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2週間ぶりの仕事。今日は平家物語、源仲綱が愛馬木の下を平宗盛に取り上げられる話。これが以仁王の挙兵に頼政仲綱親子が関わる原因とこの物語では言っています。それはさておき。行き帰りの電車の中で朝比奈&大フィルの第九を聞こうと思いウオークマンに。オケの荒さを感じる箇所も無くはないのですが、ソリストが頂けない。アルトはN響と同じ伊原さん。朝比奈先生はよく鳴るのがお好きでしたので、伊原さんはマーラーでもよく共演されていました。第九のアルトは埋没しやすいのに、どちらのCDでもはっきり
(しゅうてんのかなたもちかしほうおうどう)秋晴れの宇治の平等院です。本山修験宗聖護院の末寺の最勝院と、浄土宗の浄土院が共同管理しています。九世紀末の左大臣源融の別荘に始まり、陽成天皇、宇多天皇、朱雀天皇、宇多天皇の孫源重信、摂政藤原道長の別荘
こんばんは~先日のアニメ「平家物語」第5話今週も観ました!全体に、重盛の死後の、平家一門の政治動向を追った場面が多かったですね。新しく棟梁となったのは、重盛の異母弟の宗盛。このアニメでは変顔のイヤな奴という役まわりびわは、重盛の“死者が見える眼”を受け継ぎましたが、今回はあまり何を見るということはなく。徳子の産んだ親王(のちの安徳天皇)と遊んでばかりいましたそんなびわの傍らで悲しい顔の徳子。高倉天皇の新しい妃(坊門殖子)に皇子が産まれ、その皇子の乳母に、兄・知盛の妻がなったので
明月院の前身の明月庵は、永暦元年(1160年)に父親である山内首藤俊通の菩提供養の為に、持仏の如意輪観音を本尊として山内首藤経俊によって創建されました。明月院のある近辺は、元々山内家の所領でした。(ブログ内では便宜上、一律に敬称を略します。)山内首藤経俊は1160年の平治の乱で父親である俊通と兄である俊綱とを、亡くしています。また、1180年の以仁王(もちひとおう)の乱では兄の俊秀を亡くしています。保元・平治の乱の後、源氏が衰退する一方平清盛が太政
源頼政の紹介、第2弾です。今回から数回に分けて、なぜ頼政が以仁王の乱に参加したのかその動機を考えていってみたいと思います。頼政の以仁王の乱参加の動機をめぐっては、諸説ありますが、動機を示す史料が残っていないので、今となっては頼政の思惑を推量するしかありません。例えば『平家物語』では、頼政が平家に謀叛を起こしたのは、頼政の嫡子・仲綱の愛馬“木の下”をめぐる仲綱と平宗盛とのイザコザが原因だった話をしていますし、『吾妻鏡』は動機について直接は語らないものの、“以仁王の令旨”の引用を載せて当時の平
今回の人物紹介はこの方、源兼綱(みなもと-の-かねつな)です。では早速源兼綱は、摂津源氏・源頼行(みなもと-の-よりゆき)の子として生まれましたが、父・頼行が1157年(保元2年)7月に都でみだりに軍勢を催した罪で流罪に処せられ、配流先へ行く途中で自害してしまったため、以後兼綱は伯父である源頼政に養育されることになりました。官職は検非違使(けびいし)、左衛門尉(さ-えもん-の-じょう)を務めており、位階はというと左衛門尉が六位相当の職なんですが、従五位下まで昇進されていたとい
こんばんは治承・寿永の乱第12弾です。これまでの話はこちらから。今回は宇治平等院の戦い、前編ですこの話は『延慶本平家物語』が出典ですが、忠実に訳したものではありませんので、その点だけご注意くださいでは、早速延暦寺の衆徒たちが心変わりし、もはや園城寺の勢力だけでは心許ないと感じた以仁王(もちひと-おう)は、源頼政(みなもと-の-よりまさ)・源仲綱(なかつな)・源兼綱(かねつな)、渡辺党では競(きおう)・継(つづく)・与(あたう)・唱(となう)、寺法師では円満院大輔(えんま
こんばんは治承・寿永の乱第11弾です。これまでの話はこちらから。今回はついに以仁王方と平家方が激突します。比叡山延暦寺が味方から離脱したことは、以仁王(もちひと-おう)陣営にとって痛恨の極みで、このままでは平家(六波羅)と比叡山の挟撃にあう可能性すらある危険な状況となってしまいました。そこで、以仁王らは最後の頼みの綱、興福寺・東大寺の僧兵を主力とする南都(奈良)の大衆と合流して巻き返しを図ろうと、5月25日夜陰に紛れて園城寺(おんじょう-じ)を出発、一路南都を目指したのです。しかし
治承・寿永の乱、第9弾ですこれまでの話はこちらから。園城寺(おんじょう-じ)にて、以仁王(もちひと-おう)はじめ園城寺の衆徒と合流した源頼政(みなもと-の-よりまさ)・仲綱(なかつな)らの武士たちは、戦の機先を制するため、平家の拠点の一つである六波羅へ夜襲を仕掛けることを提案しました。夜襲の計画としては、まず頼政指揮のもと、戦力にならない老僧たちに松明を持たせて如意山を越え、白河付近に放火することで陽動作戦を展開、その間に仲綱・兼綱(かねつな)、渡辺党(わたなべ-とう)の武士たちをはじ
治承・寿永の乱、第8弾ですこれまでの話はこちらから。今回は源頼政(みなもと-の-よりまさ)・仲綱(なかつな)父子が挙兵した時のちょっとしたエピソードです。出典は例によって『延慶本平家物語』(※)です。頼政・仲綱父子に従った渡辺党(わたなべ-とう)の武士の中で、源競(みなもと-の-きおう、渡辺競)だけは共に園城寺(おんじょう-じ、三井寺とも)へ同行できなかった。他の渡辺党の武士たちは、「競にこの事を知らせないで、どれほどわれらは恨まれるのだろう」と競のことを気にかけ
治承・寿永の乱、第7弾ですこれまでの話はこちらから。平家方が園城寺攻撃を決定した治承4年(1180年)5月21日の夜半。突如、近衛河原にある源頼政(みなもとーのーよりまさ)の自邸が炎に包まれました。そしてほどなく頼政謀叛の知らせが平家にもたらされます。ついに源頼政・源仲綱(みなもとーのーなかつな)らが挙兵し、反平家の立場を表したのです。この挙兵にあたって、頼政の養子である源兼綱(みなもとーのーかねつな)や源仲家(みなもとーのーなかいえ)をはじめ、日ごろ頼政たちと主従関係を結んでいた渡