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5月の仮名文字教室のとき調べることが条件で先生から頂いたお軸発表が近づいてきていました一応下調べをしてなんとかなる?とおもいそのままにして約一月一ヶ月なんかすぐにすぎるんですね!気がつけば明日6月7日が仮名文字教室の日あー、ずる休みしたいでもお軸を頂いてるんですからまたそのお軸の日付が6月6日のものですから私が休んだら仮名文字教室の先生にもみなさんにもご迷惑をおかけしますこれを見越してお軸込みでの調べ学習だったのか!?でちゃんと発
●以下の文章は、既に古代文化研究所の方にテーマ「京都ぶらり旅」の中に書いている。このままでは、なかなか書く余裕が無い。それで、途中だが、古代文化研究所第2室の方へ、テーマ「京都ぶらり旅:第二部」として移動することとした。○『源三位頼政最期』の後に、「平家物語」が載せるのが『鵼(ぬえ)』になる。「平家物語」が『鵼(ぬえ)』で案内するのは、何と死んだ源三位頼政の話だと言うから、話は完全に前後することになる。『鵼(ぬえ)』では、源三位頼政どんな人物であったかを後日談として詳述すると言うのだから、何と
●以下の文章は、既に古代文化研究所の方にテーマ「京都ぶらり旅」の中に書いている。このままでは、なかなか書く余裕が無い。それで、途中だが、古代文化研究所第2室の方へ、テーマ「京都ぶらり旅:第二部」として移動することとした。○2022年10月30日に、京都の宇治平等院を訪れた。その平等院で、源三位頼政公の墓所を見付けた、それで、前回、ブログ『源三位頼政公の墓』を書いた。源三位頼政が何とも懐かしい気がして、久し振りに「平家物語」を取り出し、源三位頼政公の最期を読んでみた。○手元にあるのは、岩波大系
●以下の文章は、既に古代文化研究所の方にテーマ「京都ぶらり旅」の中に書いている。このままでは、なかなか書く余裕が無い。それで、途中だが、古代文化研究所第2室の方へ、テーマ「京都ぶらり旅:第二部」として移動することとした。○宇治平等院には、源三位頼政の墓が存在する。墓が存在するのは不動堂の前になる。源三位頼政の墓は、平等院でも特別のものであるらしく、平等院でいただいたパンフレットの案内図にも、「源三位頼政公の墓所」として、載せている。○現地には、次の案内板が建っている。源三位頼政
頼政神社(茨城県古河市)『よりまさじんじゃ』と読む頼政神社は、延宝5年(1677年)あるいは元禄9年(1696年)に創建されたと伝えられ、現在は古河城北西端の観音寺曲輪土塁上に鎮座される神社であり、主祭神は『源三位頼政(正一位頼政大明神)』のようです▼神社入口▼▼社号標▼▲石柱碑▲▲▼一之鳥居▲▼▲手水舎▲▼参道▼▲▼御神燈▲▼▼参道▼▲御神燈▲▼二之鳥居▼▲境内▲▼境内社・稲荷社▼▲境内▲
○宇治平等院を訪れ、ブログ『源三位頼政公の墓』から『源三位頼政最期』、『鵼(ぬえ)』、『宇治川』と続けている。三位頼政が平等院で亡くなったのは、治承4年5月26日(西暦では1180年6月20日)のことだとされる。○その後、宇治川では、再び合戦が行われる。それが『宇治川の戦い』になる。「平家物語」では、『宇治川先陣』として、夙に知られる。もちろん、「平家物語」のことだから、頓に戦いを始めるわけではない。『生ずきの沙汰』と言う前話を済ませてから、『宇治川先陣』は始まっている。○もちろん、『宇治川
○『源三位頼政最期』の後に、「平家物語」が載せるのが『鵼(ぬえ)』になる。「平家物語」が『鵼(ぬえ)』で案内するのは、何と死んだ源三位頼政の話だと言うから、話は完全に前後することになる。『鵼(ぬえ)』では、源三位頼政どんな人物であったかを後日談として詳述すると言うのだから、何とも「平家物語」の構成は洒落ていて、面白い。鵼(ぬえ)そもそも源三位入道と申すは、摂津守頼光に五代、三河守頼綱が孫、兵庫守仲政が子なり。保元の合戦の時、御方にて先を駆けたりしかども、させる賞に
○2022年10月30日に、京都の宇治平等院を訪れた。その平等院で、源三位頼政公の墓所を見付けた、それで、前回、ブログ『源三位頼政公の墓』を書いた。源三位頼政が何とも懐かしい気がして、久し振りに「平家物語」を取り出し、源三位頼政公の最期を読んでみた。○手元にあるのは、岩波大系本「平家物語」(上下巻)である。『源三位頼政最期』が載るのは、岩波大系本「平家物語」(上巻)、巻四「宮の御最期」になる。やはり、「平家物語」はなかなかの名文である。今更ながら、そんなことを思った。大勢みな渡して
○宇治平等院には、源三位頼政の墓が存在する。墓が存在するのは不動堂の前になる。源三位頼政の墓は、平等院でも特別のものであるらしく、平等院でいただいたパンフレットの案内図にも、「源三位頼政公の墓所」として、載せている。○現地には、次の案内板が建っている。源三位頼政公の墓宝篋印塔源頼政は保元・平治の乱で武勲を挙げ、平清盛の奏請ににより、源氏として初めて從三位に叙せられました。歌人としても名高く、勅撰集に優れた和歌を多く残しています。治承四年(一一八〇)
クラス委員長にして野球部のキャプテン、、、程度は世の中ゴロゴロいます。それでも「文武両道の達成者」というならそれでも構わないけど、、、少し感じが違うんだなあ。オリンピックのゴールドメダリストにして学士院会員クラスならわかるけど....あえて「クラス」と書きますが、加藤陽子先生が学術会議から外されたような事例有りますからスポーツ専門誌としてはそれなりのレベルだと思う「ナンバー」の記事を斜め読むこの誌では文武両道とは「赤門合格と甲子園出場」のことらしいから笑止千万(^^)先ず持って団体競
武人にして歌人、、、ともなれば、源三位頼政に若くはない。位階は従三位ですから高級貴族に連なるVIP清和源氏、、、清和帝の子供または孫で臣籍降下し、源氏の苗字を賜った一群のことその中でも、満仲、頼光、、、の系譜ですからなかなか煌びやかですが、高名な先祖も四位とまり武勇の誉れも高いのですが、偉くなるには太刀捌きや弓矢の腕よりも「歌才」どこで身につけたのかは知らないが、、、木隠れして月(帝)を見るかな....これで昇殿が許可され椎(四位)をひろいて世を渡るかな....この和歌で従三位に昇格
「ぬえの鳴く夜は恐ろしい」という1980年代の映画「悪霊島」のキャッチコピーで、一躍有名になった鵺は、トラツグミというツグミの仲間。名前の「トラ」は、全身が黒と黄色の虎班模様であることから付けられた。トラツグミスズメ目ツグミ科の鳥。大きさはツグミやヒヨドリより大きく、キジバドよりはやや小さいぐらい。夜行性のためか、他の鳥より眼が大きく見える。鵺(トラツグミ)は、夜から明け方にかけて、さびしげな声で「フィー、フ
前回はこちら十三重石塔です。初瀬です。大書院です。鳳凰堂の紅葉です。裏側から見た、鳳凰堂の入口です。不動堂の入口の門です。不動堂です。源三位頼政公墓所です。源三位頼政公の墓宝篋印塔の説明板です。最勝院です。最勝院開祖澄栄師之碑です。最勝院の入口の門です。続きはこちら
サボリ過ぎちゃって♪(≧∀≦*;)ゞ12月やし、もぉすっかり寒いやん…(((;゜゜)))遠ざかるばっかりの季節のつづき…7月11日♪日曜日♪めっちゃエエお天気🎵ヽ(*≧∀≦*)ノ実は、ツレ(♂)の水先案内人で(*・ω・)(*≧∀≦)ノ夏の宇治を徘徊♪宇治橋の西詰『夢浮橋ひろば』で紫式部サン(石像)に出会って♪宇治橋を渡って♪宇治橋の東詰♪莵道稚郎子墓の道標や源氏物語『東屋』『椎本』の2古跡を見て♪源氏物語ミュージアム♪新緑の『源氏の庭紫のえにし』で森林浴♪
ここは、兵庫県に仕事で住んでる時の休みの日、遊びに行くところないから、しょっちゅう来てたところ。。。初めて来た時も挨拶に来たし、ここを離れる時も挨拶に来た。。。この地を離れて10年、、、10年ぶりに、俺の近況の報告と、ここに居たときのお礼のためお墓参りに行った。。。☆源頼政お墓周辺♪ここの貯水池で、ぼけーっと、気分転換しに来たっけ。。。10年ぶりに行けて良かった(^-^)こんな感じでした(^_^)/
ここは、兵庫県に仕事で住んでる時の休みの日、遊びに行くところないから、しょっちゅう来てたところ。。。初めて来た時も挨拶に来たし、ここを離れる時も挨拶に来た。。。この地を離れて10年、、、10年ぶりに、俺の近況の報告と、ここに居たときのお礼のため、お墓参りしに来た。。。☆源頼政のお墓♪心を込めてお参り(U_U)次へ(^_^)/
ここは、兵庫県に仕事で住んでる時の休みの日、遊びに行くところないから、しょっちゅう来てたところ。。。初めて来た時も挨拶に来たし、ここを離れる時も挨拶に来た。。。この地を離れて10年、、、10年ぶりに、俺の近況の報告と、ここに居たときのお礼のため、お墓参りしに来た。。。次へ(^_^)/
新型コロナウイルス感染症防止のため、イベント中止や日程変更があります。【東名高速道路全通記念日】1969年(昭和44年)05月26日、大井松田・御殿場間が開通し、東名高速道路の東京・小牧間、346kmが全通した。【ラッキーゾーンの日】1947年(昭和22年)、甲子園球場に広すぎてホームランが出難いとの理由でラッキーゾーンが設置された。その後、甲子園球場よりも広いドーム球場が増えたこともあり、1992年(平成4年)3月に撤去。【ル・マンの日】1923年(大正12年)に自動車耐久レースの
今がチャンス!創建時に最も近い姿を!平等院鳳凰堂は、言わずと知れた建物で、10円銅貨の裏に描かれている。そんな事は知ってたけど、今だ本物を見たことが無かった。今回の訪京を機に絶対見ようと思ってた。素晴らしいの一言だった。鳳凰堂内に安置されている仏像が、平安屈指の傑作とされる阿弥陀如来坐像だ。遠目に見ても美しい。2014年に屋根の吹き替えなどの修復を終えて、創建時に一番近い姿になった。普段なら観光客でごった返し、写真撮影も一苦労だと思うけど、この日は、観光客がまばらで、自由に撮影出来た。
(昨日の続きで)宇治川沿いに、爽やかな、あじろぎの道を歩いていきます。橋の向こうに、大吉山。ああ、いい気持ちです。元の所に戻って来ました。今度は、平等院の表参道を歩いていきましょう。色々なお店の横を抜けていくと、平等院の入り口です。では、表門から失礼します。藤棚の向こうには、観音堂。蓮の向こうには、鳳凰堂。ゆったり、たっぷり、じっくりと、見つめます。あら、肩に力が入ってるわよ。りらっくす、りらっくす。ふふ、そうでした。きばらずに
菖蒲香ともとになった物語いつもご覧くださる皆様、本当にありがとうございます。心から感謝致します。皆様にとって良い事がたくさんありますように!最初に流派によって、伝えられている歌が異なると思いますし、歌の句がことなるともとになったと考えられる物語が異なってきます。正解がないものですからね。あくまで自分メモです。1菖蒲香昔習っていた香道では、5月になると菖蒲香というお香を聞きました。菖蒲香=5月でした。
『蕪村と漢詩』(成島行雄/花神社)より選句〈蕪村と杜甫〉木の下が蹄(ひずめ)のかぜや散さくらThefinehorse-Kinoshitaisrunningfastwiththewind.Andthewindiswindingupbyhishoofs.Cherryblossomsarescattering.杜甫は、胡馬、汗血馬の勇姿を漢詩「房兵曹胡馬」で描写。一方、蕪村は、杜甫詩をベースに、平家物語の名馬「木の下」エピソードのエッセンスを加えて
1日1武将(18)源三位頼政宇治橋の合戦に敗れ自刃すダイヤの4いつもご覧くださる皆様、本当にありがとうございます。心から感謝致します。皆様にとって良い事がたくさんありますように!世界遺産の1つである京都府宇治市にある平等院は、藤原氏ゆかりの寺院です。もとは、嵯峨天皇の息子である源融の別荘でしたが、宇多天皇に渡り、彼の孫である源重信を経て、藤原道長の別荘である「宇治殿」になりました。彼の死後に息子の頼通に
本日、21時から23時の間に20分間無料ヒーリングエネルギー送ります鶴羽根神社は、広島市の東部二葉山麓にあり、今から約780余年(建久年間)前に、源三位頼政公の遺言によって建立された由緒ある神社です。御祭神は伊佐奈伎乃命(いざなぎのみこと)、伊佐奈美乃命(いざなみのみこと)の妹背二柱(縁結びの神)と、品陀和気命(ほむだわけのみこと、応神天皇)、帯仲津日子命(たらしなかつひこのみこと、仲哀天皇)、息長帯日売命(おきながたらひめのみこと、神功皇后)の3神が鎮座されている。、広島東部の
趣味で能面打って20年。今はカルチャーセンターで教えています能面パパです。面をご覧いただく際に、使用される能をご紹介しておりますが、これあくまでも一例です。どういうことかと云いますと、例えば万媚という女面を使う作品に「熊野」を挙げましたが、小面だったり、孫次郞というちょっと年増の面が使われることもあります。流派や演者さんによって、解釈もさまざま。だからどの面をつかうかは舞台で異なるんですね。見巧者になると、『あ、今日は孫次郞だ』とか思うんでしょうか。能面パパは違いが分かるんかな(笑)
弁慶は義経に自分の名を名乗り、義経に「お名をきかせられ候え」と迫った。義経は沈黙した。では、こちらから話すので聞け、と。若い男が女装をして黄昏、舞い歩くのは乱の兆しである、と陰陽道にある。そして「鹿ケ谷の一件をご存じか?」と。その事件は、後白河法皇が近臣を集め、平家覆滅の謀議をめぐらせたのが清盛にバレて、関係者は斬流に処された。弁慶曰く「平家の全盛は過ぎ、風雲はすでに、うごきはじめているとみてよい」と。そして義経は名を名乗った。これが二人の運命的な出会いとなった。よくある話では、弁慶
昨日は、のんびり休もうと思いつつ、少しだけ、と思って裁断した近江麻のガウチョパンツの生地を縫い始めたら、いつの間にか息子が帰ってきましたガウチョパンツの方は、腰ベルト着けるところまでやったので、残りを縫ってゴムベルトを通して、裾を縫ったら出来上がりです。ワンピースよりも作業が楽だったので、同じ型紙でもう一本作って、後はチュニックやトップスを縫っていこうと思います。それはともかくとして、昨夜寝る時に、小学生の時からハマってしまった「落窪物語」との関係を探ってみようと思っていたら、「やすらわで
昨日、旅行から帰宅しました。今日は息子の担任の先生の家庭訪問、明日はプール当番と結構ヘビーな用件が続きます(;´д`)…にもかかわらず、畳屋さんから電話来た時、明日見積りお願いしてしまいました(;・ω・)で、昨日の旅行2日目に行った場所についてですが(1日目については↓の記事参照)。朝食食べてホテルをチェックアウトした後、もみじ谷吊り橋に行って、龍化の滝に行こうとしたのですが、途中の風挙の滝のところで止めて、次の源三窟に向かいました。龍化の滝まで行かなかったのは、風挙の滝の時点で結構疲
広島県東広島市真言宗表白山九品院福成寺(ふくじょうじ)本尊千手千眼観世音菩薩西妙尼(菖蒲前)縁の寺菖蒲前は源三位頼政戦死後、猪隼太、菖蒲前を奉じて安藝国に来り、賀茂郡内西條の庄に居る、尼となり、西妙称す元暦(1184)中源範頼西討の日寺を焼く西妙尼より三永村を寄付されるとある『藝藩通志』より3-1259西討の日ということは源平合戦の時かぁ源範頼は源頼朝の異母弟、源義経の異母兄だね石見墓下の写