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二つの神社を過ぎ、鎌倉駅に向かうと国指定史跡の寿福寺があります。現在は御朱印対応や堂内拝観は対応が難しくなっており、鎌倉十三仏霊場も脱退しています。参道や参門外から境内を見学することや、実朝・政子の墓参りは可能です。その他、国指定重要文化財の仏像は鎌倉国宝館で常設展示されていることが多いです。現在は電話対応も厳しいという事なので、blogで紹介することも憚れますが、境内や実朝・政子の墓所を見学・お参りのみという事でご理解を賜れればと思います。ここでは国指定史跡の境内のみ紹介させてい
富士山や荒波や松の書いてある着物が欲しい。作ってもらえるものなら、ぜひとも作って貰いたい。2,000,000円にひゃくまんえん!である。・・・ので、夢だけ語ろう!以下、妄想です。高校時代からとても好きな和歌があって。それは鎌倉三代将軍源実朝の有名な和歌で「大海の磯もとどろに寄する波割れて砕けて裂けて散るかも」というのだけれど、荒波の柄で遠景に富士山が見える。ような着物にこの和歌を八掛でも袖の裏っ側でもいいので、書いてもらったら、素敵だろう
雨が降ってたけど上がった。歩いてきます🚶♀️🚶♀️美しいツツジ🌺に引かれこれ変換出ない。。。うすい水不動明王堂。。。源実朝の妻であった坊門姫(西八条禅院)が実朝の菩提を弔うため建てた遍照心院大通寺から移したものです。今日発見しました😅😅😅京都は奥が深い。。。大通寺は中には入れないけど。この明王堂もう一度ゆっくり見て来ようと思いますフォーレ本番終わってやっと時間に余裕が出来た。何かおにぎり🍙とかサンドイッチ🥪ばっか食べてたような数日🥲🥲🥲
百人一首といえば源頼朝と源実朝ですかねやっぱと勝手に思っております源頼朝は我が祖の主君でもあり我が祖は奥州合戦で奥州藤原氏討伐入りで関東から東北入りしました百人一首は結構歴史が繁栄されていて面白いです百人一首は百人の一首で辞世の句を詠んだ句なんだと打首獄門磔で思ってた私でしただって丁重な箱にいれてあるし怖い声で札読みするし坊主や女の幽霊や変なひとばかり出てくるんやもんね
鶴岡八幡宮の本殿のお参り後は、横にある丸山稲荷神社へ。おおぉーお稲荷様っぽい白い桜。ここには、五条悟と呼んでいる(私が勝手に)イケメン狛狐さんがいらっしゃるの♡イケメンきたーーーー!!!(なぜ五条悟か?お顔がイケメンで、お耳が、五条悟の領域展開《無量空処》の指の形に見えるから)おーー、どなたかに、白い桜を飾ってもらってらっしゃる。と、正面見たら、花の冠までーーいいっすー!!!ウカ様、お参りとお花見にきましたー。なーんか不思議と、お参りするとウキウキする、やっぱり
4/6(土)曙橋JAZZBARFILLIN、初出演のライブが、ぶじに終わりました。お越しくださった方、ありがとうございました!この日は、ボーカルが、私以外に、もうお一人、クリビアサチさんクリビアサチさんのお客様で、ご予約が早々に満席になり、会場は熱気に包まれました。※撮影禁止のため、演奏の動画はありません。上段左から、篠宏昌(b)山口コージ(p)YASU(d)下段左から、栗田智香子、クリビアサチ3ステージあって、1ステージ3曲ずつ、計9曲を歌わせて頂きま
失脚したはずの九条兼実の家司であるはずの三条長兼が、自由自在に内裏に出入りするようになっているのは、後鳥羽天皇が三条長兼を直接呼び出すようになったからである。三条長兼は唯一の例外なわけではなく、多くの中下級貴族が後鳥羽天皇に呼び出されるようになっている。この件について、三条長兼は面白い記録を残している。建久七年の政変を境にして、後鳥羽天皇のもとに情報が数多く集まるようになったというのだ。藤原摂関政治においては、摂政や関白である藤氏長者のもとに情報が集中するようになっていた。日記のタ
クーデターとしてもよい建久七年の政変を主導したのは土御門通親である。その後の政権運営を見ても土御門通親の意向が強く反映されていることが読み取れるというのが人口に膾炙されているところである。しかし、よく見ると、本当に土御門通親の意向なのかと疑念に感じる点も出てくる。公卿補任を見る限り、建久七年の政変に伴う人事と断言できるのは、関白が九条兼実から近衛基通に変わったことと、藤原兼房が太政大臣を辞職したため太政大臣が空席となったこと、そして、一条高能が新たに参議に任命されたことだけである。しか
【#行ってきました】#鶴岡八幡宮の#献詠披講式。先日#鎌倉行ってきた目的はこちらです。三代将軍・#源実朝公は#和歌の名手であった、そのことを記念して全国から和歌を募集、優れた作品を披露するのです。#花らっきょうも令和になる前後から、毎年のように和歌を献じております。今年は何でも20年目を迎え、コロナ禍を抜けて久々に参列者も招待したとか。広々とした境内に吟詠の声が響き渡る、何とも厳かな風情で御座いますこと。あくせく働くでもなく、ガツガツ稼ぐでもなく、
現時点で土御門通親のもとに集っているのは九条兼実に対する反発である。ここで九条兼実がいなくなり、藤原兼房がいなくなり、さらに慈円も天台座主の地位から降りたために権力の中枢から九条家がいなくなる。つまり、九条兼実への反発だけを軸にして集まっている勢力から共通の敵を奪ったらどうなるか?集団が瓦解する。関白は近衛家が継承したものの、近衛家が九条家に変わって政権を握ることのできる可能性は低い。何しろ主導権は土御門通親こと源通親が握っているのだ。近衛家でないどころか藤原北家ですらない。さらに土御
それにしても、九条兼実はなぜ関白の地位を手放したのか?従来の説では、関白の地位を手放したのではなく失脚させられたということになっている。これも遠城悦子氏は別の視点から捉えている。中宮任子は後鳥羽天皇の子を産んだが女児であった。一方、土御門通親の養女である源在子が後鳥羽天皇の男児を産んだ。この点を遠城悦子氏は注目した。そもそも源在子は土御門通親の養女であったのかという疑問だ。源在子は藤原範子の娘であり、藤原範子の土御門通親の妻である。しかし、娘を産んだときの藤原範子は僧侶の能円の
ここで着目したいのが、そもそも九条兼実が実弟でもある太政大臣藤原兼房のことをどのように捉えていたのか、という視点である。藤原兼房は、兄の引き立てがなければ太政大臣になることはあり得ない人物であった。何しろ太政大臣になる前は内大臣であったのだ。内大臣であった者が、右大臣にも左大臣にも就くことなく太政大臣に就くことは何例かある。そして、その全てが、太政大臣に出世させることで実権力から遠ざけることを目的とした空虚な出世である。どういうことか?内大臣は大臣であるが、手にしている権力は小さい
建久七年の政変の幕開けから二日後の建久七(一一九六)年一一月二五日、誰もが信じられないニュースを耳にした。関白九条兼実、更迭。上表すら許されず、後任の関白には前摂政の近衛基通が就くこと、併せて近衛基通を藤氏長者に任命することが発表された。愚管抄によると、土御門通親の指示のもと、権右少弁の平親国と五位蔵人の藤原朝経が中心となって動いたとある。なお、このときに九条兼実の流罪を検討したとあるが、後鳥羽天皇自身が九条兼実には流罪に値する罪科がないことを理由に、関白罷免のみとさせたとある。た
被講とは、詩歌に曲節をつけて詠み上げること。清少納言は『枕草子』に「長やかに詠み出づ」長々と声を引いて歌を詠む)と記しています。鶴岡八幡宮で行われる「献詠披講式」は、和歌に精通していた源頼朝や源実朝にちなんで、平成17年より始められました。披講される和歌は、実朝の一首と公募によるものだということです。2024年は3月27日(水)に行われます。13:00から。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆~桜の次はアジサイ~
宮城の酒といえば浦霞うらがすみです。これが美味いのです。昭和天皇が陸軍演習に宮城を訪れたときの献上酒です。名前の由来は源実朝の『塩竈の浦の松風霞むなり八十島かけて春やたつらむ』から、浦と霞から。金槐和歌集にあります。
後鳥羽天皇と関白の娘との間に女児が生まれ、土御門通親の養女との間に男児が生まれた。性に目覚める年齢の少年の周囲に性の相手をする女性がいる、それも、女性のほうから数多くやって来るという環境であることを考えると、年齢から言っても後鳥羽天皇はこれから何名も子をもうける可能性が高い。実際、建久七(一一九六)年一〇月一六日には坊門信清の娘との間にも皇子をもうけている。これは九条兼実としても状況を悪化させる事態である。状況悪化は九条兼実自身だけでなく、九条兼実の周囲にも及ぶ話だ。九条兼実は実弟であ
鶴岡八幡宮の境内社・丸山稲荷から大階段を降りてすぐ左、若宮へ。↑こちらの御祭神は、応神天皇の御子息・仁徳天皇かと。若宮から少し東へと進むと、鶴亀石。↓↑水に濡れると、鶴と亀の形の模様が浮き出て来るという、縁起の良い石だとか。そして、更に東へと進むと、白幡神社。↓源頼朝&実朝が祀られている。仁徳天皇煙立つ民のかまどは賑ひにけり(ミネルヴァ日本評伝選)[若井敏明]楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}応神天皇と仁徳天皇倭の国から日本へ9
先に記したように、吾妻鏡は建久七(一一九六)年から建久九(一一九八)年までの記事が現存していない。ゆえに、この三年間の鎌倉幕府の動静は吾妻鏡以外の情報から記さねばならない。壇ノ浦の戦いで平家が敗れてから十一年目。鎌倉に刃向かう平家は滅んだということになっているが平家の残党は探せばまだ存在していた。もっとも、かつてのように朝廷の中枢に君臨して政権を操るレベルの強大さではなく、存在はするものの国政に何ら影響を与えることのない、それでいて迷惑極まりない犯罪集団として、平家の残党が存在している。
巌窟不動尊&不動茶屋から、鶴岡八幡宮へ。階段を昇る前に、セルフ大祓システムがまだ設置されているので、紙の形代に息を吹きかけ、茅ノ輪を潜ってから、先程の形代を納める。↓セルフ大祓システムの背後には、源実朝が襲撃され首を取られてしまったあの大銀杏の切株から、若い芽が育ちつつあるのが判る。↓※あの大銀杏自体は、2010年(平成22年)3/10の夜明け前、暴風で倒れてしまった。そして、階段を昇り、御神門へ。↓御神門を潜った先は、撮
九条兼実が摂政となってから一〇年が経過している。とは言え、九条兼実はまだ四九歳であり、政界引退を考える年齢ではない。しかし、周囲は九条兼実の政界引退を予期するようになっていた。それまでの九条兼実の独善的な行動を支えてきた源頼朝はもう九条兼実を選ばず、慈円のおかげで制御できていた比叡山延暦寺も怪しくなってきている。だからこそ、周囲の思惑とは逆に九条兼実自身は関白の職位を手放さないことに執心するようになった。仮にここで九条兼実が関白を降りたら、実弟の太政大臣藤原兼房でもなく、九条家の後継者とな
その流れの中において、天台座主が慈円であるということ自体が園城寺の僧侶にとって許容しづらいものであったのだが、建久七(一一九六)年四月一八日に四天王寺別当の定恵が死去したことが混乱をさらに深めるものとなった。九条兼実は慈円に四天王寺別当を兼任させようとしたのである。しかし、四天王寺はかつて園城寺の支配下にあった寺院であり、園城寺が灰燼に帰したことで一時的に園城寺の支配から離れることとなっていたが、復旧しつつある今、園城寺の意向を無視して天台座主慈円にさらなる権勢を与えることは容認しづらかったの
愚管抄は歴史書であるが、源平合戦以降の歴史について言えば同時代史料でもある。どういうことかというと、著者である慈円の生まれたのが久寿二(一一五五)年であり、慈円は建久七(一一九六)年時点で四一歳であるから、愚管抄の記事のうち源平合戦以降の記述の多くは慈円自身が体験し、あるいは見聞きしたことである。この慈円という僧侶であるが、九条兼実の実弟であると同時に天台座主である。天台座主に就任できたのは兄が九条兼実だからという側面もあるが、徒然草の吉田兼好は天台座主としての慈円を書き記しており、能力の
後鳥羽天皇は幼帝ではなく、天皇親政を、そして院政を目指して行動する若き帝王へとなっていたことに気づいた。後鳥羽天皇が政治家として勢力を築き上げていることを源頼朝は知っていたのか?おそらくだが知っていたであろう。だが、具体的なアクションについてはわからない。どういうことか?吾妻鏡が欠けているのだ。吾妻鏡は建久六(一一九五)年一二月を最後に三年間の空白があり、次の記事が建久一〇(一一九九)年まで飛んでいる。建久一〇(一一九九)年がどのような年かは後に記すことになるが、建久七
建久六(一一九五)年一一月一〇日、除目。九条良経こと権大納言藤原良経、内大臣に昇格。土御門通親こと中納言源通親、権大納言に昇格。吉田経房こと権中納言藤原経房、中納言に昇格。関白九条兼実の息子の九条良経が内大臣になり、後鳥羽天皇の第一皇子の祖父となった土御門通親が権大納言となった。そして、土御門通親の後を受けたのが、今や誰もが認めることとなった源頼朝の協力者である吉田経房であるため、九条兼実も、土御門通親も、そして源頼朝も何ら文句の付けようのない結果となったのである。このとき
中宮任子が女児を産んだ。九条兼実は自分の娘の産んだ子が女児であったことに落胆したし、九条兼実ほどでないしても後鳥羽天皇も落胆があった。とは言え、天皇の実の子であり相応の待遇が用意されている。建久六(一一九五)年一〇月に中宮任子が産んだ女児である第一皇女が内親王宣下を受けた。後に春華門院と呼ばれることになる昇子内親王である。この時点では昇子内親王のみが後鳥羽天皇の実子であり、九条兼実は中宮任子の次の妊娠の期待もあったし、可能性が薄くなってきていたとは言え源頼朝も娘の大姫の入内を諦めてはい
後鳥羽天皇が九条兼実を見限っていた頃、鎌倉の源頼朝は政治家としての判断を下していた。先に、統治者に求められる国家規模の経営能力として、戦争をしないことを書き記した。ならば源頼朝の奥州合戦はどうだったのか、戦争を仕掛けて奥州藤原氏を滅ぼしたではないかと感じる人も多いであろうし、実際にあれは侵略以外の何物でもない。しかし、同じ侵略でありながらロシアがウクライナに対してしでかしたことと、源頼朝の奥州合戦との間には大きな違いがある。それは、侵略した土地に住む人に対する扱い。源頼朝は奥州
「陸奥はいづくはあれど塩釜の浦こぐ舟の綱手かなしも」『古今和歌集』にあるよみ人しらずの歌。三代将軍源実朝は、この歌を本歌取りしてこう詠みました。「世の中はつねにもがもななぎさこぐあまの小舟の綱手かなしも」(『百人一首』入選作)源実朝歌碑☆☆☆☆☆陸奥国の塩竈は、歌枕の地として知られた地。紫式部の『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人とされる源融は、邸宅の河原院に塩竈の風景を模した庭園を造営したのだといわれています。紫式部も陸奥国の名所絵を見て一首詠ん
この意味で、源頼朝は大きなアドバンテージを獲得していた。何と言っても戦争を終わらせた当事者である上に、源頼朝の元には京都の貴族社会に入ることの許されない低い地位に生まれた者が周囲に結集している。それまでの権力のもとでは権勢を掴むことをできなかった者をまとめ上げることに成功しているだけでなく、現在進行形で平和の維持に成功させている。ついでに言えば、鎌倉幕府の御家人に対して守護や地頭という形で、平和の維持と実利の付与の双方を実現させている。これは源頼朝にしかできない話である。そもそも戦争を終結
「桜花ちりかひかすむ春の夜のおぼろ月夜のかもの川風」1217年(建保5年)3月10日夕方、源実朝は牛車に坊門姫を乗せて永福寺の桜を見に出かけます。花見の後、二階堂行村の家で和歌の会。午後10時頃、月が出たので帰りました。坊門姫は実朝の正室。京都のから鎌倉にやってきました。京都の「鴨川四季の歌碑」の春の歌は実朝の歌。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆~鎌倉原産の桜~(京都で人気を集めた鎌倉桜)☆☆☆☆☆~鎌倉市の木~☆☆☆☆☆~桜の次はアジサイ~
それでも白河院政が絶大な権力を握ることに成功していたのは、それまで絶対的な権力として君臨していた藤原摂関政治における不遇への反発を最大限活かすことができたこと、藤原道長は身分の低い者でもそれなりに抜擢していたが藤原道長の死後は従前のようにその人の生まれでその人の上限を定め、いかに優秀でも抜擢されることがなくなっていたために、白河院政の時代となると白河法皇のもとに赴くことしか藤原摂関家に対する反発を示す方法が無かったことが挙げられる。一方、後鳥羽天皇の時代となると、まずは鎌倉幕府が存在し、藤原摂