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宇部八幡神社のあとに阿内八幡宮に向かいました。阿内八幡宮はおよそ10年ぶりです。当時はひたすら歩きましたが、今回は車でラクチンでした(^-^;↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓『2012.06.26専念寺、小野小町の墓』高林寺をあとに、田んぼの中をのんびりと歩きます。約20分で阿内八幡宮に着きます。文明3年(1471)に宇佐八幡宮の分神を祀ったもので、門は清末藩邸の表門を移…ameblo.jp文明3年(1471)に宇佐八幡宮の分霊を祀ったもので、門は清末藩邸の表門を移したもので
全国の城郭建造物「御殿(居館)シリーズ」をお届けしています。「御殿」については、「はじめに」の中で、軽く触れましたのでどうぞご覧ください。全国「御殿」を巡る”はじめに”↓『全国「御殿」を巡る”はじめに”』「近世城郭」における「城郭建造物」には、「天守」を始め「櫓」「櫓門」「門」「御殿」「番所」「蔵(金蔵)」「馬屋」その他に「御殿」を構成する「茶室」「能舞台」「…ameblo.jp今回は、「清末陣屋」の「御殿玄関」が「明円寺」に移築されている「玄関・庫裏等」をお届けします。
王司、清末、小月地区小月庚申塚小月神社御旅所にある庚申塚は、高さ二·六メートル、周囲三·四メートル、重さ七トンというまれにみる巨大なもので、達筆な庚申の二字の彫りも深く、この二字のくぽみには米つぷが約二斗(二十升)も入るといわれており、このように立派な庚申塚は、全国でも珍しいと伝えられている。中西輝磨氏の調査によると、下関市内には庚申塚が二四〇基以上も発見されているが、このことは庚申塚が民間信仰として、広く人びとの心の支えとなっていたことを物語るものである。庚神様は元来中国の道教の守であ
清末騒動略記1梅里義秀いわゆる清末騒動は今から百五十年前、文化十年から、文政十年までの十四年間(一八十三から二七)に起きた清末藩の御家騒動であるが、この騒動の発端は三代政苗公が竹崎町の商港新設と長府・清末間の道路開発とに多額の金を注き込んだ上、多くの愛妾を置いたことなどのため、藩の財政が行き詰まり、その立て直しのために清末に遊邸を開設させ、旅行中の婦女子をかどわかして女郎にさせたり、一時に百二十人からの家臣を首にし、しかもこの整理には良臣を犠牲とし、倭臣を残したことなどから臣が両派に分かれて
高杉、奇兵隊を去る1教法寺(下関市)赤間町にある浄土真宗の寺「教法寺」もまた、奇兵隊にかかわる重要な史跡の一つである。この寺の由緒については、元応年間(一三一九~一三二〇)教法房浄信の創建によるものと伝えられているが、詳細は不明。昭和二十年(一九四五)七月の大空襲によって堂宇を焼失、戦後再建されたもので、維新時の面影を伝えるものはなにもないが、その歴史的意味において見逃すことはできない。というのは、この教法寺において起こった事件によって、結成後わずか三か月にして高杉晋作は奇兵隊を離れ、奇
星里焼(「ふるさと下関」の文化財・諸施設より)星里焼藤花文花瓶星里焼は、清末藩8代藩主毛利元純の命をうけた藤崎宗助によって開かれた。明治時代には、3代目藤崎星里が、割れにくい結晶紬を開発して、全国的にその名を知られることとなった。(下関市立歴史博物館常設展示図録より)(彦島のけしきより)参考小月焼おずきやきYOSHIHISATSURUTA(2011.5.5、参考)山口県豊浦郡小月村(下関市小月町)の産。1867年(慶応三)旧藩主毛利元純は当郡清末藩の名産とするため藤崎宗助
75松風山焼茶碗松風山焼は、長府藩初代藩主毛利秀元の命をうけた朝鮮陶工によって開かれたといわれる。一時廃絶したが、文人大名として名高い11代藩主毛利元義によって復興された。76鷹山焼染付梅樹文壷鷹山焼は、長府藩11代藩主毛利元義が平戸から招いた陶工鳴瀬常信によって長府鷹羽山に開かれた。藩への御用焼だけでなく、日用品なども幅広く製作されていた。77星里焼藤花文花瓶星里焼は、清末藩8代藩主毛利元純の命をうけた藤崎宗助によって開かれた。明治時代には、3代目藤崎星里が、割れにくい結
42毛利元知画像毛利秀元の三男として生まれた毛利元知は、秀元の遺言に基づいて1万石を分知され、清末藩初代藩主となる。寛文9年(1669)に楮の一大生産地であった山代(現在の岩国市本郷町付近)から紙漉職人を招くとともに、楮生産を奨励し、和紙の生産に力を入れた。43毛利元世画像清末藩6代藩主毛利元世は、学問や文芸に秀で、藩校育英館の発展や藩士の教育に力を注いだ。また、天保8年(1837)には江戸幕府の大番頭役にも就任している。45毛利元純画像清末藩8代藩主毛利元純は、萩藩内訌戦の際、
清末藩(きよすえはん)は、長門国に存在した藩で藩庁は清末陣屋となる(現在の山口県下関市清末)。長州藩の支藩である長府藩のさらに支藩であり、長州藩の孫藩にあたる。長府新田藩(ちょうふしんでんはん)とも称する。全国でも孫藩があるのは珍しいですよ江戸武鑑では当初「長門新田」と表記されていたが、毛利政苗による再興以降は「清末」と表記されるようになる。藩主は毛利家。始祖は長府藩初代藩主毛利秀元(毛利元就の孫)の三男・毛利元知である。長府藩と知行地が交雑しているが、石高はおよそ1万石であった。ここがポ
西舎人の墓小月から足をのばし田部峠を越えれば「小日本」で有名な菊川町に入るが、峠まで行かず上小月から右手の道を進むと、豊東小学校があり、上大野というバス停もある。このあたりは長門鉄道時代に栄えたところで、鉄道の名残りの駅前広場と一部の建物があるが、今は雑草の茂るにまかせた荒地となって昔日の感はない。ここはまた、藩制時代の処刑場跡ともいわれていて、数年前には怪談めいた話もあったようである。このバス停から少し山手に入ったところに、清末藩士の西舎人(にしとねり)と従僕、佐助の墓がある。清末藩
白石正一郎邸の浜門維新に身を投じた豪商志士1下関の明治維新を語るとき、白石正一郎の存在を抜きにして語ることはできない。白石邸のあった赤間関の竹崎は、長府藩領のなかでの海への玄関として一部清末藩領となっており、白石家ははその清末藩の御用商人、また大年寄で、この地で荷受問屋を営んでいた。小門の海に面して裏門が開かれていたことから、多くの志士たちが船で裏門から出入りしていた。白石家は本来、四国越智一族の出で、何代か前に小倉から当地に移ってきたということで、屋号を小倉屋と称した。幕末時の当主
城下カレイの稚魚たち別府湾、左端に日出城、遠方に高崎山城下の別府湾北岸、城下カレイが生息日出城址と鬼門櫓と致道館城下カレイの故郷(別府湾北岸)と日出城址参考①日出城址(参考)関ヶ原の戦いでの功績により、豊後国日出3万石に封じられた日出藩初代藩主・木下延俊(のぶとし)は、慶長6年(1601年)、入国後ただちに築城に取りかかり、翌年の慶長7年(1602年)8月には大方の普請ができ入城しました。城の縄張り(設計)は義兄・細川忠興(延俊の正室・加賀の兄で、細川ガラシャの夫、後の豊前小倉
福江さんと言う名前の人が全国的に分布し、彼らのルーツが著者の郷土の下関市大字福江だという。初めて知ってビックリしている。従来、郷土史の定説では福江と言う地名は、強い風が吹き込む入り江、吹き江が転訛して福江となったと云われている。しかし、現在、福江地名は全国に6ヶ所くらい存在して、強い風より寧ろ魚のフクが生息する海岸地域にあるため、魚のフクの生息する入江から福江になったとも考えられる。また、角川日本地名大辞典山口県では、福江の地名の由来は、福江与三左衛門の知行地であったことによるという(地下
『世に棲む日日ー二』ー司馬遼太郎●馬関へー⑦✪半官半民ともいうべき、財政上独立した軍隊でなければならなかった。官(藩)というのは、その隊の総督が藩命によって任命される。その意味だけである。あとは、自立しなければならない。例えを変えると、藩の八組を貴族軍隊であるとすれば、この奇兵隊は、新興ブルジョワジーの軍隊であるべきであった。藩の認可は得るが、あくまで私設でなければならない。---たれか富商に一手で金を出させる。ということであった。そのたれという名前については、晋作の思案は既に決ま
本日は、毛利家「長府藩」の藩祖「毛利秀元」の次男「元知(もととも)」に、1万石を分与して立藩した清末藩が居館とした「清末(きよすえ)陣屋」(山口県下関市)を訪ねます。「萩城」を本拠とした長州藩の孫支藩、「長府陣屋」を本拠とした長府藩の支藩という位置づけです。1659年に陣屋を築きました。一時長府藩との合併がありましたが、再度独立した藩として幕末まで続きます。陣屋の藩邸は、崖上の高台にあって、南側の「陣屋池」は掘替わりに使用されていました。また、海がこの崖の下まで迫っていたので、防衛的
「日出(ひじ)の蘇鉄(ソテツ)を見たい」という誘いを受けた。日出というのは、国東半島の南側、別府湾の北西部に当たり行政的には大分県速見郡日出町。関ヶ原合戦の後(慶長6年=1601)、豊臣秀吉の正室・高台院(北政所・おね)の甥にあたる木下延俊が日出藩を与えられて築いた日出城址をはじめ、木下家ゆかりの史跡が残っている。大分空港から車で30分足らず、人口は約2万8千人である。そもそも「日出」と書いて「ひじ」と読み、「蘇鉄のある松屋寺」は「しょうおくじ」、「大神」は「おおが」などと、それぞれ読み方
所在地山口県下関市清末陣屋(東部中)特徴長府藩の支藩である清末藩1万石の藩庁で、中学校の脇に石碑があり、水堀跡の池が残る。感想高台に位置しているが、遺構と言えそうなのは池と石垣の痕跡だけ。
長府藩の支藩の清末藩毛利家の江戸藩邸の上屋敷を探したところ、港区新橋四丁目5番地あたりであった。港区新橋四丁目5番地東方向を望む、このあたりが清末藩毛利家上屋敷参考①清末藩毛利家上屋敷を探す。藩邸は愛宕下大名小路・広小路(参考)の道沿いにあった。長門清末藩1万石の江戸藩邸について(長府新田藩との表記もあり)、上屋敷は愛宕下大名小路・廣小路道(現新橋4丁目、赤丸)にあり、毛利讃岐守(参考)と記されている。左手下(西側)に愛宕山がある。安政6年(1859年、東京都立中央図書館蔵「
清末藩の最後の第八代藩主の毛利元純は日出藩木下家の出身の婿養子だったが、清末藩毛利家上屋敷は新橋4丁目5番地にあった。これに対し、日出藩木下家上屋敷は虎ノ門1丁目9番地あたりで、ご近所さんだった。日出藩木下家上屋敷、虎ノ門1丁目9番地現在の虎ノ門1丁目9番地は駐車場左上の赤四角が日出藩木下家上屋敷、右下の青四角が清末藩毛利家上屋敷参考①日出藩木下家上屋敷(木下飛騨守)の位置安政6年(1859年、東京都立中央図書館蔵「分間江戸大絵図」部分)、中央あたりに木下飛騨(日出藩木下家上屋敷)
清末藩の最後の8代藩主の毛利元純は萩本藩の毛利敬親の名代であり、清末藩の領内の商人白石正一郎と奇兵隊を保護した、正に明治維新の功労者であった(参考)。彼は、天保3年11月6日(1832年11月27日)、豊後国の日出藩主木下俊敦の4男として江戸で誕生した。嘉永2年(1849年)に清末藩第7代藩主・元承が早世したため、その養子となって嘉永3年(1850年)3月5日に跡を継いだ。正室は萩本藩の第11代目藩主毛利斉熙の娘(天妙院)であった。すなわち、清末藩毛利家と直接の血縁の無い男女が清末藩のトップ
清末藩の最後、第8代藩主、毛利元純は幕末、萩本藩の毛利敬親の名代として活躍したが、それ以上に注目すべきことがあった。奇兵隊の創設や資金援助に貢献した白石正一郎は清末藩領で活動した商人であり、藩主毛利元純の保護の下にあった清末藩領の竹崎町に維新の志士達が集まって来ていたことになる。さらに注目すべきことは、奇兵隊の守護旗の菅原大神を揮毫した人が、他ならぬ毛利元純であった。豊後国の日出藩の藩主木下家から清末藩毛利家に養子として来たが、養子の殿様を何代か頂いて家中騒動などがあった不幸な清末藩にとって
清末を名乗る人々が大分県の国東半島あたり(かつての豊後)に集中しているとか!彼らのルーツには3系統あり、地元の清末グループ、平家の落人がこの地に居着いて清末を名乗ったグループ、そして山口県下関の清末地区が清末藩であった頃にこの地に逃れて来たグループから成ると言う。江戸時代の清末藩の家中騒動、すなわち他家からの養子として入って来た殿様と地元の家臣達との不仲の結果、家臣達の一部が藩を出て国東半島に辿り着いて定着したと言う物語は、最後の8代の毛利元純が豊後国の日出藩の出身の名君であり、この辺りの事情
清末藩の陣屋跡、下関市清末公民館、東部中学や清末小学校のある高台にあった。清末藩邸跡陣屋跡敷地の案内板清末陣屋の池住民の為に庄屋が作った共同井戸、六角池六角池南方向、高台の陣屋から下ると江戸時代に干潟を干拓して作った水田が広がる。麓に旧山陽道がある。旧山陽道(赤色)と清末陣屋跡(黄色)、旧山陽道より右手は江戸時代の干拓事業による水田旧山陽道(赤色)と清末陣屋跡(黄色)参考清末藩(参考)毛利秀元の三男、毛利元知(1631-1683)が清末に分封されて1653年(承応2年)清
下関(赤間関)の竹崎町、今浦町、新地町(+上新地町)、伊崎町あたりは清末藩領、長府藩領、萩藩領が集中していた。北前船の貿易港として、夷狄(唐船)打ち払いの基地として最適であった。大正8年頃の伊崎町、新地町、今浦町大正10年ころの伊崎、新地、今浦、竹崎江戸末期の伊崎から新地が萩藩領(左手)、竹崎が清末藩領(右手)参考①清末藩(参考)毛利秀元の三男、毛利元知(1631-1683)が清末に分封されて1653年(承応2年)清末藩ができました。もともと豊浦藩(長府藩)であった竹崎浦と伊崎
旧山陽道、国道2号線やJR山陽線より海岸側の干拓(水田や塩田の開発)は江戸時代に毛利氏が防長ニ州に封ぜられ、長府藩と支藩の清末藩が立藩してからであった。長府毛利氏や清末毛利氏が現在の長府や清末地区に武家屋敷を整備したのも、将来の周防灘側の開発を考えてのことであろう。ここに、中国一帯から防長ニ州に連れてきた家臣の一部を入植させたようだ!ちなみに響灘側の北浦海岸は干拓に適した地は無く、現在、我々が目にする水田などの耕作地は弥生時代から連綿と開発されたものであった。すなわち、新たに入植可能な土地が無