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「忠義の駒塚」。龍泉寺の南側。(静岡県浜松市中央区(旧南区)飯田町1002)駐車場なし。トイレ・自販機なし。蒲の冠者/源範頼(源頼朝の弟)の別荘跡、龍泉寺の南にその“駒塚”はあります。源範頼は“兄の頼朝と平家の戦い”に加わり勝利します。しかしその後頼朝は「範頼が謀反を起こそうとしている」と疑い伊豆の修善寺に監禁の後兵を向けて自害させます。----------範頼の馬は主人の死を見て範頼の首を咥え走り出したひたすら東海道を昼も夜も走り続け遠州の蒲の荘、飯田
昨日の嵐の後、桜はどうなっただりうかとまずさくら堤公園へ行ってみました。雨にも風にも負けず綺麗に咲いてくれていました。そよ風に花びらもヒラヒラ舞って風情があります。いつも朝早い時間にいってましてほぼ貸し切り状態でした、が、お昼の近くにいってみましたら、混んでいてびっくりです!混んでいたのでUターンしてまず、近くの小学校桜の入学式になったのでしょうね🌸金次郎さん!こんにちわご無沙汰しております。次は噂のポンポン山ここは高台から見下ろす桜がなんとも里の春で残したい景色のひとつですそし
東光寺にある石戸蒲ザクラは、源範頼の杖が根付いたものといわれ、国の天然記念物に指定されている古木。石戸蒲ザクラ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆~桜の次はアジサイ~
すぐ南は渡瀬氏の居館でした。「上組遺跡」。東部やすらぎ公園の東方。(静岡県浜松市中央区(旧南区)渡瀬町400)駐車場なし。トイレ・自販機なし。2010年に調査されました。主に奈良時代から鎌倉時代の遺跡ですが弥生時代の土器もみつかっています。土器・須恵器、井戸跡・中国産陶磁器などが見つかっています。↓【目次】その他の場所はこちらから検索↓https://ameblo.jp/clubecoast/entry-12397560515.html茶器繁花
源頼朝ゆかりの鎌倉・鶴岡八幡宮、神社本庁から離脱へ…本庁の「総長」人事対立が背景か3/12(火)17:48読売新聞配信より源頼朝ゆかりの鎌倉・鶴岡八幡宮、神社本庁から離脱へ…本庁の「総長」人事対立が背景か(読売新聞オンライン)-Yahoo!ニュース配信より神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮源頼朝ゆかりの「鶴岡八幡宮」(神奈川県鎌倉市)が、全国各地の神社を束ねる宗教法人「神社本庁」(東京)に離脱する意向を伝えたことが分かった。鶴岡八幡宮などによると、今月5日、離脱
3月3日(日)源範頼についての小説を一気に3冊(『義経じゃないほうの源平合戦』『蒲桜爛漫』『弟切抄』)読んだので、これは関連する地へ行かねば、と金沢文庫駅周辺をふらふらして来ました。【海蔵山太寧寺】宗派:臨済宗建長寺派/創建:建久二年(1191年)/本尊:薬師如来/開山:勅諡大興禅師/開基:源範頼住職がお勤め中のため静かに移動はじめ太寧寺は真言宗であったようですが、禅宗寺院になったのは江戸幕府が寺院の本末制度を整えた江戸時代初期の事と考えられます。
埼玉県北本市は、謀反の罪で伊豆修禅寺に幽閉された源範頼が落ち延びた地といわれています。石戸蒲ザクラ東光寺にある石戸蒲ザクラは、範頼の杖が根付いたものといわれ、国の天然記念物に指定されている古木。
2月12日(月)振替休日森山光太郎著『鎌倉幕府草創記弟切抄』河出書房新社2021年10月30日初版発行源範頼二十九歳。あに頼朝を殺すべきかおとうと義経を殺すべきか決断のときが迫っていた―武士政権誕生の裏の哀しき歴史ドラマ!!この本の範頼は「大将軍の器」である人物として描かれており、梶原景時に「西海での三河守殿を知る者であれば、あの戦の勝利は三河守殿の指揮があったからだと知っております。九郎殿亡き今、三河守殿が軍を率いて起てば、それを討てる者はこの国にはおりま
題名:義経じゃないほうの源平合戦ASIN:B0BNM6J4FY著者:白蔵盈太出版社:文芸社文庫メモ:「・・・じゃないほう」というワードに惹かれて購入源平戦といえば、まず源頼朝、そして源義経それ以外の源氏は、あまり聞いたことがない昨年の大河で、鎌倉幕府成立の過程をやってくれたので、源範頼という人も、かろうじて知ることが出来た、という程度そういう源範頼視点で書かれた源平合戦書いてある内容は、義経を主人公とした源氏と平家の戦いそのまんまだけど、視点を変えると、面白
2月4日(日)1ヵ月ぶりの艦艇撮影に出掛けようと思っていたら、朝から雨・・・。仕方なく読書をして過ごしました。堀和久著『蒲桜爛漫/頼朝の弟義経の兄源範頼』秋田書店(1999年5月5日初版発行)内には和の表徴外には勇猛果敢なれ壮大な源平争乱のドラマの中できびしく自分を律しつつ、弟義経の二の舞は演じず兄頼朝の冷酷な処遇を跳ね返して、己の望む境地に開花する蒲冠者範頼の生涯を描く歴史長編!!源範頼に関する小説二冊目です。前回読んだ白蔵盈太著『義経じゃないほう
1月25日(木)白蔵盈太著『義経じゃないほうの源平合戦』文芸社文庫2022年12月15日初版発行やっぱり鎌倉なんか、来るんじゃなかった。蒲御厨でひっそりと暮らしていた範頼は、命の危機を感じて頼朝のもとへ馳せ参じた。だが、会って早々、兄の怒りに触れ言葉も出ない。ちくしょう、怖すぎるだろ、この兄さま。そんな時、助け舟を出してくれたのが、弟の義経だった。打倒平家に燃え勇猛果敢に切り込んでいく弟を横目に、兄への報告を怠らず、日々の兵糧を気にする自分の、なんと情けないことか。誰もが畏れる知
続いて向かったのは、竹林の小路京都の嵐山や宇都宮の若竹の杜のようなところを想像していましたが、、、狭い笑想像より竹林が少なかったです笑それでも観光客は多く、人気なスポットなんだなと実感しました。竹林を進んでいくと、真ん中に丸いベンチのようなものが。みなさんそのベンチに寝っ転がって空の写真を撮っていました。何をしているんだろうと真似をしてみると、納得。竹と青空が見事にマッチしていて綺麗でした!竹林を抜けると、赤い橋がありました。綺麗な水が流れる川と竹に、赤がよく映えていました。その先に
さて、この曾我兄弟の仇討ち事件については工藤祐経への殺害を主としたものではなく、源頼朝の暗殺を狙った犯行であるとの説もある。二一世紀に生きる我々は鎌倉幕府のことを一世紀半に亘って存続する組織と知っているが、源頼朝が征夷大将軍に就任してから一年ほどしか迎えていないこの段階の鎌倉幕府という組織、いや、治承四(一一八〇)年に源頼朝が挙兵してから一三年を数えたこの段階においても、鎌倉方という組織そのものは源頼朝という一個人に仕えて行動する武士達という構造になっている。ここで源頼朝がいなくなると
伊豆は修善寺にある源範頼のお墓、その横に置かれた石碑の碑文を御紹介しましたが、よく読めない所も多く、正確な意味を取りにくいです。なので、訓読とかきっちり解釈するのは諦めました。で、今回は、「ま、こんなことが書いてあるんじゃないのかな。」、ということをだらーっと述べるにとどめたいと思います。頼朝(=鎌倉公)は、弟二人についての讒言を聴き入れ、二人を討とうとした。義経(=源豫洲)は蝦夷地に逃れ、今現在も神として祀られている。これに対して範頼(=蒲侯)は修
伊豆は修善寺には源範頼のお墓がありました。で、その墓の横に石碑が一つありまして、その碑文を御紹介しているのですが、今回がその2回目。はっきり言いまして、今回の部分は更に読めなかった文字が多いのですが、読めなかったところは前回と同様“*”で現わしておきます。では、碑文。内二*粟蓋口以扁石充内以枯骸即為斂頭燼骨者實明治十二年九月某日也於是乎始知里傳之為信愴然肅容*七*之疑襟一朝*矣詩曰*雖伏矣亦孔之昭今覩之侯焉唯恐*霜之**之*疑者亦如余曩日也非文以
「鎌倉武鑑」。鎌倉に関わる武家の姓名、系譜、紋などが記された古記録。気になる名前があちこちに♪ネットではあまり露出しない面白い古文書たくさん。#鎌倉武鑑#古記録#鶴岡八幡宮#源範頼#蒲殿#鎌倉#鎌倉殿の13人#源頼朝#北条#吾妻鏡#北条#歴史#古記録#古文書
おはようございます。昨日は頼家さんの墓を訪れましたので、今日はその後訪れた源範頼(以下「蒲殿」)の墓へ。頼家さんの墓とは反対側の山の上にあり、地図を見ても間違えるほどわかりにくい場所ですが、途中から看板が出てきますので後は簡単です。途中かなり勾配と階段がありましたので、足腰の弱い方は要注意です。▲蒲殿の墓は小高い山の上にあり、非常に眺めの良い場所です。蒲殿はとにかく「騙されないように注意しなさい」と仰っていました。蒲殿は鎌倉初期の武将で、義仲討伐や一ノ谷の合戦で指
2023.8.31願いが何でも叶うとか…次に訪れたのは埼玉県比企郡吉見町にある坂東三十三観音霊場11番札所安楽寺です(電車では絶対無理な場所にあります)ここは平安時代の末期に、源頼朝の弟、源範頼が幼少期に身を隠していたと伝えられます。安楽寺の東約500メートルには「伝範頼館跡」と呼ばれる息障院がありこの息障院と安楽寺は、かつては一つの大寺院を形成していたことが知られています。「鎌倉殿の13人」では迫田孝也さんが演じた源範頼◆仁王門◆仁王像の造立は元禄
倉敷のマルナカ天城店の近くに「御崎神社」があります。ここもまた、源平「藤戸の戦い」の関連史跡のよう。このように、看板が出ています。ここから、東に入って、すぐ。「御崎」という名前の通り、この辺りは、かつて、海だった。その海の中にあったのであろうと思われる岩が、一つ、ありました。神社の由緒の書かれた看板があります。鳥居の前に、石が積まれたものがありました。誰かが、信仰心から、積んだものでしょうか。こちらは、鳥居の右手にあったもの。木柱には「三笠宮、植樹記念」と
テレビアニメや本などで『平家物語』を四回通して味わった中での雑感範頼って、”じゃないほう”の元祖では⁉(NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の”蒲冠者”こと源範頼(C)NHK)2023年の”とにかく読了”読書目標の『平家物語』で、逆に印象に残るのがこの”蒲冠者”こと源範頼さんです。TV番組「アメトーーク!」で”じゃないほう芸人”というくくりで、この”じゃないほう”って言葉が結構広まった気がします。その元祖”じゃないほう”って、この源範頼さんだと思うんです。その”じゃないほう
子どもの頃(1983~1984年)に放送されていた『まんが日本史』の頼朝と義経の対立と鎌倉幕府成立についてヒストリーチャンネルで放送されていたのを見た感想ついに武家政権の支配が本州・四国・九州に行きわたる画期鎌倉幕府の成立(『まんが日本史』より、タイトル画面)義経・後白河法皇・奥州藤原氏・範頼が消え、頼朝も・・・1185(文治元)年6月、兄の頼朝に鎌倉入りを断られ、兄頼朝の誤解を解くために腰越にて有名な”腰越状”を書いて大江広元を通して提出するも受け入れられず、怒りをもって
伊豆の国にある源範頼墓です。源範頼の墓。源義朝の六男・源範頼は異母兄・源頼朝が鎌倉入りすると駆けつけ、源平合戦では異母弟の源義経とともに源氏軍を率い、壇ノ浦で平家を滅亡させました。奥州征討にも参戦。建久3年(1193年)8月、兄頼朝より謀反の疑いをかけられ修禅寺に幽閉。「吾妻鏡」では以降の範頼の消息は不明、「保暦記」には翌年殺害されたとあり、この地に墓があります。源範頼の墓。源範頼(1150~1194?)は源義朝の六男。母は池田宿の遊女。鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の異母弟。
徳川家康の次男は、お万の方が産んだ於義丸。はじめは家康にも認知されず、源範頼の子孫・中村源左衛門正吉の屋敷で育ちました。小牧・長久手の戦い後、人質として豊臣秀吉の養子となり、元服後に秀康と名乗ります。小田原征伐後、家康が関東移封となり江戸城に入ると、下総国の結城晴朝の姪・江戸鶴子と結婚し、婿養子となって結城氏を継ぎます。結城氏は、源頼朝に仕えた結城朝光が祖。関ヶ原の戦い後、北ノ庄を与えられた秀康は福井城を築城。秀康が松平に服した後、結城家の家督は秀康の五男・直基が継いでいます。☆
16日に雨の中、あばれる君を観たので、雨の止んだ17日に「まだお祭りをやっている三嶋大社に行こうか!」と娘ちゃんたちを誘いますと「嫌」とのこと。「昨日、あばれる君を観たので三嶋大社は、もういい」とのことでした。晴れた日に出店を回れるのに、と思ったのですが受け入れられず。。。そこで娘ちゃんたちに次の提案を。昨年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、源範頼が修禅寺に幽閉されてその地で命を落とすシーンがありました。源頼朝(政権中枢)から命をとられることは知ってましたが、その地が修善寺(地名)
今年は源範頼・梶原景時・源実朝・坊門姫。源範頼梶原景時源実朝坊門姫☆☆☆☆☆
今日は家族みんなで伊豆市の月ヶ瀬へ一泊旅行です。途中、三島のスカイウォークへ寄ったのですが、まさに濃霧でサイレントヒルの世界でした。横風も凄くて雲の中を歩いているみたい。天候がイマイチなので、三島コロッケとミカンジュースをいたたき、次は修善寺の源範頼の墓の側の甘味処へ社会人1年目は三島で過ごしていたので、ウロウロしていた地域なのですが、さすがに35年も経っているので、街並みが変わってますね。源範頼の墓甘味処のウチの女性たちお腹も満たされ、少し修善寺を散策します。修善寺日枝神社の夫婦
安楽寺(吉見観音)岩殿山安楽寺は坂東11番の札所で、古くから吉見観音の名で親しまれてきました。安楽寺の東約1㎞には「伝範頼館跡」と呼ばれる息障院がありますが、この息障院と安楽寺は、かつては一つの大寺院を形成していたことが知られています。当時、息障院には多くの御堂がありましたが、その一つの観音堂が現在の安楽寺になったと伝わります。駐車場を出て参道に金剛力士像仁王門「あうん」の密迹金剛力士二体町指定彫刻境内にはお店も出て賑やか
この付近から土器ばかり出土。「飯田遺跡群」。飯田小学校周り。(案内板:静岡県浜松市南区飯田町816)専用駐車場はなし。トイレ・自販機なし。“飯田遺跡群”とはこの付近一帯で確認されている弥生時代~鎌倉時代にかけての遺跡の総称。寺西遺跡・山寺野遺跡など.。付近8カ所で土器等が発掘されている地域。(場合により山ノ神遺跡や西伝東・元西光寺遺跡を含むことも)寺西遺跡方面。山寺野(さんじの)遺跡方面。どちらもすぐ側です。この地域は1.5mほど
今日は修善寺に散歩に行きました。午後から天気が回復☀️する予報でしたので、お昼頃に出発🛫しました。お寺の前の足湯広場で小さなイベントやってると思ったら午前の荒天⛈️で中止だったらしい。駐車場🅿️に帰る途中に嫁さんが小さな看板🪧につられて坂を上がったらありました🤩↓テラスデッキで眺望🪟観ながらくつろげる🫶↑私は修善寺サイダーポンチ🥤お冷はミント🍵水😻↑とにかく景色が良かった🤩お店の玄関🚪横からテラスデッキに行けます。↑お店の小さい看板🪧です。源範頼公のお墓🪦の隣りにひっそりとあり
前回、鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟・源範頼(のりより)の館跡の記事でしたが、今回も源範頼の館跡とされる地を訪れましたと言っても前回の「源範頼館」から約600m、徒歩でも10分ほどの場所です訪れたのは埼玉県吉見町の御所陣屋(吉見御所)です改めておさらいですが、源範頼は、平治の乱の際に父・義朝が平清盛らに敗死したあと、比企(ひき)氏の庇護を受けてこの地で暮らしていました兄の源頼朝の挙兵後は、軍事の天才である弟の義経と共に平氏追討軍を指揮しましたが、頼朝の征夷大将軍就任後に謀反の疑いをかけられ