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‘日本海軍はなぜ敗れたのか、それは日本型組織の敗北ではなかったのか’、とは裏表紙の宣伝文句。最前線で戦う将兵のはなしは、それを立案指揮したひと、組織のことも知らなくてはとてもわからない。千早さんは大井篤さんと並んで戦後に海軍を弾劾する著作を多く残した人で、やっぱり海軍参謀だった方。日本型組織ということばが気になる。冒頭50ページほどの‘まえがき’で自身の海軍での履歴を簡単に振り返る。第十一戦隊参謀として比叡艦上で第三次ソロモン海戦に遭遇、大怪我を負うも辛くも生還したはなしが迫真だがそ
今日は、旧日本海軍上層部に於いて最もその人物評価が分かれるとされる、南雲忠一大将の命日・没後80周年にあたります。南雲大将は1887(明治20)年に山形県米沢市で旧米沢藩士・南雲周蔵の次男として生まれました。1905年に海軍兵学校に入校、3年後191人中5番の成績で卒業。少尉に昇進後、海軍水雷学校普通科学生となった彼は、(機雷・魚雷などの)水雷畑の専門職であり、1920(大正9)年には海軍大学校を次席で卒業。海軍中尉
「海軍とは、海軍兵学校出身の現役将校団なり」日露戦争時の海軍大臣山本権兵衛海軍の将校の仕組みを述べます。海軍のハンモックナンバーとは、海軍兵学校3年間の在校中のありとあらゆる事が点数化され、一番から順番に番号を振られ、何とそれがその後何十年に及ぶ出世•序列の全てに反映されるのです。陸上から隔離された特殊な閉鎖的な世界で、その中でもクラスのトップグループの成績優秀者。一クラス平均で16%が行く海軍大学校の出身者が海軍の中枢に就
「海軍兵学校を出れば一生安泰」密室の終身雇用20倍という倍率を突破して、海軍兵学校からさらに選ばれたエリートが進む海軍大学校の教育は「考える教育」ではなく「暗記する教育」。つまり金太郎飴の様に同じタイプの人間が大量生産される偏った教育。という事は、何度かお伝えしました。(海軍大学校卒業生の中には、第三次ソロモン海戦で鬼神をも哭かしむる奮闘をした戦艦比叡の艦長西田正雄海軍大佐や、敷島隊に先駆けて自ら体当たり攻撃をした第26航空戦隊司令官有馬正文海軍少将の様な、日本人が語り継
(海軍大学校卒業生の中には、第三次ソロモン海戦で勇戦した戦艦比叡の艦長西田正雄海軍大佐や、敷島隊に先駆けて自ら体当たり攻撃をした第26航空戦隊司令官有馬正文海軍少将の様な、日本人が語り継ぐべき立派な武人もいる)莫大な国費を投じて作ったはいいけど、実戦に全くと言っていいほど投入しないで沈めてしまった戦艦『大和』『武蔵』の一点豪華主義はまさにその象徴ですが、他の軍艦の設計思想にも「偏り」は現れています。同じ戦艦という事でも『長門』と『陸奥』は大改装したけれど、それ以外の戦艦は英米の戦艦に
ミドルクラスは世界一頑張っているのに、官僚体質のトップが足を引っ張って負けた大東亜戦争の本質は、この一語に尽きるこれは、実際の戦闘だけでなく、軍艦の設計思想にも表れています。日本の軍艦は、確かに世界最高レベルです。ただ、よく見ると、何か偏っている。ある部分は極めて秀でているのに、肝心な部分が抜けていたりする。ボディビルで言えば、腕と胸だけは極限まで鍛えているのに、足腰は全く鍛えていない、という感じです。つまり、全体のバランス、攻守のバランスが取れていないのです。世界最強の戦艦群と
(海軍大学校卒業生の中には、第三次ソロモン海戦で鬼神をも哭かしむる奮闘をした戦艦比叡の艦長西田正雄海軍大佐や、敷島隊に先駆けて自ら体当たり攻撃をした第26航空戦隊司令官有馬正文海軍少将の様な、日本人が語り継ぐべき立派な武人もいる)「海軍大学校で学んだ理系の受験エリートである海軍の将官には、偏った人間が多い。『部分』に特化して『全体』が見えなくなる。味方の輸送船の護衛は全くしないクセに、戦艦大和・武蔵の一点豪華主義とか」という話をして来ました。その他には…。敵の軍艦は全滅させたのに
(海軍大学校卒業生の中には、第三次ソロモン海戦で勇戦した戦艦比叡の艦長西田正雄海軍大佐や、敷島隊に先駆けて自ら体当たり攻撃をした第26航空戦隊司令官有馬正文海軍少将の様な、日本人が語り継ぐべき立派な武人もいる)海軍大学校出身者というのは、競争率20倍の偏った理系エリート集団海軍兵学校の成績優秀者(1クラス平均16%)が行く海軍大学校で学んだ人間が、海軍の中枢のポジションに就きました。しかしここで学ぶ海軍士官というのはエンジニアであり、理系の受験エリートは、いくさにおける指導者に
「日本海軍は情報を軽視して、情報なしで戦争をした」軍令部情報部アメリカ課実松譲海軍大佐ここにも、海軍上層部のエリート官僚の「思考の偏り」がある。連合艦隊参謀長を勤めた福留繁海軍中将も、最後まで艦隊決戦の思想が抜けなかった。レイテ沖海戦や坊ノ岬沖海戦で、戦艦『大和』以下の艦隊に空からの護衛をつけずに突っ込ませたのはその証。海軍は明治以来、少数で勝つには、機先を制して不意をつくを骨子とした。偏った「戦争屋」が出来上がるのが海軍大学校であり、それは、自身が在籍した上記の実
「海軍大学校とは、教官の言う通りに答案を書いたら出世する世界」これは、己は絶対に行かないクセに、特攻の制度化と出撃を担当した軍令部第一部長(作戦部長)中沢佑海軍少将がいみじくも自分で言っている言葉です。つまり「考える教育」ではなく「暗記する教育」。だから、金太郎飴みたいな人間が大量生産される。しかし、学校で学んだ勉強の内容が実社会に適用出来ないのと同じで、彼らが教室で学んだ理数系の軍事学が、プラグマティックなアメリカ海軍の戦略に対応出来るわけがない。また、特攻隊の出撃に携わっていた
自分は絶対に行かないクセに、特攻の制度化と出撃を担当した軍令部第一部長(作戦部長)中沢佑海軍少将は、自身も学んだ海軍大学校を「戦術の勉強ばかりで全体観がない」と、自分で述べています。局地戦ばかりで大局を見られないのは、受験エリートの性だと思います。画一的な事務官僚で、譲り合う様に責任を回避する、典型的な「お役人」です。こんな人間達が、数百万人の陸海軍人が命を懸ける太平洋方面の作戦を指導していたのです。ミッドウェー、ガダルカナル、その他ソロモン方面の戦い等における、一般の将兵の奮闘を無に
戦前に、日本が1945年の大軍事・経済破綻を起こさない道を選ぶチャンスが2度あったということを、過去3回のブログで明らかにしてきました。最初は、1905年に日露戦争を終結させるために結んだポーツマス条約締結後に、正しくアメリカと協調し、あるいは日英同盟を超える強い同盟を結べばよかった、という時点です。次には、1927年に「満蒙を日本の生命線とする」という間違った東方会議の結論を得るのではなく、清朝に向かい多くの中国人民を代表して満州を含む中国統一の戦いに邁進していた孫文=蒋介石勢力(
日曜は父方祖母の法事でした。祖母は小学校教諭をしていました。書や生け花が上手で詩吟と旅行が趣味でした。なんとあの仮名の大家の日比野五鳳先生が漢字を教えていらっしゃった時代で、小学校勤務時代、日比野先生に漢字を習っていたそうです。_<)祖父は中学校の校長在職中に早くに亡くなったので、私は写真でしか知りませんが、この祖母とは、ずっと一緒に暮らしていたので、亡くなった時は心がやけるような感覚でショックでした。13回忌でした。まだ13年?とおもいました。もっと時間が経ったように感じます。実