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その頃――。遠く江戸。戸塚村には、今年も穏やかな春が訪れていた。朝になれば、庭先では鶯がさえずり、柔らかな陽の光が障子越しに部屋を照らす。軒先を渡る風はまだ少し冷たさを残しているものの、草木は日に日に若葉を芽吹かせ、季節は確かに春へと歩みを進めていた。京の都で壬生浪士組が慌ただしい日々を送る頃、お琴もまた、変わらぬ毎日を静かに重ねていた。父とともに店を切り盛りし、帳場に座っては帳簿をつける。贔屓筋から声が掛かれば、三味線を長袋に包み、江戸や日野へ出稽古に向かう。三味線の音色に耳を
壬生にも、穏やかな春が訪れていた。桜は淡い花を咲かせ、京の町にもようやく春の息吹が感じられる頃。しかし、その穏やかな日々の裏では、壬生浪士組の内に少しずつ見えぬ亀裂が生まれ始めていた。⸻ある日の夕刻――。市中見廻りを終えた試衛館一派が屯所へ戻ると、玄関先には身支度を整えた芹沢一派の姿があった。芹沢鴨は歳三の姿を認めると、口元に豪胆な笑みを浮かべる。「おう、土方君。市中見廻り、ご苦労であった。」そう言うと、大きく背を反らし、肩を鳴らした。「俺たちは、これより島原へ行ってくる。」
廊下を歩く静かな足音が近づく。「こんな所にいたか。」近藤勇だった。近藤は何も言わず、歳三の隣へ腰を下ろす。二人はしばらく、黙って月を眺めていた。やがて近藤が、ぽつりと口を開く。「歳……。」少し間を置いて、「お琴さんのことを――」そこまで言いかけて、言葉を飲み込んだ。歳三は苦笑する。「……ったく。」「近藤さんには敵わねぇな。」その一言で十分だった。近藤は小さく頷く。「やはり、そうだったか。」また二人の間に静かな沈黙が流れる。見上げれば、雲ひとつない夜空に満月が輝い
隣に控えていた芸妓が、にこりと微笑みながら盃を差し出した。「土方はん、ほんまにええ男どすなぁ。」歳三は苦笑するでもなく、小さく会釈を返すだけだった。その様子を見ていた永倉新八が、豪快に笑う。「おいおい、土方さんに色目を使っても無駄だぞ。」座がどっと沸く。永倉は酒をあおると、なおも笑いながら続けた。「何しろこの人には、江戸に置いてきた許嫁がいるんだからな。」「あら……それは残念どすな。」芸妓は口元に袖を添え、くすりと笑う。座敷には笑い声が広がった。けれど歳三だけは、何も言わな
その時だった。胸の奥にしまい込んでいた想いが、春の雪が溶けるように、静かに姿を現した。「あの方を……お慕いしていたのですね……。」思わず漏れた小さな声に、お琴自身が一番驚いていた。どうして今まで気づかなかったのだろう。初めて戸塚村を訪れた日。縁側で三味線の音色に耳を傾けてくれたあの日から。歳三と語らい、笑い合い、穏やかな時を重ねるたび、その想いは少しずつ育っていたのだ。けれど、お琴はそれを恋とは思わなかった。ただ、大切な人。それだけだと思っていた。だからこそ、旅立って初めて
伝通院で歳三を見送ってから、幾日かが過ぎた。戸塚村には、いつもと変わらぬ穏やかな日々が流れていた。お琴は朝早くから出稽古へ赴き、贔屓筋の座敷では三味線を奏でる。店へ戻れば、父の仕事を手伝い、三味線の調律や修理を終えた帳面へ筆を走らせる。忙しさに追われる毎日。それでも、ふと手を止めることがあった。庭を渡る風に目を向けたり、遠くの空を見上げたり。胸のどこかに、小さな空白が生まれたような感覚。心にぽっかりと穴が空いたような寂しさ。けれど、それが何なのか、お琴自身にもまだ分からなかった
浪士組の一行が見えなくなったあとも、お琴はしばらく伝通院の山門を見つめていた。やがて父が静かに声を掛ける。「……帰ろうか。」お琴は小さく頷くと、父のあとに続いて歩き出した。小石川を後にし、戸塚村へ向かう道は、朝の光に包まれていた。二人の間に交わされる言葉は少ない。しばらく歩いたのち、父がふと呟く。「……立派なお顔になられたな。」その一言に、お琴は足元へ目を落とした。歳三の姿が脳裏によみがえる。武士を志していた頃の面影を残しながらも、その眼差しには以前にはなかった強い覚悟が宿っ
父のその一言に、お琴は小さく頷いた。深く息をつくと、静かに一歩を踏み出す。同じ頃、歳三もまた、近藤に背を押されるように歩き始めていた。朝の伝通院。行き交う浪士たちの間を縫うように、二人はゆっくりと歩み寄ってゆく。やがて、その足は自然と止まった。この朝を境に、二人はそれぞれの道を歩み始めようとしていた。お琴は歳三を見上げた。旅支度を整え、黒羽織に身を包んだその姿は、いつもより幾分凛々しく映る。それでいて、その眼差しの奥には、日野の佐藤家、そして、お琴の部屋で笑っていた頃と変わらぬ
お琴と向き合い、言葉を交わせば。心の奥底へ押し込めてきたものが、溢れてしまう。武士になる。その夢だけを胸に歩き続けてきた。ここまで迷わず歩いて来られたのは、その夢だけを見つめてきたからだ。もし今、お琴と言葉を交わせば——。その決意が、揺らいでしまう気がした。近藤は何も言わず、そんな歳三を見つめていた。やがて、小さく笑う。そして、その肩をぽん、と叩いた。「歳。」「あんたの気持ちは分かる。」「だがな……。」「後で悔やむくらいなら、お琴さんに話して来い。」「餞の三味線の礼さ
二月七日――浪士組出立前日浪士組が京へ向けて旅立つ、前日。佐藤彦五郎の屋敷を辞したお琴は、父とともに戸塚村の家へ戻っていた。昨夜、餞の夕餉の席で、心を込めて三味線を奏でた。旅立つ人々の門出を祝い、武運を祈り、一撥一撥にその願いを託した。それで十分だったはずである。それなのに――。どうしても、心が落ち着かなかった。明日になれば、歳三は浪士組の一員として京へ旅立つ。そう思うたび、胸の奥が静かに波立つ。(……もう一度だけ、お顔を見たい。)その想いは、時を追うごとに強くなっていく。
やがて夜も更け、宴もなお賑わいを見せていた頃。おのぶがお琴のもとへ歩み寄る。「お琴さん。」「もう夜も遅いから、今夜は離れでゆっくり休みなさい。」「はい。」お琴は静かに頷いた。座敷にいる皆へ丁寧に頭を下げる。「本日は、ありがとうございました。」近藤もまた会釈し、「見事な演奏でした。」と穏やかに礼を述べた。お琴はもう一度頭を下げると、障子を静かに開け、座敷を後にした。その後ろ姿を、歳三は何も言わず見送っていた。離れへ戻ると、部屋には布団がきれいに敷かれ、寝間着も整えて置かれ
拍手が、静かな座敷に広がった。誰からともなく送られた惜しみない拍手に、お琴は静かに顔を上げる。そして、深々と頭を下げた。三味線をそっと膝へ置くと、座敷には再び和やかな空気が戻ってゆく。彦五郎が盃を勧め、近藤が笑顔で応える。永倉の豪快な笑い声に、原田も声を上げて笑う。沖田もまた、穏やかな笑みを浮かべながら、その輪に加わっていた。餞の宴は、そのまま夕餉を兼ねて続いてゆく。お琴は、そんな試衛館の面々から少し離れた場所へ静かに腰を下ろした。しばらくすると、おのぶが膳を運んで来る。「お
その一方で、日野宿の佐藤彦五郎もまた、旅立つ近藤や歳三たちのことを案じていた。「せめて京へ向かう前に、一夜くらいは皆でゆっくり飯を食わせてやりたい。」そう考えた彦五郎は、近藤勇をはじめ試衛館の面々を佐藤家へ招き、ささやかな餞の夕餉を設けることにした。その知らせは、お琴のもとにも届く。「餞に、一曲弾いてはくれまいか。」彦五郎からの頼みに、お琴は静かに頷いた。旅立つ人を見送る夜にふさわしい一曲を――。そう心に決め、お琴は三味線を抱き寄せる。その細い指先が、そっと糸に触れた。
文久三年二月文久三年――。世の中は、静かに、しかし確実に動き始めていた。幕府は、第十四代将軍・徳川家茂の上洛に備え、その警護にあたる浪士を広く募ることを決める。その知らせは、多摩の地にも届いた。二月四日。江戸・小石川伝通院には、志ある浪士たちが次々と集まり始める。近藤勇をはじめ、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、永倉新八、原田左之助、藤堂平助ら、試衛館の面々もまた、その列に加わった。京への出立は、二月八日。あと四日――。試衛館では旅支度が始まり、道場の掃除、木刀や防具の手入れ
土方歳三を追いかけて日野へ。最後は土方さんと二人きりだった日🥰「新選組のふるさと・日野を歩こう」そんな気持ちで朝、成田から出発。東京駅からJR中央線に乗って日野へ向かいました。今日は完全に“新選組の日”です✨【佐藤彦五郎新選組資料館】まず向かったのは、11時から開館する佐藤彦五郎新選組資料館。新選組ファンには有名な場所です。思っていたよりは小さな資料館でしたが、沖田総司の手書きの手紙や土方歳三の刀などを見ることができて大満足👍佐藤彦五郎は土方歳三の義兄で、新選組結成前から隊士たちと
今日は新選組の日だそうで。で、新選組ネタを。新選組は元々、清川八郎が将軍徳川家茂警護のために、江戸で浪士を募って組織した隊です。上洛後、清川は浪士組を尊王攘夷組織にしようと画策。のちに分裂して片方は江戸へ戻り、京都へ残った近藤勇、土方歳三、芹沢鴨などが結成したのが壬生浪士組。文久3年(1863)の3月13日、浪士組は京都守護職である会津藩主・松平容保の預かりとなりました。のちに名を新選組と改めることになります。『猫絵の姫君』では岩松家の家臣たちがこの浪士組に加わっ
新撰組で好きな隊士はいる?▼本日限定!ブログスタンプ今日は新撰組の日だそうです。1863年の今日、十四代将軍徳川家茂の命で新撰組の前身となる「浪士組」が結成されたことに因みます。更に3月13日には、浪士組の芹沢・近藤らが京都守護職を務めていた会津藩の預かりとなって京都に残り「壬生浪士」と名乗ったことが新撰組の最初とも言われており、この日も新撰組の日とされています。更に紆余曲折を得て、近藤勇を隊長とした「新撰組」となっていったのです。小説や映画、ドラマにもなってい
おはようございます、こんにちは、こんばんは!yui-yuiです!(๑˃̵ᴗ˂̵)وさてライズオブザローニン10日目!いよいよ江戸とおさらばの時がやってきました!昨日知り合った、けいきさんこと、徳川慶喜さんが京都に行くと言うので、先発露払いとして『浪士組』というものが組織されました。なにやら実力主義で、身分や、何なら犯罪歴も問わず、といった猛者揃いの組織なんだとか。とうなると、討幕派の志士などが紛れ込んだりするかもしれないけれど、それこそそうした討幕
伝通院の本堂前から本堂西側、広大な墓地の一画に徳川家ゆかりの女性たちの墓域へその中で一際目立つ大きな五輪塔は・・・徳川家康の生母「於大の方」の墓所になりますその北奥の五輪塔は、第二代将軍秀忠の娘である「千姫」の墓所その又奥に、第三代将軍家光の正室「孝子の方」の墓所そこから南側の樹木の下・・・風雲急を告げる幕末の文久3年、新撰組の前身となる浪士組が無量山内(伝通院)の大信寮で結成され山岡鉄舟・清河八郎を中心に近藤勇・土方歳三・沖田総司・芹沢鴨ら250人が
清河八郎は羽前清川村の庄内藩郷士の家に生まれ、江戸に出て学問と剣術を修行した後に、全国を遊説して尊皇攘夷活動を行った。幕府に追われる立場にありながら、その幕府へ献策して浪士組を結成し、それを尊皇攘夷活動に転用しようとしたが、近藤勇や土方歳三らと対立して江戸へ戻った後に暗殺された。墓は浪士組が結成された地の傳通院にある。
老中よりも奥右筆幕末に若年寄を務めた永井尚志は、江戸幕府を本当に動かしていたのは老中ではなく、部下の奥右筆だったと語っていました。奥右筆の職務は、「諸役人・諸大名などから老中・若年寄へ提出される書類や届けを整理し、また両者の決裁を要する諸願書などについては前もって先例を調査・検討し、場合によっては、その諮問に応じて当否の判断を提示すること」【深井雅海『図解江戸城をよむ』原書房】でした。一橋慶喜に小姓として仕えた旧旗本の村山鎮(むらやままもる)は、著書『大奥秘記』の中で、奥右筆
38歳で営業職のこーすけです!小2の娘と小6の息子、妻と私の4人家族日々の出来事に右往左往しながら子育てとマイホームを建てる夢を追いかけてます「時は金なり」を座右の銘としタイパ・コスパを追求しながら日々の生活を送ってますお得情報や節約術も書いていきます今日は少し暖かい日で、なんだか歴史の風を感じる1日。朝、息子が「パパ、今日って新選組の日なんだって!」って急に言い出してビックリした🎌夕食の時に長男が学校で習ったらしく「浪士組結成の日」の
壬生浪士組前回、壬生浪士組の元となった浪士組について解説しました。大まかな流れとしては、浪士組結成→喧嘩→分裂→解散という感じでした。壬生浪士組というのは、この分裂した浪士組の片方の、京都に残った人達で結成した集団です。壬生浪士組が大きくなったものが新撰組、という捉え方でOKです!新撰組の物語の幕開け〜壬生浪※1〜壬生浪士組の結成の際にいた隊士には、有名な人がとても多
新撰組とは?記念すべき第一回目は、私が大好きな新撰組について語っていきたいと思います。「新撰組という名前は知っているけど、何をしていたのかは詳しく知らないかも」「近藤勇や土方歳三、沖田総司っていう名前は、聞いたことがある!」「浅葱色にだんだら模様の羽織を着てるやつ!誠の旗、みたことあるかも!」という人も多いのではないでしょうか。また、最近ではアニメやゲームにも登場するそうなので、そっちで知っている人も多いでしょう。
①「清河八郎率いる新選組の前身となった組織」②「屯所となった八木家の当主」③「会津藩の本陣のあった寺院」④「襲撃した三条小橋の旅籠」⑤「山南敬助の墓がある寺院」を含み、150~200字以内でまとめる。女性ながら浪士組・中沢琴幕末、浪士は万延元年の桜田門外の変をはじめとして、要人や外国人の殺傷を繰り返しており、江戸幕府はその対処に苦慮していた。文久2年幕府はこれら浪士の中から有能な者を取り立てて、来たる西洋との戦争(攘夷)に従事させよう
「浪士姓名簿」(鵜殿鳩翁:東京大学法学部研究室図書室所蔵)における山南敬助(亥二十六二十八)文久三年(亥年(いどし:干支でイノシシ):西暦1863年)に26歳数えで28歳(満27歳)ということから逆算して山南は天保8年天保7年(酉年(とりどし):西暦18371836年)ということが判明しております。近藤勇(1834年)より3歳2歳年下、土方歳三(1835年)より2歳1歳年下、沖田総司(1840年)より3歳4歳年長ということが分かります。※「二十八」を「二十六」と誤読してい
文久三年(1863)三月二十八日、十六日間の中山道の旅路を終えて浪士組は江戸に戻りました。折しも前年八月に薩摩藩が起こした生麦事件に対し、イギリスは幕府に謝罪状の提出と十万ポンドの賠償金の支払いを要求し、更に幕府に圧力をかけるためにイギリス・フランス・オランダ・アメリカの四か国艦隊を横浜に入港させていました。幕府はこの脅しに屈する形で、四月一日にイギリスの要求を呑む決定を下します(のち撤回)。清河八郎はじめ浪士組はこの幕府の弱腰ぶりに憤り、独自に横浜焼き討ち計画を立てることになりますが
文久三年(1863)二月二十三日に洛西壬生村に到着した浪士組ですが、清河八郎は佐々木只三郎ら同行役人たちをのぞく浪士一同を宿所の新徳寺に集め演説を打ちます。その内容は「我々の真の目的は尊王攘夷を断然実行することにあるので、幕府によって集められたとはいえ、今後は幕府ではなく朝廷の命令に従うべきである」といった内容だったとされます。のちに学習院に提出された上申書(『清川八郎以下連署上申書』)にも幕府御世話にて上京仕候得共、禄位等は更に相承不申。只々尊攘大義相期し奉候間、万一皇命を
安政六年(1859)頃、二十七歳前後の年で幕臣佐々木家の養子となった只三郎は、御書院番与力に任じられた一方で、その腕を買われ幕府講武所で剣術教授などの役目に任じられたといわれています。この佐々木只三郎の講武所教授就任に関しては確実な史料はないようですが、のちに京都見廻組で同役の与頭となる速見又四郎が講武所槍術世話心得役、高久半之助が同じく講武所剣術世話心得役に任じられていたことが史料ではっきりしているので、佐々木も同様に世話心得役、もしくはそれ以上の役目についていたと考えて、ほぼ間違い
今日、3月11日は東日本大震災の発生した追悼の日です。そんな一日ですが、地域の歴史や町おこしに関心をお持ちの皆さんと一緒に、法神流の中澤貞袛・琴の墓、並びに須田房吉の墓を見学して回り、上州エンターテイメントの主宰者の方の地域おこしのパフォーマンスも見学させてもらいました。前日まで、県北の天気予報が悪くて心配しましたが、道路はきれいに除雪されていて心配ありませんでした。花束をお供えしたあと、お墓の前でパフォーマンスを拝見しました。なかなか、見ごたえのあるもので感心しました。しかし、貞袛も