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Googleマップに現れた謎の古道?「国府道」を二回に分けて「プチ街道歩き」を楽しんだ記事の第4弾です。ルートマップは↓の通り。他の用事のついでで歩いたため、先に後半部分を歩き、後日前半部分を歩いています。歩いた距離は前半部分(浜田山ー方南町)が3.7km、後半部分(方南町ー西新宿)がジャスト4㎞の、計7.7kmくらいでした。今回から、先に歩いた後半部分に入ります。その3では大宮八幡宮の参道から都道14号に合流し、暑くて軽~く朦朧としながらも道標を発見しつつ方南町駅まで辿り着き前半
⚡安和の変―摂関政治を決定づけた“宮廷クーデター”🎭背景:まだ安定しない藤原氏の天下10世紀後半、藤原氏は「天皇の外戚」として権力を強めていましたが、まだライバルも健在。次期天皇候補①為平親王(母は藤原氏じゃない)次期天皇候補②守平親王(のちの冷泉天皇)(母は藤原師輔の娘)👉藤原氏にとっては守平親王が即位することが“ゴール”。🐉最大のライバル:源高明醍醐天皇の皇子→臣籍降下して「源氏」へ文武両道&人望アリ為平親王の舅(サポート最強)もし為平親王が即位すれば
謎多き多田満仲の宝篋印塔いつもご覧くださる皆様、本当にありがとうございます。心から感謝致します。皆様にとって良い事がたくさんありますように!機会があって箱根の地図を見ていたところ、昔から気になっている源満仲こと多田満仲(清和天皇の曽孫)の墓とされる宝篋印塔があります。正安2(1300)年の鎌倉時代の年号が書かれているようで、大和国の大工である大蔵安氏という人の名前も刻まれています。この人は、大和国西大寺の僧侶で
こんにちは京都のkojiro(小次郎)です今日は2025年7月20日日曜日第27回参議院議員選挙の投票日です。昨年末に小次郎の友人がこれからの日本を発展させるには、政治家だけやなくお役人にも変わってもらわなあかんのやろなぁ…と口にしていたことを今朝になって思い出しました。あの時は飲み会の席だったので「また政治の話か…」と小次郎から話題を変えてしまいましたが、今になって思えば元お役人だった彼は政権交代と官僚の天下りの廃止を考えないと日本の発展はないと言いたかったのかもし
いざ「多田神社」へ‼️多田神社には、歴代の源氏が祭られています‼️源満仲公、源頼光公、源頼信公、源頼義公、源義家公!ワクワクしながら車を走らせいると…ずっと、ずっと、ずっと…白龍様が付いてくる笑源氏の正体はどうやら白龍です。白龍と言う事は、源氏はやはり皇族なんだ…。そして、「多田神社」へ到着。多田神社の神々にご挨拶です。「本日はお招きいただきありがとうごさいます。私は、大阪は(住所)に住む、山形卓信と申します。どうぞよろしくお願いいたします。私は、九州は阿蘇山の建磐龍
京都駅八条口から西へまーっすぐ15分桜はもう終わりですねぇ。八条壬生。清和源氏発祥の宮。参道弁財天。太鼓橋。源経基。藤の花、咲いてます六孫王神社とは。藤の花と牡丹百花の王藤の花、長いほど良いですねぇ。高貴な感じがします。八重桜🌸黄桜。ヤマブキ。退散します東寺の五重塔。seeyouagain👋
辟邪の武を持つ武士が振るう武具にも同じく辟邪の力が宿ると考えられた。「弓馬の道」と称されるようにもともと武士とは重装弓騎兵であり、主兵装に弓箭を用いていたため、当初その力を期待されたのは弓である。滝口武者の鳴弦もこの流れ。神事に用いる梓弓を祖型にもち、古くは◆正倉院宝物にも作例がある。伝説や説話にみる、弓が持つ辟邪の力源義家が弓を引きならして怪事を止ませた弓の名手であった源頼政が宮中に現れた怪異(鵺)を射抜いた伝説藤原秀郷が大百足を射殺す説話吉備津彦が二本の矢を
おはよ〜(*´∀`*)ノ"♡京都市南区にある清和源氏発祥「六孫王神社」に行ってきました。お稲荷さん弁財天。源満仲誕生の時に建てられた神社です。神龍池ちょっと手入れして欲しいですね。源経基の歌手水舎この門より奥には行けず、ここからお参りです。拝殿?本殿?清和源氏発祥のお宮さんですが、新幹線沿いに静かに佇む神社でした。では、(*^-^*)ノ~~マタネー
川西市のマンホール。-------------------------中央に̪市花「りんどう」、その周りを囲むように市木「さくら」がデザインされたマンホール蓋です。清和源氏発祥の地である川西市。昔、川西をひらいた源氏が旗印にササリンドウを使用しており、市内には、源氏にゆかりのある場所が多数あります。毎年4月には川西市源氏祭りが開催され、沿道に飾られた桜提灯が、祭りの雰囲気を盛り上げます。また、さくらは「日本一の里山」と称される黒川地区をはじめ、市内の名所旧跡に咲き
藤原師尹は、950年(天暦四年)、兄の右大臣、藤原師輔の外孫である、憲平親王、即ち、後の冷泉天皇が、生後間もなく、立太子すると、その春宮大夫を兼ねた。また、藤原師尹は、娘の芳子を村上天皇の後宮に入内させ、958年(天徳二年)、芳子は、女御宣下を受ける。芳子は、村上天皇の皇子、昌平親王と永平親王の両皇子を産んでいる。しかし、昌平親王と永平親王は、病弱であったために、春宮にはなれなかった。その後、藤原師尹は、960年(天徳四年)、権大納言、966年(康保三年)、大納言と昇進を重ねる
安和の変は、理由は、不明であるが、左大臣の源高明が、謀反に加担していたと結論され、大宰員外権帥に左遷することが決定した。源高明は、長男の源忠賢と共に出家することで、京に留まれるように願うが、許されず、26日、邸宅を検非違使に包囲され、捕らえられ、九州へ流された。藤原氏が、結束して、源高明を失脚させたのである。密告の功績によって、源満仲と藤原善時は、各々、位を進められた。また、左大臣には、藤原師尹が、任官し、右大臣には、大納言の藤原在衡が昇任した。一方、橘繁延は、土佐国、蓮茂
藤原実頼は、947年(天暦元年)、村上天皇が、即位すると、左大臣に就任する。同時に弟の藤原師輔は、右大臣に任ぜられた。藤原実頼及び、藤原師輔の兄弟で、共に村上天皇を輔佐して、天暦の治と評された。兄弟の間では、兄の実頼が先んじ、949年(天暦三年)、父の藤原忠平の死去後、藤原実頼が、藤氏長者となる。しかし、後宮の争いにおいて、藤原実頼は、娘の述子を、藤原師輔は、娘の安子を、各々、村上天皇の女御としたが、述子は、皇子を産むまずに死去した。安子は、東宮の憲平親王、為平親王、守平親
「源」姓を持つ、天皇の子孫は、その祖となる「天皇別」に21流「数百家」もありました。その中で、最も有名なのが「清和天皇」の孫(子?)とされる「源経基」を始祖とする「清和源氏」です。新年に当たり、源経基から始まる源氏の、足跡を訪ねてみました。(一部2021年訪問)最初が「六孫王神社」(京都市)です。「源経基」の息子、「源満仲」が、「源経基の邸宅跡」に墓所を造ったのを起源とし、鎌倉期に「源実朝」の妻「坊門信子」が「大通寺」を建立しましたが、その後に衰退、江戸期になって徳川氏が再建、
おはようございますお姉ちゃんお誕生日おめでとう元気でいてくれることに感謝ですお参りドライブに行こうね昨日1/1(水)はウォーキングを兼ねて初詣へ32.485歩23.9km稼げましたお参りで応援したいので多田神社へ我らが源氏って勝手に思い込んでいるの祖廟がある場所です4、5回目のお参りですが初めて本殿奥の満仲さまと頼光さまのご廟にお参りできました特に鬼門を守っている杉さま木の方ですに固い守りをお願いしてきました本殿では20分程行列してからお参りいつものように遥拝ではなく、ちゃんと並んで
能勢口・・・能勢の入口、能勢への入り口。川西能勢口駅(阪急電鉄、能勢電鉄の駅)の駅名の一部に使用されている。なお、川西能勢口駅は能勢電鉄の前身能勢電気軌道が開業する際にもともとは能勢駅と言っていたが、昭和40年(1965年)に川西市の要望のため市名を駅名に入れることになり、川西能勢口駅となった。能勢は旧摂津国にあった郡で、現在の大阪府の能勢町や豊能町の大部分がそのエリアに該当する。10月26日~28日に、「ひょうご北摂エリア」と呼ばれる地域を旅してきました。旧摂
平将門の乱で見たように、地方の武士は皇孫のような地方では珍重される血筋の者を、国府の課税から逃れたい中小地主が担いだもので、そういう人に土地を寄付したことにして、所有権の保護と減税を狙ったことによって、武装した農場主集団として成立しました。皇孫と言っても地方官崩れですから中央の権門には顔が利かず、国司の私有地への介入に抵抗するのがせいぜいでした。それが土着武士団になって行きます。それとは別に都の武士も登場します。先ず出て来たのが、平将門の乱でも登場した六孫王経基で、皇籍を除かれて源経基
源氏の聖地に牡丹を見に行くいつもご覧くださる皆様、本当にありがとうございます。心から感謝致します。皆様にとって良い事がたくさんありますように!以前、牡丹関係ではこのような記事を書きました。源頼朝の祖先である源経基が牡丹の花を好み、自身の邸宅に植えており、その花が西の花園まで届いていたこと、自分が亡くなったら龍の姿になって子孫のことを見守り続けることなどです。経基自身のお墓は本殿の裏にあり、まさに参詣者や
前回の記事は紀伊國一之宮丹生都比売神社さんの参詣記でしたが、ブログは書き進まない割に一の宮めぐり(こちら参照)はまぁ順調に進んでいまして…弥生にはJR東日本の「キュンパス」を利用して“津軽国”一の宮の岩木山神社さんを参拝、今度のGWには丹後一宮元伊勢籠神社さん、但馬一宮の出石神社さんと粟鹿神社さん、播磨国一の宮の伊和神社さんを巡拝予定…そしてできれば長月には美術展鑑賞と併せて丹波國一之宮出雲大神宮さんをお詣りしたい。岩木山神社さんを参拝して、東日本
命懸けでやれば何も怖いものはない、という。いまの世でいえば、命懸けといっても、戦争は別として多くの場合は、生死が五分五分のところで、そういう言葉を吐いてはいまい。しかし、いにしえ、命懸けとはほんとうに生死を賭けていた。なぜそんなに自分の命を軽く扱うのか、というほどに命をかけている。大河ドラマ『光る君へ』第10回「月夜の陰謀」では、花山天皇が藤原兼家の罠によって出家されられ、皇位をおわれる〈寛和の変〉が描かれていた。兼家の陰謀では、次男の道兼が、花山天皇を連れ出して寺にゆき出家させる〝実
4月5日(金)相鉄線「ゆめが丘駅」へ。相互直通運転の東急が「和光市駅」に向けて出発今年7月オープン予定の駅前大型商業施設「ゆめが丘ソラトス」下飯田の【左馬神社】は約8年ぶりの参拝です。石仏たち石仏とともに並ぶ宝筺印塔の笠と五輪塔の空輪・風輪祭神:左馬頭源義朝/創建:不詳神奈川県神社庁HPでは名称を「鯖神社」としています。他にも横浜市泉区内には「左馬神社(中之宮)」(祭神:源満仲ほか)や「鯖神社」(祭神:源満
源氏好きにはたまらない三ツ矢サイダーは今年で140年らしいいつもご覧くださる皆様、本当にありがとうございます。心から感謝致します。皆様にとって良い事がたくさんありますように!昨年も書きましたが、今日は三ツ矢の日、由来は、源満仲にさかのぼるまさに清和源氏ワラント(御用達)ブランドの飲み物である、三ツ矢サイダーが今年で140年になります。地球の歴史を考えれば140年はあっというまでしょうが、その間に戦争や災害に見舞われた
大河ドラマ「光る君へ」の時代は平安時代中期。この時期、武士はどこにいるのか?そもそも武士って呼ばれてたのか?この時代より前に平将門や藤原純友が乱を起こしています。平将門藤原純友の乱「光る君へ」の中で、盗賊と戦う者達がいました。それがいわゆる武士。この時代の武士には源満仲がいます。源満仲満仲は清和源氏の流れで父は承平天慶の乱で朝廷軍だった源経基。経基さんが武士の源氏の祖だなこの満仲の子が源頼信、曾孫が源義家にあたります。この後、藤原道長に仕えた4人の武士、平維衛、平致頼
西宮北口駅のカリヨン広場の鐘。ホームで適当に撮った風景、乗った電車はこのうちのどれでもありませんが。メモリアル8000ともみじヘッドマークと洗車中というレアな並びだったので。神戸線の特急で一駅、十三で降りて、神戸線大阪方面行きの5号線と宝塚線宝塚方面行きの4号線は同じホームなので、そのまま正面に着いた宝塚線急行に乗り換えて、以前スタンプラリーの時にも来た川西能勢口で下車。ここからペデストリアンデッキを歩いていくと、JRの駅が見えてきます。今回この
皆さん、多田行綱(源行綱)を知ってますか?たぶん、アメブロやっている人の千人に1人が知っているか、どうかと思われる歴史上の人物です。鎌倉幕府を開いた源頼朝と同時代の人です。私が学んだ高校日本史教科書では、多田行綱が1回だけ登場しました。残念ながら、裏切り者の評判が悪い男です。教科書では密告者として登場してました。1177年6月の「鹿ヶ谷の陰謀」の密告者です。後白河院の近臣が京都市左京区東山鹿ヶ谷の静賢法印(平治の乱で殺された信西の子)の別荘に集まって、平清盛を総帥とする平氏打倒
23.06/01thu.09:23-12:20能勢電鉄平野駅から国道を北へ平野交差点を過ぎて右に塩川、三ツ矢橋を渡り北三ツ矢サイダー発祥の地から道なり東へ能勢電鉄踏切を渡って登山口始まりの急な登りを過ぎ尾根道「ナタガ尾」をなだらかに上るやがて、登り口から南東眺望の良い岩場に立ち寄って水分補給、展望を楽しむ概ね東に、緩やかに上り少し左にピーク、三等三角点舎羅林山木の間に展望ピークを過ぎて右折分岐に注意しながら、概ね南に楽しみにしていた、石仏地蔵菩薩に出会えず
さて、昨日の日曜日は地元で、清和源氏祭りというのが開催されました。当時の衣装に扮して、駅前からキセラ公園まてパレードがありました。清和源氏祭り第59回清和源氏まつり川西市www.city.kawanishi.hyogo.jp清和源氏とは、清和天皇を起源とする氏族です。その歴史は今から1000年以上前にさかのぼります。清和天皇のひ孫にあたる源満仲公は、川西の多田盆地に移り住み「多田院」を創建しました。この「多田院」は現在の「多田神社」のことで、のちの時代に全国で活躍した源氏の武将たちは
文武両道神社仏閣・パワースポット10…多田神社@東京都多田神社【権現様】-東京都神社庁(tokyo-jinjacho.or.jp)多田神社|多田満仲公をお祀りしている神社(tadajinja.tokyo)【多田神社(東京都中野区)】アクセス・営業時間・料金情報-じゃらんnet(jalan.net)
今日は三ツ矢サイダーの日ー清和源氏ワラントの話いつもご覧くださる皆様、本当にありがとうございます。心から感謝致します。皆様にとって良い事がたくさんありますように!先日、桔梗信玄餅で有名な桔梗屋さんの記事を書きました。桔梗屋さんは昔、経営に小尾家が関わっていました。小尾家は清和源氏の家系(江戸時代の家系図では佐竹氏と武田氏にルーツをもつとされています。両氏は清和源氏の家系です。ただ、『武田氏家臣人名辞典』では藤原氏説が
先日の旅行を長々と書いています3/14に行った京都ドライブです八条通りはおもったより狭くて北側の高架を新幹線がゴーと音を立てて通りすぎました早咲きの桜の咲くここは六孫王神社(ろくそんのうじんじゃ)清和天皇の六男の貞純親王の長子である源経基(六孫王)を祀ります源経基は承平・天慶の乱を追捕使として平定後に鎮守府将軍となるなど軍事に優れた人でした神龍池を渡ってお参りします満仲が経基の屋敷跡に霊廟を建てて六の宮と称し後に源実朝夫人がここに寺を建てその