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2026年6月の城郭カレンダーに選んだのは、ちょっと変化球ですが、こんな写真です。群馬県の岩櫃城(岩櫃山)の南麓にある古谷館(潜龍院)です。岩櫃城の一部と言ってもよいように思いますが、岩櫃城の中心部からは相当離れた場所にあります。今に残る石垣は寺院のもののようですが、この場所に真田昌幸が武田勝頼を迎え入れるための館を造営したと伝わります。新府城を離れた武田勝頼は真田昌幸ではなくより近場の小山田信茂を頼って郡内へと歩を進めましたが、小山田は勝頼を迎え入れることをせず、行き場を失った勝
岩櫃城が謎多き巨城であるという話は、前回の岩櫃城の項で記載した通りですが、岩櫃城の城域南端に接している(というより城域南端に含まれている?)のが古谷館です。古谷御殿とも言われるこの館は、天正10(1582)年にいよいよ武田家が滅びようとしていたその時、真田昌幸が武田勝頼を迎え入れるために突貫工事で築いた館と伝わります。「3日でこしらえた」との話もあるようですが、仮に3日が本当なのであればここには前身となるお寺なり何なりの建物があって、それを勝頼用の御殿とした、ということなのでしょう。考
9月群馬旅の記事はこちら9月14日(日曜日)13:20息子と食事後に分かれて岩櫃城へ2年前に来た時は主要曲輪を周ったが、山の反対方向(南西)にある潜龍院跡は行かなかった。今回はその潜龍院曲輪跡を周るつもり14:20前回来た時、観光案内所で教えてもらった岩櫃山の撮影スポットに立ち寄る。ちょうど高速道路の出口が出来たようで車通りも多
古谷館(潜龍院)を後にして、真田道を郷原方面に下ります。振り返って、坂の上が古谷地区。沢で隔てられた古谷地区と郷原地区の境。真田道の左側は小高い山、右手は自然な土塁状の畑地。当時の真田道はもっとずっと細かったはずです。攻め上られても左右から投石・弓・鉄砲。下図黄色矢印。加えて郷原城は敵の背後から攻めかかれる。実際には真田氏時代の岩櫃城は攻められた事は無いのですが、こんな妄想が頭の中を巡りながらのサイクリング。すっかり気分は草刈正雄です。エッ、真田昌幸じゃなく?ハ
岩櫃城の本丸は橙色○あたりですが、古谷館(潜龍院)や支城の柳沢城・郷原城までを含む広大な城域が岩櫃城になります。自転車を押しながら古谷館に向います。当時は人一人が通れる道幅だったでしょうが、軽トラが通れる幅に広がった山道を登ると、結構な広さのある平地。真田昌幸の時代、この平地に古谷館と家臣の屋敷が建っていたと思われます。古谷館(潜龍院)跡の石垣。古谷館時代(戦国時代)のものか潜龍院時代(江戸時代)か、いずれのものか分かりませんが。解説板では三日間で作ったという伝
小学校時代を思い出しながら当時の道草路を自転車を押しながら登り、密岩神社と岩櫃山。子供の頃は岩櫃山のごく麓に、掛け造りの神社としてありました。5月5日だったかお祭りには袴に肩衣の人たちが、お囃子を吹いていたような。その神社の老朽化と落石もあり、かなり前から立ち入り禁止になっていました。10年くらい前に現在地に遷宮しました。古谷館(潜龍院)は春~秋にかけて、岩櫃山登山者・岩櫃城見学者で結構な賑わいを見せますが、のめしこきは岩櫃城も古谷館(潜龍院)も1~3月に出かけます。
24年の父娘旅は次女の番。二人で真田めぐりの旅に出ています。岩櫃城をあとにしたのが、12時20分頃。グーグルで検索して、近くでランチのお店はないかと探してやってきたのが手打ちラーメンと焼肉のお店。が、まさかの大行列で、全然入れる気がしません。ちょっと待ったのですが、ちょうど、お客さんが入れ替わったばかりで、皆これから注文という感じだったので、あきらめて、またグーグルのお世話になり、別のお店に行くも、なんとお盆で休業でした...。焼肉屋とお休みだった店の間に見つけた蕎麦屋に行
去年4月、群馬県東吾妻町の岩櫃城のあと、真田昌幸が武田勝頼を迎えるために作ったとされる潜龍院を訪れました今回はその奥にある郷原城です郷原城は、もともと岩櫃城の出城として築城されたとも、天正十年(1582年)真田昌幸が武田勝頼を迎えるために、御殿である潜龍院と共に築城したともされています岩櫃山南側の麓にある潜龍院跡から、東側に登ります余湖くんのホームページよりさすが異様な岩山の岩櫃山、ところどころに巨岩があります山城の雰囲気がプンプンしてきます郷原城へ到着郷原城の縄張り図周りは
皆さま、あけましておめでとうございます、今年もよろしくお願いします。自分もですが、今日から仕事初めという方は多いと思います休みボケでなまり切ってますが、今年初のブログいきます去年最後の記事は、去年4月に訪れた群馬県東吾妻町の岩櫃城(いわびつ)でしたが、そのあと岩櫃山の反対側に回りました今回は番外編で、真田昌幸が武田勝頼を招き入れるために作ったとされる潜龍院跡です潜龍院は、織田信長と徳川家康による甲州討伐で追い込まれた主君の武田勝頼を迎え入れるため、真田昌幸が1582年に岩櫃山の麓に建
前回の続きです。武田家が織田。徳川連合軍と北条軍に攻められた時に、武田軍の軍議で、真田昌幸は勝頼に「我が岩櫃城にお越しください。岩櫃城は天然の要害で難攻不落です。籠城すれば1年や2年はびくともしません」と言ったので、そのように決まります。昌幸は急ぎ岩櫃城に戻り、勝頼を迎える館(潜龍院)を3日で造りました。潜龍院跡です。潜龍院跡の解説板です。岩櫃山南面の地に潜龍院があります。(上が北)しかし、古くからの重臣小山田氏からの進言で、向かったのは武
2021年11月6日前々より気になっていた岩櫃山行こう行こうと思っていた矢先2016年に大河ドラマ真田丸が放映されて静けさから遠ざかってしまった感が・・・静かな山を好む者としては暫くはお預けを決め込んでましたあれから5年の年月が経ちそろそろ熱りも冷めただろうと秋晴れの日の岩櫃山を訪れてみました国道145号線から郷原駅の路へ入ると早速、六文銭と岩櫃の文字をあしらった幟が目に飛び込んできたあらあら、まだ熱りは冷めないのかしら?そんな事を
川戸神社の次は、真田道を通て、小4まで過ごした懐かしい眺めを堪能しながらでも、寒い。郷原榛名神社。鳥居をくぐったら石段を登り、鳥居をくぐって石段が左に折れて、右に折れると到着です。岩櫃城・潜龍院(岩櫃城の館)・郷原城(支城)の近くなので、この曲がり方は榛名神社もその一環なのではないかと想像してしまいます。
のめしこきにも花を愛でる気持ちはあるんです・・・ほんのちょっとですけど。サルスベリとサルビア・・・多分。ハチス?・・・花芯が違うような気がする。ヒガンバナ?・・・まだ、お盆だけれど。この花も末尾に掲載した谺拓山さんのブログでナツズイセンという名だと知りました。何とか。食べられないものには興味が・・・。微妙にオシベがブレていますが、これは間違いない。キツネノカミソリ!だって、植物の師匠でブロ友さんの谺さんのブログにアップされたその日にサイク
岩櫃城の支城、郷原城を下ったところにある石垣。郷原城の石垣と思いたい真田のめしこき昌幸。郷原城のものか後世になって積まれたものか、地元の人に聞いても、「さぁ」でした。ただ「あっちに石碑があるよ」ということで・・・石垣の中央に郷原万年小学校跡の碑が建っていました。小学4年まで住んでいた家の300mくらい後方です。家の周辺の事は鮮明に覚えているのですが、全く記憶にありませんでした。郷原万年小学校はいつ頃の小学校なのか?のめしこきの母校、岩島第一小学校の沿革を調べると
(余湖くんのHPよりお借りしました)潜龍院を過ぎて、電チャリ・ジェッター君を担いで山道を下り上りすると郷原城に到着です。背後は1廓。2廓。3廓。いずれもかなり小規模のものです。きっと、小屋が1~2建って、柵が結われていた程度でしょう。周囲の木は刈り払われていたはずですから、下を通る真田道(橙色道)を監視したり、もし古谷口(黄色道)へ進軍されたら、側方から或いは後方から攻撃する目的もあったかも知れません。尻もちをつきながら、電チャリ・ジェッター君を担いでの下り道。斎藤
グーグルマップで緑・黄・紫のコースの付け根あたりの駐車場に駐輪をせずに、なぜ潜龍院まで電チャリ・ジェッター君を手押ししたのか?理由は潜龍院の先にある郷原城から、郷原駅方面へ白線のコースを通りたかったからです。郷原城まで行って潜龍院経由で駐輪場所まで戻るのは面倒くさいから・・・のめしこきです。潜龍院を過ぎるとすぐに、こんな道。ジェッター君を手押しするのに幅が足りません(のめしこきが幅を取っているのか?)。写真ではよくわかりませんが、起伏が結構激しいんです。ジェッター君を肩に担いで
前編からの続き〜(前編はこちらから)山頂から隣に見える岩でランチにしようと移動移動完了ここからも、山頂が良く見えたよお昼〜食べ終わった頃には山頂は静かになっていたわそして、食後のコーヒーと途中で買った酒粕入りチーズタルトそして、13時20分過ぎに〜沢通りを下って行ったよこの岩と岩の間が登山道振り返って六合目の櫃の口天狗の蹴り上げ岩「天狗の蹴上岩は6合目「櫃の口」にある岩塔。大きな細長い岩塔が2つ天を衝くように聳える。その間に一つの巨石が何かの奇跡のように挟まっていて、神秘
1618年の一国一城令によって、岩櫃城は廃城。古谷館も館としての役割を終えました。その後は潜龍院と名を変えて、修験寺として存続しました。岩櫃山周辺は滝あり、険しい山道ありで、山岳修行には好適地であったと思われます。当時の潜龍院は1682年の火災で消失しました。その後再建され、明治になり修験寺廃止令で廃されました。取り壊された潜龍院の護摩堂は、真言宗御室派密教山顕徳寺(東吾妻町原町)の本堂として移築されました。その後、本堂は再建されたようでそうですが、軒の垂木の小口飾りに
潜龍院跡です。長篠の戦い敗れて7年後、相次ぐ家臣の寝返りで求心力を失った武田勝頼は織田軍の侵攻に耐え切れず、完成間近の新府城に火を放ち逃れます。その時、小山田信茂の岩殿城か真田昌幸の岩櫃城か迷った末に岩殿城に逃れようとするのですが・・・。その時、勝頼を迎え入れるために急ぎ作ったのが潜龍院です。潜龍院とは岩櫃城廃城後の名前で、当時は古谷館(多分、「お館」)と呼ばれていました。岩櫃山のふもとの、古谷(コヤ)集落の中では一番の高台にありますが、木々は刈り払われていたはずですから
武田勝頼を迎えるはずだった潜龍院。長篠の戦いで織田信長に敗れて後、家臣の寝返りなどで求心力を失った武田勝頼は織田軍の侵攻に耐え切れず、新府城から逃れます。その時、小山田信茂の岩殿城か真田昌幸の岩櫃城か、迷った末に岩殿城を選択するのですが、勝頼を迎え入れるために急ぎ作ったのが潜龍院です。潜龍院とは岩櫃城廃城後の名前で、当時は古谷館(多分、「お館」)と呼ばれていました。勝頼は小山田信茂の離反にあい天目山で家族もろとも果てます。その潜龍院に向かう道です。電チャリ・ジェッタ
江戸時代は寺請制度があったので、ほぼ仏教墓です。諏訪大社上社の筆頭神官である大祝・諏訪氏の墓も例外ではありませんでした。(安永9年、1780年)下が土に隠れて見えず、○○院殿の下に続くのが大居士か大姉かわかりませんが、仏教墓です。ただし、興味深いのが下の墓標です。文化十四年〇丑年(1817年。〇は判読不能文字)神長官守矢氏神朝臣實綿霊神之墓八月十四日卒大祝・諏訪氏を補佐する神長官・守屋氏は神道墓で、江戸時代以前の神道墓はこれ以外にもあるのでしょうが、にわか
密岩神社里宮参拝の後は、奥宮を参拝したくなりました。ただ、密岩神社奥宮は今は落石の危険があり、崩壊も進んで立ち入り禁止ですが、(「等高線の狭間から」さんのHPよりお借りしました)奥宮を眺められる所まで行けないものかと、麓の家で聞いてみました。郷原の出身で、半世紀前密岩さん(子どもの頃そういっていました)に行った記憶があり、今どうなっているのか見てみたい云々の話をしている中で、古谷(コヤ)地区にいた同級生のヨシオちゃん・タモッちゃんは健在であることを知りました。そして、ご
これは新しい密岩神社。平成23年に里宮として、ご神体を遷座しました。この神社は50年前は岩櫃山の岩壁にへばりつくように建っていました。清水寺の舞台のような柱が組まれたその上に、社殿がありました。行ったことはありませんが、国宝・三佛寺投入堂のような感じです。子どもの頃、密岩さんのお祭りで岩にへばりついて拝殿まで行くのはちょっとした冒険でした。(「等高線の狭間から」さんのHPよりお借りしました)今は落石の危険があり、崩壊も進んで立ち入り禁止です。密岩神社(里宮)から見る岩
岩櫃城に西側から攻め上るのは容易ではありません。上田は真田の本拠地ですし、長野原から岩櫃城まですべて真田領です。真田昌幸時代、渋川周辺(白井城)・月夜野周辺(名胡桃城)も真田氏の領地です。高崎周辺(箕輪城)は織田氏から本能寺の変後北条氏の領地となります。名胡桃城に隣接する沼田周辺は北条氏か真田氏の領地か不安定です。岩櫃城の支城手子丸城は北条氏の手に落ちたことがあります。岩櫃城が攻められるとすると、高崎方面から或いは沼田方面から可能性が高そうです。高崎方面からなら
頭にちょんまげを乗せた真田のめしこき昌幸は、岩櫃城の一部である潜龍院(古谷館)に向かいます。旗には真田氏の旗印六文銭と「武田勝頼を迎えようとした潜龍院」と入っています。白馬にまたがり、グーグルマップで黄色の真田道で潜龍院のある古谷(コヤ)地区に登っていきます。この沢が辻地区と古谷(コヤ)地区の境です。真田の時代には手前の沢はすぐに外せる橋が架かっていたと思われます。橋の下には深く削れた沢が流れています。古谷地区には潜龍院があり、岩櫃城の裏門に当たりますから、防御は厳重だっ
※1真田道・・・真田氏時代の群馬県吾妻郡は真田道が大通り。真田昌幸が治めた上田から沼田までを結ぶ道をそう呼んでいます。現在の国道145号と必ずしも一致していません。※2潜龍院・・・織田信長に攻められて新府城から逃れる武田勝頼に、真田昌幸は岩櫃城へ迎え入れることを提案し、古谷館(潜龍院)を急遽作ったと伝えられています。勝頼は岩殿城の方を選びますが、小山田信茂に裏切られ天目山で自刃します。半世紀前よく遊んだ道。(Googleマップの橙色の道)この道が真田道(※)だった。上のグ
3月半ばの記事です。古老に内出城を教わって、すっかりちょんまげが頭に乗ってしまったのめしこき。4月1日オープンの八ッ場ダムへと、郷原までやってきました。(3月半ばですから、ウメが咲いています)八ッ場ダムへはいつもここから出かけますが、今回は・・・。今は無人駅になってしまいましたが、半世紀前は2~3人の駅員さんがいました。駅は変わってしまいましたが、他は半世紀前と変わらぬ景色。よく遊んだ道。繭の乾燥庫。半世紀前の昔を思い出せる場所が近くにあるのは幸せだと思い
東吾妻町原町方面からの岩櫃城登城記を載せてきましたが、東吾妻町郷原にも城はまたがっています。小字古谷(コヤ)になります。岩櫃城・潜龍院間は、車や自転車なら上記のコースになりますが、徒歩なら山道(下図の青い線)でつながってごく近い距離です。長篠の戦いで敗れた後、武田勝頼は織田信長らの防御のため新府城を作りますが、家臣の寝返りなどでまだ完成していない新府城から退却することになります。退却するにあたり、真田昌幸の推す潜龍院(当時は古谷館)に移るか、小山田信茂の居城である岩殿城に逃げるか迷
骨折中歴史ものの本を読んでいたら思い出したので、武田信玄から関ケ原の戦いを経て徳川家康の時代になる(途中変なのも混じりますが)までの愚考を再掲します。本日は岩櫃城潜龍院です。長篠の戦で織田信長・徳川家康の鉄砲隊に惨敗を喫してから7年後、武田勝頼は新府城から逃れるとき、一旦は真田昌幸の策を受け入れ岩櫃城の潜龍院に移ることを考えました。しかし、家臣の小山田信茂の居城である岩殿城に逃げようとし、小山田に裏切られて入城できず(小山田は寝返りが認められず甲斐善光寺にて処刑)、天目山で自刃
栃木市出張が早目に終わり、のめしこきはある目的がありました。昨年皆川城を見つけたのだけれど、登城できる恰好ではなかったのです。今回は着替えを用意しています。(余呉君のHPからお借りしました)皆川城は平山城に分類されます。こんな感じだったのでしょう。ほら貝のような形状なので法螺貝城とも呼ばれていたそうです。山城は、林に囲まれているところが多く(上杉謙信・景勝の春日山城)(立花宗重・丹羽長秀の赤館城)(村上義清・真田昌幸の砥石城)(武田勝頼を迎えるはずだっ