矩、真意を酌めずに翻弄される片桐且元、そして動き出す真田幸村、その出九度山を阻もうとしつつも苦悩する松倉豊後、、
桐一葉....のもじり(本歌取りなんてシロモノじゃないわ)なんだが、別に近畿チベット圏の六十谷橋が崩落したから、あれこれが値上げやら、、、はまったくの無関係。ただ野次馬徘徊老人は現場見学にわざわざ出かけたのだが、なんとも凄い脇見渋滞。馬鹿馬鹿しいばかりの時間浪費の合間にふとアタマの中に浮かんだだけの事。故事成句の元は中華の「淮南子」に由来するそうな。細やかな予兆から未来の大事を予感する...という意味だが、今や原典は忘れられて逍遥先生の名作歌舞伎「桐一葉」だけに名をとどめる。出来の悪い
関ヶ原が終わり家康さんの将軍就任。しかし冒頭には大久保長安登場、秀頼の不幸な育てられ方と千姫、板挟みに苦しむ片桐且元(「葵徳川三代」での小林稔侍さんの苦渋に満ちた表情が思い出されます)、等々、”泰平胎動”の印象は薄く、いやほぼなかったです。於大さんの登場がせめてもの救いでした。後7巻。”遠き道”を感じてしまいました。