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★お知らせ★来たる10月5日日曜日に大阪あべので「台湾を学ぶ会」があります。場所大阪市立阿倍野市民学習センター第1研修室(大阪市阿倍野区阿倍野筋3-10-1-300あべのベルタ3階)時間13時30分〜台湾在住作家武蔵野大学非常勤講師の片倉佳史氏の講演会があります。今回は2部構成で、第1部は片倉氏が所蔵する古写真や古地図を用いた往年の台湾の姿のお話。第2部では日本統治時代の台湾に生まれ育った田中洋子さんの思い出と台湾への想いのお話。片倉佳史氏のお話しはとても貴
昨年10月に大阪で参加した「日台のはざまの引き揚げ者たち」と言う大学主催のシンポジウムの記録を纏めた本が出版され、今読んでいます。大学教授数名が、引き揚げに関する研究発表の内容です。当日3名の湾生の方の引き揚げ体験のインタビューも載っており、私の父も約80年前に台湾から日本に引き揚げたのですが、父には聞いたことが無かったお話が盛りだくさん。台湾で築き上げた財産は一切持ち帰れなかったけど、保険証書や郵便貯金などを日本に持ち帰ってそれが有効だった事など初耳だった事もありました。チェック
7月に入りましたね。もう一年の半分が過ぎた!早い、早すぎる…6月22日日曜日に大阪駅前ビルにて台湾在住作家・武蔵野大学客員教授の片倉佳史氏の講演会と花蓮ご出身の湾生の男性のお話がありました。2部構成で、1部は花蓮ご出身の湾生の男性の花蓮での生活の様子のお話。私は何度かその男性のお話を伺っていますが、片倉氏がいろいろ踏み込んで上手く聞き出してくださったので、また新たなお話を、いろいろお聞きする事が出来ました。当時の地図で詳しく説明してくださっています。日本統治当初は花蓮は未開の
長い間、ブログ放置してました💦ちょっと思い立って、久しぶりに投稿します。今日テレビで密着リアル「教場」をやっていたのを観ました。数年前に、木村拓哉さんが警察学校の教官の役をやった「教場」と言うドラマをやっていましたね。警察官になる為に警察学校に入校した新人を厳しく指導するドラマです。厳しい訓練に追いていけない人はどんどん警察学校を辞めさせられていく。ドラマを観ていても、ハラハラドキドキでした。今日のリアル「教場」を観ていたら、警察官だった父も、新人の頃は警察学校でこんな厳し
※BGMでも聴きながらお読み下さい。EXILE/RisingSun物事には「終わり」がある様に必ず「始まり」があります。終戦の8月15日には、まだ間がありますが、殆ど30歳代か、40歳代の国民の多くは「終戦の詔勅」のラジオ放送で昭和天皇陛下が放送されたのは御存知でしょう。これは大東亜戦争の「終わり」を告げる昭和天皇陛下の御言葉です。しかし、先に書いた「始まり」の「開戦の詔勅」
ネット注文した「湾生の遺言台湾よ、永遠なれ」凄く面白くて興味深い本でした。この本の表紙を良く見ると、父が持っていた戦前の台北のイラストマップではありませんか!光っててすいません。この本の中にも書かれていましたが、この臺北鳥瞰図は1993年(平成5年)に加藤寿子さんと言う湾生の方がこのイラストマップを作ったそうです。湾生の方は結構持ってる方が多いです。赤色で塗ってあるところが、父が通っていた建成小学校と台北商業学校です。樺山小学校も中間辺りにあります。台北市内の主な建物や
お久しぶりでございます。おサボり中のブログなのに、時々チェックしたら、たくさんアクセスしていただいており、嬉しく思います。今月の30日が来ると父が他界して丸4年が経ちます。18日は母が他界してちょうど10年になります。最期まで仲が良かった父と母。父は母と同じ4月に旅立ったなんて、父らしいな。父の台湾での思い出や台湾に関係する事を書いているブログですが、こんな拙いブログなのに、読んで頂いたり、メッセージを頂いたり、有り難いですね。少しでもどなたかのお役に立てる様、もっと頑張
現在、台北にある圓山大飯店は戦前は台湾神社でした。湾生の父の姉(三女)が台湾神社で結婚式を挙げた時の写真です。当時は台湾神社で結婚式を挙げられた方は多かったと思います。向かって左側が長女夫婦。右側が次女夫婦です。引き揚げの時に持ち帰った数少ない貴重な写真。引き揚げの時は持ち帰れる荷物が限られており、アルバムは持ち帰れず、写真を剥がして持ち帰ったそうです。我が家は写真が10枚あるかないか。昭和16年の写真です。父は7人兄弟の末っ子で、昭和3年生まれなので、この時はまだ13歳。
朝、ホテルをチェックアウトして嘉義駅へ。友人2人は帰国で、もう1人の友人と私は高雄に移動です。自強号で高雄まで行こうと思ったけど、チケットはもう売り切れだったので、結局また高鐵で左営まで行くことに。嘉義駅の表から通行券をもらって、また嘉義駅の裏まで。嘉義駅裏のバス乗り場どのバスに乗ったら良いのか、非常にわかりにくかった。来たバスの運転手さんに高鐵嘉義駅まで行きますか?と聞いてやっと乗車。約30分で高鐵嘉義駅に到着。高鐵嘉義駅から高鐵左営まで🚅も約30分。左営駅の構内に
※BGMでも聴きながらお読み下さい。EXILE/RisingSun物事には「終わり」がある様に必ず「始まり」があります。終戦の8月15日には、殆ど30歳代か、40歳代の国民の多くは「終戦の詔勅」のラジオ放送で昭和天皇陛下が放送されたのは御存知でしょう。これは大東亜戦争の「終わり」を告げる昭和天皇陛下の御言葉です。しかし、先に書いた「始まり」の「開戦の詔勅」を聴いた事
10月6日日曜日に国際シンポジウム「日台のはざまの引き揚げ者たち」に参加してきました。堂島川沿いにある大阪大学中之島センターにて。とても綺麗なビル内の広い会場でした。100人ぐらいの参加者で、大学教授、台湾組織の日本人、台湾人、一般の方、大学など。湾生7名(内登壇者3名)湾生の親族数名私もそのうちの1人でした。10時から5時半までの長時間のシンポジウムだったので、第一セッション〜第四セッションまで時間毎に分けられていました。私はお昼頃に会場に着き、第二セッションから参
京都には国立国会図書館の関西館がありますが、なかなか他で見つからない資料なんかを探す時は国会図書館のサイトを見るようにしてます。知り合いに湾生(日本統治時代の台湾生まれの日本人)のご遺族の方がおられて、その時代のことを調べたりするお手伝いを時々しています。去年は台湾の戸政事務所で、その湾生の方の日本時代の戸籍も調べて来ました。台北一中の学生だったその方の住んでおられた当時の台湾のことをもっと知りたくて、『台湾台北州立第一中学校の沿革(年表)』という本を読んでます。出版者(発行人)
先日毎日新聞に掲載された湾生の方の記事です。湾生とは、戦前の日本統治時代に台湾で生まれ育った日本人の事です。私の父も湾生なのですが、台湾での豊かで幸せな暮らしから一転して日本の敗戦後、全財産を接収され着のみ着のままで日本に引き揚げて来た時の悲惨な経験はよく聞かされて来ました。湾生の事を知らない方に是非読んで頂きたいですね。キャンパる:学校で教わらない引き揚げ問題「湾生」として語り継ぐ91歳|毎日新聞1895(明治28)年、台湾は日本の統治下に置かれたが、1945(昭和20
大阪大学主催の国際シンポジウムが10月6日にあります。日台のはざまの引き揚げ者たち戦後に台湾から日本に引き揚げた湾生の方の生の声も聞ける貴重な機会ですので、ご興味がある方は是非どうぞ!チラシの下にあるQRカードから申し込みです。私はもう申し込みしましたよ!まだまだ引き揚げに関して知らないこともあるので、また勉強させて頂きます。
※BGMでも聴きながらお読み下さい。EXILE/RisingSun物事には「終わり」がある様に必ず「始まり」があります。終戦の8月15日には、まだ間がありますが、殆ど30歳代か、40歳代の国民の多くは「終戦の詔勅」のラジオ放送で昭和天皇陛下が放送されたのは御存知でしょう。これは大東亜戦争の「終わり」を告げる昭和天皇陛下の御言葉です
本日の毎日新聞朝刊に4月に開催された台北樺山小学校同窓会の事が大きく掲載されていました。樺山小学校の卒業生11名とその子孫と関係者の方が集いました。樺山小学校卒業生の方は、98歳の方を筆頭に90代の方がほとんど。戦前の樺山小学校の学校生活やその当時の生活の様子、台北大空襲、引き揚げの様子など興味深いお話がいろいろ載っていました。学校生活の写真もありました。著作権の問題がありますので、紙面はここには載せられませんが、ご興味がある方は、ネットで検索すると出てくると思います。
まずは、ブログを見ませんか一湾生の備忘録懐かしい台湾その4竹南小学校は、竹南駅から左側に進み、和食の店の前、竹南郵便局の前、郡役所の前を進んだところにあった。児童数は、尋常科高等科合わせて約250名の小さな学校だった。当時の台湾の初等教育制度は、内地人は小学校で、本島(台湾)人は公学校で教育を受けることになっていた。公学校での授業は日本語で行われていたので、日本語の分からない児童は苦痛だっただろう。小学校の児童は原則として内地人だが、1クラスに2名ほど本島人が居た
<p>定年退職<br>平成2年(1990年)5月に沖縄電力を定年退職した。<br>那覇市の人材派遣センターに仕事を依頼し、最初の仕事が<br>那覇港の駐車場の管理人だった。<br></p><p>駐車場管理人<br>仕事の内容は集まった駐車料金を銀行に夜間金庫にいれることだった。<br>便利な使い方もあるんだなと思った。<br>勤務は一人で一日置き管理人の部屋には、テレビもあって<br>暢気なものだった。<br></p><p><br>末吉公園管理人<br>勤務
ハッシュタグランキングで1位になりました。湾生の引き揚げに興味がある方が多いのかしら?こう言う過去があったと言う事をたくさんの方に知って頂けたら幸いです。こんな拙いブログなのに、最近はまたアクセスが増えて来て、嬉しく思います。いつもお読み頂き、ありがとうございます。昨日4月30日は父の3回目の命日でした。あの日、病院から連絡があって、慌てて車で駆けつけたら、主治医が、先程一度心臓が止まりましたと。でもまた動き出したましたと聞き、父に私が来た事を呼びかけました。すると、5
次の目的地は、MRT中山駅から5分程の台北當代芸術館へ。戦前、ここは1919年に創立された旧建成小学校で、主に日本人子弟が通っていた小学校で、父含めて兄弟7人全員この学校に通っていました。ひとクラスに5〜6人の台湾人子弟もいましたが、入学するには成績優秀で裕福な家庭だと言う事が必須条件でした。児童数が一番多い時で、2000人ほどいたマンモス校です。校舎はコの字に建てられており、煉瓦造りの瀟洒な建物です。校庭はとても広大で、プールや相撲の土俵もありました。建成小学校の正門だった方
二日目朝食付きにしていたので、ホテルでバイキング。ハーゲンダッツアイスがあるわぁと思ったら、無かった😭ライチーのジュースが美味しかった。フルーツとヨーグルトドリンクコーナー❣️お料理は種類も豊富でどれも美味しかったです!緑色の果物の密棗(ナツメ)があっさりしていて好きです😋忠孝新生駅からMRTに乗り、台大醫院で下車。歩いて行くとすぐニニ八和平公園に着きました。この公園は1908年に開園し日本統治時代に都市公園として、円山公園の後に新しく作ったので「台北新公園」と名付けら
いよいよ明日から3泊で台湾に行ってきます♪実は3人女子旅の予定だったのですが、ベテランリピーターの友人の親族の方が亡くなったので、残念ながら一緒に行けなくなりました😭なんかこう言うのって、重なるんですよね〜😥もう少しずれていたらご一緒できたのに、本当に残念😭なので、台北桃園空港まで私一人で行って、もう一人の彼女と空港で待ち合わせ。彼女は沖縄在住です。台湾まで1時間半!近くで羨ましいなー超方向音痴の私がちゃんと初台湾の人をアテンド出来るか不安です。Googlemapsさ
先日、湾生2世の方がフォロワーさんになってくださいました。他にも数人新しいフォロワーさんが増えて、嬉しいです。お父様が台北生まれの湾生との事。私の父と一つ違いの同年代なので、同じ時期を過ごされたと思うと感慨深いものがあります。その方のお父様も「台湾は良かった!」と常々仰っていたそうです。私の父もいつも台湾の話をするときは常々、台湾は良かった…、台湾は良かった!と何度も言って懐かしんでいました。何十年も前の事を鮮明に覚えているのには、余程楽しく幸せに暮らしていたんだろうなと思
振り返り投稿です。2023年1月24日台北の圓山大飯店に行きました。豪華絢爛でクラシカルな圓山大飯店は、台北のランドマークとなっています。ちょうど春節だったので、飾りなどとても華やかで豪華でした。天井の装飾も細かい。2階に上がると有名な金龍🐉の置物があります。もともとは銅製でしたが、1980年代に金箔が貼られ、金龍となりました。とても迫力がありました。圓山大飯店は、戦前は台湾神社⛩️でした。台湾神社は1901年に建立され天照大神や北白川宮能久親王が祀られていました。
私のブログを見つけてメッセージを下さった方がいます。その方のお祖母様が台北生まれの湾生で、台北の旭小学校に通っていらっしゃったとの事。なので、旭小学校近辺の地図をご紹介します。台北の小学校(日本人の子弟が主)は7つありました。旭小学校は、そのうちの一つです。詳細はよく知らないのですが、この学校も立派な校舎だったと思います。実はこの昭和10年の地図をマジマジと見てたのですが、私の伯母さん(父の長姉)の旦那さんは台北の川端町で老人ホームを経営していたとの事。川端町辺りを見ていたら
湾生の方が生まれ育った台湾への熱い想い…湾生だった父も亡くなる直前まで台湾の事を言っていました。この動画を観ると、やっぱり涙が出てしまいます。湾生回家に出演された方も出ていますので、ぜひご覧になって下さい。在台灣找到的歸屬「灣生」回家了|台灣亮起來|三立新聞台什麼是「灣生」?「灣生」是日治時期在台灣出生的日本人,日本戰敗後被強制遣返回國,即使會說日語卻還是被日本本國民眾歧視。因為被歧視,所以許多灣生對於日本始終無法歸屬與認同,他們稱自己「永久的異邦人」。對他們來說,台灣是從小長大的
明けましておめでとうございます🎍今年もどうぞ宜しくお願い致します!娘と台湾人の旦那様は結婚して初めてのお正月🎍。おせち料理の一品一品の意味を彼に説明すると、へ〜日本人はいろいろ考えていて凄いですねと感心ながら食べてくれました!今年は和洋折衷のお節料理で、種類も多くて美味しくいただきました。(まだ残ってますが💦)我が家のお雑煮はおすまし味。一度白味噌にしたけど、家族はやっぱりおすまし味が良いと。夕食はかにすき🦀をして美味しくいただきました。*台北の地図の投稿の後、ご要望があった
先日の毎日新聞夕刊に載っていました。東京中目黒に街の本屋さんとして長年親しまれていた新高堂書店が年内で閉店する。この新高堂書店は、日本統治まもない台湾の台北で1898年に創業し、台湾最高峰の新高山(現玉山)が書店名の由来とされる。台北に店を構えた新高堂書店は、最初は文房具を扱い、やがて書籍販売を始めた。出版も手がけ、総督府からの仕事も引き受けた。小学校、公学校、中学校、台北帝国大の教科書も供給し、他にも運動器具や楽器の販売など商売を広げた。1915年には台北の繁華街・栄町に外壁