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文久三年(1863)三月三日、関白鷹司政通より浪士組取扱鵜殿鳩翁に対して達文がありました。このたび横浜港へ英国軍艦渡来、昨戌年島津三郎儀、江戸表出立の節、生麦において英国人両人打ち果たし候儀に付、三カ条の儀申し立て、何れも聞き届け難き筋に付、その旨応接に及び候間、速やかに戦争に相成るべきことに候。よってその方引き連れ候浪士共、早々帰府いたし、江戸表において差図を受け尽忠粉骨相勤め候様致さるべく候。生麦事件に対してイギリスが突きつけた三カ条(一、賠償金の支払い。二、島津久光を打
みんなの回答を見る『浪士姓名簿』見つかるということを新聞掲載していただいてから、4年の月日が経過します。その後も色々な史料が見つかっていったのでした。
先日、よみうりカルチャー横浜の後期講座のチラシが配布されました。10月からも、引き続き「汐海珠里さんと楽しむ「新選組研究会」」を続けます2020年10月~2021年3月(12月を除く)第4日曜日13時~14時30分各回の仮テーマは10月汐海珠里vs日露映画「歳三の刀」監督増山麗奈榎本武揚の隕石刀他11月高台寺党再考第二のスパイ・中西登説?1月ぜんざい屋事件と新選組の「禁令」再考2月そも
新撰組新徴組の立役者、清河八郎なぜ彼が暗殺されたのか?彼は正義感が強すぎたと私は思う。初めは幕府の命で将軍警護を目的に浪士組作ったのはいいが、このままだと日本は政治的、列強諸国との格差が問題になるとわかっていたと思う。そのため尊王攘夷に走ったため後の新撰組主要メンバーと幕府の隔たりあったと考える。そのため幕府から殺された。しかしかれが作った浪士組は京都の新撰組、江戸のお巡りさん新徴組組に多大な影響を与えたのには間違いない
東京大学史料編纂所のデータベースに『勤王殉国事蹟』という史料があります。幕末維新期に志半ばで倒れた人々の事蹟をまとめた全六十二巻に及ぶ史料なのですが、その最後の六十二巻めに100名あまりの対馬藩の人々の履歴が収められています。残念ながら阿比留鋭三郎に関する記載はありません。が誰かつながりのありそうな人物はいないかと探してみたところ、2名いや厳密に言えば3名の「関わりありそうな人」がいました。言うまでもなく全員「阿比留」さんです。3人の阿比留さんを紹介する前に幕末期の対馬藩について少し
阿比留鋭三郎(あびるえいさぶろう)は浪士組に参加し、江戸帰東には従わず芹沢鴨、近藤勇らと京に残留した壬生浪士組結成メンバーの一人です。残念ながら間もなく大病を患い、文久三年(1863)四月六日、京に到着(同年二月二十三日)してからわずか一ヶ月半ほどで死んでしまいました。天保十三年(1842)生まれとする説があり、享年は二十二歳とされています。さて、その阿比留鋭三郎に関して、実は二つばかり気になることがあります。・・・あくまで「気になったこと」なので、あまり期待せずに読ん
勇さんの京都からの最初のお手紙は、文久3年2月26日。小島鹿之助さん宛てでした。着京からわずか3日目に、ちゃんと書いていたのですよね(この書状については、鹿之助さんのご子孫で、現・小島資料館館長である政孝氏が諸論文でも紹介しております)以手紙啓上仕候偖京地江廿三日無滞着仕候道中筋も差支無之乍憚御懸念被下間敷候過日発足之節者種々御厚情相成筆紙申上かたく奉厚謝候実ニ僕之微心相建乍併貴兄方々之思召仍之与是難有身終忘却仕間敷候留守宅親共義も御世話御心添被成下是亦奉厚謝候偖浪士一同之趣
昨日の続きですこれまで勇さんが京都から送ったお手紙の一番はじめは文久3年3月の「志大略相認書」だと思われておりました。当然のことながら7年前にブログ記事書いていた時もそう思っておりました。あの、歳様の追伸というか添え書きのようなものが、ちょっこと書かれているお手紙ですね上から2行目の記事は、こちら☆いや、正直申し上げて手紙内容については何の参考にもならない記事ではございますが略内容を記しますと、京都の情勢やら決意、そして入用品として大小の刀や鎖着入、頭巾を
昨日ご紹介の「新選組史再考と両雄刀剣談」の発売日。2020年2月23日です以前の記事でも書きましたが、この「2月23日」というのは文久3年に、浪士組が入京した日です。いや~懐かしいというか、恥ずかしいというかそしてこの「実況放送」が、そのまま続くことになる「史実小説」(?)を書いた最初でした。そしてこの日は新暦にすると、1863年4月10日。はい、ちょうど157年前の本日ということになりますね。ところで山南さんや歳様たちが所属した「六番
今日も家から出ず本や調べものなどで実は楽しく過ごしています(笑)こういう時いつもとちょっと違うお茶をいただくのもよいですねきれいなお茶お湯をそそぐとふわーっと花が開きますさて本日の「人生が輝く書道」シリーズは芹沢鴨の一字書動画ですこちらからごらんくださいねチャンネル登録もお願いいたしますhttps://www.youtube.com/channel/UCbWn_oeiKnyciHNRRAQDf8Q?sub_confirmation
日帰りで逢いに行こうと決心したものの、岐阜県博物館は結構遠い割と交通の便が悪いのですよね~。まず新幹線で「名古屋」までそこから「美濃太田」へ途中駅でドアが開いた瞬間、何気なく見えたのがこの駅名。「鵜沼だ」と思わず声に出してしまった皆さま覚えていらっしゃるでしょうか。一昨年11月16日の東京新聞夕刊に「近藤の失態」的に書かれた記事のことを・・・上の図は、その頃の自分の講座で解説の為に作成したパワーポイントの画像。で、その記事内容を
文久三年、近藤勇と土方歳三は仲間たちと浪士組に加わり京に上り、そして江戸へ戻った浪士組と分かれて京に残留、新選組を結成します。そんな新選組の活動が軌道に乗り出してしばらくしたある日のこと。土方は近藤を誘って八坂神社を訪れます。そして参拝が終わったあと、敷地内にある二軒茶屋(現在も営業)に席を設けて祇園の芸妓、舞妓を呼びます。※.八坂神社南楼門(左)と二軒茶屋(中村楼)酒もすすみ、ほろ酔い加減になった近藤は、戯れに「俺と土方と、どちらがよい男だ」と舞妓たちに尋ねます。する
新選組のドラマ、見たことある?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしようあります!大河ドラマの「新選組!」をみて大好きになりました。ネットで調べたら新選組の日って2日あるそうです。今日は「浪士組」が結成された日3月13日は日野市が制定した日です。土方歳三が日野市出身なので記念館もあります。市をあげて応援してます(多分)新選組に興味のない人にはどうでもいい話しですね玄関大事な新選組のポスターさてわたくしアメブロを休みたいくらい見たくないマスク関係
1863年のきょう、新撰組の前身の浪士組が…結成マンボぉ!なんでも結成当初は…うっほっほ!20人ぐらいだったけどぉ…最盛期にゃ…うっしっし!なんと200人ぐらいになっちゃうしぃ!ちなみにきょうは…いやーん!冬の恋人の日でもあんにょー!そんなきょうは、バレンタインデーとホワイトデーの中間の日!ア~ンド、恋人同士のきずなを…あっはーん!深めちゃう日ぃ!また…2月2(きづ)7(な)日って…ご・ろ・あ・わ・せ!でもぉ!新選組のドラマ、見たことある?▼本日限定!ブログスタンプ
2月27日「新選組の日」2月27日は新選組の日とされています。というのも1863(文久3)年の2月27日に新選組の前身である。「浪士組」が結成されたことに由来しています。楽天市場よりパブリックドメインQ:著作権フリー画像素材集新選組のドラマ、見たことある?子供の頃に見た事があります。最近は、テレビを見ないのでドラマも見ていませんね。(^_^;)▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう「Pokémon
■今日2月27日は「新撰組の日」1863年2月27日、近藤勇・芹沢鴨・土方歳三ら24名は、京都で「浪士組」を組織したことが、江戸幕府京都守護職にあった譜代大名の陸奥会津藩主・松平容保に認められ、3月に「壬生(みぶ)浪士組」と改称。更に8月には「新撰組」と改称して、その配下となる栄誉を受けたのだった。□お題「新選組のドラマ、見たことある?」何種類もありまーす。最初に連続ドラマとして真剣に観たのは、TBS系列のMRO(北陸放送)『新撰組始末記』(1961年10月~6
↑南北朝時代の武将・新田義貞公像先週の土曜日のことになりますが、研究家のあさくらゆう先生のお誘いで、群馬県太田市にある新田荘遺跡へ行って参りました。スタートは、本庄駅からです。浪士組も泊まったという本庄宿ですね♪。上記写真は、本庄市民俗資料館前にある本庄宿本陣の門(移築)です。↑本庄宿本陣門の案内版です。資料館では、職員の方に色々と説明してもらっちゃいました。また、古墳時代の発掘物なども展示してあり、撮影OKということでしたので、片っ端から撮影しまくって来ましたわよ。いや
と書いて見たが、実は知人と議論したが、この事象を歴史的に見ても難しい。戦前から歴史家や経済学者・思想家が二派に分かれて抗争。これが『日本資本主義発達論争』現在まで続くざます。この『日本資本主義発達論争』について、以下ウィキさんかのら引用ざます。日本資本主義論争(にほんしほんしゅぎろんそう)とは、1933年頃から1937年頃まで行われたマルクス主義に立つ歴史家・経済学者の論争のこと。広義には1927年頃から1932年頃まで日本共産党と労農派の間で行われた日本民主革命論争を含めていうこと
近藤斬首後、、近藤の愛娘・たまはいったいどうなったのか❓❓近藤勇の娘・たま文久2年2月15日(1862年)近藤勇と妻・つねとの間に生まれた。文久3年(1863年)たまが2歳の時に近藤勇は浪士組として京都へ後に新選組の局長となる。そして、新政府軍に近藤勇は捕縛され斬首。この間に近藤勇と「たま」が再会した記録はない。たまが‥物心つく前に別れたことは確実。近藤勇が斬首されたあと妻ツネとたまは近藤の実家である宮川家に引き取られていたのだ❗「
さて、情報解禁となりましたので、当ブログでも告知します。【拡散希望】新刊『浪士研究への提言』、ようやく刊行の運びとなりましたので12月29日に通販を開始いたします。よろしくお願い申し上げます。なお、ブースは設けませんが1月1日の試衛館稲荷初詣に持参しますので、13:00以降に手売りします#宮地正人#梅原義明#高橋美智子#あさくらゆう詳細は下記ついったーまでhttps://twitter.com/funnyara5販売されているヤフオク。https:
龍源寺にやって来ました。野川に程近い、人見街道沿いにある曹洞宗のお寺です。このお寺に、新選組局長近藤勇が眠っています。鳥羽伏見の戦いに敗れ、甲陽鎮撫隊と名を改めた後も、新政府軍に屈した新選組。箱館五稜郭の戦いで土方を失い、浪士組結成から6年で、新選組は終わりを告げました。近藤は、その前年に処刑されています。龍源寺から人見街道を西へ進んで、調布市に入ると、近藤の生家跡があります。戦時中、近くにある調布飛行場の拡張工事の際に、残念ながら建物は壊されてしまいまし
今日は幕末の志士清河八郎を奉った清河神社に来ました。チョイ乗りレベルで幕末歴史ロマンの旅へwつづく。
宮地正人(東京大学名誉教授)/歴史のなかの新選組「近藤勇、伊東甲子太郎、新徴組、西村兼文」(1刷・2017/11/16)(岩波現代文庫369)1469円=岩波書店353p2004/3/歴史のなかの新選組(岩波現代文庫)/宮地正人深谷/Amazon.co.jp
てくてくまち再見明治神宮外苑クスノキに会いに毎日新聞それが明治天皇と昭憲皇太后を神として祭った明治神宮内苑であり、100年のうちに17万本の見事な森となった。ほど近い青山練兵場の跡地に、スポーツを...今年のゆかたはどう着る?「ゆかた浴衣YUKATA―すずしさのデザイン、いまむかし」展ニコニコニュース浮世絵に描かれた湯上り美人や夕涼みの景色、現存する江戸時代の細密描写のゆかたなどが目を楽しませてくれるのはもちろんなのですが、その模様を選ぶ雛...縁切りの神様からギャ
「会津本郷焼」靖国神社に福島県代表・宗像さんの作品奉納福島民友会津美里町の窯元・宗像窯8代目宗像利浩さん(62)が桜の花びらを題材に手掛けた会津本郷焼の「さくら陶板」が、本県を代表して東京・九段北の靖国神社に...『なつぞら』広瀬すずが生き別れた妹と再会?池間夏海登場に驚きの声エキサイトニュース幼なじみの信哉が、妹・千遥の住所を探し当てたことから、終戦の日の8月15日に訪ねることにしたなつと咲太郎。終戦の日を迎えた二人は東京から千葉県船橋市...歌舞伎の「鞘当」で雲に稲
「明治維新の魁」と言われた清河八郎の墓にお参りに行って来た。出身である旧清川村(現・庄内町清川)にある曹洞宗歓喜寺に、妻のお蓮さんと並んで眠っている。3枚目の写真の真ん中が清河八郎、左がお蓮の墓です。東京の伝通院の墓から分骨されたという。
先日の山南忌では、あさくらゆう先生から山南敬助に関して大変興味深いお話がありました。ひょっとしたら今後、すごい事になっていきそうな、とてもおもしろい話だったと思うので、これから何回かにわけてご紹介させてもらいたいと思います。まずは山南敬助と天然理心流、そして試衛館道場に関して。天然理心流試衛館といえば、司馬遼太郎の小説の影響でしょうか、「田舎剣法」「貧乏道場」といったイメージが定着している感があります。たしかに、多摩地方へ出稽古に行っていたし、そこで教えていたのはほとんどが百姓
いよいよ明日で2月も終わっちゃうんですね!そーですね!元町ではチャーミングセール始まりましたね!そーですね!そんな中ツカちゃんは…パタパタおじさんイモ食ってぷー!なもんでブログの用意…できてないんです!ヒルナンデス!いやーん!ごめーん…ちゃいちゃいチャイニーズ!なワケで…ブログは…日づけが変わったころにでも…と…思って…おりオリオリオー!☆-ヽ(*´∀`)八(´∀`*)ノイエーイっつーワケで…きょうは何の日で…許して…ちょ・ん・ま・げ!ってことできょう2月27日は…いやーん!新
今回、節分祭は違う場所へ行こう。行って見たい。そう思ってた場所に。ぼちぼち、こちらも更新せねば嵐電の四条大宮駅も、節分祭仕様。壬生寺に行きたいと思い出向いた。調べたのも、アクセスだけ。ここ、新撰組ゆかりの場所だったとは…壬生寺の節分。本題を書きたいけど、何も書けてない、書いてない(笑)こちらを先に。新撰組とは政府軍勢力取締りの為に、治安部隊とし文久2年(1862)に浪士を募る。八木家の邸宅。拝観料払うと…約30分くらい
今朝、車のフロントガラスが凍っていました。とうとうそんな寒さに…。あまり雪が降らない地域に住んでいると、それだけで寒さを感じます。さて、今日はここから。『とうかいどう』の石碑と…野路一里塚跡の石碑。この日2つ目の一里塚です。つまり、前の石碑があった一里塚から4㎞くらい歩いたかな?ここの一里塚は公園のようになっていました。中山道を歩いているとたまに見かける東海道の絵も。…そう、まだ東海道と同じ道を歩いています。草津宿までは一緒の道なんですよね。と