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2023年8月13日大王わさび農場から穂高神社までおよそ30分歩いた。白い大鳥居がなんだかまぶしい。穂高神社には過去に二度訪れているが、二度目に訪れたのは夏頃だった。その時は大鳥居を通り抜けた先でよく冷えた桃を売るお姉さんがいらっしゃって、買って食べた記憶がある。それゆえに今回も桃売ってないかなと期待していたのだが今回は売ってなかった。桃のシーズン終わってたのかな。穂高神社拝殿穂高神社の御祭神は穂高見神(ほたかみのかみ)、綿津見神(わたつみのかみ)、瓊瓊杵神(ににぎのみこと)。穂高見神
会津柳津に国内最大級2対の土偶付き縄文土器⁉️柳津町保管土偶つき土器は国内最大級報道陣に公開|NHK福島県のニュース【NHK】柳津町の「やないづ縄文館」に収蔵されていた土器が、土偶がついた形状の土器としては国内最大級のものだと分かり、16日、報道陣に公開されました…www3.nhk.or.jphttps://www.minpo.jp/news/moredetail/20230117104078国内最大級の土偶状装飾付き縄文土器と判明福島県柳津で保管の土器片約5千年前に作られる福
大王わさび農場の駐車場で見た水溜まりの水鏡が美しかったです✨↓こんなのを写真に撮っている人はおそらく私だけだったことでしょう😅さて、いよいよこの旅最後の目的地である穂髙神社へと向かいました⛩穂髙神社の御由緒などはこちら。👇信州・安曇野・穂高穗髙神社穂高見命を御祭神に仰ぐ穗髙神社は、信州の中心ともいうべき安曇野市穂高にあります。そしてその奥宮は、北アルプス穂高岳のふもとの上高地に祀られており、嶺宮は、北アルプスの主峰奥穂高岳の頂上に祀られています。www.hotakajinj
神功皇后の三韓征伐で船を操った有明海の漁師の海人族安曇氏、彼らの造船技術が大川家具として今も生き続けている。彼ら海人族が渡来系弥生人達を船に乗せて古代中国から日本列島に連れてきたと考えられ、近くの吉野ヶ里遺跡の弥生人達はまさに当地の漁師が関わったと考えても間違いではなさそうだ。海の神様を祀る風浪宮、大川市酒見726−1大川家具参考①古代海人族の伝統今に大川市の風浪宮・沖詣り海神祭干潟で神事、航海の安全祈願[福岡県]西日本新聞(2019.5.18、参考)弓の弦を鳴らして邪気を
しなの、しなつひこ:きびの歴史ノートしなの(信濃)とシナツヒコ長野県の旧名「しなの」の由来は何だろう。8世紀に世に出された「古事記」には、「科野国」と記されている。「しな」とは何を指すのだろうか。シナツヒコは風の神だが、この「しな」と信州「しなの」の「しな」は同じなのか、別の意kibino8mori.livedoor.blogしなの(信濃)とシナツヒコ長野県の旧名「しなの」の由来は何だろう。8世紀に世に出された「古事記」には、「科野国」と記されている。「しな」とは何を指すのだろうか
わたくしの内ではずっと熱海で金龍が顕れてから「フォッサマグナ」へと、ただ在る愛が流れ始めておりました。💖そして、また伊豆山神社の「赤龍」と「白龍」がその”流れ”を、伝えて来ていたのでした。つづき『「決めたら」現実は、その方向に向かって動き出す。o,+:。☆.*・+。』つづき『「今の自分にはこれ以上はできない」って決めないで!』はじめましての方へ梅原麗美の自己紹介♪いつも言ってることですが、決めたら現実はその方向に向か…ameblo.jpこちらの記事にも書きました
『水の流れ、「海人族」の流れ。o,+:。☆.*・+。』❁*̩̩̥˚̩͙⚛*̩̩̥͙*̩̩̥˚❁*̩̩̥˚̩͙⚛*̩̩̥͙*̩̩̥˚❁*̩̩̥˚̩͙⚛*̩̩̥͙*̩̩̥˚❁穂高岳とホタカと海の民|フカボリ…ameblo.jp『海(水)と山(火)の神「ホタカミノミコト」。o,+:。☆.*・+。』つづき穂高岳とホタカミノミコトさて、紀元前の話ばかりしてしまってますね。そんな昔のことはわからないという人もいるかもしれませんが、そんなアヅミ族の面影を今に伝…ameblo.jpあれ
引き続き、斎藤姓のルーツについて調べていきます。人の流入が比較的少ないと思われる地方の町で斎藤姓が突出して多く住んでいる理由について調べれば、斎藤姓のルーツについて何らかの手がかりを得られると考え前回斎藤姓の多く住む町、茨城県久慈郡大子町(だいごまち)にある「近津神社」(ちかつじんじゃ)について、書きました。そして、近津神社は、海人族(かいじんぞく・あまぞく)の神社とされますがそれは表面上で、私はその根底には縄文の古い神が隠れているとも書きました。つまり、近津神社は「弥生
令和2年10月28日。明治神宮鎮座百年を前に、天皇皇后両陛下、上皇上皇后両陛下、秋篠宮様が明治神宮を参拝された。運よく3回ともお出ましに遭遇。これは、何か、ある。今までも天皇陛下が来られたところに遭遇したことがあったが、今回は空気が全然違う。御代がわり、を感じた出来事であった。その日、おじさんとの待ち合わせで原宿駅に行ったら、ちょうど秋篠宮さまが参拝を終えてお帰りになるところなのであった。おじさんが運んできた?伊勢平氏おじさんは最近、ときどきわたしに対して
縄文時代の海の民は南米にまで進出していたことは既に示したが、それより前の旧石器時代、1万6000年前に、北米の北太平洋沿岸沿いで進出した証拠が見つかったようだ。参考①-1新発見の石器から「最初のアメリカ人は日本から来たかもしれない」説が急浮上GIGAZINE(2019.8.30、参考)これまでの定説では、最初に北アメリカ大陸にやってきた人類は1万3000年前に栄えたクローヴィス文化の時代の人々だとされてきました。そんな中、新たにアメリカで発見された石器の分析から、これまでの常識を覆す
徳島県阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、古代の祭祀や船体の防腐などに使われた赤色顔料「水銀朱」を生産したとみられる縄文時代後期(約4千~3千年前)の石臼や石きね300点以上や、水銀朱の原料の辰砂原石が大量に出土した。この遺跡の所有者は旧石器時代から日本列島周辺に生活した海の民、海人族安曇氏であり、船体の防腐の為の水銀朱の工場であった。海人族安曇氏のゆかりの地として、福岡県福岡市と茨城県に那珂川(なかがわ)があるが、ここ徳島県阿南市にも那賀川(なかがわ)があった。加茂宮ノ前遺跡と那賀川徳島県
縄文時代、日本列島周辺には山の民と海の民が共存して生活していた。彼らは通婚していたようで相互に嫁を交換して、男性遺伝子Y-DNAがD2(山の民)またはC1(海の民)であることを除いて、遺伝子的には区別がつかなかった。すなわち、女性には山の民と海の民の区別は無く、男性の骨格に差異が認められたことになる。弥生時代となって、九州に揚子江下流域からの稲作農耕の弥生人(呉系弥生人、男性遺伝子Y-DNAO2)が渡来して来た。彼らも従来からの住民達と仲良く暮らし、通婚もあったと考えられる。従って、
縄文時代まで、日本列島周辺には山の民と海の民が共存して生活していたようだ。彼らは通婚していたようで相互に嫁を交換して、男性遺伝子Y-DNAがD2(山の民)またはC1(海の民)であることを除いて、遺伝子的には区別がつかなかった。すなわち、女性には山の民と海の民の区別は無く、男性の骨格に差異が認められたことになる。参考①舟こいだから?愛知に「極端に骨太」な縄文人集団朝日新聞(2018.8.27、参考)神田明美保美貝塚から出土した縄文人男性の上腕骨(左)。平均的な江戸時代の男性の上
鎌倉時代以降に記録がのこる安東氏の拠点の十三湊の遺跡が北部東北地方の聖なるラインのネットワークの上にあった。それも、北海道の奥尻島と縄文時代の遺跡の大湯環状列石の上にあった。この辺りの聖なるラインのネットワークの結節点は縄文時代以前の住居跡、天体観測施設がルーツと考えられ、十三湊も鎌倉時代より遥か前からの拠点と考えられる。すなわち、鎌倉時代の海の豪族、安東氏の本姓は安倍であり、縄文時代以前から日本列島に居住する海人族安曇氏がルーツと考えられる(参考)。当時の日本列島は山の民(蝦夷、長髄彦)と
豊前市の大富神社は、宮地嶽神社と宇佐神宮を結ぶ聖なるラインと宮島から久留米の高良大社の聖なるラインの交差点にあった。すなわち、宇佐神宮の八幡大神と海人族安曇氏にゆかりの神社では!と直感した。ところが、姫大神または武内宿禰、安曇磯良、高良玉垂命など海人族安曇氏ゆかりの神が祀られておらず、宗像大神と住吉大神となっている。大体、豊の国(豊前国と豊後国)は海人族安曇氏の地盤であり、乙巳の変(645年)の影響がここにも伺える。すなわち、八幡大神を祀る大和政権がこの辺りを支配したのである。大富神社青印
小山田遺跡は飛鳥時代で最大級の方墳の可能性が高まった。被葬者像は7世紀前半に即位した舒明天皇か、乙巳の変(645年)で滅ぼされた豪族の蘇我蝦夷(?~645)との見方が出ているとか!この辺りは、飛鳥寺あたりの遺跡や蘇我馬子の石舞台古墳と関連し、当時最も権勢を振るった蘇我蝦夷の墓と著者は確信している。当時の蘇我氏は天皇として振舞っており、当然、現天皇家の祖先の舒明天皇より大きな墓で当然である。中央が小山田遺跡、奈良県高市郡明日香村川原410奈良県立明日香養護学校、建て替えに際しての発掘調査で遺
和歌山市の武内神社の祭神は武内宿禰であり、当地で誕生したとか!和歌山市から紀伊半島一体は海人族安曇氏の集住の地であり、武内宿禰の末裔の紀氏の根拠地であった。武内宿禰と母、山下影姫は和歌山市あたりの他、北九州あたり出身の海人族安曇氏と言う説が有力である。また、神功皇后の母は若狭湾あたりの海人族安曇氏の出であった。すなわち、三韓征伐の後、応神天皇が誕生したあたり以降に秦氏の渡来が増えた史実に、海人族安曇氏の紀氏や葛城氏の活躍があったと推測される。注武内宿禰の末裔の蘇我氏は紫の冠を被る大王であ
星神の天香香背男命は東は茨城県あたりから西は熊本県に広く祀られている。縄文時代から、日本列島から太平洋、果ては南北アメリカにまで達した海人族安曇氏の航海術を司った神と考えられる。参考①天香香背男(あまのかがせを、参考)別名天津甕星:あまつみかほし加加勢男命/加加背男命:かがせをのみこと可可瀬男命/可可背男命:かがせをのみこと火火背男命:かがせをのみこと香香世男神:かがせをのかみ天香具背男命:あめのかがせをのみこと北斗星神:ほくとのほしのかみ三十三夜星神:さんじゅうさんやほ
福津市の宮地嶽神社内の古墳と宇佐市の宇佐神宮を結ぶ直線上に香春岳、天照神社などがのっている。偶然では無く、測量により定められていると考えて差し支えない。香春岳や、宇佐神宮より早く築造された宮地嶽神社の古墳は動かすことの出来ない支点であり、宇佐神宮や天照神社が後から適当な場所を探して鎮座したのであろう。宇佐神宮の祭神、比売大神は豊国の海人族安曇氏の祖神であり、香春岳に近い周防灘沿岸でも構わない。現在地にある理由としては、海人族安曇氏が早くから入植している安心院や由布院(参考)から、国東半島や臼杵
安心院の読みの「あじむ」は安曇(あずみ)の転訛が正解である。この「あじむ」に無理やり漢字の安心院を当てはめたのは、ヤマト政権の出先機関である八幡大神を奉ずる宇佐神宮の倉院(荘園、神田)になったためであろう。院内は「いんない」と読み、安心院の内に含まれる倉院(安心院庄院内)と言う意味であろう。さらに、由布院は矢張り、元々、由布郷が倉院となって以来の地名であろう。すなわち、大分県の安心院、院内、由布院あたりは海人族安曇氏の末裔の蘇我氏の領地であったものが、乙巳の変(645年)以降、ヤマト政権の倉院
16世紀のスペインの侵入で滅びたマヤ文明のマヤ暦や2300年前(日本の弥生時代)のインカ帝国の太陽観測所より古く、縄文時代の日本に太陽観測所があった。これは金山巨石群と呼ばれる縄文遺跡で、太陽暦を求めるものであった。縄文時代から海人族安曇氏の同族は太平洋を広く航海し、太平洋から米大陸にまで版図を広げたが、太陽暦は太平洋などの大海を航海するための航海術に不可欠なものであった。太陽観測から太陽暦を作成し航海術に反映する知識が、米大陸に到達してから更に発展して、マヤ暦にまでなったと考えられる。参考
約一万年前ころ日本や米大陸にヒョウタンが渡来したとか!ヒョウタンは航海の間の飲料水を入れる水筒として栽培され、ポリネシアあたりでも栽培されたとか!渡海ルートとしては、千島列島からアリューシャン列島は米大陸への最短航路になっており、これら列島を経由して米大陸へ到達するのが容易であろうと考えられる。千島列島からアリューシャン列島は好漁場であり、また島伝いの安全な航路であり、漁撈活動の範囲を拡大しながら米大陸を発見したのであろう。氷河期に氷結したベーリング海峡を徒歩とか雪車(ソリ)で横断する方法
縄文土器とよく似た土器が南米のエクアドルで発見されたと言う信頼出来そうな記事があった。南米まで渡った縄文人と言っても三内丸山遺跡のような内陸系の採集民族が凍りついたベーリング海峡を歩いて渡るのでは無く、漁撈系の海人族安曇氏が船で渡海したのであろう(参考)。参考①宮崎の縄文土器が南米バルディビアへ?(引用)2005年9月4日権藤正勝氏再編集による「太平洋岸宮崎でバルディビア土器風の縄文土器発見」から抜粋太平洋岸に面した宮崎市で、南米エクアドルのバルディビア土器とそっくりの文様を持つ縄文
成人T細胞白血球病の分布を見ると、日本の沿岸地域(特に九州と北海道)、パプアニューギニア、中南米、アフリカに発症があり、中国大陸は南部以外には無いと言う。古代、すなわち、渡来系弥生人や秦氏が中国大陸から日本列島に渡来する前、縄文時代から海人族安曇氏の一部の女性が成人T細胞白血球病のウイルスを持ち込んだと考えられる。日本列島の中央の内陸部に少ないことは、先住の縄文人はキャリアでは無いことが分かる。中南米に感染が見られることについて、ポリネシアに感染が無く、アリューシャン列島又はベーリング海峡を
ポリネシアの国々全てが女系社会では無いが、サモアの女系社会のシステムが、古代、平安時代以前の入り婿のシステムの参考になりそうです。すなわち、社会の運営は男が担当し、家庭の管理運営は女が支配するシステムは、古代、葛城氏、蘇我氏のトップの家に現天皇家や有力豪族の男が入り婿して、政治力と財力を得て政治を摂ると考えれば、容易に理解できる。葛城氏や蘇我氏の祖、武内宿禰は海人族安曇氏のトップであり、実は天皇であったと考えることが出来る。参考①ポリネシア系のサモアは女系社会(参考)サモアは、上古代の
里芋は縄文時代後期、水稲が渡来する前に熱帯地域から、やって来たとか!海人族安曇氏からのプレゼントか!ポリネシア人達はタロイモやサツマイモを主食にして良い体格であるが、同族の海人族安曇氏は彼らから寒冷地に適したタロイモの一種、里芋を分けてもらったのであろう。ちなみに、サツマイモについては、現在ポリネシアで食されるサツマイモは南米から直接渡来し、日本のサツマイモはポルトガルやスペイン経由で東南アジアから17世紀ころ渡来しており、渡来経路が異なっている。注意:太平洋西部のミクロネシア人やメラネ
日本とポリネシアの間によく似た古い習慣、すなわちフンドシ、入墨、お歯黒があった。古代、魏志倭人伝などに日本列島から東南に船で1年かかるところに黒歯国があると記しているが、ポリネシアの島々の一つであろう!参考①ポリネシアのマオリ族の習慣(参考)マオリ族はタヒチ島周辺を父祖とするポリネシア系民族で「ハワイキ」(マオリ語で故郷)からカヌーで来たとの伝説と「ハワイ」を含む単語が物語るとおり、ハワイ原住民も同民族。ポリネシアンは数千キロをカヌーで移動している。古代の木造住居や入れ墨、お歯黒などの
海人族安曇氏と同族と目されるポリネシア人について、wikiより抜粋する。彼らは、カヌーで太平洋を拡散した。すなわち、海人族安曇氏の船は手漕ぎの準構造船や風下にのみ進む帆掛船と言うより、風上にも進める高速のカヌーであった可能性が出てきた(参考)。ポリネシア人のダブルカヌー(参考)参考①ポリネシア人とは②海人族安曇氏はポリネシア人と同族だった(参考)③古代、日本から南東に船で1年かかる黒歯国があるとか!すなわち、太平洋を1年かけて渡海した実績があった。④沖ノ島(宗像大社)の海底
海人族安曇氏(男性遺伝子Y-DNA、C1)は1万年以上前はインドシナあたりにおり、北上して東シナ海、黄海、渤海あたりから、朝鮮半島を南下して対馬海峡あたりから北九州あたりに到達し、弥生時代初期には、さらに日本列島全体にひろがっていたと言われている(参考)。この海人族のC系統が太平洋全体に広がり、その後をO系統が後を追うように広がり、現在ではポリネシアあたりにC系統の海人族が分布している。彼らC系統の海人族は母音言語を話し、日本人のルーツの一つ海人族安曇氏ゆかりの言葉をポリネシア語で解釈出来る
天の橋立の内海は阿蘇海(アソカイ)と言う。九州の火山の阿蘇山とのつながりは?阿蘇地名は阿蘇山などの一般的な火山地名として従来、解釈されていた(参考)。しかし、この地名は実際には火山と関係無く日本全国にあった。ある研究によるとポリネシアの古い言葉、マオリ語で日本の古い地名を解釈出来るとか!特に阿蘇地名について、阿蘇山は外輪山に取り囲まれ、阿蘇海は陸に取り囲まれた内海であった。さらに海人族安曇氏との関連も示唆している。ちなみに、天の橋立の北端に海部氏の神社、籠神社があり、海部氏系図に卑弥呼が記載