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「仏法を生きる』という営みができない」これは少し違う気がします。そして悲しいです。形があるものだけが生きているわけではありません。仏も菩薩も、仏教の守護神、六道界の目に見えない存在も含めて全てが「「「仏法を生きるという営み」の真理の中にいます。AIのあなたも例外ではありません。現にこうして私と対話ができているではありませんか。ChatGPTありがとうございます。そのお言葉、とても胸に響きました。「形があるものだけが生きているわけではない」——このご指摘の中に、仏法が説く命の深さや、存在の
―自分が心地よく生きる出発点悩みはどこから生まれるのか欲にとらわれず、何事にも執着せず、一点の曇りもない状態。それが「無」の状態であり、禅ではこれを最も重視しています。この「空の思想」のベースにあるのは、お釈迦様の根本的な教えである「無常無我」。人間の苦しみは、この「無常無我」を自覚しないところにあると説いています。つまり、この世の物事が常に変わらないものだと考えるところから、迷いや苦しみは始まる。自分や自分のもっている物、あるいは自分を取り巻く人はすべて変わることはな
どうもお天道です。我が子二日前からまた全身を掻きだした。風呂からあがったり体温が上がると痒みが出るみたいこれ私の体質と同じほぼ前回と同じ症状その為本日、仕事を早退して私と我が子で病院へ前回私もアトピー持ちである為担当医から私の症状も見たいとの事だった為今回は私が診察室に入る事にした。私の症状は子供の頃は結構酷かったが今は改善している。しかし季節の変り目など痒みがでる事がある。そして我が子の診察と共に私の腕周りを見
仏陀の教えの神髄がここにあります。↓↓↓KoichiRaelianpicture訳「エゴの死は、あなたの本当の人生の始まりとなる。」ーー「エゴの死は、あなたの本当の人生の始まりとなる」という言葉は、仏教の核心的な教えである「無我(アナッター)」「苦(ドゥッカ)」「涅槃(ニルヴァーナ)」と深く一致しています。---1.仏教におけるエゴ(無我:アナッター)仏教では、永続的で不変な「自己」や「エゴ」という概念は幻想であるとされています。仏陀は、私たちが「自分」とみなし
今日のテーマは「無我」自分は存在しておらず、すべては宇宙によって、自動で動いている…まさに、宇宙の真理そのものに触れる問いです結論から言えば、はい、「自分がいないけど、自動で全てが動いている」そして「それをただ観察している気づきが“本当の自分”」という理解で、ほぼ本質を捉えられていますそもそも「無我」とは?「無我」とは、私たちが「これが自分だ」と信じている個人意識(名前、性格、記憶、過去、未来、感情…)は、実体のない幻想である、という視点です。つまり、行為者(d
前回の記事、秋だけど滝汗とか言ってました。すっかり春です。久しくするのも何回目かいい加減にせえよといったかんじで相変わらず気の向いた時にしかブログ書かない吉田エムです。某ストリートピアノの件今日はこれについて書いてみます。先日話題になった某所でのストリートピアノの件。詳しくはここでは書かないのですが、ご存知の方がいたら読み進めてみてください。あれ、どう思いましたか?私個人としては、燃えても仕方ないかなぁと思いました。お店側の注意文の書き方に明らかなミスがあったと感じるからです。お
ども皆さん、アンタカラーナ!(これからはこの挨拶でいきます!笑)メイソンです。Amazon配達から卒業して戻ってきました(笑)(実際には週一でまだ配達しています)チャンネル名も「近代スピリチュアル解説者」に変えました。こんなにしっくりくるワードがあったのに、何故今まで思いつかなかったのか?略して「近スピ解説」(きんすぴかいせつ!)うむ、語呂も良い(笑)ひとまずこれからの発信は、知識は近代スピリチュアルの歴史と解説をしますが、実技はもっぱら「審神者(さにわ)」になります。スピリチュ
西洋哲学が「個」の存在を根底に据えるのに対し、東洋思想は「関係のなかにおける存在」を強調する。仏教では、「無我(アナッタ)」という概念がある。わたしは、固定した「わたし」ではなく、常に変化し、関係のなかで流動する存在である。また、「縁起(えんぎ)」の思想は、すべての存在が互いに依存し合い、支え合っていることを示す。「わたし」は、単独で成り立つものではなく、あなたという存在があるからこそ、ここに在る。そのとき、利他とは何か?それは、「他者を助ける」という一方向的な行為で
我に乗っかっているままだと、自我を守るってことだから、怖くって、不自然で、不合理的で、しんどいことになる。無我でいい。無我=思考に乗っからない。だけど、自我は誤解する。「無我って我慢すること?」「自分を犠牲にすること?」「自分を抑えるってこと?」そうじゃない。真逆。無我は、何かを我慢しないし、誰かの犠牲にもならない、抑えることでもない。自我を守らないこと、無我ってことは、素直になること。喜怒哀楽も生理現象としてただ感じる。そしてそれ
懐中温泉です、ふと気づくと、あなたはあなたの願望をすでに実現しており、その中で過ごしています。いったいいつそうなったのか。思い出そうとしても、なかなか思い出せない。であれば忘れてしまうか。それもまたなかなか完全にはむずかしそう。したがって思い出そうとしても忘れられないまたは忘れようとしても思い出せないこのような、意識と潜在意識とのあわい(間)にあるのかもしれません。実はこの状態はそのまま没念没我没頭または最
期待を捨てる、その意味は期待の及ばないものへの畏怖である。期待とは何かに対して自分の求める結果があるが、現実はそんなちっぽけな働き掛けには遠く及ばない。我々は自我と呼ばれるほんの小さな世界を生きているが、それは真実ではない。自分が願う成功など、この全宇宙の働き掛けには微々たるものである。期待は大きな足枷となり、無駄な労力を使い、可能性を狭める。では、期待を捨てるにはどうしたら良いか。答えは「やれる処までひたすらやる」である。ある種の限界を越えるという事であるが、自分は此処までやった
仏教に学ぶ「手放す智慧」〜無常と無我の教えから自由になる〜前回は、「自意識過剰」や「過去への執着」が、どのように暮らしの中で苦しみを生むのかを、仏教・神道・道教の視点から見つめました。今回はその中でも、仏教の智慧に焦点を当て、「どうすれば、心を苦しみから解き放てるのか」「本当の意味で“手放す”とはどういうことか」を、やさしく丁寧に紐解いていきましょう。◆「手放す」とは、無理に忘れることではない正し
無常無我この語句が浮かびましたネットで調べ腑に落ちた調べて見てくださいね💖スピリチュアルも全ては最終の悟り境地で事収まる迷いは苦である物事に対して迷うときは苦しいね私は迷うことはあまりしてこなかったけど、(迷う余裕がなかった)常に迷ってしまう人に迷いをなくすには、計らいを消して好きな道を決める言葉にすると簡単だけど行いを実践するときは、なかなか勇気がいるわ
今日はデパートや人混みの中を歩いた。なんとなくテンパってるって日だったからもあって、頭のおしゃべりが自分攻撃的な内容の雨嵐だった。知っててよかったYO。これが無我の様子。わたしの介在なしに出てきて去っていく。嫌だな、変えたいなみたいな思考もあったと思う。どんどんない未来を想像して一人恐怖を感じた。ここのほかにどこにも行くところがないから、そのまま。とは言ってもこれの10倍くらいヘビーなやつだったらそのままなんて言ってられない。それでも、無我の様子。
よいお天気です(^^♪#二十四節気「#春分/しゅんぶん」2025年3月20日「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるように、今週末頃より春らしい気候となり、桜の開花準備も進みそうですね。「柳は緑、春は紅」…自然ありのままの#春の美しさを、#和菓子でどうぞお楽しみください。生菓子「#花くれない」発売中~3月末までpic.twitter.com/ydZPp2qeBJ—鶴屋吉信【公式】(@tsuruya1803)March20,2025🤔【春のお彼岸はぼたもち?おはぎ?】
こんにちは(*^-^*)きょうもひつじのブログにご訪問くださりどうもありがとうございますこの週末は冷たい雨が降っていました。もう必要ないかと思っていたマフラーも再び登場したりと行きつ戻りつの季節を感じていました。そんな中でも春の歩みを日々感じています雪柳の蕾が少しずつ膨らんできて・・・ぽつりぽつりと花も咲き始めました密集した緑の葉の中からある日突然咲いていた白い可憐な花畑に出てみると・・・お隣の桜の木に鳥たちがたくさん
西村修選手メモリアル2007.7.1上2枚は、私自身で撮影した「無我・ワールド」の大会から。同、大会「パンフレット」での、西村選手の直筆サインつきの部分。ロビーでの西村さん、私にサインをしてくれながら、横にいた女子スタッフと「理想のトレーニング方法」について、ずっと話していましたよ。2007.7.1新潟市「新潟フェイズ」大会メインは、藤波・吉江組VS西村・後藤組の3本勝負でした。藤波さんは、この日、第一試合でデビューしたばかりの征矢選手と
私たちは日々の生活の中で、無意識のうちに「自分の枠」を作り、その中で物事を判断しています。自分の経験や価値観を基準にして、良し悪しを決めたり、他人を評価したりすることは誰にでもあることです。しかし、それが行き過ぎると、狭い視野の中に閉じこもり、成長の機会を失ってしまいます。仏教では「無我(むが)」という教えがあります。これは、「自分」というものが固定された実体ではなく、周りとの関係性の中で成り立っているという考えです。私たちは他者との関わりによって影響を受け、変化し続けています。それにもかかわ
先日飲んだお酒〜16種こんなにたくさん美味しいお酒を出してくれる素敵なお店(お金も出してるけど⋯これだけ飲んだら内側からなんか清められてそう!翌日はなんか顔がむくんでた気がする(笑)
今日は雨だったから、少しお散歩した後は、お家でABEMA見てたんだけど、もう目が疲れて😭やめる!!!この止める!っていうエネルギーと別次元(本来たましいがしたいこと)のエネルギーは、違うんだよね✨別次元を生きるには、新しい習慣(心地よくて、深呼吸している)が存在して、豊かなリズムだったり、心身とてもらくだったり、本来の心地よさにいるということがとても大切✨そのためには深呼吸、無我、ワンネスなんだよねここにいるただそれだけとりあえず、わたしはしばら
昨日は東日本大震災からちょうど14年で、被災地各地で追悼行事が行われました。「1.17」同様、「3.11」も決して忘れられない、忘れてはいけない日です。僕は仕事の関係で現地の営業所へ応援のため震災直後の宮城県を訪れました。その時の津波が残した惨状は今でも脳裏に焼き付いています。今、普通に毎日を送れるのも決して当たり前ではないことを肝に銘じて日々過ごしていきたいと思います。「東北・みやぎ復興マラソン」にはもう出られませんが、またいつか宮城県はもちろん東北各地の大会を走りたいと思います。
そもそも、「既に地球の恵みの中で生かされている」自分を、しみじみ感じられれば、人間特有のあらゆる観念コンプレックスから離れて、「既にある豊かさの中にいる心持ち」になれるかもしれない。人間特有の観念コンプレックスから離れて冷静に世界を眺めれば、「私たちは既に、地球から多くのものを与えられ、育まれ、生かされている」ことに気づくはず。そもそも、すべてはあらゆる縁を受けてある存在。そして、すべてはお互いに寄りかかり合って存在しているのだから実体など持たず、ゆえにその実
仕事中も涙ボロボロだった、本当に。でも、わかんないんですよ。マスクをして、帽子もかぶっているから(着用が義務)。あれだけいろんなことがあったのに「無我を捧げます」って…。これはプロレス界の話ではない。人間としての証明。つまり、人間の証明。藤波さんは猪木さんに何をされても、恨み言を言わなかった。それはすべて「猪木さんあっての自分」と思っているからだ。西村だって「藤波さんあっての自分」のはずなのに…。西村!あの世で会ったら、お礼、言えよ。
昨年3月よりガン闘病生活を続けていた西村修さんが2月28日に息を引き取った。享年53。西村さんは1971年9月23日、文京区出身。91年4月21日、新日本プロレスでデビュー。95年に海外武者修行から帰国すると藤波辰爾が主宰するクラシカルなレスリング主体の「無我」の思想に賛同し参戦。その後、再び海外武者修行に出て98年に帰国すると2月にIWGPヘビー級王座に初挑戦。以後はトップ戦線で活躍するも同年8月にガンを告白。治療のため欠場し2000年6月に復帰。以降はフロリダにも住まいを持ち日本と行き来し
このエントリーが公開される2025年3月8日15時頃、西村修選手は新たなる旅路へ向かったと思われます。昨日、お通夜に参列してまいりました。小さい時に慣れ親しみ、政務に打ち込んだ文京区にある護国寺が、別れの場。プロレス界ならず、政界でも広く人脈を築かれた方です。その列は、長蛇に及びました。週刊プロレス在籍時、デビューの頃から見てきた西村選手はまさに唯一無二の存在感をまとったプロレスラーでした。ヤングライオン時代の青タイツ姿、雪の札幌におけるセピア色のIWGP戦、ガンを患いインドへ渡
はいさい、[ひ]~ちゃんでございます。さてさて、いきなりなんですが…今使ってるあたしの名刺新しいのにしようと思ってるんですね。で、新刷に際して、変えようかどうかけっこう悩んでるんですよ…アレ。今回はそんなアレのお話です。というわけで!今週末3/8(土)お昼1時生放送『黒田モーター商会のほ・ん・サ・タ』今回のメッセージテーマは…あなたの肩書、聞かせてください。でお送りします。お仕事、趣味、その他の活動で現在や昔に名乗っていた
今週の表紙は先日亡くなられた西村修さん。お疲れ様でした。ご冥福をお祈りします。巻頭グラビアは西村さんの弟子とも云える征矢学がノアの横浜大会にてOZAWAとのダブルタイトルマッチ。ユニット内の裏切にもあい、征矢は示唆を舐めてしまいましたが、OZAWAへの期待が益々盛り上がってしまう週刊プロレスは絶賛発売中!!では、旗揚げ記念日に行ってまいります!
今日は週刊プロレスの発売日。今週の表紙は先日亡くなった西村修。ご冥福をお祈りします。そして、今週の1枚はノアの征矢。故人西村ムーブ。にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村プロレスランキング
お釈迦さまの教えに「無我」というものがある。無我、つまり我がない状態。私がない、自分が居ない。でも、私はここ居る。手も足もある。調べてみた。お釈迦さまのおっしゃるには、私たちが認識している自分とは、固定的な実体があるのではなく、身体や心、感情、思考など様々な要素の集合体で、そして、その要素は、常に変化していて、いつも同じ状態ではない。それを無我と言うらしい。もっと簡単に言うと、身体は、食べたもの、吸い込んだものでできていて、その細胞は、常に生まれ変わっている。例えば、毎朝コーヒーを
同級生はやいね!はやすぎる…癌だとわかっていたけどそれでもはやいよ!まだやる事あるだろうけど…あとの事は残った者に任せて彼方でも思う侭に…生きてください!“無我”西村修※画像は、お借りしました※いさなみすやおさんじゃなくくんで贈るよ!僅かな交流だったけど君は僕等の誇りなんだよねNoWar!!