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藤森神社藤森祭5月1日~5日菖蒲の節句(端午の節句)発祥の祭へ是非!!5日に武者行列、神輿、駈馬神事などがあります約1800年前神功皇后により創建された古社素盞鳴命、別雷命、日本武尊応神天皇、仁徳天皇、神功皇后武内宿禰、舎人親王、天武天皇早良親王、伊豫親王、井上内親十二柱皇室ゆかりの方々をお祀りする藤森神社は菖蒲の節句(端午の節句)発祥の神社です5月5日子供の日は節句の聖地へ!!維新の扉を開いた清河八郎(新選組の前
文久三年(1863)三月二十八日、十六日間の中山道の旅路を終えて浪士組は江戸に戻りました。折しも前年八月に薩摩藩が起こした生麦事件に対し、イギリスは幕府に謝罪状の提出と十万ポンドの賠償金の支払いを要求し、更に幕府に圧力をかけるためにイギリス・フランス・オランダ・アメリカの四か国艦隊を横浜に入港させていました。幕府はこの脅しに屈する形で、四月一日にイギリスの要求を呑む決定を下します(のち撤回)。清河八郎はじめ浪士組はこの幕府の弱腰ぶりに憤り、独自に横浜焼き討ち計画を立てることになりますが
文久三年(1863)二月二十三日に洛西壬生村に到着した浪士組ですが、清河八郎は佐々木只三郎ら同行役人たちをのぞく浪士一同を宿所の新徳寺に集め演説を打ちます。その内容は「我々の真の目的は尊王攘夷を断然実行することにあるので、幕府によって集められたとはいえ、今後は幕府ではなく朝廷の命令に従うべきである」といった内容だったとされます。のちに学習院に提出された上申書(『清川八郎以下連署上申書』)にも幕府御世話にて上京仕候得共、禄位等は更に相承不申。只々尊攘大義相期し奉候間、万一皇命を
安政六年(1859)頃、二十七歳前後の年で幕臣佐々木家の養子となった只三郎は、御書院番与力に任じられた一方で、その腕を買われ幕府講武所で剣術教授などの役目に任じられたといわれています。この佐々木只三郎の講武所教授就任に関しては確実な史料はないようですが、のちに京都見廻組で同役の与頭となる速見又四郎が講武所槍術世話心得役、高久半之助が同じく講武所剣術世話心得役に任じられていたことが史料ではっきりしているので、佐々木も同様に世話心得役、もしくはそれ以上の役目についていたと考えて、ほぼ間違い
昨日、まず向かったのは、壬生寺目的は、新しい御朱印帳ね今回も、近藤勇・・・土方歳三や沖田総司などの復刻版は、売り切れそして、向かいの新徳寺ここの本堂で、浪士組として上京した清河八郎が尊王攘夷の実行を演説して、そのほとんどを引き連れて江戸へ引き返し、残った、近藤勇が新選組となるわけね閉まってはいるけど、御朱印は、頂ける・・・書置きね近くの、旧前川邸前回、夏に来た時は閉まっていたのだが、聞いてみると民家ということなので、土日祝日のみ、グッズを販売している
新撰組の前身浪士組のリーダー清河八郎の墓参りです。清河八郎とは幕末期の志士。出羽庄内藩の郷士・斎藤治兵衛の子で、名は元司。16歳のとき江戸に出て、剣を千葉周作に、儒学を東条一堂に学ぶ。59年、神田お玉が池に文武指南所を開く。翌年、桜田門外の変を契機に志士たちと交流。尊攘運動の大義を貫くため、志士たちを伏見寺田屋に集めるが、島津久光に阻止されて挫折。63年には、幕府浪士と京都・壬生に駐屯。近藤勇ら佐幕派と対立する。江戸に戻って新徴組に入るが、麻布一の橋で幕吏に暗殺された。現在の神田東松下
*10月15日エントリーの続きです。R大学文学部史学科の院生・あんみつ君と、近現代史のしらたま教授の歴史トーク、今回のテーマは幕末の庄内藩です。本日は、新徴組結成すのおはなし。🧃あんみつ「しらたま先生、庄内浪人郷士・清河八郎は学者志望から政事で名を挙げようと、薩摩人伊牟田尚平と京都朝廷でのツテを求めていたところ、薩摩士民を檀家とする伊勢外宮の御師・山田大路が中山大納言家にも出入りしているというので、山田から中山家の大夫田中河内介を紹介して
*10月8日エントリーの続きです。R大学文学部史学科の院生・あんみつ君、今回は近現代史のしらたま教授との歴史トークで、テーマは幕末の庄内藩。本日は、庄内浪人・清河八郎策動すのおはなし。🍟あんみつ「しらたま先生、酒井家の庄内藩14万石が豪商本間家の資本バックアップもあり、他藩より豊かで教育にも熱心だったとわかりました。領内には長者が多く、彼らは学問好きで風流人。画家や俳人など旅の文化人が訪ねてくると快く歓待しました」しらたま「酒田
前回からの続き(8月18日のこと)です輪違屋を後にして、歩いて次の京の夏の旅の場所へやってきました新徳寺住所・京都市中京区壬生賀陽御所48御本尊・准胝観音菩薩駐車場・なし歴史など臨済宗永源寺派の寺院元文4(1739)年、永源寺113世・天巖文聰(てんがんぶんそう)和尚の開山万年寺など4つの寺院を併合して、新徳寺として建立天明の大火により、本堂焼失175年前に再建(解説用紙より)山門から望む右手に本堂屋根が反っているとか説明がありましたそれと猿が2匹乗っていますこ
真室川町・鮭延城跡より、稲穂ひかる秋田との県境、丁山地・丁岳(標高1146m東北百名山)美しい日本こんな道案内がところどころに。また草刈りもしてあり有難い。石碑大正4年建立とある有志の方なのか、地元の方なのか、、、ツリフネソウ案内板なるほど…戦国時代空堀あとしっかり残ってますね。こんなものがあると、実際に城があったこと実感できます。薬師堂コケのむしかたが半端ない日がかわり、鳥海山麓・玉簾の滝落差63m周りには、スギやトチノキ、カツラの
先日、壬生の新徳寺に行って来ました。今回「京の夏の旅」キャンペーンに合わせて内部が特別公開されていますが、一般への公開は初めてなんだそうです。文久三年(1863)二月二十三日、上洛する将軍家茂の警護を目的として結成された浪士組234名は京都壬生村に到着、村内の各所に分宿しました。中でも新徳寺には清河八郎をはじめとした幹部が宿泊しており、事実上の本営となっていました。その新徳寺、正しい名前は鳳翔山新徳寺(ほうしょうざんしんとくじ)といい、臨済宗(禅宗)永源寺派に属
兎に角この日は暑うて暑うて…😰前川邸を出ると向かいは八木邸。和菓子屋さんを通り抜けて八木邸に入場出来るように成っとん。八木邸に入場すると割引価格で和菓子が頂ける仕組み。へばってへとへとなすてれんきょはしばし身体を冷やそうと入店。(黒糖風味はす楜餅770円)冷たい抹茶と黒糖味のわらび餅?八木邸見学の人は30分毎の解説にここで時間調整。うまいシステムが出来上がっとる。身体か冷えたら斜め向かいの新徳寺。江戸で集めた将軍警固の浪士組を前に清河八郎が花火ぶちあげたお寺やな。ここに24
明治9年、前谷(まえや)村と大曽(おおぞ)村が合併して栄(さかえ)村となった。北川辺村・北川辺町時代は前谷を栄東、大曽を栄西と呼んでいた。「栄(さかえ)」は縁起よい文字であるが、この地名のついている場所は、村の境(さかい)だったり、国境(くにざかい)だったりするケースが多い。これまで方言や地名でたびたび指摘した通り、北関東おなじみのイ・エの母音混同現象だ。「前谷」の「前」は方角でいえば南。日当たりのいい南側に開けた地形をいう。マエヤの「ヤ」は谷の字が充てられているが、「野」の
文武両道神社仏閣・パワースポット29…清河神社@山形県清河神社|子供とお出かけ情報「いこーよ」(iko-yo.net)清河八郎記念館~回天の魁士清河八郎~(navishonai.jp)清河神社-観光スポット情報-山形県庄内町観光情報サイトNavi庄内町(navishonai.jp)清河神社|観光スポット(庄内町・庄内地方)|やまがたへの旅-山形県の公式観光・旅行情報サイト(yamagatakanko.com)清河神社例祭|イベント(庄内
藤沢作品は、架空の登場人物による「時代小説」が多いのですが、実在の人物を扱った「歴史小説」も何作かあります。本作もその一つで、幕末に活躍し「新選組」の前身である「浪士組」を作った人物として知られている清河八郎の生涯を描いています。変節漢・山師・策士とひとは呼ぶ。清河八郎は今なお悪評と誤解のなかにある。八郎は仕官の途さえ望まぬ、一個の“草莽の士”であった。さらにその時代は、倒幕の機いまだ熟さず、彼は早すぎた志士として生きねばならなかった。郷里出奔から、麻布一ノ橋で凶刃に倒
伝通院でんづういん文京区の伝通院です1100回目❗️伝通院…ずっと「でんつういん」だと思っておりました「でんづういん」とのこと有名なお寺なので名前だけは存じあげていました特に私は10代から「新撰組」の熱烈なファンなので…伝通院と言えば新撰組始まりの地、でもあります素敵な山門です山門の先には本堂が見えますが…桜が見事です🌸🌸□創建応永22年(1415年)□宗派浄土宗□御本尊阿弥陀如来□正式名無量山伝通院寿経寺□別名小石川伝通院□札所江戸三
旧東海道の終点、三条大橋から三条通りを西進してきて、2.63㎞先の千本三条交差点まできました。全部歩いたら1時間くらいかかってしまうわけで、途中自転車を除く車両通行止めのアーケード商店街もありましたし、やはり京都のような町で自転車があると便利だなと思います。前回も少し触れましたが、千本三条交差点から千本通を北へ280mゆくと、JR山陰本線の二条駅があります。山陰本線は京都を起点として下関駅の3.8㎞北、山陽本線との合流点である幡生(はたぶ)駅まで、673.8㎞もの長大路線です。(東海道本
前回からの引き続きです。まだ全然走り足りないのでとりあえずR47道の駅庄内。自分がここに来たらコレ!生乳ソフト!寒いから溶けない。でも温かいアグスタ乗ってるから身体も温まってこの冷たさがちょうどいい。20分ほど滞在ののち移動。次に向かったのが幕末の志士清河八郎を奉った清河神社。おもむろに参拝。神社はまだ雪囲い中。鳥居の横にある清河八郎座像も大切に囲われておりました。久しぶりに隣接する清河八郎記念館に入館しました。入館料¥400-館
【鳥取県】平安時代から続く由緒ある古社「方見神社」へ新年のご挨拶-地球の歩き方地球の歩き方琴浦町(ことうらちょう)にある「方見神社」天照大神(あまてらすおおみかみ)などの十神を祀る神社で、元上伊勢皇大神宮と称され平安時代から続くとい...平安時代から続く京都の「火消」文化、教授が重要性解説現代消防団に通底-Yahoo!ニュースYahoo!ニュース-Yahoo!JAPAN伝統的建築物を研究するライフデザイン学科の丸山教授は、写真や図を豊富に交え、京のまちが平安時代末
魁てまたさきがけん死出の山迷いはせまじ皇の道清河八郎が生まれ育った町山形県庄内町清川清川歴史公園関所まつりが11月6日開催されるということで清川関所へ行ってきました。清川関所では、新そばセット(¥900)を食べ船見番所へ御殿林や最上川が見ることができます。雨が降っている庄内町寺小路を通り歓喜寺そして北楯大堰のある場所から「あ」「う」の2体の金剛力士像がある御諸皇子神社へ行ってきました。関所まつり限定のバナナボート(¥350)をお土産に買ってきました。八
幕末に「新田義貞末裔」を称して立ち上がった新田官軍。その決起は必ずしも成功とは言えませんでしたが、幕末という歴史の転換点で存在感を示しました。『猫絵の姫君ー戊辰太平記ー』に登場した、新田官軍メンバーの「その後」は・・・1、金井五郎(之恭)金井烏洲の子。天保4年(1833)生まれ。作中(戊辰戦争)では36歳。作中では一貫して「金井五郎」で登場しています。文久3年(1863)の桃井可堂による沼田城奪取計画から、新田勤皇党、新田官軍と常に中心人物として活躍。通称は文
18日最上川の支流です羽黒山有料道路から県道45号線清川地区に入りました家紋!「丸に八卦」とは!古代中国から伝わる易の基本図象。そのうち乾卦(行動)、震卦(勝つ)、離卦(万物が育つ)その三種が八卦紋。この紋を使う家は少ない。使用家:三木、小坂清河八郎-Wikipediaja.wikipedia.org庄内町人物伝|清河八郎-山形県庄内町観光情報サイトNavi庄内町www.navishona
「大暴れ仕事人!横浜異人屋敷の決闘」清河八郎演-滝田栄出羽出身の志士で、本作の真の主役。幕末動乱の火付け役とされる、実在の人物がモデルとなっています。攘夷派浪士が集う江戸「浪士隊」隊長であり、一般には新選組誕生の遠因として有名な男です。千葉周作道場で北辰一刀流を極め、学問を修めた文武両道の英傑で、激情家でもある。いやぁ、とんでもない強さですよね。歴代仕事人の中でも、トップクラスの強さじゃないですか。のちに「清河塾」を開設するので
【Q17971】2006~07年には当時のヒルマン監督の娘ブライアンナちゃんもメンバーとして活動し、2022年にはノルウェーの兄弟デュオ「Ylvis(イルヴィス)」の曲『TheFox』に合わせて踊る「きつねダンス」で話題になった、プロ野球・北海道日本ハムファイターズのチアリーディングチームは何?【ファイターズガール】【Q17972】高速道路の施設の略称。「IC」はインターチェンジ、「SA」はサービスエリアですが、積雪地域に設けられている「CB」は何?【チェーンベース(チェーン着脱場)】
■伝通院周辺を歩く◉新選組の前身・浪士組結成の場所「処静院跡」~「福聚院」~「安藤坂」へかつて江戸時代、伝通院境内にはたくさんの塔頭・末寺がありました。その一つに「処静院」という寺院がありました。伝通院山門の脇に、所浄院(処静院)の説明板があります。『所浄院(処静院(しょじょういん)跡)』文久3年2月、清河八郎、山岡鉄舟らの呼びかけで、芹沢鴨・近藤勇・土方歳三らが参加し、伝通院山内の処静院(しょじょういん)で浪士隊が結成されました。この浪士組が、後の新
船見番所から御殿林へ抜ける道があり、散策路になってました。御殿林は、荘内戊辰戦争の清川口古戦場ともなった場所です。正岡子規は、御殿林が戊辰戦争の戦跡だと聞いて次の句を詠みました。蜩の二十五年も昔かな御殿林を抜けると清河八郎記念館や、清河神社へと続く道があり、清河八郎像が飾ってありました。清河八郎は、暗殺当日2つの句を詠んだとされています。魁けてまたさきがけん死出の山迷いはせまじ皇の道砕けてもまた、砕けてもよる波は岩角をしも打ち砕くらむ清河神社清河神社から歓
かつて最上川船運の番所があった庄内町清川へ行ってまいりました。ここは、幕末の志士清河八郎の生家があった町でもあります。清川関所御殿茶屋でランチを食べました。御殿セットこちらのそばぜんざいがついて¥1000円になります。御殿茶屋は、土日祝の営業で11時〜14時までみたいです。小鵜飼船や、鎧や兜など、歴史資料が飾ってありました。展示資料の撮影は、NGということでしたので、文章だけでごめんなさい。船見番所最上川を往来する内陸向け荷物を監視する場所。船見番所の2階からは
今日はまたプチ旅行のお話です。先週は米沢藩・上杉家を堪能しに行ったわたし。今日は同じ山形県でも鶴岡の方、庄内藩を堪能してきました。最近、なんだかな・・・奥羽越列藩同盟スタンプラリーでもしてるかのような。(それもまたいいかもな〜とか思ってる)米沢へは山道をクネクネドライブしていきましたが、鶴岡ですと日本海の荒波を見ながら、海岸線を北上します。鶴岡もいい街です。新潟県村上市に住んでいた頃は、たまに行きました。近いからね。でも、鶴岡の前に、ちょっと足を伸ばして清
神宮式年遷宮は持統天皇の御代から今も継続されています繰り返すことによって限りあるものを永遠なるものにするのです去年もそうだったのかなぁ単に気付いていなかっただけなのか?内宮古殿地側が正宮参拝後の帰り道になっていた、、通常は非公開エリアだから正月期間限定なんだろうけれど、、、古殿地マニアとしてはめちゃX2テンションがー⤴︎⤴︎⤴︎✨神宮外宮古殿地前で年を越し、その後、内宮に参拝また外宮にもどって、歳旦祭に参列内宮昼間によく見