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〇2021年7月16日、下甑島、片野浦で釣りをした。今回の甑島周遊の旅は、7月13日から16日まで、4泊5日だった。そのうち、里に二泊し、手打に二泊した。その間、中甑と瀬々野浦、片野浦の三か所で竿を出した。いずれも2時間から3時間ほどの、あっけない釣りだった。〇それでも、甑島で釣りができたことは大きい。もっとも、ほとんど、時間がなくて、満足に釣りをしていないことも、事実である。所期の目的が甑島の各集落を歩くことにあったのだから、致し方無いことである。まあ、竿が出せただけでも良しとすべきであろう
〇今回の旅行は、薩摩川内市観光物産協会・こしきじま事業部・下甑島支店が企画立案したもので、何とも丁寧な旅行を立案していただいて、感謝申し上げるしかない。中でも、特に重宝したのが、「甑島地区日常マップ」である。〇「甑島地区日常マップ」は2021年3月に発行されたとある。したがって、できたばかりのものを送っていただいたことになる。発行者は甑島ツーリズム推進協議会とある。〇当古代文化研究所の、今回2021年7月の旅行目的は、甑島の各集落を散策することにあった。すでに、2020年11月、12月、20
○上甑島には、里、中甑、中野、江石、平良、小島、瀬上、桑之浦の八つの集落がある。2021年7月13日14日と、その上甑島の八つの集落を全て歩いて来た。今回の旅行の主目的は甑島の各集落を歩いて回ることであった。○したがって、7月15日16日が下甑島を歩く予定だった。最初に藺牟田の集落へ行き、鹿島村離島住民生活センターや甑ミュージアム恐竜化石等準備室、徳船寺などを見学した。鹿島の鳥ノ巣山展望所では鹿の子百合の大群落を見ることもできた。また中山近くの断崖で、ニシノハマカンゾウの群落も見た。○旧鹿島
○前々回、ブログ『薩隅日地理纂考:甑島総説』を案内し、前回は『薩隅日地理纂考:上甑島』と続けた。引き続き、今回は、『薩隅日地理纂考:下甑島』になる。、「薩隅日地理纂考」同様、「薩隅日地理纂考」の甑島の記述は、極めて少ない。下甑島上甑島を南に距る事僅に一里、周回拾五里。村落六。(手打村、青瀬村、長濱村、藺牟田村、片浦村、瀬々之浦村)。二千六十六石六斗七升二合。人員戸數上甑島の絛に合記す。○人員戸數については、甑島総説で、次のように記録している。鹿児島より西海
〇ここまで、「三國名勝図会」の話を、ブログ『三國名勝図会:総説』、『三國名勝図会:上甑村里』、『三國名勝図会:上甑村』、『三國名勝図会:甑島大明神』、『三國名勝図会:下甑村手打』と続けている。今回は『三國名勝図会:下甑村瀬々浦』となる。○寛政七年(1795年)に白尾國柱によって書かれた「麑藩名勝考」でもそうだったが、下甑村で最も多く記録されているのは、何故か、瀬々野浦である。「麑藩名勝考」が記録するのは、地頭衛の存在する手打にしたところで、下甑項目の中の、割註でしかない。○それに対して、瀬々
○甑島の有人集落には、全て訪れていると言いたいところだが、唯一、未見なのが、下甑町内川内集落である。前回、・2020年11月4日に、県道350号線の長浜と瀬々野浦の間に、瀬々野浦まで4㎞、長浜まで8㎞のところに、分岐があって、竪石遊歩道まで3㎞、松島展望所まで4㎞の案内板が設置してあった。せっかくなので、左折して、竪石遊歩道や松島展望所を経由して長浜まで下りようと考えた。と書いたが、この道路が自衛隊道路と呼ばれるものであるらしい。○ウイキペディアフリー百科事典には、下甑町内
○2020年11月4日に、県道350号線の長浜と瀬々野浦の間に、瀬々野浦まで4㎞、長浜まで8㎞のところに、分岐があって、竪石遊歩道まで3㎞、松島展望所まで4㎞の案内板が設置してあった。せっかくなので、左折して、竪石遊歩道や松島展望所を経由して長浜まで下りようと考えた。○道は立派なのに、誰も何も通らない。静かな山道をひたすら走った。最初に出て来たのが竪石遊歩道入り口である。ここまで来たのだから、ちょっと立ち寄ってみようと、軽い気持ちで、車を道路脇に停めて、竪石遊歩道を下って行った。○ところが、
○瀬々野浦と言えば、奇岩で知られる。その最たるものがナポレオン岩であることは言うまでも無い。ナポレオン岩については、前に次のブログを書いている。・テーマ「甑島周遊」:ブログ『ナポレオン岩』ナポレオン岩|古代文化研究所(ameblo.jp)○前回は、「下甑村郷土誌」が『伝説の石』として載せる竪石を案内した。・テーマ「甑島周遊」:ブログ『竪石』竪石|古代文化研究所(ameblo.jp)○今回は、瀬々野浦の奇岩として、『ローソク岩・鷹の巣』を紹介してみたい。イン
○「下甑村郷土誌」P361に、『伝説の石』として、竪石を載せている。竪石(タテイシ)瀬々野浦字木床一五五四番地に立っている巨大な石(花崗岩)である。石の高さ四・五メートルで周囲七・五メートル自然石の墓標のようである。「建てた石」「自然に立っていた石」といろいろ取り沙汰されているが、建て石と言われる理由は、写真のように、切り石のような板石の中央に、体裁よく直立安定していること、そしてこの巨大な石が、底部は細くなっているのに何処で安定しているのか神秘
○「下甑村郷土誌」に、瀬々野浦字大内浦に『矢房大明神』が鎮座ましますとの記事が見える。大内浦は瀬々野浦の北に位置するところで、集落は無い。『矢房大明神』そのものが気になっているので、一応、ここに取り上げておきたい。○最初に、「下甑村郷土誌」の『矢房大明神』項目から見ておきたい。矢房大明神瀬々野浦字大内浦にあり。三國名勝図会「神社合記」には、矢房大明神祠として「下甑村瀬々野浦にあり。神体霊石四を安置す。神功皇后三韓征伐の時、内浦に軍船を泊繋し給いし故勧請せしとい
○2020年11月12月、2021年2月と、3回続けて甑島を訪れた。2020年8月29日に甑大橋が開通し、上甑島・中甑島・下甑島が初めて一つになった。以前から気になっていた甑島を理解するには格好の機会であると判断したからである。甑島はなかなか面白い島である。○下甑島の、瀬々野浦に大帯姫神社が存在し、神功皇后を祀っているのが気になった。あらためて、ウイキペディアフリー百科事典が案内する神功皇后を確認しておきたい。神功皇后神功皇后(じんぐうこうごう、成務天皇40年-神功皇后69
○大帯姫神社が神功皇后を祀る神社であることは言うまでも無い。ウイキペディアフリー百科事典が案内する神功皇后は、次の通り。神功皇后神功皇后(じんぐうこうごう、成務天皇40年-神功皇后69年4月17日)は、日本の第14代天皇・仲哀天皇の皇后。『日本書紀』での名は気長足姫尊で仲哀天皇崩御から応神天皇即位まで初めての摂政として約70年間君臨したとされる(在位:神功皇后元年10月2日-神功皇后69年4月17日)。・気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)-『日本書紀』、和
○助八古道については、すでに、ブログ『助八峠』を書いている。・テーマ「甑島周遊」:ブログ『助八峠』助八峠|古代文化研究所(ameblo.jp)○ただ、助八古道はなかなか面白いので、もう少し、此処で補足説明しておきたい。現在、甑島では、「助八古道を育む会」が『助八古道を歩こうかい!』を毎年開催し、助八古道を、下甑島横断ライトトレッキング「助八古道を歩こうかい!」として復活させている。○そのキャッチコピーが何ともユニークで面白い。郵便屋さんも、お魚屋さんもお医者さんも
○甑島、下甑島の瀬々野浦に存在する小学校は、瀬々野浦小学校ではなくて、西山小学校と言う。それは瀬々野浦自体が西山と呼ばれる地区だからである。こういう認識の仕方は非常に大事であって、そこからいろんなものが見えて来る。つまり、瀬々野浦は青瀬と関係の深いところであったことが判る。○それを証明するものが助八古道になる。片道6㎞、標高差350mの山道を人々は歩いて往来していた。それも昔々の話では無い。つい50年ほど前まで、そうだった。それが助八古道になる。○薩摩川内市下甑町瀬々野浦は、現在でこそ、人口
○何処でも陽は昇るし、陽は沈む。しかし、取り分け、朝日や夕陽がきれいな場所が存在することも確かである。そういう意味では、島は朝日や夕陽がきれいな場所が多い気がする。それは島には朝日や夕陽を遮るものが存在しないからかも知れない。○2020年11月と12月、それに2021年2月と、三回甑島を訪問した。人は甑島の夕陽を喧伝するけれども、どちらかと言うと、私が気になったのは、日の出の方である。すでに、甑島の日の出について、・テーマ「甑島周遊」:ブログ『甑島の日の出』甑島の日の出|古代文
○前の平展望所は、下甑町瀬々野浦にある展望台である。長浜と瀬々野浦とを結ぶ道路脇に存在する。峠から瀬々野浦へ下りる途中である。瀬々野浦集落を一望のもとに見ることができる。ナポレオン岩もここからはきれいに見ることができる。そういう意味では瀬々野浦の観光スポットともなっている。○前の平展望所に、ナポレオン岩の形をした案内板が設置してあって、それには、次のようにあった。前の平展望所沖瀬(ナポレオン岩)………瀬々野浦の海上に切り立つ、高さ127メートルの奇岩。
○おそらく甑島で最も予約の難しい宿が民宿浦島ではないか。2020年11月に甑島を訪問した際にも、民宿浦島の予約を中心に旅行を計画した。私のようにすでにリタイアしている者なら、時間も自由だが、勤めたりしている人には、そういう時間的自由は無い。○民宿浦島へ出掛けてみると判るのだが、まず、宿の主人とおかみさんが親切である。料理も格段に美味しい。目の前がもう浜辺で、宿からナポレオン岩が見えている。それでいて、料金は安くて、一泊二食で7400円。つまり、申し分ない宿が民宿浦島なのである。○そんな民宿浦
○2020年11月3日に、片野浦から瀬々野浦へ行った。瀬々野浦と言えばナポレオン岩だろう。と言うか、甑島を代表する風景として、よく登場するのがナポレオン岩である。ナポレオンとは何の関係も無いが、見ると、やはりナポレオンに似ていると思える。だから、ナポレオン岩なのだろうが。○インターネットで検索したら、ウイキペディアフリー百科事典にも、ちゃんとナポレオン岩の項目が存在した。ナポレオン岩ナポレオン岩(ナポレオンいわ)あるいは沖瀬(ちゅうせ)は、甑島列島にある無人島。行政区域上は薩摩
○2020年11月3日に、片野浦から瀬々野浦へ行った。直接行ける林道が存在するのだが、台風で不通になったままだった。それで大きく迂回して助八峠経由で行くことができた。後で知ったことだが、これが助八古道だったところになる。○甑島の陸上交通事情は、つい最近まで、極めて悪かった。車の走る大きな道路が現在のようになって、まだ50年くらいしか経たないのだと言う。道は出来たが、それを管理するのも大変である。12月に甑島を再訪した際、串木野の待合所でいただいた『甑島「通行止」のご案内』を見ると、特に下甑島の
○地図を見ると、下甑町片野浦から瀬々野浦へ直接通じる林道があった。その道は片野浦の岡地区で分岐している。瀬々野浦へ行くのに、その道を利用しようとして、岡地区で左折して、その林道を向かった。○ところが、岡地区を抜けるところにある公園前に立て看板が設置してあって、この林道は現在通行止めになっているとあった。それで止む無く引き返して、手打の方へ向かっていった。○しばらく行った先で、道は分かれていて、右は手打方面、左は下甑の尾根筋を走る林道となっている。瀬々野浦へ行くのなら、断然、尾根筋の林道の方が
○明治22年(1889年)に下甑村が発足した時に、手打村、片野浦村、瀬々野浦村、青瀬村、長浜村、藺牟田村の六村が合併して下甑村となった。その一つが片野浦村である。○ウイキペディアフリー百科事典が案内する下甑町片野浦は、次の通り。下甑町片野浦下甑町片野浦(しもこしきちょうかたのうら)は、鹿児島県薩摩川内市の大字。旧薩摩国甑島郡甑島郷片之浦村、甑島郡下甑村大字片野浦、薩摩郡下甑村大字片野浦。郵便番号は896-1602。人口は141人、世帯数は86世帯(2015年10月1日現在)。
前回の続きです。写真を追加し、一部改訂しました。よろしければ、東シナ海に浮かぶ島②も参照ください。下甑島郷土館を後にし、次に向かったのは神功皇后と武内宿禰が訪れていた、瀬々野浦地区同地区内には、大帯姫神社が鎮座し応神天皇のパパは武内宿禰(あくまで役職名なので、本名は分からず...)であると、語り継がれているそうです。それなのに...何を勘違いしたのか?片野浦に行ってしまったのです...散々、事前に調べたのに...(^o^;)道中で、この看
○令和2年(2020年)8月29日に、甑大橋が開通し、上甑島・中甑島・下甑島の三島が初めて繋がった。そういうニュースをテレビで見た。これは是非とも出掛けなくてはならない。そう思った。○甑島は、以前から気になっていた島である。上甑島に甑大明神が斎き祀られていて、それが甑島の地名由来となっている。その割には、甑大明神は甑島の中心では無い。そういう疑問が以前からあった。○甑島は釣り人垂涎の島である。南九州の釣り人であれば、誰もが憧れ、一回は出掛けてみたい島である。釣り人の端くれである私も40代に、