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2025-11-16トコトコ〜次のスポットかしらこの景色は⋯天皇陵なんでしょうけど⋯今回は、初めて違うかなずららららっ♪めっちゃ多いーーーーっ10人以上一応地図には後土御門天皇深草北陵って書いてあるよそりゃ塀も立派になるわ帽子を脱いで頭を垂れます出て歩きますくぐりまーす味のある橋を歩きます橋の上からなんて書いてるのか分からんトコトコ〜あ!この前スタート受付の場所だった藤森神社入りまーす菖蒲の節句発祥の地奥へ〜ホンチャンへご挨拶しますイベントやって
深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)は京都市伏見区にある天皇陵で、鎌倉時代から室町時代における持明院統の歴代の12人の天皇陵および伏見宮の栄仁親王の墓であり、深草十二帝陵と呼ばれている。この地は、鎌倉時代に安楽行院が創建され、この寺の法華堂に嘉元三年(1305年)に後深草天皇の遺骨が納骨された。その後、後深草天皇の系統である持明院統の天皇たちの遺骨を安置するようになった。第89代後深草天皇(ごふかくさてんのう):御父(御嵯峨天皇)第92代伏見天皇(ふしみてんのう):御父(後
蔵出し京都画像〜京都画像クイズNo.164は伏見区深草からの問題でした。日本最初歓喜天の石標とくれば正解は嘉祥寺深草聖天でも正解です😊。嘉祥寺伏見区深草坊町にある天台宗の寺。霞谷と号す。本尊歓喜天。俗称深草聖天。寛文二年(1662)安楽行院跡(現深草北陵)の東部に空心(契沖)が建立。旧嘉祥寺の名跡を継ぐ。旧嘉祥寺伏見区深草瓦町付近にあった寺。嘉祥三年(850)仁明天皇の没後、文徳天皇が先帝の居所清涼殿を寺として移転創建。開山
2020年9月27日の京都市伏見区・宇治市の歴史散策の続き。「瑞光寺」「嘉祥寺」をお参りした後は、「眞宗院」に向かいました。瑞光寺・嘉祥寺のレポ『瑞光寺と、嘉祥寺と~京都市伏見区の寺院・史跡』2020年9月27日の京都市伏見区・宇治市の歴史散策の続き。「宝塔寺」をお参りした後は、「瑞光寺」に向かいました。宝塔寺(その2)のレポ『宝塔寺(その…ameblo.jp「嘉祥寺」から更に南に進むと、左手にまたお寺が見えて来ます。こちらは、
別名深草十二帝陵南朝10帝+北朝2帝=12人の帝が祀られてるから、深草十二帝陵。鎌倉、室町、安土桃山と、幕府が実権を握っていた時代で、朝廷が冷遇されてたから、天皇陵が纏められちゃってるんかな、知らんけど第89代後深草天皇即位西暦1246年退位西暦1260年皇位年数14年第92代伏見天皇即位西暦1287年退位西暦1298年皇位年数11年第93代後伏見天皇即位西暦1298年退位西暦1301年皇位年数3年北朝第4代後光
名古屋のシンゾウです天気予報どおり、雨の朝です。本日は、お坊様にお経をあげてもらい、それからお墓参りに出掛けます。子供達(孫達も)とお墓の前で集合することになっていますが、残念です。全員と逢うのは久しぶりで楽しみにしていたのですが.....食事にも行けませんしね。朝の忙しい時間帯にブログを更新しています。忘れることが多く、作業は大変です。雨よ止め!!―――――――――――――本日の問題(221)《この寺の山号は》【12411】五台山→【寺名】【12412】報国山→【寺名
皇恩を奉戴し、力を王事につくし、皇家の邑、敢へ(あえ)て侵(おか)すこと或(あ)る勿(な)し!IvowtoprotectHisMajestytheEmperor!(「日本外史徳川氏前記豊臣氏」より)わけてけふWaketeKyō待つかひあれやMatsuKaiareya松が枝のMatsugaEdano世々の契りをYoyonoChigiriwoかけてみせつつKaketemisetsutsu<歌意>(多年に亘り、不如意の御生活に苦しめ
OdaNobunagacontributedtohelptheimperialrevival!右府(織田信長)に非ざれば、誰か能く草莱(そうらい)をへき除し、以て王室を再造せんや(「日本外史織田氏論賛」より)!うづもれしUdumoresi道もただしきMichimoTadasiki折にあひてOriniaite玉の光のTamanoHikarino世にくもりなきYoniKumorinaki<歌意>(天正十六年聚楽第行幸に際して)戦乱もや
JapaneseImperialMajestyaseternalasheavenandearth天壌無窮の皇室宮柱Miyabashira朽ちぬちかひをKuchinuChikaiwoたておきてTateokite末の世までのSuenoYomadenoあとをたれけむAtowotarekemu<歌意>宮柱(皇居の柱)とは日本国の柱!(天壌無窮の神勅に述べられているように)この柱は、永遠に壊れることは無い。天皇陛下は永遠に日本の國體が永続する事
HopeofreignbytheEmperor(Mikado)!をさめしるWosameshiruわが世いかにとWagaYoikanito浪風のNami-Kazeno八十島かけてYasoshimakaketeゆく心かなYukuKokorokana<歌意>(応仁の大乱が打ち続くこの戦国時代)朕が治しめす世はどうであるか?その答えは、浪風が多くの島を過ぎ去って行く様なものだ(本当に口惜しい事である!)<EnglishTranslation
DuringtheŌninWar(応仁の乱),Emperorhasastrongwilltoregainthepoliticalpower!まつりごとMatsurigotoその古にSonoInishieniのこりなくNokorinakuたちこそかへれTachikosokaere百敷のうちMomoshikinoUchi<歌意>(応仁の大乱から戦国時代まで武家が政権を恣にしているが、)朕は必ず(古来からの旧法の様に)政権を朝廷
応永十九年、帝(後小松天皇)、位を皇太子に譲る。これを称光帝となす。諸々の南朝の遺臣、後亀山の後を立つること、約の如くせんと請ふ。足利(義持)氏議す、「南朝の皇胤を立つるは、我が家の志に非ざるなり」と!(「日本外史足利氏正気」より)。本年を令和維新発火の年に!Name御名:Emperor"Shōkō"称光天皇ShōkōIn称光院PersonalName御諱:Mihito躬仁(実仁)Father御父:Emperor"Go-Komatsu"後小松天皇
後小松天皇、神器を後龜山天皇に受く(「日本外史足利氏正記」より)。Name御名:Emperor"Go-Komatsu"後亀山天皇Go-KomatsuIn後小松院PersonalName御諱:Motohito幹仁Father御父:Emperor"Go-En'yū"(北朝第5代)後円融天皇Mother御母:FujiwaranoTakako藤原厳子Spouse夫人:FujiwaranoSukeko藤原資子Mausoleum御陵:Fuk
93rdEmperor"Go-Fushimi"第93代後伏見天皇○両統迭立之儀NorthernandSouthernCourts(北條)貞時、議定して、御深草・龜山二帝の後を迭立せしめ、限るに十年を以ってす(水戸藩「大日本史」より)。Name御名:Emperor"Go-Fushimi"後伏見天皇Go-FushimiIn後伏見院PersonalName御諱:Tanehito胤仁Father御父:Emperor"Fushimi"伏見天皇Mo
92ndEmperor"Fushimi"第92代伏見天皇○GyokuyōWakashū(Japanesewakapoetry;1311)帝、和歌を善(よ)くし、書に工(たくみ)なり。藤原爲兼に命じて、萬葉集以下の和歌を選(えら)ばしめて玉葉和歌集と曰(い)ふ(水戸藩「大日本史」より)。Name御名:Emperor"Fushimi"伏見天皇FushimiIn伏見院JimyōinDono持明院殿PersonalName御諱:Hirohit
89thEmperor"Go-Fukakusa"第89代後深草天皇○北條時宗、以爲(おもへ)らく、上皇、身、正嫡に居(お)り、雅(もと)より失徳なければ、宜しく其の胤(すえ)をして天位(てんゐ)を践ましむべしと(水戸藩「大日本史」より)。Name御名:Emperor"Go-Fukakusa"後深草天皇Go-FukakusaIn後深草院PersonalName御諱:Hisahito久仁Father御父:Emperor"Go-Saga"後嵯峨天皇
歩いて、てくてく深草北陵にやってきたピンと来なかったがあとから気づいたそう、ここはひとつ墓に12代もの天皇が合葬されているところなのだ天武、持統天皇は合葬でも2人ここは、12人しかも、知った名前が結構ある後深草天皇、御円融天皇、後小松天皇…仁明天皇陵から徒歩15分程度で到着こちらで誰が合葬されているかわかりますわそして、珍しく宮内庁の職員と遭遇さらに、ほぼ参拝者には会うことはないのに二人ほど見学者がいたことに驚く参道も広く明るい奈良線が横に通っているし交通の便も
儒教では、武力による治世を「覇道」と呼びますが、ここは「制覇の道」という勝手な意味で使ってます。そんな「制覇の道」・・・天皇陵をできるだけ回ってみる天皇陵編も実施中です。(ちなみに皇室の場合、「覇道」ではなく「王道」の象徴のような存在ですので、天皇陵編のタイトルは<王道の男>です)2月に三連休で京都に行ってきました。三日目、竹田駅周辺の天皇陵を巡りましたが・・・このまま天皇陵巡りを続けてみることにしました。竹田駅から東へ向かって進んで行き・・・京阪本線の藤
根本山真宗院の西に「日本最初歓喜天」石標があります。参道を進むと三ヶ所随一歓喜天の石標ここは霞谷嘉祥寺京都市駒札嘉祥寺伏見区深草坊町にある天台宗の寺。霞谷と号す。本尊歓喜天。俗称深草聖天。寛文二年(1662)安楽行院跡(現深草北陵)の東部に空心(契沖)が建立。旧嘉祥寺の名跡を継ぐ。旧嘉祥寺伏見区深草瓦町にあった寺。嘉祥三年(850)仁明天皇の没後、文徳天皇が先帝の居所清涼殿を寺として移転創建。開山は空海の弟子真雅。仁寿
墨染から伏見街道(伏水街道)を北上。深草直違橋南一丁目から直違橋六丁目まで歩いて東へ進路をとる。途中、幾つかの寺院と重要文化財を撮り深草真宗院山町へ到着。そこには、町名の由来であろう皇室ゆかりの寺院があります。根本山真宗院京都市駒札右側が住宅街の参道を歩くと山門の向こう側に極楽が待っておりました。参道を覆う紅葉本来なら左側からも参道を覆い尽くすような紅葉があり、紅葉のトンネルになるはずですが、やはり台風の影響で
【平成29年10月10日(火)参拝】そして今年の4月の初参拝から数えて、本日で11回目にして深草北陵ファイナルです!!後陽成(ごようぜい)天皇陵御陵名:深草北陵陵形:方形堂所在地:京都市伏見区深草坊町後陽成天皇(ごようぜいてんのう、元亀2年12月15日(1571年12月31日)-元和3年8月26日(1617年
【平成29年10月9日(月)参拝】いよいよ時代は戦国、織豊政権時代に入って来ました。正親町(おおぎまち)天皇陵御陵名:深草北陵陵形:方形堂所在地:京都市伏見区深草坊町正親町天皇(おおぎまちてんのう、永正14年5月29日(1517年6月18日)-文禄2年1月5日(1593年2月6日))は、第
【平成29年10月4日(水)参拝】後奈良帝分骨所のあとは深草北陵へ後奈良(ごなら)天皇陵御陵名:深草北陵陵形:方形堂所在地:京都市伏見区深草坊町後奈良天皇(ごならてんのう、明応5年12月23日(1497年1月26日)-弘治3年9月5日(1557年9月27日))は、室町時代・戦国時代の第10
【平成29年10月4日(水)参拝】引き続き般舟院陵後花園帝、後土御門帝同様に後奈良天皇も、ここ般舟院陵に分骨所があります。後奈良天皇分骨所(般舟院陵)所在地:京都市上京区今出川通千本東入般舟院前町陵(みささぎ)は、京都府京都市伏見区深草坊町にある深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)に治定されている。公式形式は方形堂
お休みの本日午前中はぐっで~んとしてました昨日は制服が泥だらけになってしまった…職場は衣料品売場なんですけどね普段は品出しやレジ打ち売場作りなんですけどね商品を、置く什器の解体してましたタイト系のスカートで😅そんなんでめっちゃ疲れてましたが読者になってる方があげてる記事見て明日も明後日もハードワークやし気分転換がてら行こう📱(゜_゜)お昼ご飯食べてパタパタと用意家出たのは14時過ぎてたけど15時半過ぎには目的地到着~🎵
【平成29年9月29日(金)参拝】気づけば世は戦国時代に突入してました…。後柏原天皇(ごかしわばら)天皇陵御陵名:深草北陵陵形:方形堂所在地:京都市伏見区深草坊町後柏原天皇(ごかしわばらてんのう、寛正5年10月20日(1464年11月19日)-大永6年4月7日(1526年5月18日))は、室町時
【平成29年9月29日(金)参拝】後土御門天皇の分骨所は常照皇寺の他にここ般舟院陵にもあります。後土御門天皇分骨所所在地:京都市上京区今出川通千本東入般舟院前町陵(みささぎ)は、京都府京都市伏見区深草坊町にある深草北陵(ふかくさのきたのみさ
【平成29年9月25日(月)参拝】実は般舟院陵参拝のあと、深草北陵に来る前に先に泉涌寺の灰塚に行ったのですが、便宜上、こちらの本陵から先に投稿させていただきます。今回で7回目の深草北陵参拝ですが、なんと浅葱幕(青白の幕)が掛かっているではないですか?こういう光景は過去多々参拝してきた中でも初めてです。後土御門(ごつちみかど)天皇陵御陵名:深草北陵陵形:方形堂所在地:京都市伏見区深草坊町
【平成29年7月15日(土)参拝】後小松帝灰塚の後は6度目の深草北陵へ称光(しょうこう)天皇陵御陵名:深草北陵陵形:方形堂所在地:京都府京都市伏見区深草坊町称光天皇(しょうこうてんのう、応永8年3月29日(1401年5月12日)-正長元年7月20日(1428年8月30日)は、室町時代の
【平成29年7月11日(火)参拝】いよいよ南北朝合一、そして約3年かかってキリ番の第100代までやってきました。残り24代、ゴール目指してコツコツと頑張ります!またまた円町からなのでこの前と同じ稲荷駅ルート。今回で5度目の深草北陵。後小松(ごこまつ)天皇陵御陵名:深草北陵陵形:方形堂所在地:京都府京都市伏見区深草坊町