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鎌倉歴史文化交流館の企画展、「異国襲来文永の役750年東アジアと鎌倉の中世」を見に行く前の散策。源義朝の邸宅跡に建てられた寿福寺。その裏手の墓地には、かなり古い中世横穴墓“ヤグラ”の中に、多くの五輪塔が建っている。↓その中には…↑北条政子の墓や…↓↑源実朝の墓も。↓源実朝に関しては、鶴岡八幡宮で頼家の息子・公暁に襲撃され首を持ち去られてしまい、公暁が討たれた先で首だけが埋葬されたそうなので、“胴塚”と考えるべきか。源実朝(コレクション日本歌人選)[
千佳前回で『私見承久合戦』が100回を迎えました。長戸というわけで、今回回想してみようってことだな。豚白まあ、とにかく今回は自己紹介から。千佳はい。今の推しは【式目制定】北条泰時さんの香月千佳と長戸推しか・・・うーん【ババピー】大江広元の長戸賢治に豚白もとからこの時代は【得宗】北条義時推しだった豚白です。千佳『私見承久合戦』、第1回目の話覚えています?長戸確か守護職の世襲というシブいネタだったはず。千佳その後しばらく平穏無事で話が進まず、ホントに承久合戦までいく
画像多めでございます。一昨年のNHK大河【鎌倉殿の13人】を皆様ご覧になっていらっしゃったでしょうか。鎌倉殿の13人-Wikipediaja.wikipedia.org私は決して歴女ではないんですが歴史小説や時代劇が大好きでしてその上、小栗も好きでしてwいつかは鎌倉に行ってみたいと思っていたんです。で、行ってきました鎌倉。うちのアレクサに「アレクサ、3/4の鎌倉の天気は?」と聞きましたらね『雲の多い一日でウンタラカンタラ…』と言ったんです
院政復活を意図する後鳥羽天皇は、権力掌握を考えれば最善の行動をしていたと言える。しかし、権力を握って何をするかという視点で捉えると疑念を感じるところがある。政治家として最も大切な要素、すなわち、いかにして庶民生活を向上させるかという観点が完全に抜け落ちているのだ。後鳥羽天皇にしてみれば、平家政権という混迷、源平合戦という混乱、そして、その渦中で迎えてしまった養和の飢饉という悲劇があったのだから、それより前の時代に戻ればそれで社会が良くなると考えたであろうが、その考えは甘すぎるとするしかない
『解』/堂場瞬一『キウイɤは時計仕掛け』/森博嗣『赤目姫の潮解LADYSCARLETEYESANDHERDELIQUESCENCE』/森博嗣『言の葉は、残りて』/佐藤雫『義時運命の輪』/奥山景布子歴史小説は得意ではないのですが、今回は『言の葉は、残りて』/佐藤雫と『義時運命の輪』/奥山景布子を紹介しましょう。といっても、深い内容ではないのですが。たまたま連続して読んだのですが、この2作、ほぼ時代が同じで、登場人物も重なって
後鳥羽天皇はもう幼帝ではなかった。関白はいるものの摂政を必要としない元服済の天皇であり、政治的意志を持った一個人として天皇親政を、そして、院政復活を狙うまでになっていたのだ。後鳥羽天皇の目指すべき政治体制は、実体験しているわけではないが知識としては問題なかった。ベストは白河院政、次点で鳥羽院政、妥協して後白河院政だ。後白河院政はその大部分が平家政権と重なっており、平家政権と重なっていない部分は木曾義仲と鎌倉幕府の強い影響下だ。鳥羽院政はそれなりに強固なものがあったが藤原頼長をは
自分の娘が産んだのが女児であったことを悔やんだという九条兼実であるが、表面上はこれまで通りであろうとしていた。しかし、周囲はもう九条兼実から離れだしていた。藤氏長者にして関白である九条兼実の肩書きには誰一人として否定できないものがあるが、九条兼実に未来があるかどうかを考えると、無いという結論に至る。後鳥羽天皇との間に生まれた子が女児であったことは九条兼実を落胆させたが、後鳥羽天皇の年齢を、また、九条兼実の娘でもある中宮任子の年齢を考えても、そう遠くない未来に中宮任子が男児を産むことは期
熊谷直実が八月一〇日に鎌倉を訪れたのは吾妻鏡に記載されているとおりであろう。仮に吾妻鏡の記載が捏造であったとしても、東海道藤枝宿に熊谷山蓮生寺をこの頃に建立したことの記録が残っていることから、この時期に熊谷直実が鎌倉方面に向かったのはおかしな話ではない。つまり、鎌倉幕府の御家人たちはかつての同僚が僧侶となって鎌倉方面に向かっていることを知っていたし、その前に熊谷直実のことを思い出させる出来事も起こっていたことは間違いない。忘れてはならないのは、この時期の鎌倉幕府の御家人達は京都から戻ってき
さて、この時期の吾妻鏡の記事の中には古典の授業でも出てくる有名な話が出てくる。記事が記されているのが建久六(一一九五)年八月一〇日のことなので、ここで記しておくべきであろう。その話とは、熊谷直実。平家物語の平敦盛の最期の場面に登場する武士である。いや、武士であった。平家物語では、わずか一七歳の少年を自分の手で殺めなければならなかった現実に悲観して出家したという。そして、吾妻鏡の八月一〇日の記事も出家した身である熊谷直実が、この日、鎌倉を訪れて源頼朝と面会したとある。源頼朝はもう少し鎌倉でゆ
京都市内より、嵐山行のバスにゆらゆら揺られ、こっくりこっくり居眠りしながら嵐山に行きましたお天気まあまあ、時折雪みたいなものがふわっと降ったりして、京都の天気はよく理解できません平日とあって、渡月橋の人出もそれほどではありませんでした渡月橋より、川の上流側に向けて歩くと、数分のところに嵯峨嵐山文華館がありますここで、開催されているのが「よきかな源氏物語」という展覧会一部を除き、撮影OKでした「紫式部図」北野恒富個人蔵北野恒富という人は、大阪画壇を
「風さわぐをちの外山に雲晴れて桜にくもる春の夜の月」(山に風が吹き、雲を晴らし、桜に曇って、月が浮かぶ)源実朝が詠んだ歌。実朝桜は、1219年(建保7年)、甥の公暁に暗殺された源実朝の首が葬られたという秦野市から、2011年(平成23年)に移植された八重桜。ソメイヨシノが終わる頃から咲き始めます。☆☆☆☆☆
鎌倉幕府の面々が去り、京都は平穏を取り戻していた。本来ならばその平穏の様子を当時の記録から推し量りたいところであるが、非常に残念なことに、九条兼実の日記は建久六(一一九五)年五月から八月の記事が現存していない。ゆえに他の史料からこの頃の京都の様子を推し量るしかない。ただし、九条兼実という権力の中枢中の中枢にいる人物の残した記録ではないため、この頃の九条兼実の様子について、本人の心情を把握することなしに客観的に知ることができるというメリットもある。さて、建久六(一一九五)年五月から八
建久六(一一九五)年六月二五日、鎌倉幕府の面々が鎌倉へと出発した。表向きの目的である東大寺再建供養への参列は果たしたが、真の目的である大姫入内は果たせなかったこともあって、吾妻鏡における京都から鎌倉への帰路の記録は、統治者として、また、組織のトップにあるものとしては相応しい内容であるものの、大姫についての記録は不自然な形で抜け落ちている。とはいえ、全くの失敗であったわけではない。京都の政界でそれまでの絶対的な権勢が空洞化しつつあった九条兼実との関係を薄くし、その代わりに丹後局と土御
鎌倉幕府の面々が上洛したのは、主目的は源頼朝の娘を入内させることであったものの、表向きは東大寺再建供養への参列である。東大寺再建供養が終わっても京都に留まり続けたのも、主目的は源頼朝の娘を後鳥羽天皇のもとに入内させることであっても、名目としては東大寺再建に尽力した方々にまだ会えていないことが鎌倉へと戻らない理由になっている。つまり、重源上人と会った瞬間に源頼朝の京都滞在の理由は無くなるので、鎌倉幕府の一行はただちに京都を発って鎌倉に戻ってもおかしな話ではないのだが、現実問題としてそのような
京都を発って四天王寺に向かい一泊二日で戻ってきた、それも、どんなに少なく見積もっても一万人を超える人数が一泊二日で戻ってきたとあって、京都内外に鎌倉幕府の実力は否応なく広まることとなった。その上で、以下の記録を読んでいただきたい。建久六(一一九五)年五月二二日、源頼朝、参内。九条兼実と面会をする。建久六(一一九五)年五月二三日、源頼朝、六条殿に向かった後、後白河法皇が住まいとして構えていた法住寺へ参詣。二日連続で参内と参詣をしただけと考えるかもしれないが、源頼朝は五月二〇日に京
建久六(一一九五)年五月一八日、鎌倉幕府の一行は四天王寺へ向けて出発することを決めた。それも、鎌倉武士達にとっては珍しく、水路での移動であった。淀川に船を浮かべて南西へと進むのである。吾妻鏡はそのことについて、四天王寺にまで陸路で進むと、途中経路になってしまった荘園は鎌倉幕府の行列を歓待しなければならず、その負担はかなり大きな物となってしまう。このことを考えると水路で一気に南西に向かった方が途中の負担が小さくて済むという配慮であったとしている。その側面は無視できぬものがあったであろうし
かきくらし猶降る雪の寒ければ春とも知らぬ谷の鶯金槐和歌集(岩波文庫黄103-1)[源実朝]楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}実朝のことを想うと涙が出てくる、と書いたのは太宰治だったか。涙までは出ないが、ともかくこの歌は好きだ。
トンネルをぬけて江ノ電極楽寺光さざめく鎌倉は春鎌倉六題。アットいう間の六作!その六、、トンネルくぐり江ノ電は極楽寺駅へ。古びた駅舎、、、〜光る君へ〜六夜https://frcodon.yoka-yoka.jp/e2338973.html
右大将のぼる八幡きざはしにウメ花遊んで春知る鎌倉鎌倉六題。アットいう間の六作!その五、、鶴岡八幡宮参道で、小林秀雄が神籬の枝に手をのばすのに行きあうた、、、「源実朝坐像」甲斐善光寺蔵〜光る君へ〜五夜https://frcodon.yoka-yoka.jp/e2337764.html
稲村の岬まぶしくひかる春相模の海に不二は裾引き鎌倉六題。アットいう間の六作!その二、、実朝を真似て箱根路をわが越えくれば伊豆海や沖の小島に波のよる見ゆ実朝「金槐集」松岡映丘「右大臣実朝」〜光る君へ〜二夜https://frcodon.yoka-yoka.jp/e2337426.html
先に、東大寺再建供養の場に大仏鋳造責任者となった宋人の陳和卿も、そして、東大寺復旧工事の総責任者である重源上人もいなかったことは記した。陳和卿についてはそのあとで源頼朝が面会を求めるも断られ、ならばとこの時代で最上級の贈答品を贈ったもののその態度は素っ気ないものであったことを記した。東大寺再建供養における貢献度でランク付けすると二番目に挙がる人物と面会できずにいる。これは源頼朝にとって痛事であったが、この痛事ですら微々たるものと感じられる痛事が源頼朝には存在していた。重源上人と連絡
娘を入内させることを目論む源頼朝にとって障壁となっていた九条兼実が障壁で無くなり、宣陽門院に協力したことで丹後局高階栄子のバックアップも得ることに成功したことで、あとは娘である大姫を入内させるのみとなった、はずであった。ところがここで九条兼実に大きなプラスが働いていることが判明した。後鳥羽天皇の中宮である九条任子の懐妊が判明したのである。九条任子こと藤原任子は九条兼実の娘であり、文治六(一一九〇)年に後鳥羽天皇の元に入内している。同年四月には中宮に立后しており、ここまでの流れは藤原摂関
九条兼実にとっては、長講堂領荘園の権利確認そのものが政治的に痛い話であった。私有財産への侵害だけでも問題であるのに、後白河法皇の保有する資産の相続に口出ししているとなっては政治的に大きな失態だ。建久六(一一九五)年四月一〇日に御所に参内した源頼朝は、朝廷内で貴族達と議論を交わしただけでなく、その日の夜には九条兼実と一対一で面会したことが記録に残っている。ただし、そのときの成果は思い通りの結果ではなかったようである。普通の政治家であればここで九条兼実に丸め込まれてしまうところであるが、源
源頼朝が狙っていたのは娘の入内である。とは言え、仮に九条兼実が政治的ミスをやらかしていなかったならば、源頼朝は九条兼実との離反を考えはしなかったであろう。京都の政情安定と国民経済の向上に役割を果たしているならば、後鳥羽天皇のもとへ入内させるか否かについては議論が分かれても、政治的見解の一致から源頼朝はこれまで通り九条兼実と接近していなければならない。しかし、入内問題についての意見が分かれるだけでなく九条兼実の政治的失態が加わるとあれば、源頼朝は九条兼実と離れることとなる。鎌倉幕府は荘園
こんにちは。先日、神武寺から鷹取山を上り、追浜まで行く散歩(登山!)をしてきました。まずは神武寺までの記録を。京急の神武寺駅で下車。ここから歩きます。途中でかわいらしいお地蔵さんを拝みながら…。このトンネルを抜けて…。神武寺の入り口へ。ここから結構急な坂です。いやあ、もうすでに登山じゃんけ(;∀;)峻嶮な石段を登りながら…。山道を歩きながら…。お堂が見えてきた。到着します。神武寺とは奈良時代に高名な僧侶である行基により創建されたといわれ
そのあたりの答えは建久六(一一九五)年四月一日の九条兼実の日記にある。九条兼実はこの日も源頼朝と面会したことは書いているが、そこにあるのはかつてのような友好的なムードではなく、源頼朝が九条兼実に対して段々と冷淡になってしていることへの嘆きである。源頼朝が丹後局高階栄子を六波羅に招いたこと、そして、大盤振舞と言えるだけのプレゼントを用意したことも知っている。源頼朝は丹後局高階栄子だけでなく九条兼実にもプレゼントを贈っているのだが、「源頼朝卿、馬二疋を送る、甚だ乏少」というのが九条兼実の日
ただし、源頼朝にしてみれば高階栄子に対する接近は必ずしも最良とは言い切れない。高階栄子は九条兼実に対抗する勢力の中心である土御門通親こと源通親と親しく、この頃には既に高階栄子が九条兼実に対抗する勢力の一員と見られるようになっていた。土御門通親の妻は後鳥羽天皇の乳母である藤原範子であるため、後鳥羽天皇に自分の娘を紹介することを考えたときの選択肢として不合理には一見すると感じられないが、土御門通親は既に義理の娘を後鳥羽天皇の後宮に送り込んでいたのである。藤原範子は土御門通親のもとに嫁ぐ前は僧侶であ
さて、その大前提となるのが大姫を後鳥羽天皇のもとに嫁がせることであるが、結論から言うと難航した。入内といっても大姫が皇后や中宮に立后されることは難しい。そもそも後鳥羽天皇の元には九条兼実の娘である任子が嫁いでおり、文治六(一一九〇)年四月には中宮となっている。なお、後に中宮任子が妊娠していることが判明するが、建久六(一一九五)年三月時点ではまだ判明していない。それでも正式な中宮がいる天皇のもとに入内させるのは難しく、源頼朝の権力でもどうこうなるレベルではないのが実情だ。そのあたりのこと
源頼朝とて、京都の貴族達から向けられている視線を理解していないわけはない。とは言え、そのまま放置することを良しとするほど無神経ではない。人間、脳内に作り上げている序列を崩すのは容易なことではない。テストの点数のように明瞭な数値で序列を示すことが可能な場面であっても、自らの脳内で抱いている序列に反するような結果については簡単に受け入れることができないし、一生受け入れることができないことも珍しくない。建久六(一一九五)年三月時点の源頼朝の立場で考えると、京都の貴族達が自分に向けている蔑視の
このことは源頼朝も当然ながら知っている。式典の翌日である建久六(一一九五)年三月一三日、源頼朝は復旧工事に尽力した陳和卿への面会を求めたが、陳和卿はそれを拒否した。仏門に関係する人間として、源平合戦で数多くの人を殺害した人とは会えないというのがその理由だ。源頼朝としても実際に数多くの血を流させたことは否定できず、会えない代わりということで、奥州合戦に使用した甲冑、鞍、三頭の馬、金銀を贈った。これはこの時代の感覚で行くと個人相手への最上級の贈答品だ。しかし陳和卿は、甲冑については大仏殿建