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2025−08−03高津宮を出て歩いてますあ、この前通ったとこだこの前は他のお仲間さんたちが沢山歩いていたので、寄ることが出来なかったけど、今日はまろん1人なので、ご挨拶出来そうです鳥居が沢山ある…お稲荷さんなのかなぁ??チャンリンシャン♪の箱は無さそう…あ!このパターンのやつだご挨拶しましたこちらが何神社なのか、どちらの神様を祀っているのかは分からず、そのまま去りますトコトコ〜ここで、またコースアウトします真田丸顕彰碑こちらの大きな観音様?が気になってたんだよね〜中に
2025-04-08四天王寺から出て北上しています五條宮トコトコ〜鎌八幡(圓珠庵)中に入ってご挨拶しましたトコトコ〜真田丸顕彰碑心眼寺真田幸村のお墓があるのだけど、今日の目的はこちら京都見廻組桂早之助墓所入りまーすもう何回か来てるからね探さなくても場所は分かりますはぃお久しぶり〜桂早之助クン渡辺吉太郎クン霊山歴史館に坂本龍馬クンを斬った刀が展示されているのだけど、その持ち主がこの桂早之助クンはてさて、この文献をまろんが読んで分かるのだろか、、疑問です撮
2024-09-29真田丸顕彰碑のすぐ近く心眼寺これこれ〜京都見廻組桂早之助渡辺吉太郎真田丸出城跡名残でもあればなぁ〜入口にこれだけ案内板があるので、なかなか入れませんでした入りまーす心眼寺まずはこちら真田幸村之墓そして、門のところで読んだ桂早之助と渡辺吉太郎の墓渡辺くんは、名前を間違われてたようです京都の霊山歴史館で観た坂本龍馬を斬った刀の持ち主の名前を見た時に、このお墓を思い出したんだよね〜やっぱり合ってた気が済みました空堀ど〜り商店街中を通って帰り
慶応三年(1868)十二月九日、王政復古の大号令が発せられると京都の幕府勢力は大坂への移動を余儀なくされるのですが、小御所会議における辞官納地(徳川家の所領のほとんどを献上せよとする命令)の決定に続いて、江戸の薩摩藩邸を拠点とする浪士たちの暴挙に憤慨した新徴組などによる薩摩藩邸焼き討ち事件が発生すると、大坂の幕臣たちの間にも再び京に上って薩摩藩を排除しようとする機運が高まりました。こうして旧幕府軍は討薩表を掲げて京をめざし、入京を阻もうとする薩摩・長州・土佐など新政府軍との間に戦闘が発
渡辺吉太郎に関してはわかっていないことばかりなので、どうしても推論や余談が多くなってしまいますが、今回は全編余談のようなものです。渡辺という姓は現在でも日本で6番目に多い姓で、渡辺さんは全国に100万人以上いらっしゃるそうですが、徳川家臣団にも渡辺氏は多く、中でも渡辺守綱を祖とする三河渡辺氏は大いに発展し数多くの分家を生みました。一方、「◯太郎」という名前も当時は非常によく見られたもので、幕末期に「渡辺吉太郎」という武士が少なくとも3人いたことがわかっています。その
石部宿の天誅事件で殺害された渡辺金三郎の長男と目される人物は、『京都武鑑』という京都の役人名簿とでも言うべき史料に掲載されていました。その人物は渡辺米橘(「よねきつ」もしくは「よねきち」か)といい、『京都武鑑』の文久二年(1862)版に金三郎と並んでその名が記されています。前年の万延二年(1861)版では渡辺家の欄には金三郎の名前しかないことから、おそらく文久二年から見習いとして勤務を始めたものと思われます。無論、渡辺金三郎が不慮の死を遂げていることから、この『京都武鑑』だけで年齢を推
渡辺吉太郎に関して、以前とある推論を記事にしたことがあります。それは渡辺吉太郎が文久二年(1862)九月二十三日に近江国石部宿(現在の滋賀県湖南市)で発生した天誅事件で殺害された渡辺金三郎の息子だったのではないかというものです。渡辺金三郎は京都西町奉行の与力でしたが、安政の大獄において志士の弾圧に関わったことで尊皇攘夷派の怒りを買ってしまいました。そして西町奉行同心の上田助之丞、東町奉行与力森孫六、同心大河原十蔵と共に幕府の命令に応じて江戸に向かっていたところ、石部宿にて土佐・長州・薩
渡辺吉太郎が江戸浅草の生まれだとして、それはそれで疑問がないでもありません。一番引っかかるのが今井信郎との関係です。今井が渡辺吉太郎のことを桑名藩士だと思い込んでいたとすれば、それはすなわち今井信郎と渡辺吉太郎との間に面識がなかったことを意味します。今井信郎は天保十二年(1841)生まれで渡辺吉太郎の二歳上になります。住居は湯島天神下でしたが、弟・省三の証言によれば信郎は「剣術を藤川、柔術を窪田氏に就き」修行をしたとあるのですが、この藤川というのは下谷長者町の直心影流藤川道場のことと思
渡辺吉太郎の出自に関してですが、今井信郎はたびたび「桑名藩士の渡辺吉太郎」と証言しています。先日、動画共有サイトのニコニコ動画が大規模なサイバー攻撃に遭い、サービス停止に追い込まれたことはご存知の方も多いと思いますが、そのニコニコ動画版のウィキペディアというべきニコニコ大百科というサイトがあります。このニコニコ大百科もサイバー攻撃の影響を受け、しばらく閲覧出来ない状態が続いていましたが、現在は復旧しているようです。そのニコニコ大百科の『渡辺吉太郎』に、出自に関する興味深い記述があります
近江屋事件の刺客の一人として今井信郎がその名を挙げた渡辺吉太郎もまた、謎の多い人物です。渡辺吉太郎に関してはこれまで何度が取り上げて来ましたが、今回はまとめの意味も含めて改めて記事にしたいと思います。京都見廻組の隊士で、市中見廻り部隊の隊長である肝煎を務めた渡辺吉太郎は、『戊辰東軍戦死者霊名簿』に慶応四年(1868)に二十六歳とあることなどから逆算して天保十四年(1843)生まれと考えられています。ただし『京都見廻役人名簿』には慶応三年(1867)に三十歳とあり、これだと天保九年(18
近江屋襲撃グループに世良敏郎の養父吉五郎が加わっていた可能性があるを考えると、そこからまた一つ疑問点が生じてきます。それは今井信郎の供述が、果たして本当に生きている(であろう)人物を庇うために別の誰かと入れ替えたものだったのだろうかという点です。ちなみに、近江屋事件の起きた慶応三年(1867)十一月十五日の直前、同月六日付で提出された、同年十月に作成された京都見廻組の幹部名簿(『在京鳥取藩士用状』)があるのですが、それによると渡辺吉太郎は「渡辺吉三郎」、また渡辺篤(一郎)は、「渡辺鱗三
さて、大阪・心眼寺の渡辺吉三郎と桂早之助の墓ですが、写真を見て何かお気づきになりませんか?(同じ写真の使い回しですみません)実は、一見してわかるぐらい、明らかに桂早之助の墓の方が古いのです。墓石自体も摩耗が進んでいますし、刻まれた文字もところどころが読み取れないほど擦り減ってしまっています。それに比べて渡辺吉三郎の墓は墓石が明らかに新しく、文字もきれいに読み取る事が出来ました。これは何故かのか、そのヒントは墓石の側面に書かれていました。(渡辺吉三郎の
実は、心眼寺の見廻組隊士の墓には、一つの謎があります。『桂早之助略伝』明治元年正月四日、下鳥羽における戦争に参加し、銃丸にて左股を打たれ、戸板に乗り、同僚後藤源左衛門附き添いにて大阪に引揚げ、翌五日、大阪城南小橋寺町心眼寺に葬る。思うに引揚げの途中にて絶命せるならん。享年三十四。法諡して徳元院大誉忠愛義貫居士という。後ち六年、早之助姉婿青木政方、為に碑を墓上に樹う。政方は北城番附同心にて萩野流の砲術を善くせり。因みに早之助と共に坂本龍馬、中岡慎太郎を暗殺したる桑名藩士高橋安次郎の
昨日、大阪市天王寺区の心眼寺に行って来ました。心眼寺といえば、昨年の大河ドラマにもなった、大阪の陣において真田幸村(信繁)が大阪城の出丸「真田丸」を築いた場所として知られています。しかし、僕の今回の目的は、このお寺を有名にしたもう一つの歴史的な事件、幕末の慶応三年十一月十五日に京の都で起きた近江屋事件で、坂本龍馬・中岡慎太郎を襲撃した京都見廻組の隊士、渡辺吉三郎と桂早之助の墓にお参りする事でした。京都見廻組隊士渡辺吉三郎(向かって左)と桂早之助(同右)の墓
龍馬を襲撃したのは見廻組、斬ったのは桂早之助が最有力とされています。生存した今井信郎や渡辺篤の証言でも食い違いがあり京都見廻組が関与したのは間違いなさそうですが真相は闇の中です。1867年(慶応3年)11月15日、近江屋にて見廻組桂早之助がこの脇差で坂本龍馬を斬ったとされています。室内では有利な小太刀の名人に二階の坂本龍馬・中岡慎太郎を襲撃させた。桂早之助は西岡是心流で小太刀の名手だったといわれている。1868年正月、鳥羽伏見戦いで銃撃され戦死しました、行年28歳。桂早