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『北から南へ「天守」シリーズ』は、一応、北から始めて南まで辿ってきましたが、10城くらいが抜けていましたので、再度北から再度辿っています。本日第72回目となりますお城は、RC造り模擬の「清須(清洲)城」(愛知県清須市朝日城屋敷)天守をお届けします。初回は、「プロローグ」ということで「天守」についてのエピソード等をお話をし、2回目以降は、具体的に「天守(御三階櫓含む)」があるお城を、北から順次、現存・復元・復興・模擬の「天守(御三階櫓含む)」を織り交ぜて掲載してきました。『<北か
名古屋城の北西エリア、御深井丸(おふけまる)の北西隅に位置し、1619年(元和5年)頃の建立。別名戌亥隅櫓(いぬいすみやぐら)。外観三重、内部三階の構造。江戸時代から現存する三階櫓では、熊本城宇土櫓(うとやぐら)に次ぐ、全国で2番目の規模の建築。上下四方に屋根や庇(ひさし)を設けた入母屋造(いりもやづくり)、平瓦と丸瓦を組み合わせた本瓦葺き。北面と西面に敵を攻撃するための石落しが、各面には三角形の小型の屋根である千鳥破風(ちどりはふ)が設けられている。清洲城の天守または小天守を
【問題】清洲越し(清須越)とは、清洲からどこへの町の移転を表した言葉か?【選択肢】広島安土伏見名古屋【正解】名古屋【解説】名古屋城(愛知県名古屋市)が築かれ、城下に碁盤割の町が作られた際、それまで尾張の中心であった清須(同清須市)の町ごと名古屋へ引っ越す「清洲越し」が行われた。
こんにちは。前回からの続きにて、暫くぶりに近場の名古屋城へ散策して参りました。いつもなら外堀や三の丸などの外郭から攻めますが今回はもうガマンできないのでいきなり本丸に飛びつきます。西の丸大手に位置する正門。元は榎多御門といいましたが濃尾地震で大破、宮内庁離宮時代に江戸城から蓮池御門を移築しましたが戦災で焼失。コレはコンクリート製の蓮池御門の復元です。石の表面にはハツリ加工が施してあります。身分の高い藩士と重臣しかくぐれませんから格式が高い門なのです。名古屋城の石垣には
訪問日:2022/3/19【場所】愛知県清須市【築城年】1405年【築城者・改修者】斯波義重【城郭様式】平城【主な城主】斯波氏、織田氏、豊臣秀次、福島正則、徳川氏【見所】①模擬天守②土塁③石垣【廃城年】1610年【御城印の有無・販売場所】ふるさとのやかた(川を挟んで天守の反対側にある無料休憩所)、清洲城天守受付【アクセス】JR東海道本線清洲駅より徒歩15分、名鉄名古屋本線新清洲駅より徒歩15分【駐車場情報】清洲古城跡公園、清洲城広場(清洲城天守東側)に無料駐車場有り
プロローグはじめまして、SOblog歴山紀行へようこそ。これまで私はたくさんの史跡や山を巡り、その素晴らしさに触れ、目に焼き付けてきました。国内の歴史の名場面が生まれた場所、ちょっとマイナーな歴史スポット、なかなか行くことが大変な外国の史跡...。みなさんも観光する際、たくさんの建造物や自然を目の当たりにすると思います。勿論、知識なしで行っても素晴らしものは素晴らしいし、友達と行ければ満足という方もいらっしゃるでしょう。ただ今回私が伝えたいのは、前提知識として、その名所の見所
こんばんは🌆お疲れ様です😊今日のランチは大須観音『末廣寿司』さんで日替り「末廣弁当」をいただきました🍴結構なボリュームです❗️ちらし寿司、刺身定食もありますが、なぜか皆さん、末廣弁当を頼んでいました🍱店構えなかなか渋いです😃大相撲の力士の手形が飾ってありました🖐他にも番付表や色紙もありました。50年以上、前のもので北の富士関やら柏戸関が現役の頃のものだそうです❗️自分も学生の時に名古屋場所でお茶屋のアルバイトをしていた話をしたら盛り上がりました😁今日の大須商店街🏮まあまあ
松本家まとめ戸籍取得旧土地台帳閲覧郷土誌読み込み本家に聞き取り菩提寺に聞き取り現時点で出来る限りの調査はしたはず。満足いく結果ではないが、ここで一旦まとめておこうと思う。江戸期より前は尾張國清洲に住んでいた。江戸の初め、慶長15(1610)年頃、清洲越しによって御器所村(現名古屋市昭和区)に移り住んだ。ここまでは菩提寺住職の話によるもので、証拠となる資料は何もない。菩提寺は戦災で焼けており、過去帳などは何も残ってない。遡ることの出来た最古のご先祖様の名前は伊助(私の高
先祖は清洲越しという情報は本当か。手掛かりがないか、探してみることに。資料としては📕寛延旧家集(名古屋叢書第12巻)📕郡村徇行記(名古屋叢書第9巻)📕金鱗九十九之塵(名古屋叢書第6―8巻)あたり。デジタル化されていて自宅で見れるものもあれば、図書館でしか見れないものもある。ひと通り調べてみるも、手掛かりなし…。唯一「松本」の名があったのが《味噌商売松本屋喜兵衛》しかし、名字は「早川」さんのようです。(岡崎のカクキュー八丁味噌も早川さんだけど、これはたまたまか?)
二度目にご住職にお話しを伺ったのは昨年のある法事の時でした。代替わりをされていて、十六代目のご住職だそうです。数十年前に尋ねた先代のご住職は、あまり過去に興味がなかったのか、「燃えちゃったもんはしょうがないねぇ。分からんもんは分からん。」といった感じでしたが、今のご住職は違う!「自分のお寺の歴史も知っておきたい。」と、あれこれ資料を探しながらお調べになっているらしい。これはとてもラッキーなこと!で、「家系図を作ろうと思って先祖を調べているのですけど…」と切り出したところ、「うち
名古屋市西区くらげ庵真如寺で授かりました。信長の築いた🏯清須の城下町。当時、尾張の中心でした。家康が🏯名古屋城を築き、1610年に商家、寺社、橋など城下町そのままを名古屋城に移転したのが清須越しです。四間通を参歩。四間道(しけみち)と読みます。清須越の後に、ここに商家が集まりました。蔵を火から守る為、道幅を4間にしたのが「四間道」の名の由来と言われます。名古屋市西区⛩️浅間神社社務所には来客の様子。日も落ちてきたので御朱印は、またいづれ。出格子
2021年秋のウォーキングイベントが始まりました。9月いっぱいは、緊急事態宣言発令中だったので、各社開催されず…10月に入って、いち早く、名鉄さんの沿線ハイキングが始まりました。スタート駅は犬山線の下小田井駅。名古屋からほんの3駅目の近場な駅です。コースは、新コースで〜名古屋が誇る「名古屋城」とかつて城のまわりを走っていたお堀電車の記憶を求めて〜ということで、清須市から名古屋城へ向けて歩く、清州越し的なウォーキングです。下小田井は小さい駅なので、駅から少し離れた場所がスタート受付に
「美濃路」歩きに戻ります。かっての名古屋宿の中心地、高札場のあった「札ノ辻」から再開です。ここが「札ノ辻」で、左側に「伝馬会所」右側に「高札場」がありました。美濃路はここで西進します。長者町通りを過ぎると、茶どころ名古屋では有名な「升半茶店」があります。創業は天保11年(1840)、幕末には町奉行御用達を拝命しています。街道は国道19号線にぶつかります。かってはこちらがメイン道路だったのに、歴史の変遷はすさましい勢いで変わっています。
愛宕神社っていうと先日テレビで京都の総本宮愛宕神社を紹介している番組を見たばかり。普段東京で住んでいる私には遠い京都よりも港区にある出世の石段で有名な愛宕神社の方がシックリくるかな😁😁そんな私ソーイチ母のことで里帰り中暇になった時間を使って家の近場で行ける神社ないかな〜って思ってネットで探していたら出てきたのが愛知県清須市朝日の⭐朝日愛宕神社⭐愛宕神社って愛知県では結構少ないのかな?4社くらいしか出てこない。その中の1社がご近所にあったなんて・・愛宕さんっ
雲がやってくる・・雨がやってくる麒麟もやってくる前にライドするのだ。昨日とほぼ同様な庄内川堤防コースミッドランドスクウアDior前からスタートです。綺麗なお姉さんサイクルウェアでご一緒ライドしませう。56cycle前通過~。近鉄電車始発一番電車かな?朝もはよから、運転手さんお疲れさまです。向野橋から名駅方面フォトPM3:00からお天気占い師さん雨予報だが・・オハヤで雨が降る模様だ。この後、少しポツポツでした。清須市土器野あたり
母の受診後、施設で別れた私は、いつもなら名古屋駅から帰るところをこの日はお天気も良かったので、少し遠回りになるけど、名古屋駅とは逆方向の栄からバスで帰ってみることに🚌栄に向かう堀川沿いには「四季桜」が咲き始めていました🌸いつもなら、もっと晴れ晴れとした気持ちで見上げることが出来たはず納屋橋の上…堀川の水はちっとも綺麗にならないね~栄の広小路通りを歩くのは久しぶりそういえばバタバタしてて、御昼まだだったしらす入り焦がし醤油のパスタ🍝美味しかったです何だろう…?お腹が満たされたら、ち
清須(旧清洲町)ぶらぶら‥‥その4、最終回です。清須市清涼寺、私、清須市(当時清洲町)内で勤めていた当時から、この寺の前も通ったことがあるだろうに、一切記憶に残っていませんでした。当時、寺社には関心がなかったですからね‥‥。山門がしっかりとした趣を感じました。由緒正しい寺のようですが、「清洲越し」の時はどうしたのでしょう?寺の名前は「洪福山清凉禅寺」というそうです。創建は不詳ですが、土田と呼ばれる地区(清須市内)にあったものが、寛永年間にこの地に移ってきたものだそうで
「清須市」う~ん、実は行くつもりはなかったんですが、ひょんなことから、名鉄の新清洲駅で下車することになりました。せっかく下車したのだからブラ~と歩いてこようと思いました。実は、旧清洲町といいますと、自分が若い頃、仕事で2年半通勤したことがあるんです。最初の頃は、ランチを食べる店が、漫画家の鳥山明さんの家の30m程の近くにあり、家の前をよく通りました。お店の方は、その後、違う場所に移転しましたけどね。市街地の道の景観がすっかり当時とは変わってしまいました。清須と言えば清洲城。
今回は名古屋市中区大須に鎮座します北野神社です。大須といえば「大須観音」ですが大須観音はもともと北野神社の一部の神宮寺でした。1324年に後醍醐天皇の勅命で岐阜県の大須に北野天満宮を建立。清洲越し(清洲から名古屋へ都市を移転)の際に大須観音とともに現在地に移転しました。境内全景小さな神社です。胴体がハムみたいな撫で牛手水舎稲荷社門の向こうに本殿御朱印は不明です。
皆様お疲れ様に御座ります!虎丸でございます!此度は名古屋城にて演武を行ったそうです!して、午後からは周年祭で行った清洲越しを行い、天下統一の舞を初めて五人で致したそうです!まさか五人版を見れるとは・・っ!名古屋おもてなし武将隊は日々新たな風を吹き込んでおられますな!虎丸はひ、非常に驚き申した!!!これからもお供致しまする!虎丸皆お疲れさん。加藤清正である。虎丸?そんな者はおらぬ!自作自演じゃ!写し絵協力者はえびで御座る。今度餌付けしてやる。此度は名古屋城にてやっとかめ文化祭