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永い観戦歴の中でも自分が日本歴代最強パンチャー(強打者)と確信しているのが大橋秀行。浜田剛史、井上尚弥の戦いを生観戦しても変わらないのだからしょうがない。それほどデビューから田中正人戦までのパンチャーぶりは凄まじく、正に天才だった。雰囲気も従来の和製ボクサーにない正にラテンの香り。キャリア後半は激闘型にも映ったが、柔らかい身体と目を利した防御技術も正に当時のボクシング界にとり革命的(当時ヨネクラには大橋ガードのコピーが多数存在した)また現在井上尚弥はじめとして日本人
ボクサーには本名、リングネームとは別にニックネーム、異名などがつく場合が多い。リングネームが最もマッチしたのはファイティング原田、ガッツ石松が双璧。F原田の本名原田政彦はまだ収まりが良いが、G石松の鈴木有二では後の俳優としての活躍もなかっただろう。他にリングネームで世界王者になったのは国際ジムの三名(ロイヤル小林、レパード玉熊、セレス小林)両小林はスポンサー筋からの名前だが、実にマッチしているというか自分で名前を大きくした好例。ニックネームの横綱クラスはカミソリパンチ
初めてもらった手紙は誰から?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう分かりません…😅「郵政記念日(逓信記念日)」1871年(明治4年)それまでの飛脚制度に代わり新しく郵便制度が実施されました…〠画像は「郵便の父」と呼ばれた「前島密」です「青年海外協力隊の日」1965年(昭和40年)青年海外協力隊(JOCV)が発足しました。満20歳から39歳までの人達がボランティアとして活動し、募集分野は農林水産、教育、保健衛生などがあり、派遣国は約80ヶ国で、これまで約3万
カミソリパンチと言えば海老原。海老原博幸Championと交流があった沼田会長と色々話した。やはりパンチはかなりあったそうだ、1963年に世界フライ級Championのポーンキングピッチに挑んだ試合、9月4日と書かれているが実際には9月18日に行われた、何らかの事情で流れたのだろうか。この試合前に日本の記者に流れてきた情報はポーンが練習をしていない、女遊びをしている。などの情報が流れた、立川ジム、金平ジムで練習をしていた海老原は「そんな事を聞くと逆に不安になるな」とぼやいていた。取材陣が練
WBCがXなどで2024年度の各賞を発表しているが、「KOoftheYear」に井上尚弥がルイス・ネリを倒した試合が選ばれた。WBC王者優遇の感は否めないが、喜ばしいニュース。やはりあのネリを顔面で倒したシーンはインパクトがあり、技術的レベルも高かった。因みに年間最高試合はウシクVSフューリー初戦。MVPもオレクサンドル・ウシクと順当な選出。井上は過去最も権威が有るRING誌の「KOoftheYear」に2018年のカルロス・パヤノ戦で輝い
古い話になって申し訳ないですファイティング原田とエデル・ジョフレのファーストマッチが本格的なスタートでしたそれまでも海老原博幸とポーン・キングピッチとかの戦いを覚えていますが当時はボクシングが下り坂になってきていてテレビ中継が週3本でした小学生の中学年だった私は必ずテレビ観戦していました雑誌もプロレス・ボクシングマガジン?という名前でプロボクと言ってましたゴングも発売されていましたプロボク・ゴングを買って読んでいたので自然とプロレスまで詳しくなってしまいまし
小学生の頃、スポーツ名勝負の様な本を購入した。金田VS長嶋、栃錦VS若乃花らの中にファイティング原田と海老原博幸の東日本新人王戦があった。後の世界王者同士の対決。1960年12月東日本新人王決勝戦ファイティング原田VS海老原博幸原田が2度のダウンを奪ったが、最終6R海老原も強打で反撃、辛うじて原田の手が上がったと言われた伝説の一戦。60数年前の出来事。若い方々にとりもはや神話の世界。原田VS海老原から時がたつこと28年、今から35年前にも未だに
6人の世界王者誕生に携わり、数多くの有能選手を育てたエディ・タウンゼント。彼の伴侶は中野鍋屋横丁の芸人一家に生まれた。両親は漫才師。八人の子供の内、二人は姉妹漫才師(内一人は後に落語家へ嫁いだ)。末妹はジャズシンガー森サカエ。ムーランルージュでダンサーとして活躍した三女は興行で訪れたハワイでエディと出会い結婚し、力道山に呼ばれたエディと共に「帰国」以来エディが亡くなるまで鍋屋横丁で共に過ごした。エディ没後も数多くの弟子や関係者たちが彼女が営む
ボクシング・ビート最新号(2023年7月号)購入。表紙は中谷潤人VSアンドリュー・モロニー勝者と敗者の残酷なまでのコントラスト。記事内のフィニッシュブローと共にその晩はカメラマンの「スティーブ・マーカス」は神がかっていたな。【五階級制覇藤岡奈穂子引退】後世で藤岡の功績は今以上に輝いていると思う。後継者に晝田瑞希を指名。晝田に藤岡の精神的強さが加われば鬼に金棒。【ヘイニーVSロマチェンコ】この試合の判定をRING誌が関係者19人にアンケート。結果13
9月18日はかいわれ大根の日、沖縄しまくとぅぱの日、チリ独立記念日、711年…元明天皇の詔勅により太安麻呂が『古事記』の編纂に着手(新暦11月3日)、1652年…徳川家綱の将軍就任に伴い承應に改元1655年に明暦に改元(新暦10月20日)、1851年…『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』(現在の『ニューヨーク・タイムズ』)創刊、1922年…ハンガリーが国際連盟に加盟、1954年…蔵前国技館が正式に完成し開館式、1962年…ジャマイカ、トリニダード・トバゴブルンジルワンダが国連に加盟、196
天才ボクサー青木勝利。彼の映像はファイティング原田戦とエデル・ジョフレ戦のハイライト位しか目にしたことがない。両試合共に青木が惨敗しているが、所々で天才青木が顔を出す。特にジョフレ戦。この強豪に臆することなく、青木は自慢の左を叩きこんでいく。(1R、2R青木へ付けたジャッジがいた)右でジョフレの頭を押さえ左を叩きこむさまは、喧嘩屋の顔をみせる激しいもの。またロープに詰まるジョフレへこれでもかの前傾でパンチを叩きこむ様は、60~70年代ボクサーアルアル?
先日ブログにUPしたエディ・タウンゼントトレーナー。改めてこの「ジプシートレーナー」について散文を。47歳の時にあの力道山にハワイから招かれたエディ。力道山死後、藤猛を世界王者へ育て上げ力道山の目に狂いはなかったことを証明した。ただ当時から論が有ったのは、エディの「良いところ取り」所属していたリキジム他のトレーナーから「エディに選手を取られた」との不満がくすぶっていた。曰く4回戦の時から手塩にかけて育てた選手がメインイベンターになるとエディの手にゆだねられる
先日NHKBSにて放映されたNHK特集「エディ最後の挑戦~老トレーナーと19歳のチャンピオン」正に当時のONAIR以来の視聴だが、鮮明に覚えていた。これは後程述べる理由だからだと思う。6人の世界王者を育てたエディ・タウンゼント。最後の教え子井岡世界初防衛戦の会場に姿を現したが、ゴング前に病院へ搬送された。試合は苦戦の井岡が最終ラウンド劇的なTKO勝ち。意識混濁の中、家族から井岡勝利を聞いたエディはVサインをしたという。また病院に駆け付けた井岡、赤井、津
敗戦後、マニー・パッキャオが会見。ウガス戦は「2Rで足が痙攣してしまい、フットワークが使えなかった」と明かした。確かにウガスに勝つには、動き勝つこと。ウガス陣営ですら想定していたであろう1丁目1番地の戦法。ただこのフットワークという武器を取り上げられながらも、クロスファイトを演じた42歳はやはり偉大というしかない。しかしこの手のトラブルを明かすのは、敗戦時のパッキャオには、付き物。メイウェザーとのメガファイト後も肩の異常を明らかにしていた(事実「肩の腱板断裂」
本日は八王子大善寺にある海老原博幸さんのお墓参りをさせて頂いた。墓石の傍に偉大なる氏の功績を称える碑が有った。正に太く短くの人生だった。海老原さんが亡くなる数か月前に京王線内で私の座席前にご夫婦揃って座られたことが有る。自分の視線に気が付いた海老原さんは軽く会釈後、乗り換えで電車を降りられた。残念な事にこれが氏を見かけた最後の姿となってしまった。またお墓には、夭折された娘さんも眠っておられる。後楽園ホールでも評判の美貌で、芸能界デビューが決定していた。
先日記したベストファイト。その中から数試合記してみる。1965年5月7日米国カリフォルニア州ロスアンゼルス(LAメモリアムコロシアム)海老原博幸VSアラクラン・トーレスⅡWBA世界フライ級1位(海老原)と2位(トーレス)の対戦。1R、やや静かな立ち上がり。海老原細かいフェイントと探りの右。この探りの右で掴んだか?タイミングの良い右を当て始める。トーレスも前進への意識高く、柔らかい上体でパンチが伸びる。これに対しピッチを上げた海老原。左アッパーヒット後の左ストレー
今回は過去を遡って視聴した「ビデオ観戦ベスト(日本人絡み国内編)」を※日本人海外戦含む1位:1965年5月7日:海老原博幸VSアラクラン・トーレスⅡ2位:1972年6月20日:大場政夫VSオーランド・アモレス(WBA-F)3位:1966年8月7日:ビセンテ・サルディバルVS関光徳(WBA、WBC-Fe)4位:1970年12月11日:柴田国明VSビセンテ・サルディバル(WBC-Fe)5位:1971年10月25日:ルーベン・オリバレスVS金沢和良(WBA-B)6位:1965年5
GW外出自粛期間中、永年の疑問であった「日本人ボクサー歴代RING誌王者」を調べてみた。従来の認識は「白井義男(F)、海老原博幸(F)、ファイティング原田(F、B)、工藤政志(JM)、五十嵐俊幸(F)、八重樫東(F)、山中慎介(B)、田口良一(JF)京口紘人(JF)、井上尚弥(B)」の10名だったが、ボクシングマニアの駆け込み寺「BOXREC」は偉大だ。永年のもやもやが氷塊した。追加された日本人(ジム所属)王者達は、藤猛(JW)、沼田義明(JL)、小林弘(JL)、柴田国明(
ボクシングマガジン5月号に掲載された「ALLTIME最強は誰?誌上トーナメント」私的で各階級の覇者を「考察」※考察というか頑固な懐古主義なので思考停止かも?フライ級パスカル・ペレスVSサントス・ラシアル:大差判定でペレス。スピード、動きが違う。パンチョ・ビリャVS大場政夫:大場のワンツーが中から入り、判定勝ち。夭逝した選手同士の対決・・・。但しフライ級PFPトップはビリャという説にも合意。ミゲール・カントVSポンサクレック:カントはサウスポーに苦労することも有るが
世は自粛ムード。自分は寄席も行くし、その前に日々通勤電車に揺られている。但しこういう時、自宅で(YOUTUBE)クラシックファイトを見つけるとそれこそ時を忘れる。ボクシングビデオに夢中になっていた学生時代の自分に、こういう時代が来ることを教えてあげたい。ボクシングが拳闘であった時代。5階級制覇や50戦無敗というふざけた記録が出ない。まさにリングは戦場だった。1968年1月WBA世界フライ級タイトルマッチチャチャイ・チオノイ(タイ)VSアラクラン・トーレス(
明日鬼門のタイ国で行われるWBA世界ミニマム級タイトルマッチノックアウトCPフレッシュマートVS田中教仁(三迫)書くのも嫌になるが、日本人のタイ国での世界戦は24敗1分け(唯一江藤光喜が暫定王座を獲得)。但し日本のメンバーもF原田、海老原、佐藤洋太以外は、二線級の選手も少なくない。残念ながら今回の田中も王者から見ると安全パイの挑戦者。タイで勝つには一発必倒の決め手がないと厳しい。ユーリは事も無げに圧勝劇を演じた。王者ノックアウトは、WBC王者ワンヘンと同じく
野口ジム所属の元日本バンタム級ランカーの金平正紀氏が、引退後、後輩の山神淳一氏(湘南山神ジム会長)を誘い営んでいた恵比寿のとんかつや”とん金”に、海老原博幸氏が出前持ちとして入って来たが、その条件はボクシング教えます。仕事の合間を縫って本家の野口ジムへ海老原選手と共に通い稽古をつけた金平氏は、海老原氏に賭ける決意を固め、とんかつ屋を売却し1959年に金平ジムを設立。金平会長、海老原選手、山神トレーナーのトリオが挑んだ夢は、1963年9月18日に海老原選手が世界フライ級王者ポーン・キング
またというか寂しいニュース。「世界王者13名」を輩出した名門協栄ジムがJBCへ休会届を出し、活動休止になるとの事。先代金平正紀氏が天才海老原博幸を見出し、一代でそれこそ協栄王国を築き上げた。TBSと強固なパイプを持ち、全盛期にはWBAへの発言力は相当なものが有った。但し例の「オレンジ事件」で氏は失脚。7年余りのブランク。氏曰く「私が不在の間に日本のボクシング界は、10年遅れてしまった」正に「功罪相償う」だが、辣腕と天才的なプロモーシヨン、発信力、先見の明とや
5月31日タイ国で行われたWBC世界ミニマム級タイトルマッチワンヘン・ミナヨーティンVS福原辰弥2017年11月に続く再戦初戦は福原が積極的にスタート。それこそダーティー攻撃上等とも思える攻めでまさにファイター化。これに対しワンヘンは落ち着いて、福原の打ち終わりに実に的確なブローを返す。また福原への左の使い方とウイラポンが西岡戦で披露した右ストレートをジャブに様に使う戦法は、正にサウスポー殺しのお手本だった。採点結果は大差だったが、福原も旺盛なスタミナと闘志で肉薄し、健闘した。
元日本&OPBFウェルター級、PABAスーパーウェルター級、日本同級暫定王者の渡部あきのり(角海老宝石)選手が、故・海老原博幸氏の未亡人、喜代子氏が経営参加されておられるお店、”小井戸カントリー”を訪問。元世界フライ級王者の海老原氏が保持していた世界チャンピオンベルトと眼福する機会に恵まれた。協栄ジムからプロ入り、野口ジムを経て、現在は角海老宝石ジムに所属する渡部選手は、昨年、愛娘が白血病に侵されていることを公表。白血病と闘う愛娘の姿を見て、『自分の仕事とは』を見つめなおし、「今までや
唐突に飛び込んできた世界戦。11月24日タイ国で行われるWBC世界ミニマム級タイトルマッチワンヘン・ミナヨーシンVS福原辰弥山中に敗れWBOタイトルを失った福原は、再起戦が世界挑戦となる。王者ワンヘンは驚異的な戦績&7度防衛の実績を誇る。ガードが固く、オンガードの際は短躯を利し顔面もボディーもしっかりとカバーする。アゴを打たれてたじろぐシーンも散見されるが、フィジカル的にも強い。但し戦績(48勝(17KO)無敗)程の威圧感はなく、決め手に欠けるのも確か。
「ボクシング・ビート」9月号は、山中慎介V13戦の為、8月19日発売。この様なフレキシブルな対応は良いな。速報性ではネットにかなわないけど、15日の試合レポートを19日発売の雑誌に掲載するとは、さすがビート。山中VSネリレポートでは、山中の発言に悔しさがにじみ出ている。このままでは終われないだろう。「コットVS亀海展望」:亀海の1Rからフルアクションで仕掛ける宣言。敢行できれば面白いが、コットは巧く強い。この試合は実現したことに喜びを感じるべきもの。但し必ず亀海
カミソリパンチの異名を誇る1960年代の名チャンピオン・海老原博幸さんhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%80%81%E5%8E%9F%E5%8D%9A%E5%B9%B8なんと、その海老原さんがおじいちゃんという栗原さんが今月よりジムに入会週1~2回程度のトレーニングに励んでいますおじいちゃんがサウスポーだったからか、彼は右利きですが、左構えのサウスポースタイルで、半世紀ぶりのカミソリパンチ復活第1印象は運動神経が