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令和7年6月半ば、鎌倉歴史文化交流での特別展、「平泉から鎌倉へ〜兵どもが夢の先〜」へ。(※『兵』と書いて『つわもの』と読む。)館内では、“撮影禁止マーク”の無い物ならば撮影OK!ここからは、奥州平泉をモデルにした、鎌倉について。↓↓↓既に現存していないが、鎌倉の永福寺や勝長寿院は、平泉の中尊寺や無量光院をモデルにしてたとか。こちらは、永福寺正面の山の上に埋納された経筒の“蓋(ふた)”として使われていた、渥美片口鉢(あつみかたくちばち)。↓↓↓こちらは、埋納経筒の外側
令和7年6月半ば、鎌倉歴史文化交流での特別展、「平泉から鎌倉へ〜兵どもが夢の先〜」へ。(※『兵』と書いて『つわもの』と読む。)館内では、“撮影禁止マーク”の無い物ならば撮影OK!ここからは、鎌倉の永福寺跡について。↓↓↓永福寺は、奥州攻めで落命した将兵の供養の為に、平泉の中尊寺や毛越寺、無量光院をモデルにして建立されたという。室町時代の火災の後は再建されていないので、残念ながら現存していない。では、永福寺跡からの出土品を。左側は、仏像の断片。右側は、漆塗りに螺鈿(ら
令和7年6月半ば、鎌倉歴史文化交流での特別展、「平泉から鎌倉へ〜兵どもが夢の先〜」へ。(※『兵』と書いて『つわもの』と読む。)館内では、“撮影禁止マーク”の無い物ならば撮影OK!ここからは、奥州藤原氏3代目・藤原秀衡について。↓↓↓藤原秀衡の時代の、かわらけ(土器)。中央の黒い物は、漆器。↓↓↓藤原秀衡が京の宇治平等院鳳凰堂をモデルにして建立したという、無量光院について。↓↓↓無量光院跡から出土した装飾品。↓↓↓奥州藤原氏滅亡について。↓↓↓1189年、藤原泰
こんにちは👋😃初✴️高野山でっ!💫過ごす目的✨💍✨初めての訪問で✨💍✨夜行💫一泊二日の旅です✨💍✨やりたいこと🍀🍀🍀の優先順位を決めて出発してきました✴️優先順位の2番目❗に、宿坊に泊まり❗写経をして❗✴️朝のお勤めに参加する🌈を持ってきました✨実は、宿坊に泊まるのは3回目です。確か、初回が身延にある七面山にある宿坊に🍀🍀🍀山の仲間と一緒にっ!💫七面山を登る目的でっ!💫10人以上の仲間と共に✨💍✨2回目は、ぶどうの丘のワイン祭りをっ!💫堪能するために🎵飲み友と5人くらいで✨💍✨
令和7年6月28日皆様、お久しぶりです。半年ぶりのブログになります。28日は不動明王御縁日、そして29日が巳年の己巳の日の弁天様の御縁日と連続するので久しぶりの遠征。今回もお参り仲間のわへいさんに同行していただく。まずは高野山に行く前に奈良県五條市にある足寄山・生蓮寺へ。ここはお大師さんが高野山に上る前に立ち寄り道中の晴れ祈願をされたという由緒ある寺院。こちらの住職は蓮の研究をされておりお釈迦様のお生まれになられた辺りの古代蓮の種を探しに行かれるくらいの強者。境内にはこの時期、蓮
3月15日から鎌倉歴史文化交流館の企画展「平泉から鎌倉へー兵どもが夢の先ー」が始まりました。奥州平泉は、奥州藤原氏三代(藤原清衡・基衡・秀衡)が築いた黄金の都。『吾妻鏡』によると・・・初代清衡は、継父・清原武貞(鎮守府将軍の清原武則の子)亡き後、奥六郡(伊澤、和賀、江刺、稗貫、志波、岩井)を伝領し、嘉保年中(1094-1095)頃に江刺郡豊田館を平泉に移して宿館としました。柳之御所跡柳之御所遺跡は、『吾妻鏡』に記された平泉館の跡と考えられています。☆☆☆☆☆中尊寺中尊寺は
平泉を去る前に。街道の風景を送ります。平泉駅東北本線の駅で、明治31年(1898)創業。東北の駅百選に選定されています。駅から中尊寺通りを進みます。無量光院跡(国指定特別史跡・世界遺産)奥州藤原氏3代・藤原秀衡が京都平等院を模して建立した寺院跡。往時、平等院を凌ぐ規模を誇りました。4月と8月には、夕陽が御本堂跡地後方の金鶏山に沈む風景が拝めるそうです。浄土の世界を具現化していたのでしょうね。中尊寺通り電柱も地下化された
水沢の朝です(*^^*)幸いにも台風🌀🌀🌀を避けながら旅行出来ているようです朝ごはんもしっかり食べるよΨ('ч'☆)ほとんどコインランドリーの使用とお風呂に入るのと寝るだけだった安すぎの翠明荘をチェックアウトして(笑)平泉巡りですまずは「毛越寺」世界遺産です本堂ボランティアのガイド料は1000円さっそくお願いしました(*^^*)蓮とても詳しく教えてくださいますやっぱりガイドあると見るところが変わってきます👀👀👀記念に写真をお願いしました(*^^*)大文字
マンダラチャートで自分と向き合いマンダラ手帳で自分と仲良く仏教の考え方をまとめた8つの原理原則マンダラ思考で生き方もシンプルに夢も仕事も日常もがんばるあなたを\応援します!/サラリーマン高野山大学社会人学生マンダラチャート認定講師さとうゆきえ▶詳しくはこちら!どうも!さとうです^_^9/1(日)高野山3泊4日一人旅日記も最終日となりました。今回はこちらの記事の続きです『【高野山3日目②】雨の日でもできる、高野山宿坊で
アメリカ同時多発テロの5日前に亡くなった私の父。毎年父の命日が近付くと高野山の無量光院でご回向して貰っています。かなり前から「命日までに行ける日は9月1日しかない!」ということがわかっていたのでご回向の予約を入れていましたが、先週半ばくらいから「台風が週末にかけて来る」という情報。台風が来ているのに高野山に行けるのか?高野山まではいつも車で行きますが、車で片道2時間ほどかかります愛犬キースを長時間お留守番させるのが可哀想で一緒に行くことに🐶和歌山県が雨(大雨?)の予報だったからか、
マンダラ手帳で夢を叶える!マンダラチャートで自分を発見!《仏教の考え方×手帳活用》シンプルな原理原則で、自分らしい人生にあなたの自分らしさを見つけるお手伝いマンダラチャート認定講師さとうゆきえ▶自己紹介青森市出身、札幌市在住のさとうゆきえです会社員と高野山大学生とマンダラチャート認定講師の3足わらじ生活をしております。6/20から始まりました高野山一人旅も、とうとう最終日となりました。テレビもゴミ出しもなく、上げ膳据え膳の生
マンダラ手帳で夢を叶える!マンダラチャートで自分を発見!《仏教の考え方×手帳活用》シンプルな原理原則で、自分らしい人生にあなたの自分らしさを見つけるお手伝いマンダラチャート認定講師さとうゆきえ▶自己紹介会社員と高野山大学生とマンダラチャート認定講師の3足わらじ生活、さとうゆきえです高野山も5日目となりました。感傷にひたる間もなく普段の授業と前期課題レポートが雪崩のごとく押し寄せております壇上伽藍のライトアップも魅力的ではあります
平泉へ行ってきました。上野での中尊寺展最終日で、国宝の11体の仏像が須弥壇にいない時ではあるけれど、念願の金色堂を見てきました。最近、お互いに仕事が忙しい友人と、少しゆっくりめの出発にして、一ノ関到着は11時過ぎ。まずはお昼に美味しいものを食べなきゃねと、一ノ関にあるお魚屋さんの富澤というお店に向かいました。お魚屋さんの奥が食事処になっています。蔵造りの雰囲気よい店です。中もいい感じです。一番乗りだった私たちは、2食限定のお任せ刺身定食(上)をオーダー。お刺身が美味しくて、そして
高野山参拝記のラストです。一つめの記事の続きになります(^^)v奥の院と女人堂を時間をかけてゆっくりとお詣りした後、バスで息子がお世話になったお寺まで戻りました。その近くのカフェは、五年前に息子を高野山大学受験で連れてきたときも入った懐かしいお店です。新メニューができたようで、ラーメン定食のような感じ?は残念ながら、もう完売でした。私はやはり以前にも頂いたミックスサンドイッチとウ
清衡(きよひら)公による中尊寺建立の後、2代基衡(もとひら)公は薬(やく)師(し)如(にょ)来(らい)を本尊とする毛(もう)越(つう)寺(じ)、3代秀衡(ひでひら)公は弥(み)勒(ろく)浄(じょう)土(ど)を俟(ま)つ金(きん)鶏山(けいさん)を臨み阿弥陀(あみだ)如来を本尊とする無(む)量(りょう)光(こう)院(いん)を建立されました。先に中尊寺「鎮護国家大伽藍」の本尊は三(さん)身(じん)具(ぐ)足(そく)の釈迦如来と解釈しましたが、一旦中尊寺の本尊を含めた三代公建立寺院の本尊を
おはようございます秋分の日は、高野山へ。立里荒神社。ご祈祷していただいた後ご挨拶しに行きました。雲海が見れたら良いな、と思いましたが雲が消え、綺麗な山々を見られました。「祈りを」と言われたのでいつものように歌うとさーっと、白い雲が山々を覆いつくし雲海ができました。「ふふ、これで良いか?」と言われて驚きましたが、とても嬉しかったです。神様のお計らいを感じるひとときでした。お昼は、無量光院さんで精進料理をいただきました。潔斎中とよく似た内容ですが御出汁がきいていて、
こんばんは!トータルボディーコーディネーターの荒金です。高野山リトリート&一人旅から帰って2週間が経ちましたが、その後なかなかな感じで忙しい日々が続き、食生活なんかもちょっと乱れ気味(栄養バランスが悪い)で、同時に寝不足もつづいていて、遅く帰宅して夕食を食べる🥢↓疲れて寝落ちする↓夜中(朝方)目覚めてゴソゴソ片付けやその日の準備なんかをしているうちに空が白みだすというパターンが続いて、このままじゃヤバいなと感じていたのですが、この週末はや〜っと睡眠もたっぷり取れて、
こんにちは!トータルボディーコーディネーターの荒金です。皆さま、お久しぶりでございます7月16日(日)からの四泊五日の高野山サインレンスリトリート、そしてその後の二泊三日の一人旅から22日(土)に無事に戻りまして、昨日のオンラインレッスンより日常に戻っております。高野山へ向かう朝の地元の駅の空こんな素晴らしい青空が見送ってくれたのですが、リトリート、一人旅の間も全日程晴れ!晴れ!晴れ!高野山では最後の宿泊の夜中に土砂降りの雨が降りましたが、お別れの日の
一旦3時に目覚め、浄土庭園に居る夢を見た今朝の起床は7時ちょっち過ぎ。朝食は半田そうめんを秋田産椎茸と茹でて食うた。デザートはニュージーランド産キウイ。シャツのボタンのほつれを繕うた。須田晶子→河野美紀→山添ゆか→飯嶋ももこ→西田千穂→熊田千穂→高橋リエ→中本美智子と歌をユーチューブで聴いた。昼食に三河島「大和水産」二階の丼物の方へ。ちっこい券売機に五千札が使えず幾つも硬貨を投入して注文したんは中トロ丼。味噌汁が付き1270円也。満足して店出て、スーパーで食料買うて帰宅したら汗搔いた。
【改訂】定年遍路記目次あとがきこの遍路の翌年平成9年6月、今度は大型バイクで再び八十八ヶ寺を巡った。9日を要した。その動機にはいろいろあるが、なんといってもお接待をいただいた方々へのお礼にもう一度訪れたかったのである。道ですれ違い際にお接待をいただいた方々にはお礼の仕様がない。しかし民宿や各種の店の人からまたとない心尽くしのお接待を受け感謝感激したことをこのまま放置しておくに忍びなかったのである。再訪するにあたってわずかばかりの粗品を持参した。そして、その節は誠に有り難う
【改訂】定年遍路記目次1996年10月07日(月)小雨のち晴宝塚への帰路橋本より国道310号線を北上、紀見峠を越えて河内長野、富田林、松原を走る。大阪は乗用車なら中央環状線または阪神高速を走るところだが、自転車であることを考慮して、危険ではあるが最短距離の大阪市内通過を選ぶ。天下茶屋あたりからは繁華街の連続であるが、そのために歩道でなく自動車道を走る。法規上は違反であろうか。しかし歩道はとても走れない。まず歩行者には迷惑この上ない。次に歩道では道がデコボコ
【改訂】定年遍路記目次1996年10月07日(月)小雨のち晴高野山を自転車下山部屋に戻り朝食をいただく。ご飯を一粒も残さずお腹一杯にいただいて、青年修行僧諸君にお礼を述べ、8時10分、自転車で下山に就く。雨は霧雨状になっていたが、風を恐れてビニール合羽で防寒として走り出す。対向車はきわめて少ないのだが、路面が濡れていて走りにくい。スリップによるふらつきは一度もなかったけれど、バイクで似たことを経験しているので非常に気を使う。ペダルを漕ぐことは少なくほとんど
【改訂】定年遍路記目次1996年10月07日(月)小雨のち晴勤行、そしてご住職より難問を受く4時30分起床。すぐに未明の外をうかがうと小雨だが間違いなく降っている。それに寒い。これは大変だ。下山をどのようにすべきか考えるも名案なし。テレビがないので天気予報がわからない。6時より勤行。ただ1人、お勤めに末席で参加させていただく。ありがたいことに、電気マットに座らせていただく。お経は難しくてさっぱりわからず、実に長い。時々青年修行僧のリンとした主導的読経
【改訂】定年遍路記目次1996年10月06日(日)快晴無量光院の宿坊にて通夜遍路最後の夜はここ高野山で一夜通夜させていただきたく、且つ朝の勤行にも参加させていただけるお寺をと案内所に申し出ると、金剛峯寺の左隣の無量光院を紹介される。無量光院とはなんと良い名前であろうか。我流解釈だが、量り知れない広大無限の光、希望を与え注ぐ寺院と推測したいのだが。そうであれば、無量光、無量寿という言葉がすばらしい。通夜客は自分1人のみ。10数畳の大部屋に案内されると部屋
こんばんは~不定期でお届けしている「鎌倉殿」の鎌倉、第8回は「永福寺跡」です。✕[えいふくじ]じゃないですよ。◯[ようふくじ]と読みます。瑞泉寺へ行く途中にあります。鎌倉宮の脇を歩いていくと。史跡関係者専用?駐車場みたいのがあって。自転車置場があって。永福寺跡へ行けそうな道があったので。こんな↓道を進んでみました。テニスコートの脇道で、ボールを打つ音が聞こえるけど。足元は山道さすが鎌倉、という感じ。案内図のあるところへ出ました。自転車マークのあるところから進んでし