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さて、建久九(一一九八)年二月二〇日に土御門天皇の即位の儀のために、父である後鳥羽上皇も、内裏の中に入れないにしても大内裏には行こうとしていたこと、そして、直前になって予定を白紙に戻したことは既に記したとおりである。まだ三歳である土御門天皇はさすがに自分がこれから何をするか深く理解できていなかったであろうが、それでも自分がこれから父の後を継ぐこと、そのための儀式が執り行われること、そしてその儀式が他ならぬ父によって直前に予定が乱れたことは理解できていたであろう。さて、先に、三月三日まで
忘れてはならないのは鎌倉幕府の存在である。源頼朝が遠く離れた相模国鎌倉にいながら、その距離を感じさせないレベルで京都内外の情報を収集していたことは後鳥羽上皇も知っている。そして、情報伝達経路というものは一方通行ではなく往復で利用可能である。つまり、源頼朝が鎌倉にいながら京都の情報を手に入れることができるということは、後鳥羽上皇にとっても京都にいながら鎌倉の情報を手に入れることが可能だということである。しかし、ここで一点の問題がある。鴨川東岸にある六波羅だ。かつて平家が根拠地として構え、源平合戦
それにしてもなぜ鳥羽か?過去三代の院政では鴨川の東に院政の根拠地を置くか、もしくは、平安京の真南にある鳥羽の地に身を寄せた。なぜ独自の根拠地を持たなければならないかというと、実は、上皇や法皇は内裏に入ることができないのである。平治の乱で藤原信頼によって後白河上皇が二条天皇とともに内裏に監禁されたことがあるが、これは例外中の例外で、天皇が内裏を離れて父や祖父や曾祖父のもとを、すなわち、上皇や法皇のもとに向かうことはできても、上皇や法皇が内裏にいる子や孫や曾孫のもとを、すなわち、天皇のもと
石清水八幡宮に到着した後、後鳥羽上皇がどのように過ごしたかの記録も残っている。すなわち、石清水八幡宮に参拝した後、巫女の里神楽を奉納し、大僧都弁暁が導師として経供養を行い、ついで浄衣で若宮に参ると、近習の人々や巫女三十人ほどが拝殿に集まり、乱舞に堪能の輩が白拍子を舞って、御幸の一日目が終わったというのがこのときの石清水八幡宮詣である。豪奢にして壮麗に感じるであろうし、緊縮財政論者が聞いたら卒倒する内容に感じられるであろうが、治天の君である上皇の参詣ならばこれぐらい当たり前である。ついでに言うと
日を改めるともっと困惑する記事が出てくる。建久九(一一九八)年二月一四日、後鳥羽上皇が石清水八幡宮へ御幸することとなった。これだけならば問題ない。上皇が石清水八幡宮へ参ること自体は珍しい話ではなく、後鳥羽上皇の行動は前例踏襲である。しかし、規模が前例のない壮麗さ、そして、スケジュールが綿密でないとなると、周囲の人はただただ振り回されることとなる。このときの石清水八幡宮への御幸について、後鳥羽上皇が綿密なスケジュールを立てずに行き当たりばったりで行動するつもりだとするのが当時の人の出発前
藤原定家が呈している苦言の全てを受け入れるわけにはいかないが、受け入れなければならない苦言もある。院政開始前から周囲に人を集めていたこともあって、一九歳にして治天の君となった瞬間に、後鳥羽上皇の周囲には後鳥羽上皇の意のままに動く人材が揃っていた。その多くは自らの不遇からの一発逆転を狙って院政に自らの未来を託した野心家である。その野心家の全てを後鳥羽上皇は周囲として迎え入れたのではない。後鳥羽上皇は自らの周囲に集った人材に競争させたのである。ここまではいい。問題はどのように競争す
もっとも、実際の後鳥羽上皇はそれなりに政務も執っていたはずであり、藤原定家がこうした後鳥羽天皇の日常の過ごし方について苦言を呈しつつ書き記しているのも、上皇としてのあるべき姿、すなわち、上皇としての政務を執っている姿は特筆すべきことではなかったからであろう。藤原定家の日記を紐解くと、建久九(一一九八)年二月三日に後鳥羽上皇が殷富門院のもとへ御幸したことの記録が出てくる。藤原定家はその御幸の様子があまりにも壮麗であり、卑近な言葉で言えばどんちゃん騒ぎを繰り返したことを非難している。また、後鳥
さて、ここまで後鳥羽上皇ではなく後鳥羽院と記してきたのには理由がある。実は、天皇を退位すると同時に上皇となるのではない。天皇退位の後に太上天皇の尊号が奉られてはじめて上皇となるのである。ゆえに、退位してから上皇となるまでの間は、後鳥羽院と記すことならばできても後鳥羽上皇とは記せないのである。また、どんなに用意周到な譲位ではあっても、退位と同時に上皇として院政を開始できるわけではない。このあたりは、衆議院の総選挙で次期首相が決まったとしても、正式に総理大臣に就任するのは国会での指名の後で
土御門天皇の治世が始まったことで新帝の外祖父となり、院政を始めた後鳥羽院の院司となった土御門通親こと源通親の権勢は頂点を極めるはずであった。しかし、後鳥羽院はまだ一九歳という若さながら既に老獪さの片鱗を披露するようになっていたのである。土御門通親の権勢の根幹は、天皇の外祖父であることと、後鳥羽院の院司別当、つまり、後鳥羽院に仕える貴族や役人達のトップであることの二点である。そして、この二点とも永続する要素ではない。どういうことか?替えが効くのだ。後鳥羽院にとっては自分の
「建仁寺」は、京都の桜スポットでもアクセスが良いのに花見客が少ない場所。そのため「桜の(私的)定点的観測スポット」にしています。建仁寺で無料拝観エリアに複数の染井吉野スポットがありますが、満開見ごろでした。◇建仁寺の紹介サイト◇建仁寺TheOldestZenTempleKenninji建仁寺は臨済宗建仁寺派の大本山で、建仁2年に開創しました。開山は栄西禅師、開基は源頼家です。坐禅体験、写経体験受け付けております。www.kenninji.jp<建仁寺の基本情報>
同日、後鳥羽天皇が退位して為仁親王に帝位を譲ったのである。土御門天皇の治世のスタートであり、後鳥羽院の院政のスタートの瞬間でもあった。土御門天皇はまだ三歳であるため、天皇としての政務を執ることは期待できず摂政が必要となる。土御門天皇の治世のスタートに合わせて関白近衛基通は関白を一旦辞任し、改めて土御門天皇の摂政に任命された。摂政にしろ、関白にしろ、自動的に就任できる役職ではなく天皇によってその都度任命される役職であるという建前は変わることない。そして注意すべきは、摂政近衛基通が土御門天
建久九(一一九八)年一月五日、権大納言土御門通親が後院別当に就任することが発表された。後院別当とは、字義だけを捉えれば天皇の退位後の住まいの管理人であるが、そのような字義で捉える者などいない。院政という概念が誕生した後の後院別当とは間もなく始まる院政のキーパーソンに任命されたことを意味する。土御門通親の後院別当就任により、間もなく後鳥羽天皇が退位すること、退位して後鳥羽院政が始まること、後鳥羽院政において土御門通親が重用されることが決まったのだ。そして、次期天皇が事実上公表された。建久
後鳥羽天皇の即位の状況はこの時代の人であれば誰もが知っている。ゆえに、帝位に就く資格を有しながら弟に追い抜かれた守貞親王と惟明親王のことは、この時代の人であれば誰もが知っている。これは平家物語の延慶本の伝えるところであるが、どうやら源頼朝は守貞親王を後鳥羽天皇の次の天皇と目論んでいたようなのである。ただし、源頼朝が守貞親王をわかりやすい形で推していたのではなく、文覚を通じて守貞親王の即位の後援をしていたというのが平家物語の記載だ。ただ、これは平家物語の過剰反応とも言える。守貞親王と文覚
建久八(一一九七)年の年末時点での鎌倉幕府の継承は理論上の話であったが、それよりはるかに大きな継承、すなわち、皇位継承は現実味を帯びてきていた。かなりの可能性で、後鳥羽天皇は退位して上皇となり、院政を敷くという未来が見えてきたのである。建久七年の政変時、後鳥羽院政は可能性の一つとして考えられはしたものの、現実味を帯びた話ではなかった。それが一年近くの時間経過で現実味を帯びるようになってきた。源頼朝は情報の重要性を強く認識していた人であるから例外に近いが、源頼家が従五位上右近衛権少将に任命さ
吾妻鏡の欠落のために、昔から議論の起こる話がある。源頼家はいつから源頼家と名乗るようになったのかという話である。源頼家の幼名が万寿であることは誰も異論がなく、元服時に源頼家と名乗るようになったことも意見の一致を見ている。問題は、どのタイミングで元服を迎えたのかという点だ?建久四(一一九三)年の巻狩のときか?建久六(一一九五)年の上洛のときか?吾妻鏡が源頼家を詳しく書き記している場面を読んでも、また、同時代史料における源頼家の扱いを見ても、建久六(一一九五)年の上洛までの
大姫を失った源頼朝は三幡を入内させようとしたものの入内させられずにおり、様々な手段を練って朝廷に食い込もうとしているものの上手くいかずにいる。これは源頼朝だけの話ではない。九条兼実への反発で集まった面々が、いざ九条兼実を関白から引きずり下ろすのに成功したあと、明瞭な権力の構築をできずにいる。誰もが自分の、あるいは自派の拡張を狙って他者を牽制しあう状況が前年一一月からずっと続いており、源頼朝が入り込む隙間などなかったのだ。何だかんだ言って九条兼実のもとに権力が集中していたのは、敵を多く生み出
しかし、建久八(一一九七)年九月一〇日、藤原範季の娘の藤原重子が後鳥羽天皇の皇子を産んだことで、藤原範季は土御門通親に続いて後鳥羽天皇の皇子の祖父となった。これで話はややこしくなった。藤原範季は藤原氏であるが藤原北家の人物ではなく藤原南家の人物である。もともとは後白河法皇に仕える蔵人であり、平治の乱の後は各地の国司を歴任する身になっていた。ここまではまだいい。この人のキャリアには三つ問題があった。一つは平治の乱の後で源範頼を引き取って養育するようになったこと。二つ目は安元元(一
上洛の際のゲートウェイ駅の一つ・京阪電車「祇園四条駅」よりさほど遠くない場所にある建仁寺。開山した栄西禅師が中国より「茶の湯(抹茶式茶道)」を持ち込んだといううことで、境内に「平成茶苑」というのがあります。今まで何度この前を通っているのですが、今回初めて一重紅枝垂桜があるのに気が付きました。そして幸運なことに満開でした。京都の社寺も、場所のよっては訪れる人を増やしたいなどの理由で、徐々に変化しているんですね。そして。今後も「季節の華(桜や紅葉など)」はこまめに確認することが必要そうです。◇
「建仁寺」は、京都の桜スポットでもアクセスが良いのに花見客が少ない場所。そのため「桜の(私的)定点的観測スポット」にしています。2024年の京都御苑周辺の一重枝垂桜の満開ピークは2024/3/29頃だったと思うので、建仁寺浴室前の一重枝垂桜の開花は少し遅めだったと考えられるので、訪れた時に満開見頃継続だったかもしれません。◇建仁寺の紹介サイト◇建仁寺TheOldestZenTempleKenninji建仁寺は臨済宗建仁寺派の大本山で、建仁2年に開創しました。開山は栄西禅師、開基は
この時代の貴族達は、源頼朝が大姫を亡くしても自分の娘の入内を諦めないでいること、また、源頼朝がこの時代の最大の武力を有していることも熟知しているが、源頼朝の武力を背景に源頼朝の要望に屈するようでは貴族ではない。貴族というものは、良く言えば百戦錬磨、普通に考えれば底意地が悪い存在である。源頼朝が自分の娘を入内させようとしている状況とは源頼朝にとって現在の立場が良好とは言えない状況であることを意味し、源頼朝の意向を後回しにして自分の娘を後鳥羽天皇のもとに入内させ、土御門通親と同様の立場、あるいは、
慈円は愚管抄にて、大姫を失った源頼朝が、大姫の妹である三幡を入内させようと画策したと記述した。しかし、吾妻鏡の欠落もあって、三幡という女性についての記録は乏しい。文治二(一一八六)年生まれではあることはわかっているものの、吾妻鏡の文治二(一一八六)年の記事のどこを探しても三幡という女性が登場することはない。また、北条政子の産んだ女児であることも判明しているのだが、この年に北条政子が妊娠していることの記録も出産したことの記録も存在しない。三幡の記録が登場しないのはその後も同じで、建久六(一一
大姫は治承二(一一七八)年に源頼朝の娘として生まれ、六歳のときに木曾義仲の後継者であるはずの源義高と婚約しており、このまま年月を重ねれば源義高との結婚生活が待っているはずであった。しかし、木曾義仲が討ち取られた後に源義高も誅殺されると、その瞬間に大姫の人生は終わってしまった。無理もない。現在の学齢でいくと小学二年生から三年生だ。その年齢の少女が、将来の結婚相手と考えていた源義高の死を知った、それも、他ならぬ父の命令で殺害されたのである。源義高の死を知った瞬間から大姫は病床に伏すようになり、
後鳥羽天皇のもとには人生一発逆転を狙う者が集まり、後鳥羽天皇は周囲に集う野心家達を自分の手駒として利用するようになっていた。後鳥羽天皇は自らの周囲に野心家を集めたが、野心があるだけでは後鳥羽天皇の側に身を寄せることはできない。それが趣味の世界であろうと、あるいは実務の世界であろうと、後鳥羽天皇の求める資質を持った人物でなければ後鳥羽天皇の周囲に身を寄せることは許されなかった。彼らの野心は彼らの全員が後鳥羽天皇の求めに応えていたならば歴史は大きく変わっていただろう。しかし、歴史はそれを許
源義経と行動を共にしようとした飛鳥井雅経であるが、父親が源義経の協力者であったために配流となり、自身も連座として鎌倉に護送されると、ここで飛鳥井雅経はその才能を発揮することとなる。この人は貴族としての教育を受けてきた人であり、また、貴族の嗜みとしての和歌と蹴鞠で才能を示す人であったのだ。元からして貴族趣味のある源頼朝にとって、京都の貴族社会の教育を受けている途中の若者が鎌倉にやってきたというのは貴重なことであった。特に、息子達を自身の後継者とするために貴族としての教育も施さねばならないと考えて
京都で九条兼実が失脚したことを鎌倉の源頼朝が掴んでいなかったわけはなく、何らかの形で京都のコンタクトを取る必要も感じていた。土御門通親や丹後局高階栄子とのコンタクトを続ける必要も忘れずにいたのは無論、九条兼実不在の朝廷の在り方として可能性の高い天皇親政、ないしは新たな院政に向けて動き出す必要も感じていた。それに、この時点でもまだ源頼朝は娘の入内を断念したわけではなかった。源頼朝は九条兼実を通じて京都に影響力を及ぼすことに成功していたが、九条兼実を少しずつ見限るようになり、建久六(一一九五)
失脚したはずの九条兼実の家司であるはずの三条長兼が、自由自在に内裏に出入りするようになっているのは、後鳥羽天皇が三条長兼を直接呼び出すようになったからである。三条長兼は唯一の例外なわけではなく、多くの中下級貴族が後鳥羽天皇に呼び出されるようになっている。この件について、三条長兼は面白い記録を残している。建久七年の政変を境にして、後鳥羽天皇のもとに情報が数多く集まるようになったというのだ。藤原摂関政治においては、摂政や関白である藤氏長者のもとに情報が集中するようになっていた。日記のタ
クーデターとしてもよい建久七年の政変を主導したのは土御門通親である。その後の政権運営を見ても土御門通親の意向が強く反映されていることが読み取れるというのが人口に膾炙されているところである。しかし、よく見ると、本当に土御門通親の意向なのかと疑念に感じる点も出てくる。公卿補任を見る限り、建久七年の政変に伴う人事と断言できるのは、関白が九条兼実から近衛基通に変わったことと、藤原兼房が太政大臣を辞職したため太政大臣が空席となったこと、そして、一条高能が新たに参議に任命されたことだけである。しか
祇園おかるさんでお腹も満たし温まる事が出来ましたおかるさんから徒歩すぐの建仁寺さんへやって来ました俵屋宗達筆風神雷神図屏風(複製)のお出迎えが嬉しいですね受付時に境内写真撮影はOKです記念撮影人物撮影はご遠慮下さいと人物以外写真撮影OKは有り難いです臨済宗建仁寺派の大本山。開山は栄西禅師。開基は源頼家。鎌倉時代の建仁二年(1202)の開創で、寺名は当時の年号から名づけられています。山号は東山(とうざん)。諸堂は中国の百丈山を模して建立されました。創建当時は天台・密教・禅の三宗兼学でし
現時点で土御門通親のもとに集っているのは九条兼実に対する反発である。ここで九条兼実がいなくなり、藤原兼房がいなくなり、さらに慈円も天台座主の地位から降りたために権力の中枢から九条家がいなくなる。つまり、九条兼実への反発だけを軸にして集まっている勢力から共通の敵を奪ったらどうなるか?集団が瓦解する。関白は近衛家が継承したものの、近衛家が九条家に変わって政権を握ることのできる可能性は低い。何しろ主導権は土御門通親こと源通親が握っているのだ。近衛家でないどころか藤原北家ですらない。さらに土御
それにしても、九条兼実はなぜ関白の地位を手放したのか?従来の説では、関白の地位を手放したのではなく失脚させられたということになっている。これも遠城悦子氏は別の視点から捉えている。中宮任子は後鳥羽天皇の子を産んだが女児であった。一方、土御門通親の養女である源在子が後鳥羽天皇の男児を産んだ。この点を遠城悦子氏は注目した。そもそも源在子は土御門通親の養女であったのかという疑問だ。源在子は藤原範子の娘であり、藤原範子の土御門通親の妻である。しかし、娘を産んだときの藤原範子は僧侶の能円の