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植物🌳を上手く育てられない私ここ数年は手を出さずにいたのですが、先日出会ったガジュマルに心惹かれてしまいました育ててみようかな上手く育てられたらいいんだけどなぁ<今週の動画>【古事記41】ヤマトタケル編熊曽を伐つ(今ここから伝説の幕開け!)<見所>今回より5話連続のヤマトタケル編です。初回はヤマトタケルを名乗るまでのお話。父との確執や叔母との絆、熊曽征伐など盛り沢山の内容です。
はい!奈央です。今回は、福岡市にある香椎宮にお出かけしました。香椎宮は、国内に16社ある祭祀に際して天皇により勅使が遣わされる勅祭社(ちょくさいしゃ)の一つです。九州では、香椎宮と大分の宇佐神宮の二つだけなんです。香椎宮拝殿残念ながら香椎造の神殿は改修工事中でした。香椎宮は、JR鹿児島本線で博多駅から小倉方面へ向かって4駅目香椎が最寄駅です。でも、私は今回も車で向かいました。下の案内図を見ても、大きな神社だっていうことがわかるでしょ。香椎宮案内図
「深田サルベージ建設の発祥の地は広島県呉市です。広島県呉市は、村上水軍の根城があった場所です。村上水軍は、戦の中で松取りの現場部隊です。松取りの現場作業をする海の反社の役割と言えます。」4月23日に起きた知床観光船事故において、沈没した知床遊覧船所有のカズワンの捜索活動に「無人潜水機」が投入されています。2022年5月8日の《HBCNEWS》で状況内容が伝えられています。『知床観光船沈没事故民間調査船の「無人潜水機」が水中へ行方不明者発見につながるか北海道』の記事には、『北海道・知床
ご訪問ありがとうございます。いつも秋に滋賀県大津市の建部大社に行くのですが、秋はいつまでも暑い☀️😵💦(温暖化?)涼しくなると七五三で混む期を逃すと紅葉🍁の時期になって京都方面の🚃が混むということで春の、桜が終わってから、GWまでに行くことに変更しました。建部大社にあるヤマトタケル物語の説明板クマソ討伐です(*´・ω・`)b春も新緑でいいですね。八重桜と垂れ桜が残っていました。帰りに京都も出ましたが、すいてて正解(*^^*)さてヤマトヲグナの続きです。「日本書紀」のヤマト
古代の大隅国の成り立ちを考える場合、「熊襲・熊曽」を抜きにしては考えられない。そこで、あれこれ調べているうちに、そもそもなぜ「熊」なのか、という疑問をずーと持っていた。今、手元にある鹿屋市在住の古代研究家・松下高明さん(大隅史談会会長を長く歴任)の『投馬国と「神武東征」~南九州古代前史の謎を解く』(2020年10月30日、南日本新聞開発センター)を読んでいたら、まさにこの疑問に答えてくれる箇所があった(本書自体は、まだ読み始めたばかり)。そこを引用しておきたい。「熊」の本字は能
ご訪問ありがとうございます。今日はまず「日本書紀」のクマソ討伐についての箇所を見てみましょう。(景行天皇27年)秋八月、熊襲がまた反乱を起こし、邊境に侵入するのを止めなかった。冬十月十三日、日本武尊を遣って熊襲を撃たせた、時に年十六。その時日本武尊は「わたしは弓で射るのが得意な者を得て、共に行きたいと思っている。どこかに弓の得意な者はいないものか。」と言われた。或る者が申し上げて「美濃国に弓の得意な者がいて、弟彦公と言います。」と言った。そこで日本武尊は、葛城の人で宮戸彦という者を遣
ご訪問ありがとうございます。今回より小碓命の別名(亦名)であるヤマトヲグナの原型を探っていこうと思います。今日はまず「古事記」のクマソタケル征伐も物語を見てみましょう。小碓命そこで天皇は、その御子(小碓命)の猛々しく、荒々しい感情に畏れを抱いて、仰せになるには「西の方にクマソタケルが二人いる。彼らは朝廷に服従せず、無礼なものたちである。それゆえその者らを殺せ。」とおっしゃった。この時に当たって小碓命は、そのお髪を額にお結いになられていた。(ひさごはな)そこで小碓命は、その「姨ヲバ
久しぶりに近所のスーパーに「大隅ごぼう」があったので、さっそく購入し、調理。ゴボウサラダとキンピラゴボウにした。調理しながら、今更ながらも、「どうして、わが故郷は「大隅」というのか?」という疑問が浮かんできた。「鹿児島」という地名の由来もちゃんと聞いたことがなく、ただただ「そうなんだ」と思ってきたことと同様、「大隅」についても「そうなんだ、おおすみなんだ」と疑うことなく使ってきた。しかし、なぜ、鹿児島県の桜島側の半島を「大隅半島」とか「大隅地方」というのか?当然のこ
はい!奈央です。御所ヶ谷神籠石の続きです。中門を見た後、右手、景行神社に向かいました。御所ヶ谷神籠石マップナポのブログよりお借りしました。ここ御所ヶ谷神籠石はとても有名なところで、アプローチも簡単ですが、やはりマイナーな場所なんでしょうね。私以外には、おじさまが一人、いらしただけでした。こんなところに、ワンピースで?って顔で見られちゃいました。神籠石を全部見るとしたら、ハイキングコーデなんですけど、今回は中門と景行神社だけが目的なので、いいかな?なんて軽く考え
日の本の始まり世界の始まり縄文時代縄文時代=1万年間つづいた時代。©縄文土器縄文時代中期(堂平遺跡)弥生時代の始まりから令和の現在に至るまでいまだ3000年。ご気楽に♪お気楽に♪
フジミ模型、長門・赤城・加賀の軍艦プラモデルを2022年2月に発売-Yahoo!ニュースYahoo!ニュース-Yahoo!JAPAN太平洋戦争開戦時の戦艦長門を再現した商品は艦底まで再現できるフルハルモデルで、完成後に飾って楽しめる台座が付属する。また、8種類の成型色で構成され...樺太の記憶、映像で後世に-愛媛新聞ONLINE愛媛新聞ONLINE太平洋戦争の終戦時、約40万人の邦人が居住していた南樺太(現ロシア・サハリン南部)からの集団引き揚げが始まって5日で7
ある意味、今日・文化の日がこの方の命日・二十三回忌であることに、私は運命的なものを感じます。佐治敬三氏そう、サントリーの元会長にして、メセナ活動に大変に力を入れられた〝文化人〟でもありましたから・・・。佐治氏は1919年、サントリーの創業者・鳥井信治郎氏の次男として大阪に生まれました。次男なのにどうして敬三と命名されたのかは分かりませんが・・・何故か小学生の頃、母方の実家・佐治家の親戚の養子に。大阪帝大理学部卒業後、父の興したサントリーの前身・壽屋に
古代日本の伝説的人気ヒーローであるヤマトタケルの人生を復元してみたいと思います。*「原日本紀の年代記」は本ブログで独自に紀年復元した年代観にもとづいています。日本武尊=誉津別命(ほむつわけのみこと)*原日本紀仮説にもとづく考察により、ふたりの同一人物説を採用しました。書紀は前半生を誉津別命、後半生を日本武尊として描いていると考えます。誕生年:318年*書紀設定では紀元前36年(誉津別命)/西暦84年(日本武尊:崩御年および崩御時年齢より算出)崩御年:357年(40歳)*
鹿児島県霧島市にある熊襲の穴へ行きましたここは以前、霧島神宮へ行った時に通り目にして気になっていた熊襲族•隼人族…気になると目にし始める熊襲の丘駐車場の銀杏の木上の方は黄色に染まってきていた地元のおじちゃん登場ここから200メーターくらい登るよえっ!ここから登んですか?うん、ちょっと登るよ。登ったら洞窟手前右側にスイッチあるからね^^ありがとうございます^^登りがあるんだ想定外どんな感じなのかよく調べもせずに来ている行ってみなけりゃわからない登山スタート!スタート地
「熊襲の穴①・②」の追記です。昨年、薩摩の熊襲の穴に訪れました。実は、洞穴の入口に、こちらがあるのですが…何故か?気付かず灯りがともっていない状態で、洞穴に入りました。途中で、壁画に気付き、急いで入口に戻りました。そして、スイッチを押し、再び中へ。あっ...帰りの消し忘れにはくれぐれも注意してくださいね!正直に言うと...真っ暗で...ね(笑)大丈夫!だという、妙な自信はあったのですがさすがに、怖かったです...色々な想いが残されてい
前回の続きです...内容ごとに、ブログをまとめた方が良い...そうです。「熊襲の穴①」を2分割しただけなので読んでくださった方は、スルーしてくださいね...お時間が許すようでしたら妙見温泉・妙見石原荘の石原さんの文章を拝読してくださいね。小碓命は、ヤマトヒメ(後の伊勢神宮斎宮)に衣装を借り、女装して宴会に参加...川上臬(たける)は気づかなかったのですかね...生理に纏わる女性特有の匂いを感じなかったと思うのですよね...熊襲は、縄文の生活様式を
昨年の薩摩旅で訪れた「熊襲の穴」について記載する気持ちになりました...必要な方に、ご縁が繋がります!様に...熊襲...黒い神と関係がある様です...熊襲も、隼人も、同族なのでしょうか...山の民・特有のネットワークを持ち独自の世界観で生きる人々...九州版忍者とも言える様な気がします。但、今もその血が脈々と受け継がれているのか?どうか?は分かりかねます。あしからず...断絶しているのでしょうか...どうなのでしょうね...お
成龍です。365日の歴史の旅16日目倭国大乱倭国の大乱は三国志の魏志倭人伝や後漢書の東夷列伝などに記録される、倭国内で起きた争乱のこと日本書記の仲哀天皇の時代にあたり、ヤマト政権と九州の熊襲との争いと考えられていたが、現代では倭国大乱とは別であるとされている。そもそも、熊襲の反乱じたいも疑問視されている。小国が割拠していたために、内乱が頻発していたと考えられる。大和武による熊襲討伐の話では熊襲は愚かな悪者ですが、勝者の歴史はいつもです・・・
前回のブログ『(再投稿)⑱記紀に描かれた約2000年前』より続きます。『(再投稿)⑱記紀に描かれた約2000年前』前回のブログ『あの日・・7月4日から1年たちました』より続きます。『あの日・・7月4日から1年たちました』前回のブログ『再々投稿⑰橘氏の母系には大伴金…ameblo.jp私が球磨から発信するこのブログを御覧頂きありがとうございます。お読み下さった皆様方には心から感謝いたしております。自然災害、さらに新型コロナウィルスの感染により、愛するご家族、親
【西のヤマト東のヤマト】倭は一つではなかった、複数あって紀元前からChinaに朝貢を試みていた最低3つの国があちらの歴史書に書かれている奴国王、邪馬台国女王、倭面土王そして、朝貢がダブルブッキングした倭国帯方郡、楽浪郡のChina支所まで行ったが、相手にされなかった国海難事故で半島迄いかなかった国々金印漢委奴国王親魏倭王その中で倭国王として認められたのは奴国と邪馬台国だけだったこの二つの倭国と他の倭国の違いは外交手腕だろうまず、これらChinaの紫綬
今回は、熊襲討伐に関連した景行天皇の九州遠征について見ていきます。*「原日本紀の年代記」は本ブログで独自に紀年復元した年代観にもとづいています。景行天皇・大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)*書紀設定では第12代天皇【347年:景行12年:31歳】7月、熊襲(くまそ)がそむいて朝貢しなかった。8月15日、筑紫に向かって出発する。9月5日、周芳(すわのくに)の娑バ(さば)で神夏磯媛(かむなつそひめ)が、八握剣(やつかのつるぎ)、八咫鏡(やたのかがみ)、
【ふたつの倭国】邪馬台国女王卑弥呼が魏へ朝貢する約180年前【57】後漢の光武帝百余国の倭国の小国の奴国王が西暦57年に朝貢した際【漢倭奴国王金印】を賜う【107】後漢の安帝倭面土国王の師升等が西暦107年に生口160人を朝貢し謁見をしたがこの倭面土国王の生口と言う人材は男女とも入れ墨をしていて美観が悪いそう言った理由で、倭面土王には金印などの下賜品はなく正式に謁見できたのかどうかもよくわかっていないこのワメント国はどこの倭の小国?倭のイト国、マツラ国、ヌ国【
~書き起こし~佐倉亜希子がナビゲートする8分間のチューニングタイム8MUNITETUNING第9回は、鹿児島・妙見温泉田島本館さんの囲炉裏をバックにお届けいたします。田島本館さんには、とっても素敵な囲炉裏があるんですよ。今回は、皆さまといっしょにこの囲炉裏を囲んでいることをイメージしながら妙見で体験した不思議な導きのお話をしたいと思います。妙見温泉に向かうバスの中で、私はある看板を目にしました。そこには「熊襲の穴」と書いてあったんです。
はい!奈央です。今回訪れたところは、⑲鳥野神社(直方頓野)日本武尊が熊襲を眺望した地戦勝祈願をしたところです。⑥劒神社元宮紫竹原の滝神の入るところの後に行ったので同じスタイルです。下の図の一番下、⑲の印のあるところです。鳥野神社も⑱尺岳神社と同じように、山腹に鎮座しており、目の前には、内ヶ磯ダム湖が広がっています。今回は、道路も広くて苦労せずに、神社の入り口まで車でやってきました。ここが、一の鳥居です。古いけれど、荘厳な感じのする神社でしょ。鳥居の脇には、真新しい
はい!奈央です。今回訪れたところは、⑧十五社神社(中間下大隈)です。私は今、この神社の拝殿前にいます。実は、十五社神社は二つあります。昭和20年発行の「福岡県神社誌」によれば、拾五所神社(遠賀郡中間町大字下大隈字村前)と十五社神社(遠賀郡中間町大字垣生字宮之前)の二つです。ところが、垣生宮之前の十五社神社は、昭和27年に埴生神社に合祀され、相殿として祀られています。歴研はてなブログHPよりお借りしました。この二つの神社は、直線距離にして500m程離れてい
昨日の「阿弖流為側の子孫」で、自分の顔立ちから阿弖流為側の子孫だと思っているという話をしました😄これは、程度の差こそあれ、親戚一同、皆、濃い顔だということです😁縄文人や弥生人かで言えば、圧倒的に縄文人です。私は、蝦夷(えみし)とアイヌはイコールではないとは思いますが、蝦夷とアイヌは祖先が同じではないかと思っています。修学旅行の引率で北海道の白老に行ったときには、アイヌ文化を紹介する人たちの顔を見て、親戚がいっぱいいるような気になりました😄また、私の生まれ育った地域にアイヌ語
ブログ訪問頂きありがとうございます。九州の豪族、熊襲の地を散策です。熊襲とは諸説ありますが、肥後国から大隅国「九州南部の熊本から鹿児島あたり」を居住した部族で大和朝廷と争い、臣従し、隼人として仕え、勇敢な部族であったと云われております。和氣神社に参詣です。小さい神社ですが柔らかで心安らぎました。和氣神社由緒より御祭神和氣清麻呂公命「わけのきよまろこうのみこと」御神号護王大明神奈良時代の末、769年宇佐八幡神託事件に際し和氣清麻呂公は、勅使として、宇佐八幡宮の御
こんばんは(^^)はやとづか隼人塚へ行ってきました3メートルほどの小さな丘に3基の石塔と4体の石像が鎮座する国の史跡です『大和朝廷に平定された隼人族の霊魂を供養して災厄を免れるために建られた供養塔と伝えられてきましたが、平安時代の仏教遺跡と考えられるようになりました』石塔には仏像が彫られています与謝野晶子の歌碑があります隼人塚夕立はやく御空より馳せくだる日に見るべきものぞ昭和4年7月23日に与謝野晶子は夫鉄幹と隼人塚に訪れこの歌を詠んだそうですきっと夕立に打た
「筑紫」発祥の地と伝わる筑紫宮(筑紫野市:Wikipediaから)オホド王と磐井の乱にかかわって、筑紫の話柄が続きます。本節では「筑紫」の名の由来を取り上げます。『書紀』は全30巻のうち「筑紫」の文字が登場しないのは4巻しかありません。初出は巻第一「神代上」の国生みで、本文と「一書」第1・2・4で4番目に「筑紫洲」の文字が出てきます。また『万葉集』巻第20に「都久志能佐伎」(ツクシの崎)とあって、7世紀には「ツクシ」の音もあった可能性が認められます。なぜ「ツクシ」というのか―