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3/5(土)、関東の「城友」とのお城巡り3城目は、「地黄陣屋(城)」から南へ約2km、車で5分以内の「野間館・野間城」(大阪府豊能郡能勢町)へ出発です。1城目の「山上城」はこちらからご覧ください↓『<山辺城>”二郭一城形式”で断崖絶壁の郭と石塁・横堀・竪堀等を駆使した大「山城」』一昨日(3/6)に、関東から山城好きの「城友」が来訪して、大阪北部の豊能郡能勢町にある「山城」を案内してくれました。「城友」は関東在住なのに先日も能勢にある…ameblo.jp2城目の「地黄陣屋(城)」はこ
名古屋のシンゾウです何年経っても、京都市内の地理が頭に入りません。未だに、鞍馬寺は金閣寺の左上、そんな思いから抜け出せません。①三十三間堂の南門前の道を西に行くと何処に至るか、②吉祥院天満宮の東の通りは何か、難しいでね。答えは、①京都駅前、②西大路通なんです。不思議な感じがします。最近は、出来る限り「地図」で調べるようにしていますが、方向音痴はますます酷くなります。やはり、他府県の者にとっては、大きなペナルティのようです。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆本日の問題(400)◆◆
さて、源満仲が放った矢が命中しなかったほうの大蛇ですが、山を突破り、湖水は鼓を打つような音をたてて滝となって流れ出たといわれてます。鼓滝という名で駅名にも残ってますが、そこには九頭の社がありました。そのあたりから滝となって流れ出たということは、当然川になりますよね。てことで、猪名川です。二匹の大蛇は沼にいて、一方は滝となったとありますから、そもそもこれら二匹の大蛇は水源を意味するように思えてきます。大蛇の死により田畑が豊かになり、『多田』という地名の由来になったことからも、これは満仲に
昨日の矢問の由来の続きです。源満仲公は、白髪の老人に出会い、矢の落ちた場所を知ることが出来ました。満仲公が老人に教えられた場所に行ってみると、大きな沼があり、九つの頭をもった二匹の大蛇(九頭竜)がおり、その一匹の大蛇の目に満仲公が射た矢が刺さり、暴れまわっていました。死に物狂いの大蛇は、苦しそうに堰を切って沼から逃げ出しました。しかし、ついに力尽きて命を落としました。そこへ向かいます。近隣の店舗地図にも目立つように九頭龍大明神の案内があります。ここらでは有名で重要な場所と思われます
お次の神社に向かっておりますと、遠方に赤い鳥居と玉垣が見えました。地図で確認しても記されておらず、フェンスも見えましたので、こちらから入ることも出来ないようでした。ダイハツの敷地内のようですので、企業内の神社なのだと思います。企業内の神社としてはかなり大きな規模に見えました。入れないものは仕方ないので、次の目的地へ向かいます。矢問八幡宮です。多田神社もそうですが、このあたり源満仲に関係する事柄が多いです。多田神社のホームページから抜粋しますと、今からおよそ一千年前、源満仲公が新しい
2022年初詣第2話車で移動すること5分。到着しました、まさに多田神社⛩源氏発祥の地と記されております❗️多くの参拝者も来られていました🤗2度目の初詣⁉️スタートです。願い事をしてから境内を散策に。御神木がありました。癌細胞も退治してくれるそうです😆鬼退治で有名な源満仲公の霊廟もあります。鬼の首を洗った池もありました。まさに鬼滅の刃👹です。そして、帰りにおみくじをみんなで引きました。それぞれ番号を伝えておみくじを受け取ると…私のおみくじだけ、綺麗な入れ物に入っているではな
明けましておめでとうございます🙇♂️初詣⛩に行ってなかったので少し遅くなりましたが行きました❗️今年の大河ドラマは、「鎌倉殿の13人」ということでこの日曜日からはじまりました。こちらも、すごく楽しみにしています❗️見た後にせっかくなんだからドラマにもゆかりのある源氏発祥の地でもある、多田神社に行こう‼️ということで行きました🤗近くにあるのは知っていたけど、どこかは分からないのでネットで調べて着いてみると…。住宅街の中にありました。でも、あまり人がいなくて「んんっ⁇」何か字が違う気が
こんにちは!スプラウト阪神の岡本です!今日もよろしくお願いいたします。昨日、家族と親戚一同8名で川西市の多田神社に初詣に行ってきました。昼食後、能勢電鉄に乗り多田駅へ。その後、20分ほど歩いて、多田神社に到着。お正月だけあって、人出が多くにぎわってましたね。到着後、手を清めてから本堂にお参りに。行列ができていて10分ほど並んで、お参りすることができました。お参りをした後は年の初めの運試し。おみくじを引きました。
昨日11月27日(土)、少し遅くなりましたが孫の七五三をするので、「満願寺」(兵庫県川西市満願寺町)に参りました。「満願寺」は、奈良時代に開創され、弘法大師空海上人の教えを奉じた真言宗のお寺で、「千手観音像」を本尊とします。968年に「源満仲」が多田に館を構えて以来、国家安泰を祈って帰依し、源氏一門の祈願所になりました。鎌倉時代の1325年には「後醍醐天皇」の勅旨によって当寺は勅願寺となりました。以後足利幕府成立の後、将軍家の祈願所として保護を受けて栄え、最盛期には四十九の院坊
平安期、天皇の子や孫で、「源姓を賜り」臣下となった家は、祖となる天皇別に21流数百家がありました。その中の一つ「清和天皇」の孫(子?)「源経基」を祖とする系統が「清和流の源氏」として有名です。今回その発祥地に残る寺院を尋ねました。最初が「六孫王神社」(京都市)です。「経基の邸宅跡」に、息子「源満仲」が墓所を造って祀ったのが始まりです。鎌倉期に、三代将軍「源実朝」の妻「坊門信子」が「大通寺」を開山し、その鎮守社としました。その後衰退していましたが、江戸期に徳川氏により再建されました
キャンパる:私にとって大事な一冊塩狩峠(三浦綾子著)広い心利他への道示す|毎日新聞毎日新聞少年時代はキリスト教信者ではなかった信夫が、周囲の影響を受けて信者となる。大人になった信夫は鉄道職員として働く。恋人との結婚も決まり、幸せ絶頂の時、乗ってい...カリーニングラード含めた旧ドイツ領のプラカードが独の市中に掲示露外務省が反応-Sputnik日本Sputnik日本ドイツの公式的政権もドイツキリスト教民主同盟もまたこの問題に疑問を呈せず、このキャンペーンとは関り
7月18日(日)、阪急川西能勢口駅前の川西阪急の催事に関西エアポートの「そらやん」登場!14時の回のレポの続きです。かわいさを振りまくそらやん!はい!ポ~ズ!・・・・・。そして、じゃんけん大会が始まりました!そらやんは、じゃんけんできないので、司会のお兄さんがかわりにじゃんけん!司会の方が動き回ってますが、そらやんは、駐機中。パ~!最初はグ~!そらやん、まだまだ駐機中。動き出しました・・・。はい!右旋回。旋回しています。まだ
その昔、メンコのウラに書いてあるようなコドモの流行りコトバに、「ただのまんじゅう、ぶしのはじめ」ってのがありました。漢字で書けば「多田の満仲、武士の初め」です。清和源氏の祖先、経基王(源経基)の子・源満仲(みなもとのみつなか)が、攝津の多田庄を領地にして「ただのまんじゅう」と通称された。この満仲が「武士」という存在の元祖だ、というのが、日本人の共通認識なわけです。いつ頃かってえと、平安時代の半ばですね。そんな歴史の教養がなんで子供の流行り言葉になるかっていうと、タダ(無料)で饅頭を貰ってラ
さてさて…中公新書の「源頼政と木曽義仲」(永井晋著)という本を読んでいて…義仲に仲家という兄がいたのを初めてしりましたよ…この仲家さんは以仁王の乱で敗死した源頼政の養子になっていて養父頼政と運命を共にしたらしい…義仲、仲家の仲の字は清和源氏二代目の満仲からきてるんだろうけど…能にこの満仲を題材にした「仲光」という演目があって…源満仲が家臣の藤原仲光に不肖の息子、美女丸を討つように命じるんだけど…仲光は主君の子を討つこと忍び得ず、我が子を討って差し出す…という内容で
「膝丸(薄緑)」(大覚寺所蔵)少し前、あるテレビの番組で、源氏の祖・源満仲が佩刀し、その後は源家の宝刀として伝わった「膝丸」の来歴が放映されていた。この膝丸」という太刀は「鬼切丸(髭切)」とともに、源家重代の太刀としていずれも重文に指定されている。源頼光や義平、義経、頼朝らにも受け継がれ、源平盛衰記などの歴史書の説話にも登場するほどの名刀。「鬼切丸(髭切)」(北野天満宮所蔵)歴史好きの私は、
本日は、そろそろ夏場の「お城巡り」に照準を当てた基礎体力作りを兼ねて、10時半頃に我家から約40分の所にある“あじさい寺「頼光(らいこう)寺」”(兵庫県川西市)に行こうと思い立ち出かけました。「川西能勢口」から「能勢電」(正式名は、「能勢電鉄」で阪急電車の100%子会社)に揺られて「畦野」で下車、数分で「頼光(らいこう)寺」”に着きます。因みに、通勤時には、「大阪梅田」駅から「日生エキスプレス」という8両の特急が乗り入れる路線です。「川西能勢口」駅発の「能勢電」(阪急電車のお古)「
ゴールデンウィーク2日目、昨日の雨が止み晴れて天気が良いので歴史探訪をしました。テレビで、伊豆の国市韮山にある江川邸の内庭が特別公開と放送していました。※通常は非公開、春と秋に期間限定で一般公開期間限定の言葉に弱いので、江川邸に朝一番で行きました。昨年春は、公開中止でした。表門主屋玄関梅の実土間は50坪の広さがあります。竈パン焼きの窯生き柱屋根裏釘を使わない小屋組み江川家清和源氏の流れをくみ、源満仲の二男宇野頼親が家祖。源頼朝の平家打倒の挙兵に参戦。江川庄を賜わ
こんにちは!椿誠司です。昨日は、方南町駅の近くにある多田神社に伺いました。御祭神は、源満仲公[多田満仲公](みなもとみつなかこう)[ただみつなかこう]です。正面の一之鳥居と二ノ鳥居をくぐり、狛犬さんにご挨拶。そして、正面の拝殿でご参拝をします。続いて、拝殿右側にある榛名神社・御嶽神社・阿夫利神社でご参拝。最後に多田稲荷神社でご参拝をしました。こちらの神社は、何度か伺っている場所の氏神様で、今までお世話
去年の暮れに一昨年のお茶会の非物質お茶会でトマスさんがアンちゃんに対してめっちゃ態度が悪かったのは、まるでダメな王様略してマダオ(©銀魂)なエドワード2世と寵臣のギャヴィストン及びディスペンサー父子のトラウマが原因だったという記事を書きましたが。トマスさんの同性愛者に対する偏見というかトラウマの根源が、更にその以前の源満仲の末っ子の源賢さんの過去生にあることがわかりました!Σ( ̄□ ̄;)源賢さんの過去生は、私の先祖のカルマと関わる過去生だと以前の記事『現実の問題の中にカルマのヒントが隠さ
京都画像クイズNo.55は、年始め京都十六社朱印めぐり(元旦から2月15日)の一つだったため、つい最近参拝された方も何人かいらっしゃいました。それでは正解です。六孫王神社解答を寄せられた皆さん正解です。京都市駒札六孫王神社この神社は清和源氏の祖と仰がれる六孫王源経基を祀っている。神社の伝えでは、この地は経基の邸宅のあった場所で、その子源満仲が応和年間(961~963)に初めて社殿を建立したといわれる。その後、いつしか荒廃していたものを、元禄十三
私の人間関係に関する悩みの根源が両親との関係にある、ということは、20代の頃からわかっていたのですが、心理学を学んでも一向に問題解決には結びつかず、スピリチュアルの世界に足を踏み入れてやっと、先祖のカルマから由来するものだということがわかりました。去年、真照さんに相談に乗っていただきまして、先祖のカルマというのが源氏と平氏の抗争によるものだということがわかって先祖供養したのですが。先日、先祖供養の過程ではわからなかった先祖のカルマの一つに気がつきました。というのは、去年の秋ぐらいからずっと
今回は兵庫県川西市駅を降りたら源満仲公がお出迎え源満仲公像第56代清和天皇の曾孫にあたる源満仲公は、今から1000年以上前、当時の都だった京都を離れ、川西市の中部多田の地に移り住んだといわれています天禄元年(970年)に、多田院(今の多田神社)を創建し、清和源氏の礎を築きました後世、鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府を開いた足利尊氏など全国に名を馳せた源氏の武将たちは、すべて満仲公の子孫で、川西市は「清和源氏発祥の地」とされていますJR宝塚線「川西池田駅」で市民の往来を見守る満仲公像
1月17日、曇り。午後から、娘と妻との3人で散歩をかねて川西まで食料品の買い物に出かけました。散歩鉄なので、歩きですよ。今日の撮影場所を探しておりますとこの時期、ロータリー周辺の樹々はすっかり、葉を落としています。なので、ようやく源満仲像とからめて特急列車を撮ることができました。(JR福知山線/川西池田駅)最後までお読みいただきありがとうございました。
…三ツ矢サイダー発祥の地が近くにあるとは知っていましたが…初めてきたホームセンターのすぐ横にありました。場所は、この辺りです↓↓三ツ矢サイダーの発祥が川西市である、ということを知ったとき『多田神社〜源満仲と三ツ矢サイダー』急げ…しまるぅ〜もう閉まっておるではないか!今日こそは参拝にと思うておったのに、満仲殿、誠にかたじけない。(…と大河ドラマ風に)どこか裏側から入れないかと駐車…ameblo.jpちなみに、ウィルキンソン…『“ウィルキンソンタンサン”と宝塚』“三ツ
湘南台発着にて境川流域に点在するサバ神社12社のうち9社を巡って疫病退散祈願をしました😃イベントを企画してくれた湘南台が地元のラン友Oさんによると、江戸、明治時代に疫病が流行ったときに「相模七サバ」を参拝して疫病退散を祈願する風習があったそうです😯12社のうち9社は源義朝(頼朝の父)を、3社は源満仲(兵庫県の多田源氏の祖)を祀ってます何故サバなのかは諸説あり、サバの名前も鯖、左馬、佐婆と異なり、地域の名前を冠した飯田神社もサバ神社のひとつに数えられていて…歴史を紐解くのは難しいですね(・
本日、川西市畦野(うねの)にある”あじさいの寺「頼光寺」”に行ってきました。以前から一度訪れたいと思っていたのですが、そろそろ満開シーズンで見頃ではないかと思い、陽の光で萎れる前の午前中に着こうと出ました。阪急宝塚線の「川西能勢口駅」で「能勢電車」に乗り換え、「阪急電車」から譲渡された5000系の列車に揺られて「畦野駅」まで乗車します。「車両」の色は、阪急カラーの「マルーン」そのままで、内装も「阪急車両」の最新装飾に改修されていますが、窓のブラインドには「能勢電」沿線の
寛仁元年(1018年)6/20、藤原道長の邸宅・土御門殿が再建され、その家具調度品一切を源頼光が揃えたという。翌年の寛仁2年(1019年)2/18、道長は頼光に馬を贈っている。※この年、北九州に押し寄せた武装集団を、藤原北家の“さがな者”当時の大宰権帥・藤原隆家が在地武士団を率いて撃退するが、朝廷がこれを知るのは撃退後の事である。(刀伊の入寇)治安元年(1021年)7/19、源頼光死去(74歳)。最終官位は正四位下摂津守。摂津国に在任中であった。墓所は、現・兵庫県川西市多田院の多
寛和2年(986年)6/22の夜、花山天皇が出家し、一条天皇が即位する。花山天皇の出家は、藤原兼家が自身の娘・詮子と円融天皇との間に生まれた子・懐仁親王(一条天皇)を即位させたいが為に画策したとも言われている。(※この陰謀については、当時の太政官中務省陰陽寮の天文博士・安倍晴明が式神を放って察知していたとも言われている。)この時、出家しようと元慶寺(がんけいじ)に向かう花山天皇を警護していたのが、源頼光の父・満仲の一党で、その中に頼光も居たとか。結果、一条天皇が即位し、居貞親王