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以前あっつい中、歴史スポット好きな私が源希義の墓があるらしいと知り自転車で訪れて見つからなかった源氏の墓を12/27再度探しに来ましたミスしたところはわかっております⭐︎山に入ったら右へ行く⭐︎これです。前回、左に行き延々と昔からある古い古い墓の中をさまよいました。はい、山に到着、右へいきます!右手には木にピンクのテープがあり、、もしや〈こっちが源氏ですよ〉の印でしょうか。道が細く倒木もあり、やや心細くなりながら前進、、すぐに、何かの小屋?そして標
吉良城レポ第2弾です。その1のレポ『21.12.30吉良城[四連続堀切が残っているのですが…]その1』先に断っておきます。今から紹介する城は、完全踏破できていません。そんな城を紹介するのはどうかと思うかもしれませんが、途中までは順調…ではなかったのですが、ある…ameblo.jp---------------------------------------見所となる遺構(土塁など)はブルー、名前のある場所(本丸など)はパープル現存建築物(移築建築物含む
ちょこちょこと国内旅行をして、そのことをアップしていますが・・・ブログの性格上、あっちこっちに書き散らして、系統だった書き方をしていません。まぁ、個人的にそれぞれの旅行の思い出に浸りたく・・・旅の記事のリンク先を旅毎に纏めたのが「公紀行」です。まぁ、あくまでも個人の振り返りのための記事なので、適当に無視してください。コロナも落ち着いたこともあり、今年は久々に遠出の旅をしてました。1月の下旬に高知に行ってきました!ちなみに、観光先の候補をこの作品に載ってる場所にで
源希義・・・?~治承4年(1180年)父は源義朝、母は熱田大宮司季範の娘、同母兄に頼朝がいる。平治の乱の戦後処理で土佐国長岡郡介良荘へ流される。治承4年の兄頼朝の挙兵により平家の追討を受け、近隣の夜須氏を頼って逃走しようとしたが、その途中の年越山で討死。通称、土佐冠者。1月下旬の高知の旅・・・最終日は、土佐国分寺跡→紀貫之邸跡→舟戸(紀貫之の船出の地)と回りまして・・・舟戸から行けそうな所で、個人的に興味のある所を旅行案内本で探してますと・・・源希義公墓
源頼朝(1147~1199)・・・鎌倉幕府初代将軍。源義朝の三男、母は熱田大宮司季範の娘、妻は北条政子。平治の乱後の処分で、伊豆蛭ケ小島に配流。治承4年(1180年)平氏打倒の兵を挙げ、石橋山で大敗するが、安房に逃れて勢力を拡大、鎌倉を本拠として東国を支配する。源義仲、平氏、奥州藤原氏を滅亡させて、建久3年に征夷大将軍となり、我が国初の武家政権を樹立した。11月末の平日鎌倉日帰り旅の続きです。源頼朝の邸宅であり、鎌倉幕府初期の政治の中心であった大倉幕府旧蹟(大倉
もし、希義が配流先の土佐を脱出、鎌倉で頼朝と合流できていたらどうなっていただろう?源氏将軍は3代で断絶したのだろうか?タラレバは禁物だがつい、考えてしまう。源希義とは源義朝の五男、初代鎌倉殿、源頼朝の同母弟である。平治の乱後、頼朝が伊豆に流され、希義は土佐に流された。話が逸れるが頼朝にはもう一人、同母弟がいたそうで、義朝の四男、義門という。生年没年は不明。平治の乱で死亡したのではないかと考えられている。話が戻る。「鎌倉殿の13人」では、鶴岡八幡
2022年4月30日(土)~5月2日(月)まで開催された『第2回博多ヒーリングマーケット』セッションを受けてくださったたくさんの皆様とのご縁に、ただただ感謝しております。お時間が取れずにお断りしてしまったお客様、本当にすみません💦博多ヒーリングマーケットは、今年はもう一度ありますので、ぜひお越しいただけたらと思います♡『第3回博多ヒーリングマーケット』11月19日(土)・20日(日)開催。会場は福岡県福岡市中央区天神3丁目10-27チクモクホールへと変わります。また日程が近くなり
いつもブログを読んでいただき有難うございます。城跡と歴史で日本を元気にする「知られざる素晴らしき城跡と歴史のナビゲータ」の原一六四(ひろし)です。今月も「城跡・歴史ぶっちゃけトーク」をおこないます。日時の詳細は最後にありますので確認してくださいね。さて「城跡・歴史ぶっちゃけトーク」とは歴史好きが好きな歴史について好きに話をして勝手に盛り上がってるオンライン座談会です。ただし、少し、ディープな歴史の話をするので、ちょっとマニアック的な匂いが漂いますが実はハマっちゃう可能性があり
いつもブログを読んでいただき有難うございます。城跡と歴史で日本を元気にする「知られざる素晴らしき城跡と歴史のナビゲータ」の原一六四(ひろし)です。さて連日、お伝えしてきました「城跡・歴史ぶっちゃけトーク」ですが、明日(1月22日)のAM9:30~ですので参加してくださる方は是非、宜しくお願いいたします。本日は明日、原田隆之さんがプレゼンしてくれます「源希義」について、もう少しだけ触れておきますね。この「源希義」は挙兵する前に平家によって殺されたとか自害したとか言われていますが
いつもブログを読んでいただき有難うございます。城跡と歴史で日本を元気にする「知られざる素晴らしき城跡と歴史のナビゲータ」の原一六四(ひろし)です。皆さん、「鎌倉殿の13人」の第2回目、見ました?大泉洋さんの頼朝役、良いよね~!!で、小栗旬の義時の純粋さも相まって、凄く良いよね~!!いまのところ大満足です(笑)さて、その頼朝の兄弟に「源希義」というのがいるって話を書きました。この「源希義」は平治の乱後、土佐に流されるんですが、頼朝の挙兵とともに立ち上がるんですが、
いつもブログを読んでいただき有難うございます。城跡と歴史で日本を元気にする「知られざる素晴らしき城跡と歴史のナビゲータ」の原一六四(ひろし)です。皆さん、「鎌倉殿の13人」見てます?視聴率とかはおいておいて、かなり面白かったです!!本日(1月16日)は2回目ですね。今から楽しみです。その鎌倉殿の13人に出てくる源頼朝。このブログを読んでくれている皆さんは歴史好きが多いと思いますので、お分かりの方が多いですが源義朝の子供です。その源義朝の子供に土佐(今の高知県)に流された
いつもブログを読んでいただき有難うございます。城跡と歴史で日本を元気にする「知られざる素晴らしき城跡と歴史のナビゲータ」の原一六四(ひろし)です。さて、毎月1回おこなっています「城跡・歴史ぶっちゃけトーク」の今月の詳細です。まず、開催は1月22日(土)AM9:30~です。時間は約1時間くらいを予定しています。この「城跡・歴史ぶっちゃけトーク」は歴史好きが好きな歴史の話や城跡だったり史跡の話を自由にして盛り上がってるオンラインのトーク会です!!毎回、歴史好きがテーマ
鎌倉、大蔵幕府跡の石碑~白旗神社の奥に、ようやく源頼朝の墓が。この階段を昇ると…↓在った!↓この石塔は、幕末に薩摩藩が建てた物らしい。※江戸時代の薩摩藩・島津家は、鎌倉時代に薩摩&大隅の守護に任命されて以来、ず~っと鹿児島に根差して生き続けた家柄。頼朝公墓の隣には、謎の石囲い。↓これは、頼朝の同母弟・源希義の墓の土。“平治の乱”での敗北により、源希義(当時3歳
最近、自然災害と「応天門の変」の関係についての考察を続けていましたが、今回は、そこから少し外れます。伊豆と土佐の繋がりについて調べていて、永暦元年(1160年)、源頼朝は伊豆へ、同母弟の希義が土佐へ配流になったことに気づきました。そのことに関して、検索を重ねて、『地域資料叢書21土佐中東部の荘園故地を歩く―第2分冊:介良庄・片山庄・朝倉庄調査研究報告書―』第4部・中東部荘園故地の諸相.pdfを見付けました。巻末に、「本報告書は、2020年度笹川科学研究助成(実践
「中野区・杉並区古地図散歩」刊行元杉並区職員著書で、写真や逸話を紹介高円寺経済新聞中野区と杉並区の歴史を古地図や写真で紹介する同書。両区の前身となる「中野村」「杉並村」の誕生130周年を記念して制作された。B5判、...SRにセロー、TW、VMAXも!実は海外で生き残っているヤマハ車×5選WEBヤングマシン1978年に初代モデルが登場し、2021年モデルで43年の歴史に幕を下ろすSR400は、ファイナルエディションが間もなく発売される。2020年には...京都追放→流
源希義は源義朝の子。母は源頼朝と同じ由良御前。1159年(平治元年)の平治の乱後、土佐国へ流されていましたが、1182年(寿永元年)、平重盛の家人で土佐国の豪族・蓮池家綱と平田俊遠に討たれたのだと伝えられています(諸説あるようです。)。『吾妻鏡』によると・・・1185年(元暦2年)3月27日、希義の配流地・土佐国介良庄の僧・琳猷が希義の遺髪を持って鎌倉にやってきました。琳猷は、蓮池家綱に討たれた後、放置されていた遺体を葬って供養してきたのだそうです。面会した頼朝は、「死んだ弟に会えた
長戸うう、頭痛て・・・千佳前は先生(荀攸)が風邪だったけど、今度は顕治(長戸)?長戸いや、俺の場合2日酔い。千佳心配して損した。長戸ただ、昨日の記憶途中からないんだよ。盛り上がって、女性グループに声かけたのは覚えているんだが・・・千佳顕治の事だから、何してるかわからないわよ。長戸今日は否定できん。荀攸ははは。今日はという訳で【今様狂い】後白河法皇の落胤話の続きからだ。落胤を主張する女性を、【4代前】藤原資隆の母も認めた上、奥州の人々も信じていた。千佳4代前?
【美しき敗者】由利八郎の言葉は続く。「お前と俺は家来同士、身分の優劣はない。運がなく囚人となる事は、勇敢な武士にはよくある事だ。鎌倉殿の家来の癖に不遜な態度をする奴に言う事はない。質問に答える筋合いもない」と【行政官】梶原景時をやり込めた。【行政官】景時は顔を真っ赤にして【落馬】源頼朝に「あの男は文句ばかり言って説明をしません」と報告した。【落馬】頼朝は「【行政官】景時は無礼な態度をしたので怒ったのだろう。急いで【武士の鑑】畠山重忠を呼んでこい」と命令した。しかし【美しき敗者】八郎が
こんばんは・・・・、今回も過去のブログからリブログしちゃいます。なんかアメブロさんのアップする過程での・・・変更事とかあったせいか?一度アップした記事を読み直したら、途中書いている文字が、何度編集かけても、なんとも読みづらい感じになってしまい。ちょっと、おかしな文面に見えてしまいますが、そこのところ・・・・あしからずです。(人´口`)様式変わったら、古いものは文字列がおかしくなるようです。今回は、土佐におけるあの人の兄弟のお話し!土佐には、大河ドラマが沢山眠っているんで
さて、そうなると誰が使者となるかである。そこで白羽の矢が立ったのが、【武士の鑑】畠山重忠の武芸仲間である【日本無双】下河辺行平だった。京都から帰還したばかりだというのに、大変な話である。【落馬】源頼朝は【日本無双】行平に「反逆の意思がないようなら、一緒に連れてきてほしい」と命じた。【日本無双】行平も依存がなかった。1187年11月15日のことだった。そして21日、【日本無双】行平が武蔵から【武士の鑑】重忠を連れて帰還した。【行政官】梶原景時は、謀反の心がないのなら起請文を書いて出せと
【花栄】金刺盛澄は氏神である諏訪大神に心の中で祈ると矢を放った。矢は全ての串を射ぬいた。い並ぶ者は皆感嘆し、喜んだ【落馬】源頼朝は【花栄】盛澄の罪を許したという。さて、前回に【新島守】後鳥羽天皇が勇士の派遣を求めたと書いたが、1187年8月19日、【落馬】頼朝は【都市計画立案】千葉常胤と【日本無双】下河辺行平(【落馬】頼朝に「日本無双の弓取」と形容されていたので命名)に上洛を命じた。2人は馬を賜り、指示を受けた。また【落馬】頼朝は書状を認めている。その中では「武士が在京する事が多いが、連中
話を先に進めよう。【御曹司】源義経をめぐる各寺社への喚問、興福寺の次は延暦寺だった。ただ【落馬】源頼朝もさすがに延暦寺の立場のある者を鎌倉に呼ぶ訳にもいかず、【京都守護】一条能保を通じたものとなった。ただ延暦寺には【周防得業】聖弘の様に喚問する者の心を動かせる者はいなかったようで、【落馬】頼朝は不快感を示し、【京都守護】一条能保に再調査を命じている。3月18日の事である。寺社勢力が【御曹司】義経を匿った事実があるからだが、【落馬】頼朝はそれを理由に寺社勢力へ睨みをきかせようとしていたのでは
【行政官】梶原景時にとれば、自分にとって都合の悪いことを【落馬】源頼朝に告げる可能性があるのが【御曹司】源義経である。【御曹司】義経を【落馬】頼朝から遠ざけたい気持ちがあるのは否定できないだろう。更にいえば、この後【行政官】景時の進言によって騒動が起きた例がある。見てみよう。もともと土佐で【真の弟】源希義と共に旗揚げしようとしていた【オーシャンアロー】夜須行宗(土佐から伊豆に移動してきたということで、黒潮にのって移動してきたことになる。黒潮に乗るといえば、JRの特急“くろしお”の改良版でスタ
1184年5月4日、【朝日将軍】木曽義仲の死後逃亡していた【帯刀先生】志田義広が伊賀で討ちとられた。【帯刀先生】志田義広については、香取浦の利権対立であったり、【朝日将軍】義仲と【落馬】源頼朝の関係が悪化する原因であったりと無視できない存在だった。【落馬】頼朝の懸案事項が1つ解決したことになる。6月5日、除目が行われ、【親不知】平頼盛が国司に返り咲くと供に【蒲冠者】源範頼が三河守になるなど、かなり【落馬】源頼朝に配慮したものとなった。【親不知】頼盛は平氏だが、【落馬】頼朝からすると恩人(【頼
談志師匠のお墓にmixi日記今日も、本郷の薬膳協会で、朝から夕方まで講義をやったのですが、その後、前から氣になっていた、立川談志師匠のお墓にお参りしてきました。本郷の東大に...岡田以蔵の墓よさこいネット岡田以蔵の墓おかだいぞうのはか.「人斬り以蔵」、ここに眠る.幕末四大人斬りの一人とされ恐れられた志士、岡田以蔵。非凡な剣技を身に付けたがゆえに、...源希義の墓よさこいネット源希義の墓みなもとのまれよしのはか.介良富士の麓に眠る、源頼朝の弟.源希義