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11/29(土)、鎌倉へひとり散策に行ってきた記事の続きです。前記事はこちら『鎌倉散策11/29⑦北鎌倉・建長寺その2』11/29(土)、鎌倉へひとり散策に行ってきた、記事の続きです。前記事はこちら『鎌倉散策11/29⑥北鎌倉・建長寺』11/29(土)、鎌倉へひとり散策に行っ…ameblo.jp建長寺でも紅葉を堪能して、巨福呂切通を通って次の目的地へ。建長寺側から行くと下り坂なので、楽ちん♪鶴岡八幡宮丸山稲荷の方から入りました。丸山稲荷の手水舎で、手を清めて。鶴岡八幡宮の御
「湯帷子」(ゆかたびら)加藤高穂修禅寺や湯殿血染めの湯帷子小学五・六年生の時だったろうか。母に連れられ、岡本綺堂の戯曲『修禅寺物語』が映画化されたものを観に行った。鎌倉幕府の第二代征夷大将軍・源頼家の非業の死を描いたものだったが、内容に関しては、とんと記憶にない。1204年7月18日、伊豆の修禅寺に幽閉されていた頼家を、武士の一隊が急襲する。入浴中だった彼は、腕の立つ勇猛の士として知られてはいたが、何一つ武具を身につけていない。
後に藤原頼経と名乗ることとなるその男児は、このとき二歳。寅歳寅日寅時に生まれたことから、この頃はまだ三寅(みとら)と呼ばれていた。北条政子を主軸とする鎌倉幕府の首脳陣は、三寅を鎌倉に招いて鎌倉幕府第四代将軍とすると同時に、この男児が成長するまでは北条政子の位階を利用して組織を存続させることとしたのである。一説によると、鎌倉幕府第四代将軍に三寅を強く推挙したのは大納言西園寺公経であるという。三寅にとって西園寺公経は母方の祖父だ。西園寺公経が権大納言から大納言への昇格を後鳥羽上皇に訴え出て拒否
坊門姫の実父は源義朝である。源平合戦後ならばともかく、平治の乱から源平合戦勃発までの間、すなわち平清盛の時代において源義朝は国家反逆者として極悪人の烙印を押されており、その人物の娘なのだから普通であれば宮中に姿を見せるどころか隠遁生活を過ごしていなければおかしいところであるのに、坊門姫は藤原北家中御門流の貴族である一条能保のもとに嫁いでおり、一人の男児と三人の女児をもうけている。その三人の女児のうちの長女が後に九条良経のもとに嫁ぐことになる女児であり、次女が後に西園寺公経のもとに嫁ぐこととなる
鎌倉紅葉狩り記事第4弾。鶴岡八幡宮の西に広がる町、扇ガ谷。その最奥の海蔵寺からJR線路沿いに出て、鎌倉駅方面へ進みます。そこには、徳川家と源氏ゆかりの名刹が佇んでいます。東光山英勝寺総門徳川家康の側室だったお勝の方が出家して英勝院を称し、先祖の太田道灌ゆかりの地である扇ガ谷に創建した尼寺です。陽の光を浴びて輝く総門前の銀杏。黄葉の美しさの本気を見ました。山門(国指定重要文化財)山門をまるで仁王像の様に囲む紅葉と黄葉。仏殿
日曜日にブックオフで、山本健吉編著『句歌歳時記冬新年』という本を見つけた。最近「歳時記」がマイブームなので、目に飛び込んできた。パラパラとめくってみて、間違いなく名著だと思われたので、即購入した。昨日今日、時間があるとページをめくって読み耽っている。予想に違わぬ名著であった。「歳時記」と銘打っているものの、季語の解説はなく、季語ごとに句が集められているわけでもない。題名に「句歌」とあるとおり、俳句だけでなく和歌、短歌も収められている。選句歌の範囲は、万葉
鶴岡八幡宮つるがおかはちまんぐう久しぶりの鎌倉…そして巳年弁財天巡り鶴岡八幡宮続きです本宮に続く石段三代将軍·源実朝の遭難で有名…15年前の台風で倒れた銀杏ですが…美しい黄葉です❗️本宮へなかなかの人混みです本宮は撮影不可…参拝後本宮を背に撮影…遠くに大鳥居⛩️が見えますそして…自分はココに来たかった丸山稲荷社数ある各地の神社にある境内社のお稲荷さんの中でも自分の中で5本の指に入る大好きなお稲荷さんなのです鶴岡八幡宮よりも前から鎮座していたと言わ
こんばんは🌛今日は一日中曇り空でしたが、洗濯物を干した後は自宅でゆっくりしていました仕事は昨日までに予定通り終わり、毎年忙しくなる来月への積み残しも無し❗週明けは年末に向けて業務計画をしっかりと立て、3か月連続して頂いていた残業代をゼロにしたいと思っております以下、2025年11月24日(祝)撮影今回は観光スポットになっている、源氏山公園から山道を下って横須賀線沿線に抜けるコースを紹介します✨公園近くには佐助稲荷神社や銭洗弁財天、葛原岡神社等、観光客にも人気のパワースポットが点在しており
京都守護の任命と並行して、鎌倉幕府として皇族を将軍として迎え入れることに異論はないという意思を示す必要もあった。皇族の男児を鎌倉に向かわせた後で別の源氏の男児が将軍位を狙うことが無いという意思を示すために、建保七(一二一九)年二月一九日に金窪行親をはじめとする御家人を駿河国へ派遣した。吾妻鏡によると、源実朝の死の知らせを受けて、阿野全成の四男の阿野時元が軍勢を組織して駿河国深山に砦を築きあげたという連絡が二月一五日に届いたとある。阿野時元の言い分としては宣旨を受けて東国の統治を任されること
鎌倉幕府の内部でも鎌倉幕府をこれから先どのように存続させていくべきか検討が繰り返されていた。その中で意見の一致を見たのが、従来から誓願してきた皇室の男児の下向を求めることである。従二位の位階を持っているために一時的に鎌倉幕府の軸を担うことが許される北条政子が強く主張し、多くの御家人達も北条政子の意見に同意を示したため、皇室の男児を鎌倉に招くことを中心に話を進めることとなった。建保七(一二一九)年二月一三日、鎌倉幕府は二階堂行光を使者として京都に向けて派遣することとした。六条宮雅成親王と冷泉
建保七(一二一九)年二月九日に加藤景廉が京都から鎌倉に戻ってきた。先に記したが、一月二八日の早朝に鎌倉を出発して二月二日に京都に到着したのが京都における源実朝暗殺の第一報であり、源実朝、源仲章、源師憲の三名が公暁によって殺害されたという知らせを受けて京都中が騒動となって、京都在駐の鎌倉幕府の御家人達だけでなく、北面武士や西面武士、また僧兵達も武装する騒ぎとなっていた。特に、それまで鎌倉幕府によって押さえつけられていた武士達が鎌倉幕府打倒の絶好のチャンスと考えて蜂起する動きを見せ、後鳥羽院か
京都に源実朝が亡くなったというニュースが届いたのが建保七(一二一九)年二月二日、この知らせを受けて後鳥羽上皇が水無瀬から京都に戻ってきたのが二月六日のことである。その間、鎌倉ではどのようなことが起こっていたかに着目すると、建保七(一二一九)年二月五日に、源実朝の右大臣就任拝賀式のために京都からやって来ていた上達部や殿上人ら等が京都へと戻っていったことの記録が見て取れる。これを単に貴族達が京都に戻っていっただけではないかと考えるのは浅慮に過ぎる。貴族達が京都に帰れるだけの安全がようやく確
源実朝が暗殺された翌日の建保七(一二一九)年一月二八日に鎌倉を出発した加藤景廉が京都に到着したのは二月二日の午後である。通常、噂の伝播スピードは公式な情報伝達より早い。しかし、鎌倉から京都まで五日間で踏破するという異例極まりないスピードであったこともあり、源実朝暗殺の情報が京都に届いたのは加藤景廉の知らせが最初の知らせであった。源実朝殺害の知らせは一瞬にして京都内外を混乱に招いた。源平合戦は忘れることのできない悪夢であり、悪夢の末に手にした平和の具現化こそ鎌倉幕府であった。その鎌倉幕府
源実朝が殺害されてからの一連の流れにおいて中心を担っていたのは北条義時である。このときの北条義時は政所別当と侍所別当を兼ね、また、位階を有していることから御教書を発行できる権利も持っていた。そのため、建保七(一二一九)年二月時点で北条義時が各種命令を発行することについて法的な問題はない。とはいえ、源実朝が幼い頃とでは事情があまりにも違う。源頼家が病に倒れ源実朝が鎌倉幕府第三代将軍に就任したときは、源実朝がまだ位階の低い貴族であったものの近い未来に従三位以上の位階を得ることが確実視されて
源実朝が殺害されたとき、僧兵の風体をした者が複数名いたこと、そのうちの一人が公暁であり、公暁が源実朝を殺害して首を切り落とし、源仲章も殺害し、その後で逃走したことは判明している。また、三浦義村の差し向けた者によって、公暁だけでなく、公暁と行動をともにしていた風体の者が殺害されたことも判明している。何度も繰り返すが、公暁は鶴岡八幡宮の別当であった。いかに鶴岡八幡宮の中で孤立していようと、また、千日講に入っていて外との連絡を絶っていようと、組織図上、公暁の部下であった僧侶もいるし、千日講に
11月17日明け方見た夢に娘が出てきて、石川県に戻る前に実朝公園(田原ふるさと公園)に一緒に行き、ヤーコンを買ってと言うので話しながら選らんでいる時に目が覚めてしまった…なので生前娘がこっちに帰って来た時にリハビリ散歩に一番良く行っていた実朝公園へおいらが娘に作ってあげた竹の杖を持って出掛けました。最近暖かい日が続いたので散歩に行こうか?と娘の霊前に語りかけてたのでやっと行ってあげる事が出来ました。何パターンか回り方はあるのですが一番良く行くコースで回ります。残念ながら月曜日なの
研究者の中で有力となっているのは、原点である公暁単独犯行説である。深く考えるから黒幕を考えつくし、もっと深く考えるから源実朝影武者説が登場するのであり、そもそもの計画の杜撰さを考えると、最初から公暁が計画して犯行に及んだと考える方がまだわかるのだ。まず、公暁がどうして衆人環視のもとで犯行に手を染めたのかという点を考えねばならない。純粋に源実朝を殺害することだけを考えるのであれば、わざわざ衆人環視というシチュエーションで手を染めるのはリスクが高い。普通に考えれば邪魔される。いかに拝賀式が
三番目の説であるが、この説は信憑性こそ乏しいものの、これまでの源実朝の行動が完全に説明できてしまう新たな説である。それが、最長で足かけ一二年に亘る長期計画説。着目すべきは、源実朝の首が公暁によって持ち去られたまま源実朝が埋葬されたことである。首が見つかれば改めて埋葬すればいいのに再埋葬は執り行われていない。三浦義村が一時的に源実朝の首を取り戻したらしいという伝承はあり、慈円は愚管抄で鎌倉幕府が源実朝の首を雪の中から見つけ出したと記してもいる。しかし、誰かが源実朝の首を持参したという話も
こんばんは。ブログを書くのも読むのもちょっとご無沙汰になっていましたテツandトモではないですが10月末だと思っていたら11月が半分過ぎてるのなんでだろう〜週末はあっという間なのに平日がめちゃくちゃ長いのなんでだろう〜またしても家を出る20分前にシャワーを浴びてるのなんでだろう〜(寝坊したから)きりきり舞いしてるのに全然やせないのはなんでだろう〜(それ以上に食べてるから)と、歌いたくなるような日々です。(残業続きのときに衝動買いしたケーキ。一人で3個食べ
追物射(おいものい)追物射は承平年間(931~937)に源順(みなもとのしたごう)が編基した百科辞典である『和名類聚抄』(以下、『和名抄』)巻四・術芸部類では『於无毛以流』(おむものゐゐ)と訓読しているつまり追物射である追物射とは、獲物を追い掛けて矢を射る狩猟であり、その弓射姿勢は鐙を踏ん張り、鞍壺から腰を浮かせ(これを立鞍という)⏬️✨️源義家インターネットより✨️⏬️🌟時代平安時代中期-後期🌟生誕長暦3年(1039年)🌟死没嘉承元年7月4
次に、三浦義村黒幕説。これは、公暁が源実朝を暗殺した後に北条義時を殺害しようとしたことから注目されている説である。三浦義村の行動はたしかに怪しい。そもそも拝賀式の行列に姿を見せてすらおらず、そのときは自宅にいたのだ。公暁が源実朝を殺害し、実際には源仲章であったが公暁の頭の中では北条義時も殺害したということになっている。ここでもし、源仲章ではなく本当に北条義時が殺害されていたならば、ここで一気に三浦一族の軍勢を蜂起させて北条義時亡き後の北条家を討伐し、公暁を第四代将軍として推戴するこ
まずは、北条義時黒幕説。愚管抄にその記載は無いが、吾妻鏡によると北条義時は拝賀式の直前で体調不良を訴えて離脱している。つまり、直前に危機を脱している。また、このあとの鎌倉幕府の展開を考えたときに、ここで源実朝がいなくなって利益を得るのは誰であるかを考えると、北条義時という答えが出てくる。事件を前もって知っているからこそ行列から離脱できて危機を脱したことに加え、公暁を殺害犯とすることで源氏将軍の血を事実上絶やすことに成功したのである。このあとの北条家が鎌倉幕府でどのような地位を確立したかを考
鎌倉の鶴岡八幡宮でご朱印帳デビューすることにしました。家族は昔からやってたのですが私は興味持てなかったのですが、最近時間が取れるようになり思い立ちました。まずは参拝してから。平日午前中だったので空いてました。修学旅行の学生さんはたくさんいました。2010年に倒れた大銀杏が復活途上です。源実朝が襲われた13段目の石段から撮ってます。鎌倉の鶴岡八幡宮らしいご朱印帳を選びました。目の前で書いて頂きました。達筆!鶴岡八幡宮の源平池の源氏池にある旗上弁財天社『政子石』若い頃、北条政子は源頼
北条政子の墓参りに『寿福寺』を尋ねました。北条政子と源実朝のお墓は『寿福寺』の墓地の奥まった所にあり山門からは300〜400mくらいありました。北条政子が開いた鎌倉五山第三位の寺と書いてあります。『やぐら』と呼ばれる横穴式の墓地です。岩山の多い鎌倉らしい方法ですね。手前が北条政子、奥から二つ目のやぐらが源実朝の墓所のようです。北条政子の案内板の字は読めるのですが、源実朝のお墓の案内板は壊れていて「実」の文字しか読めませんでした。かつての天下人の墓所参詣。平日午前中とはいえ誰にも会うこ
第八十三代土御門(つちみかど)天皇は、鎌倉時代の天皇です。御父、後鳥羽天皇の第一皇子、御母は源在子(ざいし)。順徳天皇は異母弟。建久六年(1195年)生。諱名は為仁(ためひと)。ご在位は建久九年(1198年)から承元四年(1210年)。後鳥羽天皇の譲位により四歳で即位され後鳥羽上皇の院政が敷かれました。皇太子になったのは占いによって三人の皇子から選ばれてのことでした。藤原定家は日記『明月記』にて、このような重事が軽率に行われたことを非難いたしましたが、これは在子の養父で
源氏の血筋と源氏の覇権争いを描いた小説『実朝の首』は、葉室麟氏の小説です、現在読んでいる最中です。ただ、源頼朝が鎌倉の地に幕府を開いて武家政権を確立したのですが、頼朝以降、実に悲惨な結末を迎えています。源氏の家系図が上ですが、頼朝は河内源氏の系統でした。それに摂津源氏が絡み二代将軍・頼家、北条家の傀儡として擁立されたのが、実朝でした。源と北条の権力闘争頼朝、頼家、実朝と三代続いた源氏の、というより河内源氏の血筋は、実朝の暗殺とそれを実行した公暁(頼家の子)が殺されことに
そうだとしても源実朝の周囲を警護する者はいたのではないかと考えるかも知れないが、場所と犯人を考えていただきたい。事件現場は鶴岡八幡宮であり、犯行に及んだのは鶴岡八幡宮別当の公暁だ。不審者が鶴岡八幡宮に近づかないよう、また、鶴岡八幡宮の中においても源実朝のもとに不審者が近づかないように警護はしている。それに、この時代の寺院や神社というものは僧兵を抱えているものであり、このようなときに僧兵が警護の隊列に加わるのはおかしな話ではない。また、警護の関連で僧兵が持ち場を離れることもおかしな話ではない。被
何度も繰り返すが、吾妻鏡は鎌倉幕府の正史であるとは言え、後の時代に、それも北条家によって都合良く編纂された歴史書である。一方、この時代を生きた人が書き記した歴史書も存在する。神武天皇から書き始めているために一つ一つの出来事に対する記載はどうしても少なくなる上、筆者自身は京都とその周辺で生きてきたため、この時代の鎌倉のリアルな様相を知ることはできなかったが、それでも源実朝暗殺事件そのものを京都で体験した人の記録になっている歴史書が存在する。慈円の残した愚管抄だ。愚管抄によると、拝賀式
源実朝暗殺事件の翌日の建保七(一二一九)年一月二八日の早朝、鎌倉幕府は加藤景廉を鎌倉から京都への使節として出発させた。源実朝が亡くなったことを朝廷へ報告するためであり、通常ならば七日間であるところ、このときは特別に五日間で京都に行くように厳命しての出発である。同日の辰刻、現在の午前八時頃、源実朝の正妻である御台所が髪を落として出家をし、大江親広、長井時広、中原季時、安達景盛、二階堂行村、加藤景廉をはじめとする一〇〇名以上の御家人も源実朝が殺害されたことに心を痛めて出家を選んだ。その中の一人
2025.11.8(土)5日の句会で仲間の一人から柿を頂いた。次郎柿と富有柿。自宅の庭で育てているもの。20個位を持参するのは重たくて大変だ。次郎柿は平べったく四角い、シャキシャキした硬めの触感、さっぱりとした甘さがある。ウィキペディアによると、「“富有はあごで食べ、次郎は歯で食べる”といわれるほど歯応えがある」そうだが、実感した。句友は親切だ。来年の日めくりカレンダーのコピーをくれた。実は以前、去年と一昨年の日めくりカレンダーのコピーをまとめてもらい、それがブログを書くのに役立っている