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天武天皇の第六皇子に舎人親王という皇子がいらっしゃいました。その御尊母は天智天皇の皇女の新田部皇女(にいたべのおうじょ)でしたから母方も天皇の血筋の皇子でしたが、天武天皇が有力皇子同士助けて争わないことを誓わせた吉野の盟約当時はまだ3歳と幼く加わっていません。第六皇子でしたので皇統からは遠く、しかし天武天皇の諸皇子の中では長命でしたので、長屋王とともに皇親勢力として権勢をふるい、「日本書記」の編集も総裁し養老四年(720年)五月に完成奏上しています。昨年は日本書紀編纂千三百年という記
スタイルチェック(@トークばらのメイクルーム)です。このセーターにはマフラーが描きこんであるの。ちょっと面白いでしょ?スカートは大阪阿倍野姫松のユーズドショップでゲット。重いかな?だけど、晩秋の湖北だし、悪くないかなと思ったのよ。*****スタイルブック&トークばら(インデックス)*****『インデックス(11)スタイルブック』*****インデックス(11)スタイルブック*****(*気まぐれカット)*****2020年*****12/04辛子色ジャ
第四十七代淳仁天皇は奈良時代の天皇です。御父、舎人親王の第七子、御母は当麻山背(たいまのやましろ)。また御祖父は天武天皇です。昨年は日本書紀編纂1300年の記念すべき年でしたが、舎人親王は日本書記の編集の総裁をしていた皇子です。『すめらぎのお話・・・皇帝と廃帝と日本書紀と枕草子』天武天皇の第六皇子に舎人親王という皇子がいらっしゃいました。その御尊母は天智天皇の皇女の新田部皇女(にいたべのおうじょ)でしたから母方も天皇の血筋の皇子でし…ameblo.jp『「日本書紀」編纂1301年\(
対岸が水墨画の遠山のように浮かび思わず引き込まれそうに美しい白鬚神社の鳥居さて、仲麿が船に乗ったあたりに、白鬚明神社がある。付近は岬になっており、社にちなんで明神崎、あるいは三尾崎と呼ばれている。社は、垂仁天皇の時の創建と伝え、猿田彦命を祀っている。社殿は湖に面したわずかな平地にある。豊臣秀頼が再建したものだという。ここの鳥居は湖中に建っている。広島の厳島神社を思わせる光景である。白い湖面と青い湖西の山を背景にして建つ朱塗りの鳥居には、思わず引き込まれそうな美しさがある。神
激しい攻防戦の末の滅亡そして乙女ケ池の悲話764年、仲麿に謀叛の企てあり、という密告があり、孝謙上皇はただちに兵を差し向け、淳仁天皇から天皇御璽を押収した。が、仲麿も手勢を繰り出して勅使を急襲し、御璽の奪還を図った。急報を受けた上皇は援軍を差し向け、ついに御璽争奪に勝利を収めた。その日のうちに上皇は仲麿の官位を剥奪し、論功行賞を行った。機先を制された仲麿は、部下を率いて都を脱出し、近江に向かった。だが、追討軍は実に機動的に活躍する。そこには兵学に通じた吉備真備の指図があ
仲麿の勢力の基盤になった近江の国、越前、そして美濃藤原仲麿は、745年以来近江国司であって、この交通の要地を押さえていた。近江は、父、武智麻呂も国司に、祖父、不比等も淡海公に任じられた、ゆかりの地である。742年の紫香楽宮、759年の保良官造営は、仲麿の権力強化策とみられる。また、美濃国司、越前国司に自分の子を任じ、いわゆる「関国」へ支配の手を伸ばしてゆく。762年、浅井、高島両郡の鉄穴2カ所を仲麿に賜う、という記事がある。鉄穴とは鉄鉱山を指すと思われる。つまり、古代国家が経営
自己顕示欲が強くインテリハイカラ趣味だった《恵美押勝》奈良時代の後半、権力の中枢の座についた男がいる。藤原仲麿、またの名を恵美押勝という。彼は光明皇后の甥で、若くして学問に秀で、計数を得意とし、「稟性聡敏」と評された。当時、病弱な聖武天皇に代わって藤原氏出身の光明皇后が皇室を取り仕切っていた。が、藤原氏はというと、天然痘の流行で房前、武智麻呂ら四人の要人を失い、政権から後退していた。代わって政権を執った橘諸兄の時には、九州で藤原広嗣が挙兵して鎮圧されるといつ不祥事もあり、藤原
月出にてはるばると曇りなき世を歌うなり愛発の関は雪消にて海津の里はみぞれ降りつつ淡路廃帝ゆかりの菅浦の神社にみる尊崇と禁忌葛籠尾崎琵琶湖の北岸は、山地がそのまま湖に落ち込んでいるため、北欧のフィヨルドのように湖岸は入り組んでいる。そうした入江のなかに、塩津、菅浦、大浦、海津といった港が生まれた。日本海側の敦賀と京を結ぶ街道が古くから海津の近くを通っていたほか、塩津と敦賀を結ぶ街道もあって、日本海上の航路と琵琶湖
菅浦の集落背後に奥琵琶湖パークウェイ沿いの3000本と言われる桜並木が続く。西浅井町月出の集落が眼下にみえます。月出までは道路が通じていますが、湖岸沿いに葛籠尾崎の先端へは行けなさそうです。もう少し塩津の話を続けます。塩津港遺跡の発掘調査は平成18年度(2006)から行われました。塩津港が文献史料で現れるのは、天平宝字8年(764)の藤原仲麻呂の乱にかかる『続日本紀』の記事が初めてですが、港自体の存在はもちろんもっと古く遡ります。この時の発掘では、神社の遺構と大量の「起請
756年1月、洛陽にて、安禄山は自ら「大燕聖武皇帝」と称し、年号を「聖武」と改元しました。また、唐から降伏した達奚珣を侍中、張通儒を中書令、高尚と厳荘を中書侍郎に任命しました。当時、遣渤海使として、日本から小野田守が渤海(中国東北部)に派遣されていました。帰国した小野田守は、第47代天皇・淳仁天皇に「大燕聖武皇帝と名乗る安禄山が反乱を起こしました」と慌てて報告しました。淳仁天皇をはじめ、朝廷は震撼しました。安禄山は日本を攻めようとしているわけではありません。何故、
本法寺の次は今出川通りまで南下しました。お目当ては白峰神宮。7~8年ほど前に参拝し、今回は二度目です。ここは「日本怨霊会の大御所」(?)である崇徳上皇を祀る神社。崇徳は1164年に崩御したにも関わらず800回忌の東京オリンピックの時にも昭和天皇が使者を派遣して鎮魂したそうです。それほど崇徳の祟りは恐れられていました。白峰神宮は明治維新の直前に建立。崇徳院の御霊を祀っており孝徳天皇の意志を受け継いだ明治天皇が新生日本に崇徳が祟らないよう弔いました。
日の出前まだ雨が降ってました☔️最初の目的地に向かっていると吹かれてくるような雪になって⛄️やんだかと思ったらまた降って⛄️なんだか右肩が痛重い💦着きました!女人禁制の石上神社(いわがみじんじゃ)⛩️淡路市舟木514-11ここはなぜか最初に来たい!と思ったところ✨✨✨✨次に向かったのは常隆寺✨淡路市久野々154雪がうっすら⛄️淡路に流された淳仁天皇が父の舎人親王のために創建したものと伝えられています。その後(延暦年間に)恒武天皇が皇太子早良親王のため
名古屋のシンゾウです京都をあれこれと勉強するのですが、地理音痴から逃れることが出来ません。鞍馬!!どうしても京都の北北西にあるような気がするんです。通名はどうしても記憶が出来ません。京都府の南の方は殆ど位置関係が分かりません。綾部市、南丹市、丹波市、福知山市.....全く分かりません。様々なことを記憶する際に地理情報はどうしても必要になります。その大切な地理情報が私には欠けています。デジタル人間としては不本意なのですが、ついに買ってしまいました。「京都府道路地図(県別マップル)」(昭文社、
12月29日で淡路島に引っ越して4ヶ月が経ちました。昨年の年末に淡路島に引っ越してくるなんて頭の隅っこにもありませんでした。私が淡路島に関心を持った始まりは早良親王墓(天皇の森)でした。その「冤罪」に強く反応したんです。悔しかっただろうなー神様だけが知ってること。どんなに苦しかったことでしょう。早良親王が淡路島に着く前に憤死されて葬られたお墓がここ。その後掘り返されて奈良に移されます。今年のいちばんの思い出。今日は3回目👌昨日の強風で拝殿前に
『スサさまが知らせてくれていた『金龍』との”再会”。ℓσνє.❤』晃世さんありがとうございます。🌸(^人^)🌸風の時代に入る前後に神様にめちゃくちゃ説教されてた私。でもその言葉の裏には大きな愛があることを感じていました…ameblo.jp金龍さんが教えてくれたので。翻弄された淡路廃帝・淳仁天皇(第47代)~道鏡の台頭と藤原仲麻呂の乱2019年11月22日公開吉重丈夫淡路島の風景知っておきたい皇位継承の歴史令和改元という節目の年に、歴代天皇の事績をふりかえります。今回は
天武天皇の第六皇子に舎人親王という皇子がいらっしゃいました。その御尊母は天智天皇の皇女の新田部皇女(にいたべのおうじょ)でしたから母方も天皇の血筋の皇子でしたが、天武天皇が有力皇子同士助けて争わないことを誓わせた吉野の盟約当時はまだ3歳と幼く加わっていません。第六皇子でしたので皇統からは遠く、しかし天武天皇の諸皇子の中では長命でしたので、長屋王とともに皇親勢力として権勢をふるい、「日本書記」の編集も総裁し養老四年(720年)五月に完成奏上しています。今年は日本書紀編纂千三百年の記念す
蹴鞠で有名な白峯神宮。スポーツの守護神の精大明神が祀られている。本殿ご祭神は第75代崇徳天皇・第47代淳仁天皇崇徳天皇は天皇でありながら、平将門・菅原道真と並ぶ「日本三大怨霊」に数えられるそうだが、「祟り神を祀り上げることで守護神とする」という御霊信仰からこちらに祀られているそう。参拝時には、鈴ではなくこちらの打ち出の小槌を持って振る。伴緒社(武道の神様)潜龍社(寿福長命の神様)笑い龍という口から水の出てるかわいい龍がいた。
ずっと淳仁天皇繋がりなので大炊神社に行ってきました🚙(☝️)ここがいちばん✨✨✨私には😊静かな境内は嬉しい😃🎶そろそろ私が神社にハマってる理由が分かってきました😆これからもよろしくお願いします😊神様、ありがとうございます💖神様、愛してます😘
琵琶湖の北側の湖岸線は特徴的である。南部のような砂浜は乏しく、山がそのまま湖岸となり、波が山裾を洗っている。湖岸道路も、湖北に来ると崖ふちを走るようになる。道は狭まり、カーブし、短いトンネルが連続する。琵琶湖の北端に海津大崎(かいづおおさき)という岬があるが、こうした湖岸道路を伝ってゆくのである。桜の時期は名所として知られるが、ふだん岬で車を停める人は少なく、売店があるだけである。岬には立派な岩礁がある。そびえる崖の先端には大岩、打ち寄せる波、人家のない寂しい岬、まさに湖の北端にふさわ
第四十七代淳仁天皇は奈良時代の天皇です。御父、舎人親王の第七子、御母は当麻山背(たいまのやましろ)。また御祖父は天武天皇です。なお、今年は日本書紀編纂1300年の記念すべき年ですが、舎人親王は日本書記の編集の総裁をしていた皇子です。『すめらぎのお話・・・皇帝と廃帝と日本書紀』天武天皇の第六皇子に舎人親王という皇子がいらっしゃいました。その御尊母は天智天皇の皇女の新田部皇女(にいたべのおうじょ)でしたから母方も天皇の血筋の皇子でし…ameblo.jp『「日本書紀」編纂1300年\(^o
こんにちは淡路島でペットヒーラーやっとります。Namieと申しますさて。以前、地元神社巡りからの金刀比羅さん、白峯陵の流れをご報告しましたが。これ、まだ終わってなかったです…。先日、何となく。地元ツアーで発見した小さな神社に行きました。とても心地良い場所でしたので、出掛けたついでに寄りたくなったんです。先日、別件で近くを通った際に寄ろうかとも思ったのですが、夕刻近かったこともあり、またの機会に…と通り過ぎたことがありました。そしてその同じ時に。ふと遠くに目に入ったのが、淳仁
2020年8月23日は奥びわ湖ぶらり旅、菅浦地区に行ってきました(*´꒳`*)四足門元々は東西南北にあったみたいですが、今は東西のみ残っているのだそう須賀神社御祭神は淳仁天皇、大山咋命、大山祇命とのことですが、菅浦は淳仁天皇が隠棲された保良の宮跡と伝わるそうなんと、ここで靴を脱いでスリッパに履きかえました!石垣的なものでぐるりと囲まれています菅浦郷土史料館淳仁天皇菩提寺長福寺跡ヤンマー家庭工場集落内に、第1〜20までのヤンマー作業場があったそうです。通勤時間を要しない工場と
白峯神宮
おはようございます京都のkojiro(小次郎)です前回のブログで京の街も朝晩は寒くなってきたことを書きましたが、本当に急激に寒くなってきたような気がします。京の街にも秋がやってきたのかもしれませんね(笑)。さて、今回の「kojiroの京散歩」は京都市上京区飛鳥井町(今出川通の堀川東)にある「白峯神宮」(しらみねじんぐう)をご紹介します。ご覧いただいている白峯神宮は、慶応四年(1872年)9月6日に孝明天皇の遺志を継いだ明治天皇によって創建されました。
桜井、橿原、明日香など天皇陵訪問が好きな筆者でしたが、最近では行きにくい所ばかりが残ってしまいすっかりご無沙汰しております。2018年12月になりますが現時点で最後の陵墓訪問を紹介します。淳仁天皇淡路陵(あわじのみささぎ)名前の通り兵庫県の淡路島にあり、以前訪れた香川県の崇徳天皇陵を除けば本州外の唯一の天皇陵です。淳仁天皇は崇道盡敬皇帝(舎人親王)の子で第47代天皇。時代は奈良時代ですね。政争に敗れ淡路の地へ流された天皇はすぐに病死(意味深)し、歴史から消されてしまいました。
暑いので、5時に起床して6時半出発。目標は午前中に帰宅したい…となるとオススメは信楽(しがらき)です尼崎から一部高速道路を使い、1時間で着きます。R422は信楽川に沿っているので、とても気持ちが良いです高原なので気温も25℃表示♪快適✨“朝宮茶”で有名な朝宮地区を抜けたら(写真はお借りしました)7時から開いている“喫茶すぎやま”さんでモーニングなかなかのボリュームで600円。真夏のツーリングは、食事をきちんと摂るように気をつけてます朝、信楽に行くならば参拝出来そうなとこ
今週(20日)は滋賀県に石山寺御開帳皿そば渚庵次の目的地は、今年のテーマ「天皇陵巡り&神宮巡り」にもどります。京都市上京区にある【白峰神宮】に到着御祭神は配流されてその地で歿した第75代崇徳天皇第47代淳仁天皇を祀る。幕末、121代孝明天皇は、保元の乱(1156)によって悲運の運命を辿られた第75代崇徳天皇の御霊を慰め、かつ未曾有の国難にご加護を祈らうとされ、幕府に御下命になり四国・坂出の「白峰山陵」から京都にお迎えして、これを祀らうとされ
続きを読みましょう。【3月26日】上野国が飢饉になったので,物を恵み与えた。伊勢・近江・美濃・若狭・伯耆・石見・播磨・備中・備後・安芸・周防・紀伊・淡路・讃岐・伊予の十五ヵ国に疫病がはやったので,物を恵み与えた。【4月27日】志摩国に疫病がはやったので物を恵み与えた。疫病や飢饉に関する記述は,続日本紀の中に頻繁に見られます。これだけでは,どのような疫病が流行ったのかはよくわからないけども,聖武天皇の時代には天然痘やはしかが流行っていたし,この当時は