ブログ記事221件
昨日(4/12)、中日新聞の朝刊を見て、上地八幡宮のウコン桜を見に行ってしまいました。ウコン桜は薄黄緑色の花が咲く種類の桜です。この神社、以前も書きましたが、源範頼の創建です。昨年の大河ドラマ、「鎌倉殿の13人」で、迫田孝也さんが演じる源範頼が平家追討の際に、ここへ立ち寄ったことがきっかけで、この地にこの八幡宮を建てることになりました。境内にあるウコン桜という種類の左近の桜。黄緑色の花びらを咲かせるということで、有名な桜です。「美人桜」と
去年10月、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にまつわる地として、鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟・源範頼(のりより)の館跡とされる埼玉県吉見町へ行って来ました源範頼は、父・義朝が平治の乱で敗死したあと、現在も安楽寺(吉見観音)のある岩殿山に逃がれ、比企(ひき)氏の庇護を受けてこの地で暮らしました館を中心とするこの地は「御所」と呼ばれたようです大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では迫田孝也さんが源範頼を好演されてました源頼朝の挙兵後、範頼はあの義経と共に平氏追討軍を指揮しましたが、頼朝が征夷大将軍になる
上地八幡宮に行ってきました、岡崎市上地町字宮脇48番地。本殿は国の重要文化財に指定されています。昨年の大河ドラマ、鎌倉殿の13人でもご存じ、源範頼の創立とされています。1184年範頼は、兄頼朝の命を受け、総大将として平家追討のため西下する途中、上地八幡宮に戦勝を祈願しました。源氏が勝利を収め、三河の守護となった範頼は、工人武田某に命じて小祠を社殿へと寄進建立しました。その後、明暦元年(1655)には本殿の大修繕もなされています。
勿論、"頼朝のほう”でもありません。「義経じゃないほうの源平合戦」白蔵盈太著文芸社(290頁)そう言えば、昨年の大河ドラマはまさに"源平”でございましたネ。(私は全く見ておりませんでした)おそらくは本作の主人公・源範頼(ミナモトのノリヨリ)も登場していた事でしょう。知略に優れた兄・頼朝と、軍略に秀でた弟・義経の間に挟まれた範頼が本作の主人公―。※あとがきでも書かれているのですが―とにかく、この時代は資料が少ないそうで、そして有
石戸蒲ザクラは、源頼朝の異母弟・源範頼の持っていた杖が根付いたと伝えられている桜。範頼は、1193年(建久4年)、謀叛の罪で伊豆・修禅寺に幽閉され、間もなく自害したとされていますが、各地に範頼の生存伝説が残されています。北本市の情報によると3月22日現在で1分咲き。蒲ザクラ☆☆☆☆☆~鎌倉原産の桜~(京都で人気を集めた鎌倉桜)~鎌倉市の木~
みなさま、おひさしぶりですようやく終わりました。本がでるのは今月末で、まだなんですが疲れが出てきました。入稿したのは3月7日なんですが確定申告やらお彼岸の墓参りとか終わった時より今のほうがじわじわいいかげん通常運転にしなければというのにバレエ4コマはもうすこしお待ちください範頼は源頼朝の弟で義経とともに平家追討で源氏軍の大将として活躍した人ですがその一生に不明な点が多くNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では活躍させてもらえなかったの
(鎌倉幕府の成立(4)(第2代将軍源頼家)源頼家は寿永元年(1182)8月12日頼朝の嫡男として鎌倉比企ヶ谷の比企能員の屋敷で生まれた。父は頼朝、母は北条政子である。頼家の乳母父には頼朝の乳母であった比企尼の養子の比企能員が選ばれ、乳母には比企一族や有力御家人の妻が選ばれた。頼家の側近は頼朝が比企能員、梶原景時など有力御家人を指名した。建久4年(1193)5月から6月にかけて頼朝は多くの御家人を集めて富士の巻狩りを行ったが、この目的は狩を通じて将軍の権威を誇示すること
埼玉県北本市は、謀反の罪で伊豆修禅寺に幽閉された源範頼が落ち延びた地といわれています。東光寺にある石戸蒲ザクラは、範頼の杖が根付いたものといわれ、国の天然記念物に指定されている古木。☆☆☆☆☆
鎌倉幕府(3)(反平氏運動)このころから反平氏の運動が起こってきた。治承4年(1180)後白河上皇の皇子以仁王が平氏追討に令旨(皇族の命令を伝える文書)をだして、源頼政らと挙兵した。頼政は保元・平治の乱の勝者で平清盛に信頼されていた源氏の棟梁であり平清盛から信頼されて出世した。しかし平家の専横に対して不満が高まり、後白河上皇の皇子以仁王と挙兵しようと計画して諸国の源氏に平氏打倒の令旨を伝えたが計画は露見し準備不足のまま蜂起したが平家の追討を受けて宇治平等院で敗北して自害した以仁
日枝神社様は元は修禅寺様の山王社があった所で、神仏分離令で日枝神社様に姿を変えました。修禅寺の観光案内から以下をご紹介いたします。日枝神社様の場所にかつては信功院という修禅寺様の塔頭があり、そこに源範頼様が蟄居させられたそうです。修禅寺様を出て左に曲がり、少し歩いた所に日枝神社様はありました。山王鳥居ではなく普通の鳥居でした。一歩足を踏み入れると急に空気が変わり、ものすごい木々のパワーに圧倒されます。やはり山王様だなぁ…と感じました。入って左側に絵
2023年2月比企郡の史跡を巡ってきました。2月28日息障院(源範頼館跡):比企郡吉見町御所吉見百穴:比企郡吉見町北吉見松山城:比企郡吉見町北吉見安楽寺(吉見観音):比企郡吉見町御所金剛寺(比企館跡):比企郡川島町中山3月1日鴻巣(ひな祭り)源経基館跡:鴻巣市大間宗悟寺:東松山市大谷比丘尼山:東松山市大谷三門館跡:比企郡滑川町和泉正法寺(岩殿観音):東松山市岩殿判官塚:東松山市岩殿今回は国史跡指定の比企城館跡群のうち、行けて
修善寺。源範頼のお墓。範頼も頼朝に無実の嫌疑ををかけられて追い込まれました。親族同士で。かわいそう。そして、2代目の源実朝が幽閉されて、殺された修善寺。時代とはいえ。たいへん。ここの宝物殿はすごかった。あまごも美味しい。あまご茶屋。旅は続く。
伊豆の歴史をめぐる旅①NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が終了して鎌倉幕府について知りたいと思って伊豆の国の遺跡の一部を訪ねた。平治の乱(1160)で平清盛に敗れた源義朝は斬られたが、義朝の子頼朝は処刑を免れて伊豆の蛭ヶ小島(ひるがこじま)に流罪となった。頼朝14歳のときである。34歳で挙兵するまで20年間ここで過ごした。最初は伊東氏、のちに北条氏の監視下におかれたが行動は比較的自由であった。生活面では比乳母企尼たちの援助を受けた。ここで北条時政の娘政子と知り合って結婚した。ここ蛭ヶ
源範頼の墓(鳥取市)令和5年2月7日Themusicwascomposedandplayedbytheuploader.https://youtu.be/bVuek-182bk
今年の節分は、娘の推し活?に付き合い調布の深大寺さんの節分豆まきへ行ってきました!節分会豆まき式深大寺公式ホームページ。東京都調布市の天台宗別格本山。正式名称を浮岳山昌楽院深大寺。厄除元三大師。www.jindaiji.or.jp家から片道9kmくらい。自転車で行きました。今年は3年ぶりの開催でたくさん人が集まったそうです。「節分会豆まき式」なんて、初めてのことだったので、よくわからないまま参加させていただきましたがとても楽しかった!(と言ってい
顔も真っ赤に爛れたり年末年始返上の理由は幾つもありました。周りからは理解不能の域ですので、身内との連絡も心がぎりぎりの状態でしたし、たつ方が自分自身を保っていられる。互いにそれが最善だと判断しました。辛いけれど、それはまた正解でした。いつも決断が誤っていなければ、完成へと近づく次のメッセージがご褒美のように入ってきます。悩んで塞ぎ込んでる時間は既にないからです。今年最初は、何年も前にメッセージにきていた『平治の乱』1月3日源義朝公のお墓呼ばれ足を運ぶと、その日は源頼朝公や範頼公
さらに二つ、考えなければならない視点がある。一つは、源範頼は九州から京都経由で鎌倉へと戻ったが、源範頼一人が九州から鎌倉へと戻ったのではないという点である。源範頼は平家討伐を命じられた鎌倉方の軍勢の総指揮官であり、源範頼の元から離脱して勝手に鎌倉や自領に戻ってしまう武士は多かったものの、壇ノ浦の戦いの後も源範頼と共に九州に残り続け、このときはじめて九州を離れ京都に立ち寄り鎌倉へと戻ることとした武士はもっと多かったのだ。彼らは単に鎌倉に戻るのではない。勝長寿院の式典に参加する、すなわち、長く
以下はその時系列である。一〇月九日、土佐房昌俊が弟の三上家季ら八三騎の軍勢を率いて鎌倉を出発した。一〇月一七日、土佐房昌俊らが京都に到着して源義経の京都での住まいであった六条室町亭を襲撃するものの源義経らは当日不在であり、自宅が襲撃されていることを知った源義経は佐藤忠信らを伴って自ら応戦し、源義経の軍勢に源行家率いる軍勢も加わって源義経暗殺計画は失敗に終わった。その後、逃走を図った土佐房昌俊は鞍馬山に逃れたものの捕縛され、一〇月二六日に家人と共に六条河原で梟首(きょうしゅ)された。
文治元(一一八五)年一〇月六日、梶原景季が京都から鎌倉に戻り、源義経と一度目は源義経の体調不良を理由に面会できなかったこと、二度目は面会できたものの、そのときの源義経は本当に窶(やつ)れた表情をして灸を据えた痕のあったことを源頼朝に報告した。一見すれば源義経は嘘偽りなく病床にあったのだろうと思えるが、息子からの報告を受けた梶原景時はそのように考えなかった。丸一日、さらには二日間の断食をすれば顔は否応なく窶(やつ)れるし、徹夜をすれば目の下にクマもできる。灸を据えた痕も三日もあれば用意できると訴
こんにちは福原ですわたしの大事にしているベランダの植物の葉っぱの色がおかしくなっていました触ってみたら凍ってる??恐ろしい朝でした(笑)元に戻るんでしょうか?さて、今年初のE旅クラブツアーは坂東三十三観音巡礼でした昨年から始まり3回目今回からご参加のお客様もいらっしゃって、嬉しい福原です♪1ヶ寺目は、10番札所バスを降りたら、下り坂からそして納経所は更に階段を降りるという階段を駆け上がり皆様の声も姿も見えない・・・
ここで注目を集めることとなったのが、平家討伐軍の総大将である源範頼の立場である。源範頼が源頼朝ではなく源義経を、そして、その後ろにいる後白河法皇を選ぶ可能性もあったのだ。こうなると、後白河法皇が動かすことのできる軍事力が増大する。はっきり言って源義経個人に政治家としての能力は期待できない。また、源義経を利用しての軍勢拡張も期待できない。ゆえに、手持ちの軍勢で好き勝手に暴れ回ることまではできるが、軍勢の人員を増やすことも、暴れ回ることで支持を集めることもできない。しかし、源範頼が京都に向かっ
晴耕雨読2義経じゃないほうの源平合戦白蔵盈太著白蔵盈太氏3作品目源範頼?知らないんですけど源頼朝(三男)源義経(九男)に挟まれた9人兄弟の六男みたい残りの6人の兄弟もまるっきりわかりませんけど源範頼?源平合戦の総大将だったみたい鎌倉殿の十三人にもちょこっとでていましたよそんな歴史の脇役範頼が主人公どんなお話なんだろう小説は特に○○賞受賞作品や文豪の名作といわれる作品は5W1Hの「When:いつ」「Where:どこで」「Who:だれが
前回の記事●生田神社(初詣ではありません)【01】昨年11月の生田神社。正面からではなくて脇の入口から入りました。【02】こちらも立派な入口で風格感じます。【03】駐車場の先に鳥居が見えます。【04】狛犬ちゃん。【05】摂社にお参り。【06】大海神社だそうです。海に関係するなら住吉さん系列?【07】ちゃんと由緒書きがありました。御祭神は猿田彦珈琲さん
こんばんは~新年からはディープに!彩の国(埼玉県)の「鎌倉殿」縁の地をご紹介しています宗悟寺の後にはこちらに↓お邪魔しました。「滑川町エコミュージアムセンター」同じ敷地内に体育館とかもあるようでした。広いので、車をどこに止めていいやら少し迷いながら、なんとか到着。入口でスリッパに履き替えて。消毒してから入場。受付のところに、いましたこちらは「比企尼」5スタンプ目Get!そしてさっそく、こちらもGet5スタンプ集めるともらえる、クリアファイル受付前にはこんな風に埴
金沢文庫寺前の薬王寺の次は、一旦金沢文庫駅まで戻り、駅から歩いて反対方向の大寧寺へ…1.2キロ徒歩15分程だけど、それ以上に感じます😅大寧寺入口大寧寺本堂臨済宗建長寺派寺院の大寧寺は、海蔵山大寧寺と号します海蔵山大寧寺の前身は、源範頼により瀬ヶ崎に創建された真言宗の薬師寺と言われていますこの薬師寺は、寺前に移転して現在の薬王寺となり、当初の薬師寺のあった場所に範頼の菩提の為に、鎌倉時代に範頼の戒名に因み、大寧寺が開かれましたその後、明菴栄西を開山として臨済宗寺院に改められまし
鎌倉殿の13人ゆかりの地巡り…前回はどこまで書いたっけ?!😅衣笠城址→大善寺→近殿神社→熊野神社→正行院と巡ったんだった…逗子葉山の正行院から、金沢文庫迄移動文庫駅から徒歩10分くらい歩きます称名寺の真ん前にある薬王寺へ〜薬王寺の山門と寺号標薬王寺の文化財案内板本堂真言宗御室派寺院の薬王寺は、三療山薬王院と号します創建年代は不詳ですが、源範頼の位牌があり当寺にあり、かつて源範頼の別邸が当地にありました伊豆修善寺にて、梶原景時に攻められ自刃した源頼朝の弟三河守源範頼その
鎌倉殿の13人ゆかりの地である伊豆修善寺温泉へ行ってきました伊豆箱根鉄道駿豆線で三島から終電修善寺へ駅からバスで温泉まで7~8分ほどですまずは弘法大師が開いたという源家北条家もゆかりのある修禅寺へ手水舎の龍の口から出てるのはなんと温泉なんです♨修禅寺から歩いてひたすら長い坂を登った所にあるのが13人のひとり安達藤九郎盛長殿のお墓前は源範頼殿のお墓の近くにあったそうですがここに移されたのだとかこの坂をさらに上がって行くと梅園がありますが今の時期紅葉が綺麗
いよいよクライマックスを迎える、2022大河ドラマ鎌倉殿の13人一の谷・屋島で平家軍を破り、壇ノ浦で平家が滅亡。源頼朝の悲願が達成した。平家の世から、源氏の世になり安泰するかと思った矢先…頼朝は、意に反した身内や御家人を粛清。最終回を前に、復習しましょう。今回は第25回〜第36回。『鎌倉殿の13人第25回天が望んだ男』鎌倉殿の13人、第25回は鉦の音今、不安の中にいる頼朝は、全成に救いを求めた。全成は、幾つかの事に注意する様に言う。不安で気が参っている頼朝。御所では、頼朝
もし、希義が配流先の土佐を脱出、鎌倉で頼朝と合流できていたらどうなっていただろう?源氏将軍は3代で断絶したのだろうか?タラレバは禁物だがつい、考えてしまう。源希義とは源義朝の五男、初代鎌倉殿、源頼朝の同母弟である。平治の乱後、頼朝が伊豆に流され、希義は土佐に流された。話が逸れるが頼朝にはもう一人、同母弟がいたそうで、義朝の四男、義門という。生年没年は不明。平治の乱で死亡したのではないかと考えられている。話が戻る。「鎌倉殿の13人」では、鶴岡八幡
11/27の伊豆鎌倉殿の13人大河ドラマ絡みツアーの続きです。朝になりました。昨日は快晴でしたが、11/28は薄曇り。少し肌寒い中、宿を出発。ガイドと歩く源氏ゆかりの地ツアーに参加しました。先ずは車で修善寺へ。修禅寺門前の広々とした駐車場に車を停め、一日料金¥500を支払います。歩いてすぐの修禅寺門前で予め修善寺ふるさとガイドの会を通してお願いしていたボランティアガイドの方と合流です。10時予約のところ9:45に到着したのですが、既に目印の緑のウインドブレーカーを着た上品な感