ブログ記事42件
今日は。17日・18日は「大学入学共通テスト」です。起きたJRでの大規模のダイヤ乱れが、この日ではなく16日だったのが幸いです。受験生、頑張ってください。ですが、天邪鬼の僕がお届けするのは、昨年他界して高石ともやの曲『受験生ブルース』です。〇受験生ブルース)昔からこの曲はボブ・ディランの歌がベースになっていると聞いていたのですが、なかなか元歌が見つけられませんでした。今回ウイキペディアで調べたら、真相がわかりました。この曲はもともと中川五郎がディランの「No
今日は。2026年も早くも第2週です。今年もどうぞ宜しくお願いいたします。今年はまず、昨年11月に公開されたこの曲から聞いて下さい。〇TheBeatles-RealLove(OfficialMusicVideo)[2025Mix]毎年の新年第一回は、僕らのブログの決まり事の、ビートルズ「ネタ」から始めていきたいと思います。<ザ・ビートルズと漣健児Part1>ビートルズネタですが、今回は、ビートルズと漣健児について書きたいと思います。僕は漣
今日は。10月12日は、僕の高校の教科書でしたら、コロンブスが「アメリカ大陸を発見した日」と記載されていたと思います。現在は、西コロンブスが「アメリカ大陸周辺の島であるサン・サルバドル島に到達した日」とされているようです。僕は昔から、それは西洋人が発見した事実で、昔からあった大陸なのですから、「発見」はおかしいと感じていたので、納得する記述だと思います。今回は、前回の「漣健児」2回目(リンク)の続きです。<漣健児3:作詞家列伝(日本)Part7:翻訳作詞家4>再び、「新し
今日は。10月に入りました。衣替えの時期ですが、冬物にするにはまだ抵抗があります。そんな中、消費者ニーズも変化があるようです。11月まで提供が終わらない冷やし中華、12月まで続くクリーニングの衣替え割引、そしてマンションの北向き部屋が人気急上昇――という記事がありました。〇冷やし中華は11月、衣替えは12月まで秋をあきらめて夏商戦延長冷やし中華は11月、衣替えは12月まで秋をあきらめて夏商戦延長-日本経済新聞11月まで終わらない冷やし中華、12月まで続くクリーニング
今日は。10月26日より、テレビ朝日にて三池崇史監督、佐藤大樹主演で、『仮面の忍者赤影』が放送されます。この横山光輝作品は、1966年45号から1967年48号まで「少年サンデー」に連載され、東映にて実写化され、人気を博しました。〇【仮面の忍者赤影】2025年10月26日(日)深夜0:10~スタート!詳しくは、下記のHPでご覧ください。〇仮面の忍者赤影https://www.tv-asahi.co.jp/akakage/三池監督は、昨年2024年に、A
岡田奈々–クリーム・ソーダ1974NavRecords–NF-6008LP,Album,StereoSIDEA1.らぶ・すてっぷ・じゃんぷ作詞:有馬三恵子/作曲:森田公一2.パステルカラーの思い出作詞:有馬三恵子/作曲:森田公一3.海のシンフォニー作詞:有馬三恵子/作曲:森田公一4.センチメンタル・シーズン作詞:有馬三恵子/作曲:萩田光雄5.そよ風と私作詞:藤公之介/作曲:森田公一/編曲:高田弘SIDEB1.レッツ・ポッ
毎週最新のビートルズ情報が嬉しいです上半期10でした👇AM1422kHzラジオ日本-THEBEATLES10マニアから初心者まで必聴のビートルズエンターテイメント!パーソナリティは謎の音楽家:カンケ。自称SIBF(生涯一ビートルズフリークの略)、大のビートルズマニアです。番組内には“ビートルズをしゃwww.jorf.co.jp金沢大学のオープンキャンパス北陸放送でONAIR中👇ビートルズ大学|誰でもオンライン聴講できる金沢大学オープンアカデミー国立
コニー・フランシスが亡くなった。87歳。いま思えばもの心ついて初めてコニー・フランシスやニール・セダカ、ポール・アンカらのアメリカンポップスを知ったのは1959年に始まったフジテレビの「ザ・ヒットパレード」だった。それは中尾ミエ、伊東ゆかり、ミッキー・カーチス、平尾昌晃らが日本語で歌うアメリカンポップスのカヴァーだった。それも当時は歌ってる彼らのオリジナル曲だと思って聴いていた。「可愛いベイビー」「ヴァケーション」「恋の片道切符」「カレンダー・ガール」などなど。当時フジテレビのディレクターで
ご訪問誠にありがとうございます。「楓坂四駒堂」耄碌妄想日記木曜版No.214でおます。当ブログは日・木曜日午前0時週2回更新です。♪僕の可愛いフィアンセの目をごまかしながら~コッソリ浮気するのにもいるのはタイミングOh,youneedtimin'A-ticka,ticka,ticka,goodtimin'A-tocka.tocka,tocka…この世で一番かんじんなのはステキなタイミング~※訳詞・漣健児「花王ハミン
ジーン・ピットニーの「ルイジアナ・ママ」(原題LouisianaMama)は1961年リリースジーン・ピットニーは1961年「恋なんておサラバ」でデビュー全米39位を記録「ルイジアナ・ママ」は2枚目のシングルだがアメリカでは、まったく売れなかったしかし、日本では1961年12月飯田久彦の日本語カバーが発売され40万枚を超える大ヒットになったその影響でオリジナルのジーン・ピットニー盤もヒットし
中尾ミエの「可愛いベイビー」は1962年5月リリース中尾ミエ(16才)のデビュー曲100万枚の大ヒットだったオリジナルはコニー・フランシスの「PrettyLittleBaby」(邦題可愛いベイビー)1961年リリース1962年3月中尾ミエより2ヶ月早くコニー自身が漣健児による日本語詞での「可愛いベビー」をリリースしているコニーの日本語盤も30万枚売り上げた英語詞で『イェイ・イェイ』と歌われていた部分を日本語詞
TVから流れたバンジョーが奏でる懐かしいメロディーに耳を奪われた!ヴィレッジ・ストンパーズの世界的ヒット曲「ワシントン広場の夜はふけて」(1963)だ。湖池屋ポテトチップスのCM曲に使われていた。調べたら2024年に始まったCMだそうだが、僕は最近何度か耳にして中学1年生の自分に戻った。急性腎炎で入院していた時ラジオから流れるこの哀愁を帯びたバンジョーのメロディーを何度も聴いた。1コーラスは落ち込んでた気分を助長しやがる!と思って聴いたが、転調して段々気分が上がってきて、行ったことのないワシン
PRINCESSPRINCESSが所属していた事務所シンコーミュージックの会長でもあり作詞家でもあった漣健児(本名:草野昌一)さんたしかプリプリの特番『プリンセスプリンセス大百科』でもコメント出演されていましたが2005年6月6日に74歳でご逝去されました。お亡くなりになる前の年に漣健児さんを慕っていた大物ミュージシャンが集まりTRIBUTEALBUMを発売。それがこちら。漣健児TRIBUTEALBUM『TogetherandForever』財津和
VACATION楽しいな!昨年(2023年)9月に当ブログでは詩人・森雪之丞について取り上げた。「今年も詩人を...」と思っていたさなか聞こえてきた楽曲があった。その楽曲の訳詞をした人を紹介する。↓↓昨年の記事↓↓『名曲を支えた詩人|森雪之丞』森雪之丞サブスクリプションで多くの曲が聴けるようになった現代、この歌詞は誰が書いているのかが、気になることもあるだろう。今回はそんな歌詞を書いてきた作詞…ameblo.jp幼いころに聴いたあの楽曲真っ赤なお鼻のトナカイさん
日本では“悲しき街角、花咲く街角、さらば街角、街角のプレイガール”などの一連の“街角ヒット曲”から“街角男”との異名を持つデル・シャノンその彼の64年・全米22位のヒット曲“ハンディ・マン”のB面にカップリングされたのが今回紹介する♪恋する街角でした彼の自作曲ですが出来はいまひとつでノン・ヒットでした話変わりますが漣健児氏による日本語の60'sポップスから洋楽を知った私にとって
1965年(昭和40年)3月5日に東芝音楽工業から発売された奥村チヨさんのデビューシングル「あなたがいなくても/私を愛して」のジャケット写真です。2004年に講談社文庫で発行された奥村チヨさんの著書「幸福の木の花」によるとデビュー曲がフランスの大スター、シルヴィ・バルタンの「私を愛して」のカバーという事もあり「和製シルヴィ・バルタン」のキャッチフレーズで売り出され衣装からメイク、髪型までシルヴィ・バルタンそっくりに外見を作っておられたそうです。
渚のうわさ弘田三枝子海外曲のカバーを何曲もヒットさせた弘田三枝子カバーポップスの女王とも云われていました。「渚のうわさ」は、オリジナル曲でヒット筒美京平の初期ヒット曲でもあります。歌はこちらでyoutu.be/-zlXEsRb2yA?si=hpfqTNoZV4A_m1wZ渚のうわさ昭和42年(1967年)♪あなたのいない渚はとっても淋しくてこらえきれずに涙がこぼれるあなたのいない渚で名前を呼んでみた誰れか教えてあなたのうわさ作詞・
=今日も懐メロ昭和歌謡=昭和43年弘田三枝子そよ風にのって今日は梅雨晴れの爽やかな日になりそう吹く風も心地よいフランスのマージョリー・ノエルの歌った「そよ風にのって」ノエル自身の日本語バージョンも大ヒットし、伊東ゆかりや弘田三枝子がカバーしました。走り去る町も村も森も森もそよ風にのってほほえむ訳詞は漣健児この当時のカバーポップスと云ったら、漣健児一体何曲あるのだろうか本業(?)は、『ミュージック・ライフ』初代編集長でした。
ジミー・ジョーンズ(JimmyJones/出生名:JamesJones/1930年6月2日~2012年8月2日)は、アメリカ合衆国のシンガーソングライター。1930年6月2日、ジェームズ・ジョーンズはアメリカ合衆国アラバマ州バーミンガムで生まれた。ジョーンズのエンターテイメント業界での最初の仕事はタップ・ダンサーだった。1954年、ドゥーワップ・グループ「ザ・ベルリナーズ」(theBerliners)に参加。後にグループ名を「スパークス・オブ・リズム」(
「海外のポップスを縦横無尽に日本語に置き換え、わが国におけるポップスの歴史と進歩に大きく貢献し、また本業でも、アーティストマネージメントや、音楽出版を手広くおこなっていたシンコーミュージックの会長(当時)でもあった、訳詞家・漣健児(さざなみけんじ)こと草野昌一に捧げられた、新旧シンコーミュージック所属アーティストによるオムニバスアルバム(2004年12月発売)。「悲しき片想い」(財津和夫)、「浮気なスー」(甲斐よしひろ)、「私のベイビー」(中山加奈子=プ
好きな歌の歌詞を他の言語で表現してみることに関心があります。海外旅行はおろか、英会話自体人生で全くしたことがないにもかかわらず。学術論文を読む機会が多い仕事についていたためでしょうか。このブログでも以前TheHoneycombs「ColourSlide」、TheBeachBoys「Sumahama」の和訳に取り組んでみました。他の言語に変換することにより、日本と海外の言葉に対するスタンスの違いに気づかされ、詞が持つ意味合いや解釈についてより深く思いを巡らせられます。今回
このテーマで7月2日にミーナの歌ったこの曲を紹介しましたが当時伊東ゆかりやザ・ピーナッツなど日本人歌手によるカバーも発売されましたそこで今回はリクエストを頂いた弘田三枝子(1964年12月発売)と伊東ゆかりそしてザ・ピーナッツそれぞれのカバーをアップしますので聴き比べながら楽しんでくださいなお詞はカバー・ポップスの日本語歌詞で知られた漣健児氏でした。
↑↑↑当時は、私、気がつかなかったのですが、ジャガーズって、いい歌が多いのね。歌もお上手で。ボーカルの岡本信は、お誕生日の前日に、お風呂の中でお亡くなりになっていたとか。私とお誕生日が一日違い。雨も必要でございますが、こんな降り方しなくてもいいと思いません?昨日までお休みだった皆様は、こういう月曜日の朝は、お嫌よね。う~ん、私、「どうする家康」が、だんだんつまらなくなっちゃった~~~。いつからって、アズキ惨状の回は、しらけました。古沢良太の脚本は好きなんだけれどね
ひとつ前の当ブログでは、漣健児さんの日本語詞をつけたカヴァー・ポップスを、リトル・ペギー・マーチさん、ナット・キング・コールさん、ニール・セダカさんなどオリジナルの歌手が歌うという「逆カヴァー」の例をあげました。この点でも、漣さんはパイオニアとなったわけです。その後、次々に来日記念で日本語ヴァージョンの曲をリリースしたり、日本公演で披露したりする外国人アーティストが増えてきました。70年代に入り、たしか、カーペンターズが『シング』の日本語ヴァージョンを来日公演で歌っていたと思います。カレン
ひとつ前の当ブログで、漣健児さんが洋楽に絶妙な訳詞をつけたことが、のちの日本の音楽界に多大な影響を与えたということを書きました。漣健児さんが牽引した「カヴァー・ポップス」から、しだいに日本オリジナルのポップスへ移行する時代に坂本九さん唄う『上を向いて歩こう』が登場しました。永六輔さん+中村八大さん+坂本九さんの六・八・九トリオのこの名曲が『スキヤキ』のタイトルでアメリカのビルボード誌のチャート1位に輝いたのは、1963年6月15日から29日の3週です。今年でちょうど60年になります。この19
このところの当ブログで、漣健児さんについて書いております。洋楽のメロディーには日本語はのりにくいと言われていたこともありますが、見事にピッタリの訳詞をあてたのは、本当に革命的なセンスだったと思います。のちのグループサウンズ、ポップス歌謡、さらにニューミュージックまで、漣さんが与えた影響は及んでいますね。一方、その「時代」というのも感じさせられるので、文化資料的にも貴重だと思います。漣さんの日本語詞は、もう独自の展開です。「ステキなタイミング」には、♪火の玉投手のドロップにバットをちょい
このところの当ブログで、漣健児(さざなみ・けんじ)さんのことを書いています。僕が持っている漣さんの書かれた訳詞を集めた2枚組CD『サザナミケンジコレクション』のディスク1の1曲目に坂本九さんの「ステキなタイミング」が入っています。漣さんの代表作といっていいでしょう。この曲の原曲がニッポン放送で日曜夜23時30分から放送されていた「吉田拓郎のラジオでナイト」でかかったことがありました。当ブログ1月15日~16日にたっぷり書きましたが、100回の放送をすべて聴くほど僕が愛聴していた番組で、1時
このところの当ブログで、漣健児(さざなみ・けんじ)さんのことを書いています。ビートルズの「抱きしめたい」にいち早く、日本語詞をつけて、「東京ビートルズ」と「スリー・ファンキーズ」が競作盤を出したことを取り上げました。当時は作詞、作曲家は専属制で、新参の東芝レコードには定評ある作詞、作曲家が使えなかったという事情もあったようです。各社の争奪戦の中で、漣健児さん(=草野昌一さん)が新興音楽出版社で「ミュージック・ライフ」の編集長だったので、いち早く海外からのテスト盤を聴かせてもらい、すぐに訳詞をし
ひとつ前の当ブログで、1964年1月ビートルズが「抱きしめたい」で全米チャートの1位をとってから3か月後にはもう「東京ビートルズ」というコピー・バンドで結成され、日本語詞をつけた「抱きしめたい」など4曲がレコードになっていたという話を書きました。漣健児さんが日本語詞をつけた「抱きしめたい」は、スリー・ファンキーズも唄っていました。こちらも1964年4月リリースですから、競作というわけです。高橋元太郎さんが脱退したあとで、当時は、長沢純さん、手塚しげおさん(「矢車剣之助」!)、高倉一志さん(のち
ひとつ前の当ブログで、カーナビーツがビートルズの「オブ・ラ・ディ、オブ・ラダ」の日本語ヴァージョンでカヴァーしていた話を書きました。この絶妙な日本語詞をつけたのが、漣健児(さざなみ・けんじ)さんです。ビートルズ後期(青盤時代ですね)の「オブ・ラ・ディ、オブ・ラダ」どころか、漣さんはビートルズが登場してすぐ、日本語詞をつけていました。ビートルズがアメリカのヒット・チャートに登場するのが1964年1月。ここから本格的に世界に知られるようになったわけですが、その1964年3月には「東京ビートルズ」が