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昨夜、更新されたテイチクエンタテインメントの演歌歌手、青山新さんのブログに現在のJR岡谷駅の写真が載せられていて感慨深いものが有りました。岡谷駅と、その近郊は1968年に園まりさん、藤田まことさん主演の映画「愛のきずな」のロケが行われた場所で映画では重要なシーンでした。映画の撮影風景を撮った写真が有りますが駅舎の変遷に時代の流れを感じました。写真の中央のサングラスをかけておられるのが藤田まことさん、その右が監督の坪島孝さんです。
1964年(昭和39年)1月10日に日本グラモフォンから発売された園まりさんの11枚目のシングル「聞いちゃった!歌っちゃった!泣いちゃった!」のジャケット写真です。安井かずみさん作詞、宮川泰さん作曲のこの曲は三人娘のオリジナル曲として作られたようで中尾ミエさん、伊東ゆかりさんも同じ時期にシングルで発売されています。B面の「明日に太陽を」は1962年にイタリア、フランス合作で制作され日本では1964年11月に公開された映画の音楽に水木かおるさんが作詩されたもので作曲はジョルジュ・ムスタキ
1963年(昭和38年)12月10日に日本グラモフォンから発売された園まりさんの10枚目のシングル「夢の散歩道」のジャケット写真です。オリジナルの歌謡曲のシングルとしては2枚目になります。この曲が発売された二日後、12月12日に「第14回NHK紅白歌合戦出場者」の発表が有り園まりさんは中尾ミエさん、伊東ゆかりさんと三人娘での初出場が決まりました。大晦日の紅白歌合戦では園まりさんは三人娘メドレーで、この年8月に発売してロングヒットになった「女王蜂」を歌唱されました。
1963年9月1日に日本グラモフォンから発売された園まりさんのファーストアルバム「まりちゃんのヒットアルバム」のジャケット写真です。デビュー曲の「鍛冶屋のルンバ」のジャケット写真はモノクロのブロマイドに着色したものでしたので園まりさんのレコードでは初めてカラー写真を使ったものになります。収録曲は3枚目のシングル「マッシュ・ポテト・タイム」から9枚目のシングル「プリンセスではないけれど」までのA面7曲と「燃える太陽」のB面「可愛いばらの少女」、「女王蜂」のB面「禁じられた恋の島」、「プリ
1963年(昭和38年)8月20日に日本グラモフォンから発売された園まりさんの9枚目のシングル「プリンセスではないけれど」のジャケット写真です。この月1日に前に紹介させてもらった8枚目のシングル「女王蜂」が発売されてロングヒットになり、このシングルは、ほとんど話題にならなかったと思われます。「プリンセスではないけれど」はデビュー曲「アイ・ウィル・フォロー・ヒム」が全米ヒットチャートで一位を獲得したリトル・ペギー・マーチのセカンドシングルのカバーで「涙のバースデイ・パーティ」は全米ヒ
私のポリシーは昔大変お世話に成った方々と一生繋がって居たい事そして今の私の現状を見て貰ってこんな風に生きてますよ!と伝える事。私には恩師が2人居る、もう何回もブログに書いているが、亡くなった私をスカウトしてくれた和久井氏、その後色々な問題が有って彼は自分のプロダクションを設立。私は高校2年から東京の高校へ編入するのだが、住居は渡辺プロの国立ち寮で有った。その手続きや面倒を当時寮に一緒に住んでいた高橋氏、その奥様は寮を管理していた方、当然私をスカウトしてくれた和久井氏は渡辺プロからは退社した訳で、
1963年(昭和38年)2月10日に日本グラモフォンから発売された園まりさんの5枚目のシングル「グッド・バイ・ジョー」のジャケット写真です。「グッド・バイ・ジョー」はイギリス出身でアメリカで活躍した女性歌手アルマ・コーガンのヒット曲のカバーで「約束してね」はアメリカの男性歌手、カール・ドブキンス・ジュニアの曲のカバーでした。4枚目のシングル「太陽はひとりぼっち」が発売されたのが前年1962年9月で間が空いたのは映画「太陽はひとりぼっち」が前年12月の公開で大ヒットになり園まりさんのカバ
1962年(昭和37年)7月20日に日本グラモフォンから臨時発売された園まりさんの3枚目のシングル「マッシュ・ポテト・タイム」のジャケット写真です。「マッシュ・ポテト・タイム」は、この年発表され全米ヒットチャートの2位に上がる大ヒットになったアメリカの女性歌手ディー・ディー・シャープの曲のカバーでB面の「愛の白夜」はイタリアの男性歌手レモ・ジェルマーニのデビュー曲のカバーでした。「マッシュ・ポテト・タイム」はこの年6月2日から6日まで日劇で開催されたザ・ピーナッツのワンマンショー「第3
1962年(昭和37年)5月10日に日本グラモフォンから発売された園まりさんのデビュー曲「鍛冶屋のルンバ」のレコードジャケットとその原曲が収録されたウーゴ・ブランコ楽団のLPレコードのジャケットです。園まりさんは小学生の時にコーラスグループ「杉の子こども会」に入会して安西愛子さんに師事、小学校五年から六年までキング児童合唱団に所属して小学校五年の時には「露の玉コロリ」という曲をレコーディングされていますが流行歌手、園まりとしてのデビュー曲はベネズエラの作曲家でアルパの名手、ウーゴ・ブランコ
2012年2月号の「月刊歌の手帖」は中尾ミエさん、伊東ゆかりさん、園まりさんのスパーク3人娘が表紙と巻頭インタビューに登場しておられます。巻末楽譜特集も「スパーク3人娘ベストヒット」になっていて園まりさんの楽曲は「逢いたくて逢いたくて」と「夢は夜ひらく」が掲載されています。インタビューでは2004年に再結成されて2005年から全国コンサートツアーを展開されていたスパーク3人娘が2012年に結成50周年を迎え3月3日の東京を皮切りに記念コンサートツアーが予定されているという事が紹介されて
芸能王国渡辺プロの真実。━渡辺晋との軌跡━元渡辺プロダクション取締役・松下治夫発行日:2007年7月12日。続き、p138,139当時の社員は社長夫妻のほかに経理の女の子がひとりいて、ぼくを含めてマネージャーが三人ほどいた。こっそり『ピータース』で昼食を食べたときのことを、ぼくははっきり覚えている。カレーライスを注文して食べているところに美佐さんがやってきて、ぼくの姿を見つけるとこういった。「松下さん、ここで食事をするのはまだ早いわよ」と怒られたことが
1969年初頭に園まりさんの後援会の関西支部の代表の方がインタビューされた記事を読みやすいように昔、ワープロで打ち直したものが見つかりましたので紹介させてもらいます。この年2月に公開が決まった主演映画「愛のきずな」の撮影秘話などもされていて興味深い内容です。テキストを入力
渡辺晋(わたなべしん/正式表記:渡邊晋/1927年3月2日~1987年1月31日)は、日本の実業家、芸能プロモーター、ベーシスト。日本の芸能事務所の草分け的存在にあたる渡辺プロダクション(通称:ナベプロ)の創業者。1927年3月2日、渡邊晋は、東京市滝野川区(現:東京都北区)に生まれた。だが、媒体によっては福岡県生まれとされることもある。渡邊家は福岡市の出で、渡辺通一帯の大地主であった。晋は日本銀行勤務の父親の転勤で東京(第二延山尋常小学校、現・品川区立第二延山小学校)から門
芸能王国渡辺プロの真実。━渡辺晋との軌跡━元渡辺プロダクション取締役・松下治夫発行日:2007年7月12日。その渡辺社長とタッグを組み、クレージーキャッツ・ハナ肇・植木等、ザ・ドリフターズ、ザ・ピーナッツ、森進一、布施明、沢田研二、ザ・タイガース、小柳ルミ子、テレサ・テン、キャンディーズを擁して芸能界を席巻させ、ナベプロ王国を築き上げた著者の、渾身の芸能ノンフィクション。渡辺プロ制作部長・松下治夫の著書について。この本は、以前に天地真理さんの記事を集めていた時に、
1965年3月に日本グラモフォンから発売された園まりさんのサードアルバム「何も云わないで(園まりヒットアルバム)」のジャケット写真の紹介です。園まりさんの歌謡曲での初ヒットになった「何も云わないで」は1964年6月29日から7月2日、7月6日から11日にNHKテレビと第一放送「きょうのうた」で放映、放送されて10月3日にレコードが発売されました。以前、NHKの「歌謡コンサート」にゲスト出演された草野仁さんが、この曲を思い出の曲として紹介され園まりさんが歌唱された事が有りました。その
アクロバティックなPerformanceとロック魂。渡辺プロダクションが新しいタイプのスターを輩出。本当にココはねぇ凄いなぁアイドルからMusicianへの変貌を遂げたかったのかもしれないよね。ソコは色濃く体感した方々がたくさんいるし。
グループ・サウンズのブームの頃って、日本劇場でのステージを踏むのが最強のstatusにもなっていたんだよね。確かにさ。ここでザ・タイガースが当たり前のようにステージに立つんだよね。昭和42年頃からなんだろうな。渡辺プロダクションに所属してからの日々が慌ただしく忙しくなった。色々な偏見と闘いながらね。ソレでもイノセントなラブソングを歌っていたり、同世代の共感させるような作品をたくさんリリースしていたんだなって思わされたんだよね。昭和43年が
1980年頃のお笑いブームはこれでもかとばかりにかなりすごいエネルギーを放っていたんだよね。ここから大きな変化が出てきた。間違いなくね。吉本興業が本格的に東京にも進出して、根差して経営をしていく環境を整えていったのは間違いないんだろうね。理由あって東京から撤退して大阪限定にしていた時期があったからこそ、ここで一気に変えていった。芸能界の天下統一を図ろうとしていたのかなって感じだからね。東京のお笑いのプロダクションだってたくさんあるんだからね。渡辺プロダクション太
ヒップアップ島崎俊郎さん川上泰生さん小林進さん結成時は渡辺プロダクション。クレイジーキャッツの付き人を経験していたんだよね。付き人仲間で結成されたコントグループサンサンズを島崎さんと川上さんが抜けて、そこに小林さんが入って、ヒップアップになったんだよね。トリオを結成してから、笑ってる場合ですよ!のお笑い君こそスターだ!で優勝したのをきっかけに一気にブレーク。THEMANZAIオレたちひょうきん族などに出演。色々と目立っていた
1970年(昭和45年)1月発行の園まりさんの後援会会会報「園」に掲載された新年の挨拶と1970年正月に放映された「新春かくし芸大会」の園まりさん出演シーンの写真です。この号が園まり後援会の会報としては最後になり以降は渡辺プロタレント友の会に引き継がれます。1970年の園まりさんは、まず3月に前年末に発売されたアルバム「恋の宴は果てしなく」からのシングルカットで川内康範さん作詩、宮川泰さん作曲の「くちづけ」を発売されますが、この曲はオリコンの週間ランキングのベスト100に入りませんでし
園まりさんの1969年(昭和44年)の年賀状です。所属プロダクションの渡辺プロダクションが作成されたと思います。2月発売の新曲「おもいきり泣かせて」と2月封切りの映画「愛のきずな」の告知を兼ねています。この年の園まりさんは1月の日劇での舞台「まりちゃんといっしょザドリフターズショー」からのスタートでした。2月に公開された東宝映画「愛のきずな」での演技は評価されましたが、この月に発売された「おもいきり泣かせて」のオリコン週間ランキングは71位止まりでした。3月13日にTBSテ
映画雑誌「映画情報」の昭和44年(1969年)2月号に掲載された渡辺プロダクションの三人娘、中尾ミエさん、伊東ゆかりさん、園まりさんの晴れ着姿の写真です。1968年暮れに開催された渡辺プロダクションの晴れ着撮影会での写真です。伊東ゆかりさんは1968年は「恋のしずく」から連続大ヒットを飛ばして1967年に引き続き絶好調、中尾ミエさんは「恋のシャロック」が久しぶりにヒット、園まりさんは1966年、1967年のような大ヒットは出ませんでしたが「あなたのとりこ」がヒット、松本清張さん原作の映
園まりさんの大ファンになったのは1974年の初めでしたが、その頃には園まりさん一人のファンクラブは無くなっていました。その後、渡辺プロダクション所属のタレントのファンクラブとして渡辺プロダクションタレント友の会がある事を知り1976年から友の会が無くなるまで入会していました。渡辺プロダクションタレント友の会の会報誌「ヤング」が毎月、発刊されていて毎年1月号では所属タレントの年賀色紙の各一名へのプレゼント企画が有りました。私もそれに応募させてもらい当選していただいた年賀色紙が手元に五
昨夜も赤坂マルソーさんで、完全クローズな集まりを仕切らせていただきました。元ビーイングの長戸大幸さんの弟さんでもあり、Rey'sinという大音楽事務所の社長の長戸秀介さん、フジテレビやTBSの芸能関係者、フライデーの芸能関係者、はたまた、スターダスト、ナベプロ、アービングなど、そして、元RipSlymeのSUさんまでお越しいただき、盛り上がり過ぎました。みなさん、お疲れ様でした!12月24日のエンタメ交流会にも、昨日の方々が、いらしていただけるようで、
色々と問題がでてきたりした面があった。1979年2月に渡辺プロダクションから独立をして、森音楽事務所を設立。最大手のプロダクションからの独立をしたから、嫌がらせやら問題になるような圧力によって仕事に支障が出かねないリスクを孕んでいたのは確か。ソレでも、次々に自分でプロデュースをして新しい波紋を呼ぶことを最優先にしたかったのかなって思わされてしまったよね。
2023年12月7日木曜日夕方に訃報が入ってきました。お笑いトリオ「ヒップアップ」でタレントの島崎俊郎さんが亡くなられました。68歳でした。2023年9月4日に亡くなられたとのことです。フジテレビ系「オレたちひょうきん族」のアダモちゃんなどで有名です。「オレたちひょうきん族」では1988年頃、「ひょうきん族だヨ!全員集合」が放送されました。1980年代前半、裏番組となっていたTBS系「8時だヨ!全員集合」を再現したものです。リーダ
井上陽水さんの氷の世界のリリースから1位をずっと取り続けていた頃のトップスターって?やっぱり当時の渡辺プロダクションの威力はかなり凄まじかったが、日本テレビと大喧嘩をした頃であって、日本テレビのスター発掘オーディション番組のスター誕生から出現したアイドル歌手やらスタージンガーがありとあらゆる場所で出現した時代なのが、昭和48年から49年、50年の背景かなぁ?小柳ルミ子さんは確実にアイドルから正統派の実力派歌手に変わろうとしていた頃だよね。天地真理さんは1位常連だったが、飽き
やっぱり新3人娘が主役だったよね。アイドル業界のね。小柳ルミ子さんと天地真理さんは当時ねぇ、鉄壁の威力を発揮しまくっていた渡辺プロダクションの看板スター。ライバル心はかなりすごかった。互いにね。特に小柳ルミ子さんにとっては悔しさが込み上げる事も多々あったようだからね。歌手としての本格的なヒット作品。日本の情緒などを歌える貴重な歌手であるのを周りが理解しなくてはならなかった。確かに。
『バーニングプロダクション』の宣伝部長・河西成夫舌がんのため82歳で死亡芸能界の衰退が進む『バーニングプロダクション』の宣伝部長・河西成夫舌がんのため82歳で死亡芸能界の衰退が進む今月14日、芸能事務所「バーニングプロダクション」の宣伝部長を務めた「河西成夫(かさいしげお)」が、「舌がん」のため82歳で死亡しました。河西成夫は、1965年に「渡辺プロダクション」に入社し、ザ・ドリフターズのマネジャーなどを務めました。その後、1982年に独立し、宣伝会社「ハウス57」を設立。
なりゆき街道旅澤部さんからハナコに代わって半年が経ちました!俳優ゲストが1人の時は3人でも良いですが?俳優ゲストが1人、お笑いゲストが1人の時は秋山さん1人で十分なんですよ!俳優ゲストが2人の時はハナコも2人にするとか?番組構成の見直しが必要だと思います!ワタナベエンターテインメントの仕切りですよね!岡部さんはもっと俳優で売込みましょうよ!