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水野家墓所には珍しい形をした墓石が2基あります(他は宝篋印塔・笠塔婆・円頂方注墓)。その内の一つが2代水野忠善ので無縫塔、もう一基が8代水野忠鼎の亀趺墓です。本日は無縫塔です。2代水野忠善銕性院殿破鐘了勘居士2代山川藩主、4万5千石田中藩主(藤枝市)、4万5千石吉田藩主(豊橋市)、5万石岡崎藩主(岡崎市)。乾坤院(愛知県東裏町)に自身を含め「水野家四代の墓所」(祖塔として忠政墓は宝塔、忠守・忠元・忠善墓は五輪塔)を造営しました。そして結城山川の地に菩提寺として万松寺を建
113.今津朝山能蔵院(真言宗豊山派)の見どころ十九夜塔:正徳5年(1715)正面に如意輪観音、側面に六地蔵が浮き彫りにされている。基礎に近い部分に女性の名前(おみの、おたんなど)が列挙角柱宝塔型宝篋印塔:享保18年(1733)札所塔(四国八十八か所「五十五番」)西賀翁筆塚(文化14年=1817)左阿弥陀如来塔:年代判読困難…「無縁講」の文字が読める。足元には女性の名前がやはりびっしりと刻まれている。どうやら三塔とも女性中心の講(多くは月待講で市
渋川市は田舎の小都市ですが、もっと田舎住まいののめしこきは、こういう建築物を通るとちょっとうれしい。渋川市の景色を楽しんで、虚空蔵塚古墳。なぜ県指定になるのかのめしこきみたいな素人には分かりませんが、解説板から推測するに榛名山の噴火(1回目489年、2回目525年)後、従って525年より後に築造されたという事がはっきりしている古墳だからかな?側壁や石室の石はきれいに加工されています。近くに鎧を着た武人の金井東裏遺跡があるのですが、同遺跡が榛名山の噴火(489年)で埋まっ
<2022年7月1日>伊達政宗の霊屋である「瑞鳳殿」巡り。二代藩主忠宗の霊屋「感仙殿」の右手後方は九代や十一代目の「妙雲界廟」になっています。「感仙殿」の奥は「善応殿」。三代綱宗の霊屋です。傍らには「疑殉者の墓」である「無縫塔」がありました。綱宗の没時には14名が剃髪して菩提を弔ったそうです。それぞれの位置関係はこうなります。こちらは、つい最近の話。3月の地震で倒壊した石灯籠です。あのときは新幹線が脱線して、随分長い間不通になりました。宮城県地
相浦富士の過酷な登山の後、下山で膝を痛めないようにと降りてきたのですが、思ったよりも疲弊していませんでした。そこで、予定通りに登り始めで見かけた「飯盛権現跡」を見ることにしました。登り始めに説明した分岐点から20m程度でしょうか。間もなく、飯盛権現跡が姿を現しました。1月2日の「三社参りの後」で説明した愛宕山を山城とした飯盛城。平戸松浦を迎え撃つべく城を構えたのですが。受けて立った宗家松浦氏は、敢え無く落城。その戦いで犠牲となった者を慰霊する為に創られたと記されています。壮大な山城の一部とし
にほんブログ村1445.06.07.干時文安丑二年夏六月初七日化福岡県大牟田市大字今山1878定林寺歴代墓所安山岩製寺域北側の崖上、丘陵先端に1区画を拓き、歴代墓所が設けられている。本堂に向かい南面して、歴代墓塔が3列に並んでいる。1列目の中央近くに室町時代の古塔が集められ、2列目にも古塔2基が含まれている。そのうち、1列目の中央に、開山塔がある。塔は、基礎と塔身の2石構成の単制無縫塔である。塔高;65.5センチ基礎1辺幅;23.5基礎幅;46.5基礎奥行基礎側面
にほんブログ村1445~1517文安二年~永正十四年福岡県大牟田市大字今山1878定林寺歴代墓所安山岩製、(2~6)凝灰岩製定林寺は、大牟田市の西端、三池山の山麓にある曹洞宗寺院。本堂は、背面山裾の急斜面の花崗岩が重なって露出したのを庭に取り込んで建てられている。本堂の北側に室町時代の石塔群を含む墓地がある。更に、その北側の崖上に、歴代墓所の1区画が設けられ、本堂側を正面にして、南向きに、歴代墓塔群が並んでいる。墓塔群は、概ね3列に整理されている。前列15基、2列目9基、3
地元ですけど、ちょっと用事がありまして、時間までの間にちょろっと時間つぶしです。向こうは長洲天満宮です。今回は記事にしません。たいしたこと書いてませんけど、過去記事貼っておきます。『長洲天満神社(尼崎市)』どこにでもありそうな天満宮ですが、尼崎市内には一社だけ。神社本庁調べなので、属していない小さなお社はあるのかも知れませんが。こちらは菅公聖蹟二十五拝の札所にも…ameblo.jp振り返ってこちらを今日は紹介します。石ものいっぱいあります。鳥居あるので、向かいの天満神社の飛
川場村の文化財阿弥陀如来の石像や中興開山の弁清さんの無縫塔を拝見するために階段をのぼっていきました二猿の庚申石祠天満宮の右奥の石造物です似たような庚申塔が二基。青面金剛様首のない如意輪観音お寺の方が庚申閻魔様と呼んでいました阿弥陀如来の右手前に居ます漫画のような面白い顔をしています元禄十丁丑歳1697年庚申供養之所九月十六日こちらが阿弥陀如来です元禄三年1690年円錐に尖った頭。ふくよかで胸板が厚いですそして無縫塔です墓地の入り口にまた庚申
長野県の僧侶の墓を見学して、大和尚と和尚ではかなり立場が違うようだと思いました。明治時代から世襲の寺がほとんどになると、副住職(男性子孫或いはお婿さん)→住職(大和尚)と寺内ポジションが変化していきます。江戸時代の墓を僧侶の見学して和尚→大和尚と変化できなかった僧も多そうだなと思いました。こちらは「大和尚」の墓区画。それとは離れて、和尚・首座・上座の区画がありました。左端の智外文教和尚。1801年(寛政13年)に建てた墓石です。春香梅眠首座(しゅそ)。178
お坊さんの墓は今も昔も卵塔(無縫塔)が中心です。ところが何という名前の塔なのでしょう?無縫塔(卵塔)に混じってこの球を乗せた僧塔がありました。このデザインは初めて見ました。江戸期から昭和期までのものです。眺めていると、楕円球の塔身が球に変化したのかなと思いました。そう思うと、かつて見た円柱をスライスして立てた形の僧塔も球を乗せた僧塔の変形とも考えられそうです。いずれも長野県で見学させていただきました。
荒尾市府本に所在する市指定有形文化財の宗善寺跡(そうぜんじあと)古塔群です。この古塔群の場所を寺域に含むと考えられる宗善寺は、天正7年(1579年)に龍造寺隆信がこの地域の国人である小代氏を攻めた際に近くの梅尾城とともに焼失したとされます。古塔群は、無縫塔(卵塔)2基、五輪塔5基、板碑4基の計11基からなります。どれも戦国時代末(元亀~天正)の所産で、小代氏一族の墓と考えられています。宗善寺古塔群の入口です。奥の白い説明板がある所が古塔群の場所です。古塔群です。散在して
今日は国指定の史跡、岡山県南部の最高峰(と言っても508m)の熊山山上にある熊山遺跡に訪れました。熊山遺跡は、方形三段の石積遺構で、二段目の各面には仏龕、頂部には深さ2mの竪穴があり、竪穴からは陶製筒形容器と三彩小壺が見つかっています。奈良時代に築かれた仏塔と考えられています。類似の遺構としては奈良の頭塔があります。============================================================================山陽線熊山駅から出
お散歩♪(その1)お散歩♪(その2)さて、今日はその3。てくてく歩くと、「細江神社」にたどり着きます。地震の神様とも。そもそもご神体は、大昔の地震と津波によって町内の赤池と呼ばれる場所まで流されてきた。子どもの頃は、夏祭りでご神体と各地区の山車が船に乗って都田川から浜名湖まで下り、そこからまた山車を引っ張ってきて、最後に、この鳥居の階段から上まで一気に引き上げて供養する祭りが行われていました。その時間は夜になるので、提灯も光って綺麗だったな。なんでも、お祭りはいまも