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2024/1/21(日)第三日曜日は、月例の京都府舞鶴市大丹生コミュニティセンター屋内ゲートボール場でのラジコンカー走行会に行ってきました。やっぱり、実際に操縦して自分の理想のようにラップできるのは嬉しいものです。また、大丹生コミュニティセンターの方と、GWと9月第二日曜の「まいづる陸海空ラジコン体験会」について相談することができ、2月中旬には発表できると思います。素敵なゲストも来鶴していただける見込みです。帰りに海上保安学校などのビデオを撮影中にブタのヌイグルミが流れ着いているのを発見し、拾っ
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紫野瀨﨑家の先祖は?今回は、藤原鎌足です。藤原鎌足/中臣鎌足(ふじわらのかまたり/なかとみのかまたり)は、飛鳥時代の貴族・政治家で、中臣御食子の子です。母は大伴智仙娘。日本の歴史における最大氏族「藤原氏」の始祖です。大化の改新の中心人物で、改新後、中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍し、藤原氏繁栄の礎を築きました。『藤氏家伝』には「偉雅、風姿特秀」と記録されています。字は仲郎。当家のご先祖様に、あの有名な「藤原氏」の始祖である「藤原鎌足」がおられるとは、なんと誇ら
紫野瀨﨑家の先祖は?今回は、藤原不比等です。藤原不比等(ふじわらのふひと)は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿・政治家で諡号は文忠公、国公は淡海公です。持統天皇に仕え、大宝律令や日本書紀の編纂に関わり、元明天皇の擁立に貢献しました。藤原鎌足の次男です、『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』では、天智天皇の落胤とされています。名を史(ふひと)と記す文献もあります。官位は正二位、右大臣、贈正一位、太政大臣でした。当家のご先祖様もついに正二位まで上りつめます。図
紫野瀨﨑家の先祖は?今回は北野瀨﨑家の墓所をご紹介します。御当主様の長兄が初代の北野瀨﨑家の墓所に、御嫡男様が墓参に行って来られました。昨年末に御先祖様の件が色々明らかになった事を報告された様です。立本寺075-461-6516https://maps.app.goo.gl/r4Y4BJLkWoRBtNBf9?g_st=icその足で御正室様の養祖母様一族の墓所にも立ち寄られた様です。御会式桜がもう咲いていたそうです。妙蓮寺https://maps.app.goo.gl/Z2cQ
紫野瀨﨑家の先祖は?今回は、藤原房前です。藤原房前(ふじわらのふささき)は、飛鳥時代から奈良時代前期にかけての貴族です。藤原不比等を父とする藤原四兄弟の次男で藤原北家の祖となりました。官位は正三位・参議、後に贈正一位・太政大臣となりました。当家のご先祖は遡ればのぼるほど、官職が上がっていきます。図引用:藤原房前【今上天皇の直系祖先】出典:藤原房前、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』藤原北家・京家官人の考察(古代史研究叢書)[木本好信]
紫野瀨﨑家の先祖は?今回は、藤原魚名です。藤原魚名(ふじわらのうおな)は、奈良時代の公卿です。藤原北家に属し参議でした。藤原房前の五男です。官位は正二位・左大臣です。図引用:藤原魚名【今上天皇の直系祖先】出典:藤原魚名、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』【ふるさと納税】【天才アートKYOTO】オリジナルクリアファイル・Aセット楽天市場9,000円【ふるさと納税】【コーリン】コーリンベルトデラックス・こしひもセット(Mサイズ)(ベルト
紫野瀨﨑家の先祖は?今回は、藤原藤成です。藤原藤成(ふじわらのふじなり)は、平安時代初期の貴族です。藤原北家、左大臣・藤原魚名の五男で秀郷流藤原氏の祖です。官位は従四位下・伊勢守でした。弘仁2年(811年)播磨介に任ぜられ、弘仁4年(813年)移配させた夷俘に対する教化や、夷俘からの要請に対応するための専当官を兼ねました。その後、播磨守・伊勢守と嵯峨朝においては主に地方官を務めました。この間、弘仁6年(815年)正五位下、弘仁8年(817年)従四位下と昇進しました。弘仁13年(8
紫野瀨﨑家の先祖は?今回は、藤原豊沢です。藤原豊沢(ふじわらのとよさわ)は、平安時代初期から前期にかけての貴族で、『尊卑分脈』などの系図では藤原北家、伊勢守・藤原藤成の子とされています。秀郷流藤原氏の祖にあたります。官位は従四位上・陸奥守でした。下野少掾に任ぜられて押領使となり、その職務は代々太田氏や小山氏に至る子孫にまで受け継がれました。承和7年(840年)従五位下、天安2年(858年)従四位上へと昇進し、仁和3年(887年)8月16日に亡くなりました。豊沢様は政権中央での権
紫野瀨﨑家の先祖は?今回は、藤原村雄です。藤原村雄(ふじわらのむらお)は、平安時代前期から中期の貴族です。藤原北家、藤原豊沢の子にあたります。藤原秀郷の父で、官位は従四位下・河内守・下野守でした。父である豊沢から職務を受け継ぎ下野大掾に任ぜられ、その流れは子孫の太田氏や小山氏に至るまで続きました。仁和3年(887年)従五位下、延喜11年(911年)従四位下へと昇進し、承平2年(932年)7月15日に亡くなります。村雄様は下級役人である史生の鳥取氏でなく、自らと同じ国司の掾であ
紫野瀨﨑家の先祖は?今回は、藤原秀郷です。藤原秀郷(ふじわらのひでさと)は、平安時代中期の貴族、豪族、武将です。下野大掾・藤原村雄の子で、別名俵(田原)藤太です。室町時代に「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山の百足退治の伝説で有名です。もとは下野掾でしたが、平将門追討の功により従四位下に昇り、下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大しました。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出し、近代に正二位を追贈されました。当家のご先祖が源平に並ぶ武家の棟梁だったとは、
紫野瀨﨑家の先祖は?今回は、藤原千常です。藤原千常(ふじわらのちつね/ちづね)は、平安時代中期の貴族・武将で、名は知常とも記されます。藤原北家魚名流、藤原秀郷の子です。官位は従五位下・鎮守府将軍でした。その経歴は下記の通りです。安和元年(968年)12月信濃国が千常の反乱を朝廷に奏上安和2年(969年)安和の変が発生し兄・千晴が配流、秀郷流の嫡子的地位となる。安和3年(970年)正月鎮守府将軍に任官天元2年(979年)5月前武蔵介であった千常が源肥
紫野瀨﨑家の先祖は?今回は、藤原文脩です。藤原文脩(ふじわらのふみなが)は、平安時代中期の軍事貴族で名は文條(文条)、文修とも伝わります。鎮守府将軍・藤原千常の子で、藤原秀郷の孫にあたります。佐藤氏・小山氏・足利氏を始めとする秀郷流藤原氏の祖系に属する人物の一人です。藤原文脩は下野国押領使・内舎人を経た後、摂政藤原兼家60歳の賀料として皇太后宮詮子に任料を納めた結果、永延2年(988年)10月3日の臨時除目で鎮守府将軍に補任されました。この時に従五位下に任官しています。このことから
紫野瀨﨑家の先祖は?今回は、藤原文行です。藤原文行(ふじわらのふみゆき、生没年不詳)は平安時代中期の貴族で、藤原北家秀郷流、鎮守府将軍・藤原文脩の子です。官位は従五位下・左衛門尉でした。『御堂関白記』[要文献特定詳細情報]によれば寛弘3年(1006年)6月16日に藤原正輔と争ったために検非違使に追われ、藤原道長を訪ねています。22日に罪名が奏上されたとされ、他に検非違使、下野守[1]を歴任しました。図引用:藤原文行【今上天皇の直系祖先】[1]出典:系図纂要出典:藤原文
紫野瀨﨑家の先祖は?今回は、近藤能成です。大友能直の父である近藤能成については詳細が不明です。近藤氏は、武家家伝_近藤氏によると、”藤原秀郷の後裔脩行が近江掾となり、やがて土着した。そして、官名の「近」と藤原の「藤」とを結び付けて近藤太と称したのが近藤氏の始まりである。藤原氏で左兵衛尉でったところから佐藤氏を生じたのと同じ型である。”とあります。つまり、当家の先祖は、藤原秀郷の流れをくむということになります。また、”国平の流れの近藤氏は、国平の子国重が承久の乱以後甲斐の万沢にいたって閑居し、
紫野瀨﨑家の先祖は?今回は大友能直公です。大友能直(おおともよしなお)は、鎌倉時代初期の武将・御家人で近藤氏の出身で、大友氏の初代当主です。父は近藤能成(近藤太能成)、母は波多野経家の三女・利根局です。養父は中原親能です。相模国愛甲郡古庄郷司であった近藤(古庄)能成の子として生まれ、当初は古庄能直と名のり、次いで父と同じく近藤能直と名乗りました。その後、母の生家の波多野経家(大友四郎経家)の領地の相模国足柄上郡大友郷を継承してからは大友能直と名乗ります。また、父・能成が早世したため、中原
大友親秀(おおともちかひで)は、鎌倉時代前期の武士・御家人で大友氏2代当主です。鎌倉幕府に御家人として仕え、源氏将軍が絶えた後は摂家将軍藤原頼経に仕えました。嘉禎4年(1238年)には頼経の上洛に随行しました。大友氏の基盤を固めるため、弟の詫摩能秀と共に協力して国政を行い、嘉禎2年(1236年)には家督を子の頼泰に譲って隠居し、次代を磐石にするなどして大友氏の基礎を固めました。宝治2年(1248年)10月24日、54歳で死去しました。大友氏系戸次氏の祖である戸次重秀の父である大友親秀は、我
現在までの調査で、当家の先祖は臼杵氏の傍流もしくは家臣であったと推定しました。すると大友氏二代親秀二男重秀が戸次姓を名乗ることになるので、我家は彼の子孫であるといえます。戸次氏は数ある大友庶家のなかの名族で戸次重秀は検非違使をつとめ、左衛門少尉に任ぜられ、大分郡戸次荘市村に居住していたので、戸次氏を称するようになったのです。平安末期以来、戸次荘には豊後大神系の戸次氏がいましたが、戸次惟澄の代に子がなく、大友能直にその所領を譲ったようです。一方、別説によれば惟澄は重秀を養子として、所領を譲ったとも
鎌倉時代、臼杵惟直(直氏)に男子が無く、すでに近隣の有力豪族であった大友氏の一族になっていたかつての臼杵氏庶家・戸次氏から、戸次貞直の子の直時を婿養子に迎えました。これにより臼杵氏嫡流は大神姓から大友系へと変わり、大友氏に従属する立場となりました。【受注生産】幻の焼き物臼杵焼コーヒーマグカップ1個直径9cm×高さ8cm幅(取手含)約13cm容量約300ccマグカップ食器生活雑貨キッチン手作り食洗器電子レンジ対応石仏観光センター【送料無料】楽天市場7,280円
臼杵氏は元は大神姓でしたが、後に大友氏から養子を送り込まれて大友一門となりました。臼杵長景は臼杵氏出身者としては初の加判衆を務め、大友義長・義鑑の代に重臣として活躍し、永正13年(1516年)の朽網親満の反乱や、大永7年(1527年)の佐伯惟治の反乱鎮圧に功を挙げましたが、佐伯氏との戦いの後に病気で急死してしまいます。これは滅ぼした佐伯惟治の怨霊のためであるという伝承もあります。翌大永8年(1528年)までは加判衆としての活動が見られ、その頃までは存命していたと推測されています。【中古】福
主君の大友吉統が文禄の役での失態で改易となり、浪人となった紫野瀨﨑家の先祖は仕官先を求め、放浪生活を送っていたことでしょう。そんな折、慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが勃発しました。広島の毛利輝元の所に身を寄せていた旧主君、大友吉統一が西軍の将として豊後に上陸しました。彼には豊後一国の恩賞が約束されていたとか。早速、旧主の元に駆けつけた、紫野瀨﨑家の先祖は、吉統と共に国東半島の諸城を攻略しました。そうして、石垣原で東軍の黒田・細川連合軍と相対します。引用:大友義統、Wikipedia
今回は熊本藩細川家に仕えた瀨﨑家についてご紹介します。文化10年(1813)の「細川家侍帳イロハ順」(『肥後読史総覧』、鶴屋百貨店松本雅明監修、鶴屋百貨店1983年)に見える藩士の氏名一覧、その原典には家禄、役職、家紋、知行地などが記されています。その中に「瀬崎二郎四郎」の名があります。また、「細川家家臣略系譜」には以下の記述があります。瀬崎猪一郎(南東24-19)1、猪右衛門(1)供之者・御扈従与也百五十石(於豊前小倉御侍帳)
今回は臼杵氏の滅亡についてご紹介します。1574年(天正2年)の書状から見えるように、この頃から鑑速の嫡男・臼杵統景が父の名代としての活動を開始して将来を嘱望された。しかし1578年(天正6年)の耳川の戦いに出陣した統景は島津軍に敗れて討死した。統景の討死により、その従兄弟の臼杵鎮尚が家督を継いだ。鎮尚は侵攻する島津氏に抵抗して臼杵城の攻防戦にも参加している。また同じく統景・鎮尚の従兄弟の臼杵鎮定は、宗麟死後大友義統に仕えて、文禄・慶長の役にも出陣したが、義統がこの戦役の最中に改易されると
紫野瀨﨑家の先祖考察、今回は臼杵鑑速(うすきあきすみ)についてです。臼杵鑑速(うすきあきすみ/あきはや)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大友氏の家臣。生涯臼杵氏は豊後国大友氏の庶流戸次氏の流れを汲み、大友氏の一族に当たる。初めは大友義鑑に仕え、元服の際には兄の鑑栄、鑑続同様、義鑑から偏諱(「鑑」の字)を賜った上、父・長景からも一字をもらい鑑景(あきかげ)と名乗る。後に鑑速に改名した。義鑑亡き後はその子・義鎮(宗麟)に仕え、次兄の鑑続と共に外交面で大いに活躍した。義
大友氏(おおともし)は、鎌倉時代初期に相模国大友郷に興りました。鎌倉時代に豊後国大野荘の地頭職や豊後守護に補任され、南北朝時代・室町時代には、豊後国、豊前国、筑後国を支配する有力守護大名となり、戦国時代には戦国大名化しました。大友義鎮(宗麟)の代に肥前・肥後・筑前も支配して最盛期を迎えましたが、1587年の豊臣秀吉の九州平定後に所領は豊後一国に削減され、さらに朝鮮出兵の際の大友義統の不手際のために秀吉の怒りに触れ1593年に除封されました。江戸時代には高家としてわずかに家名を残し、維新後士族に列
紫野瀨﨑家には、先祖は福岡藩士であったという家伝があります。そこで先日、現当主代行の4代前「文藏」を共通の先祖とする「折尾正賢寺瀨﨑家」の現当主に、先祖についての言い伝えを確認してみました。結果、叔母様より「大分藩士」であったと伝わるとのことでした。「大分藩」という藩は存在しません。幕末時点で豊後(現大分県)には、中津、杵築、日出、府内、臼杵、佐伯、岡、森の八藩が分立していて、「大分藩」は存在しません。はたして、叔母様の仰る「大分藩」とはどこの藩のことだったのでしょうか?もう一家、先祖について
紫野瀨﨑家には家伝として、先祖は福岡藩黒田家の家老付であったと伝わります。と、言いましても文献や系図が残っているわけでもありません、ただそのように口伝されているだけです。約30年前、現当主代行が若かりし頃、菩提寺と伝わる福岡市中央区の勝立寺の和尚様を訪ねた際、「瀨﨑家と言えば、戦前は博多では名が通った家で、回船問屋のような商いを行っていた」と教えていただきました。その後、なんらかの理由で、博多を離れて京都の紫野にて新たに生活を始めたようです。そこで、明治初期に福岡藩に「瀬崎」を名乗る藩士は
下関から角島のお土産をゲットしに向かいます。下関駅6:41発→滝部駅7:53着(山陰本線滝部行き)運賃770円滝部駅からはバスで角島に向かいます。滝部駅8:00発→瀬崎公園8:36着(ブルーライン交通角島・尾山憩の家行き)運賃600円乗客は3名でした。バス停からクエスト解放してお土産をゲットできました。地図ではこのあたりです。(青○印)瀬崎陽の公園から角島大橋の景色。瀬崎陽の公園せっかくなので橋を渡りながら景色を堪能して、その
(木積神社)◆丹後の原像【43.「丹後史料叢書」~「丹後風土記殘缺」6】今月初旬に丹後を巡拝したので、しばらく間を空けました。ただ何となく…。暴風雨が吹き荒れるなか、旅行の成果は思うように上がらなかったものの、念願の「雲岩」を拝したり…「立岩」の再拝…冨持神社、六神社、三坂神社墳墓群など…限られた中で最大限の成果は出したつもり。また来春ということですね~その時は数をこなさねば!質より量!質は後から付いてくる~!さて…本題。前回の記事より各郡の史跡等の紹介が始まってい