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上野国一社八幡八幡宮(群馬県高崎市八幡町655)*通称「八幡(やわた)八幡宮」かつて八幡宮は一国一社の建立であったため「上野国一社八幡宮」と称した(主祭神)誉田別尊(ほんだわけのみこと/応神天皇)(社格等)旧郷社(沿革等)天徳元年(西暦957年)、源頼信(源満仲の三男で河内源氏の祖)が京都の石清水八幡宮を勧請して創建(社伝)。源頼義・義家・頼朝、新田氏、足利氏、武田氏が崇敬、徳川家から庇護を受けた江戸時代から神仏混合となり、その名
河内源氏の祖にして、摂関期の全盛期である藤原道長・頼通親子が権力者だった時期の武人でもある頼信の評伝です。祖父・経基や父・満仲、兄である頼光・頼親兄弟も含め、子孫の知名度に比べると頼信当人の知名度は低く、彼らが活躍する時代を扱った大河ドラマ『光る君へ』でも彼らの名前がクローズアップされることはありませんでした。(バイオレンス面はある程度登場するのですが、ラストシーンで頼信の出世のきっかけとなった平忠常の乱と思われる事件が起きていることが匂わせられる程度です)そうした事情もあり、本
2011年3月11日の東日本大震災から14年目になりましたあの日を境にして、多くの方々がそれまでの生活や考え方が大きく変わったのではないかと思います亡くなられた多くの方々のご冥福をお祈り申し上げますまた、傷ついた方々の心の傷が癒え、困難な状況が良いほうに転じることを祈ります私自身もあれから、それまでの生活と異なり、変わった人生を送ることになりました私は傷ついた被害者の方々と関わる仕事をしていましたが、労働環境が良くなかったため、慢性的な睡眠不足と過労で心身のバランス
#中野氷川神社#源頼信#須佐之男尊#稲田姫尊#大己貴尊#東中野東京都中野区東中野1-11-1中野氷川神社にお参りしてきました。御祭神/須佐之男尊、稲田姫尊、大己貴尊御利益/縁結び、安全祈願、戦勝祈願御由緒/旧中野村の総鎮守社。長元三年(1030年)、後一条天皇の御宇(ぎょう)、源頼信公が平忠常征討の際、武蔵国一宮大宮氷川神社より勧請。お問い合わせ/03-3361-2465参考ページ/http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/nakano/20
おはようございますお姉ちゃんお誕生日おめでとう元気でいてくれることに感謝ですお参りドライブに行こうね昨日1/1(水)はウォーキングを兼ねて初詣へ32.485歩23.9km稼げましたお参りで応援したいので多田神社へ我らが源氏って勝手に思い込んでいるの祖廟がある場所です4、5回目のお参りですが初めて本殿奥の満仲さまと頼光さまのご廟にお参りできました特に鬼門を守っている杉さま木の方ですに固い守りをお願いしてきました本殿では20分程行列してからお参りいつものように遥拝ではなく、ちゃんと並んで
大河ドラマ「光る君へ」のラストシーン。伊藤健太郎さん演じる「双寿丸」という武者と、その従者たちが、馬に乗り、旅をしている主人公「まひろ」と遭遇する。そして、双寿丸は、まひろに「東国で戦が始まった。自分は、朝廷軍として、東国に行く」と告げて、その場を去って行く。まひろは、それを見送りながら「嵐が来るわ」とつぶやき、ドラマは、終わりを迎えた。まるで、あの映画「ターミネーター」を思わせるラストシーン。公家による支配が終わり、武家が世の中を支配する戦乱の世が近づいていることを思わせる演出で
山代温泉の専光寺で、コンテンポラリーダンスの上演があるというので…行ってみました。入場料はなんと500円。高校生以下無料。夫と息子と3人で行ってきました。←夫と息子は全く興味ないのでしぶしぶついてきたお寺でコンテンポラリーダンスなんて…初めてです。一体どんな公演なんだろう。これは文化庁も後援しているプロジェクトのようで、コンテンポラリーダンスの新進振付家育成事業の一環として、石川県ではここ山代温泉がピックアップされ。若き振付家たちが8月にここ山代温泉に滞在し振付のワークショップを受け、そこか
高崎に戻り、JRで群馬八幡駅へ。そこには、河内源氏ゆかりの八幡様が鎮座しています。<旅の行程>1日目:富岡→下仁田2日目:富岡→山名→高崎3日目:妙義山→桐生駅から住宅街を抜けて15分程、街道に出ます。その先に現れる小高い丘と門と社殿。この風景が堪らなく好き。◆上野国一社八幡宮◆*読みは"コウズケノクイッシャハチマングウ"コンクリートの建物が無かった時代、見晴らしの良い平野の先の丘に鎮座したお社が道中の目印にもなっていたのだろうと想像してみたり。
銀行に行ったついでに新千円札に両替してもらってきました。肖像画の北里柴三郎は熊本県小国町北里出身の世界的細菌学者です。私も小国町で10年暮らした人間ですので野口英世と比べると知名度が低いのがはがゆいところです。ウィキペディアで調べれば家系は肥後細川藩惣庄屋の分家で柴三郎の家も坂下御殿と呼ばれる庄屋の生まれと言うことは分かります。同級生に惣庄屋のK君と庶家のМ君がいた関係で北里氏の系譜を調べたことがありますので柴三郎誕生までの系譜を書きたいと思います。長くなりますので細かい
1027年(万寿4年)12月4日、摂関政治の最盛期を築いた藤原道長が死去。同日、道長を支えてきた藤原行成も死去。政権が不安定となる中、安房国で反乱を起こしたのが平忠常。忠常は1028年(長元元年)6月、安房国府を襲撃。反乱は、下総国・上総国にも広がり、平将門の反乱以来の大規模なものとなりました(平忠常の乱)。乱を鎮圧したのは、河内源氏の祖・源頼信。頼信が東国支配の礎を築いたことで、武士が本格的に表舞台に登場することとなります。源氏三代の墓(羽曳野市)河内源氏は河内国の壺井(現在
おはよ〜(*´∀`*)ノ"♡神奈川県川崎市にある、源頼義公ゆかり「白幡八幡大神」の御朱印。書置きに宮司さんが日付を入れてくださいました。強そうな御朱印です。では、(*^-^*)ノ~~マタネー
おはよ〜(*´∀`*)ノ"♡神奈川県川崎市にある、源頼義公ゆかり「白幡八幡大神」に行ってきました。源頼義公は河内源氏の祖、源頼信公の子供で、八幡太郎義家公のお父さんです。参道階段途中に手水舎拝殿源氏は京都から関東や東北にまで戦に来て大変ですよね。お疲れ様でした。では、(*^-^*)ノ~~マタネー
上野国(こうずけのくに)八幡荘(やわたのしょう)市民活動センター(ソシアス)からの地域ガイド要請により、その準備のため、ここ上野国(こうずけのくに)と、私の地元の八幡荘(やわたのしょう)について、年代順に記述していってみよう第35回源頼信が上野介に上野介とは?国司の中には、任じられても任国に下らない国司(遙任の国司)もいた。その場合は国司の代官である目代が下国し、国衙に勤務する役人(在庁官人)を指揮して国務を行った。このような国衙を留守所という。建久元(1190)年12月に
いま大河ドラマで「光る君へ」をやっていますが、光が当たる上級貴族がメインですが、そういう人たちばかりでなく光の当たらない人もいたわけです。源頼光などがそうみたいで、摂関家へ奉仕していくことで出世していったようです。984年頼光は生まれる。清和天皇の系統であり、清和源氏といわれる。摂政の兼家に馬を30頭送ったというのも有名みたい。道長にも接近して献身的に奉仕する。1016年都の火災のときに道長の家も燃えてしまい、再建された邸宅に豪華な調度品を送る。藤原摂関家
何回も書きますが持つべきものは友と推し武将いつもご覧くださる皆様、本当にありがとうございます。心から感謝致します。皆様にとって良い事がたくさんありますように!半月以上前に一の谷の古戦場へ行き、その後、仕事関係で次から次へと予想外のことが押し寄せていたため、全く忘れてはいませんが、自分の研究内容について意識が離れていました。仕事関係も広い意味では自分の本来の専門分野につながるはずなのですが、そちらに行こうとする
命懸けでやれば何も怖いものはない、という。いまの世でいえば、命懸けといっても、戦争は別として多くの場合は、生死が五分五分のところで、そういう言葉を吐いてはいまい。しかし、いにしえ、命懸けとはほんとうに生死を賭けていた。なぜそんなに自分の命を軽く扱うのか、というほどに命をかけている。大河ドラマ『光る君へ』第10回「月夜の陰謀」では、花山天皇が藤原兼家の罠によって出家されられ、皇位をおわれる〈寛和の変〉が描かれていた。兼家の陰謀では、次男の道兼が、花山天皇を連れ出して寺にゆき出家させる〝実
兼家をこのままにしておけるか。絶対にそうはさせぬ。兼通は、このまま死ぬわけにはいかなかったのだろう。かつぎ起こせ!と、さけんだ。公卿らがただただうろたえていると、車の支度をさせよ!と命じ、衰弱しきったからだをかつぎ起こさせ、装束をつけ内裏へと向かったのである。兼家参内の目的はなにか。兄の死は、おのれの栄達。◉兼家の権勢欲、兼通の近親憎悪この一幕は、後世の私たちに「歴史とはこうだ」と見せるために演じた名ドラマのようである。海音寺潮五郎の『悪人列伝』の一節を借りよう。
11月14日、とりあえずメトロで和光市駅へここで、「埼玉県民の日フリー乗車券」に乗換自動券売機では購入することできないそうで券売機前でオタオタする人が私含め数名ほど東上線に揺られて東松山駅にやってきた下車するの実は初めて駅前から歩くこと数分一の鳥居脇、「縣社箭弓稲荷神社」の社号標参道の先には、二の鳥居がその前に、ちょいと右脇の境内社、宇迦之魂社へまた穴宮稲荷と称する他、七代目市川団十郎が特に信仰し文政4年(1821年)に石造りの神祠を建立したことから
現在再開発の麻布台ヒルズ2023年11月23日オープンだそうでヒルズに隣接している神社、社号標は「八幡神社」西久保八幡神社の一の鳥居麻布台に上がる石段(男坂)を上がる息も上がる高層ビルを背にした、二の鳥居と社殿が見えてきた手水舎西久保八幡神社は、港区虎ノ門にある八幡神社源頼信(多田満仲の四男)の祈願により寛弘年間(1004年-1012年)に霞ヶ関に創建され太田道灌の江戸城築城に際して現在地へ遷座崇源院(徳川秀忠室・お江)が関ヶ原の戦での戦勝と安全を祈願し
目次基本情報御由緒御朱印境内案内参拝を終えて地図基本情報神社名:旗岡八幡神社御祭神:誉田別命・比売大神・息長帯比売命社格等:郷社鎮座地:東京都品川区旗の台3-6-12最寄駅:荏原町駅駐車場:なし御朱印受付時間:9時00分~17時00分公式サイト:https://hatagaokahachiman-jinja.jp/御由緒当神社は、長元元年上総・下総で起った平忠常の乱を治めるべく、同三年(1030年)に朝命を奉じた甲斐守源頼信公が同地へ赴く際、一族郎党と
23.06/01thu.09:23-12:20能勢電鉄平野駅から国道を北へ平野交差点を過ぎて右に塩川、三ツ矢橋を渡り北三ツ矢サイダー発祥の地から道なり東へ能勢電鉄踏切を渡って登山口始まりの急な登りを過ぎ尾根道「ナタガ尾」をなだらかに上るやがて、登り口から南東眺望の良い岩場に立ち寄って水分補給、展望を楽しむ概ね東に、緩やかに上り少し左にピーク、三等三角点舎羅林山木の間に展望ピークを過ぎて右折分岐に注意しながら、概ね南に楽しみにしていた、石仏地蔵菩薩に出会えず
22.11/27sun.13:52-16:45近鉄上ノ太子駅から北口を右踏切渡らず線路沿いに南阪奈道路高架下、踏切を渡って右側に住宅、線路沿いを行くと太平塚古墳、開口部は下に下りて円墳直径30m築造7世紀末(古墳時代末期)?土砂流入で、開口部は狭い線路沿いを東へ踏切を渡って細道から南河内グリーンロードトンネルに左折観光農園販売所を過ぎ信号機の辻を右折飛鳥新池の堤へ左折フェンスの囲みへ急階段を上る観音塚古墳規模約12m円墳か、方墳築造7世紀末(古
今日はすこぶる調子が悪い。頭痛とお腹の調子が連結しているため、たとえ頭痛止めを使っても、お腹の調子は戻らぬまま・・・源頼信生年月日968年12月21日(月)日干支戊申同じ日干支の人物(ブログに掲載済みの人物)・レンブラント・ファン・レイン1606年7月15日
名古屋のシンゾウです本日から、《何処の神社でしょうか》の再登場です。やはり、このコーナーが無いと物足りません。1日の掲載問題も80問になりました。少し大変かもしれませんが頑張って行きましょう。必ず結果が付いてくる筈です。問題数が増えることにより、過去掲載分と重複した問題も多くなりましたが、重複することをシビアにはとらえていませんので、復習だと思ってください。合格するには根気よく繰り返す、これしかありません。頑張りましょう。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆本日の問題(51
22.03/22tue.14:55-17:25近鉄上ノ太子駅から北へ道なりに右にカーブ四つ辻、ワイン工場を左折広域農道を渡って、まもなく左に見える観音塚古墳円墳or方墳一辺12m程横口式石槨に前室、羨道を持つ築造飛鳥時代(ほぼ7世紀)1981年に国史跡に指定されている代表的な横口式石槨の古墳精巧に加工した切石で構成された前室、羨道は必見戻って、往路に見えていた、飛鳥戸神社往路との二又分岐を右に地元に愛され、御輿を担いだ祭りに出会ったことも…以前の手狭な印
多田神社兵庫県川西市多田院多田所町清和源氏は、清和天皇の第六皇子・貞純親王の子である六孫王が源姓を与えられ、源経基になって始まります。経基の長男が源満仲です。満仲は、摂津国北部(川西市及び周辺)を開発し、多田荘(荘園)を立荘します。出家して、邸宅に多田院(寺)を建立しました。阪急宝塚線川西能勢口駅で、能勢電鉄に乗り換え、多田駅で下車し、徒歩20分くらいでした。猪名川の河岸段丘にあり、荘園を支配するに適した場所だと思いました。多田院が神仏分離令で、寺院から多田神社になり、現在に至
今日は弟の日。酒呑童子や土蜘蛛を退治したとされる源頼光もやばいですが、捕らえた鬼童丸を厠に閉じ込めておいた頼信もかなりやばいと思います。▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう空想妖怪解剖図[天野行雄]楽天市場1,540円日本物怪観光のmyPick楽天市場空想妖怪解剖図【電子書籍】[天野行雄]1,386円楽天市場隅田川の妖怪教室(世の中への扉)[隅田川妖怪絵巻PROJECT]1,540円楽天市場隅田川の妖怪教室【電子書籍】[隅
名古屋のシンゾウです毎日、少しでもと京都と触れ合うことにしています。その手段の一つがブログです。しかし、どこまで頑張っても到達感が丸でありません。ネット、本、TV....知らないことばかりです。でも、この何処まで行っても到達感がない、その奥深さこそが、私を惹きつけるのでしょう。今更ながら感じ入っている昨今です。本日は、早めにブログをアップして、「税金の申告書」を書かねばなりません。貧しい家計(少額年金生活者)なのに「税金の申告書」、おかしな気がします。高齢で「税金の申告書」が書けなくなったら
小四郎よ、これからワシの言うことをよく聞け。話は我が家系のことだ。北条時政は、長男の宗時が石橋山の敗戦のあと、伊豆平井郷で敵の手にかかって死んだと知らされて、義時と二人だけになったとき、そう言った。ワシが石橋山の戦いのとき、敵味方の前の舌戦したのを覚えていよう。時政は、石橋山の戦いの冒頭、敵味方を前にしてこう言った。わが御大将は清和天皇の後裔である八幡太郎義家殿の4代の後胤、先の右兵衛権佐である頼朝殿である。亡き義家殿が奥州の安倍宗任、貞任を攻めて以来、東国の武士は代々源氏の家人であ
旗岡八幡神社・・・品川区旗の台にある神社。長元3年(1030年)、源頼信が下総の平忠常の乱を平定すべく赴く際、この地に宿営した折、霊威を感得し、八幡大神を奉じ、戦勝祈願したのが発祥らしいです。鎌倉中期に、この地の豪族・荏原義宗が社殿の造営し、この地の鎮守としたそうです。江戸時代には源氏ゆかりの神社として、2代将軍・徳川秀忠が祈願所としたり、5代将軍の綱吉が太刀を奉納したりしてます。前回、旗の台駅の前身である東洗足駅と旗ヶ岡駅の跡地を巡りましたが・・・その後、旗岡八幡神社へ