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来年の話をすると鬼が笑うと言いますが。来年の年末年始もドリママは10連休ですよ来年はどこに行こうかな?夢が膨らむ今日この頃ですさて、上海2日目の朝食を済ませた後は。上海のメインストリート散策ですよ。上海マリオットマーキスシティセンターは街歩きにとても便利なロケーションです。この日の予定は南京東路から外灘散策田子坊散策そして今回の上海旅メインミッションの上海蟹を食べに成隆行蟹王府に!盛りだくさんだよ!まずは宿泊ホテルの上海マリオットマーキスシティセンターを背に。てくて
【ネットでも買える!】キャッシュレスで韓国旅行!WOWPASS招待イベント開催中!韓国発行のカード同様に韓国国内の決済に利用できるプリペイドカード「WOWPASSカード」を新規発行し、アプリ登録時に当ブログ管理者の招待コードを入力すると、カードに入金した外貨の金額から0.5%のキャッシュバックを受けることが可能です。WOWPASSカードにはT-moneyカード機能も付帯していますので、地下鉄や市内バスにも簡単に乗車できます!イベント参加に関しては詳しくは以下の手順をご覧ください。*招待コ
広い上海は場所が違えば環境も全然違う…今回はいつもの静安寺から離れて、浦東側にある塘橋という場所近辺を根城にしているエヂです思い返せば静安寺地区は凄く都会で、東京で例えるなら赤坂界隈…みたいな場所であり、比べるとこの塘橋という場所はちょっと田舎であり、色々ありそうで何もない浦東は汐留のような場所に位置します今日はそんな塘橋の美味しい杭州料理店「桂満隴杭州小館」をご紹介します出張でご近所に行かれる方がいれば、是非ご活用下さいませ…アクセス最寄り駅は地下鉄4号線の「塘橋」駅
こんにちは!先日から大好き♡な上海に来ております4年ぶり!✨✨✨4年ぶり上海のエネルギー🐉コロナ前よりもさらに増幅していて…息を飲むほどの迫力でした🐉🐉🐉こんな迫力ある街、ほかに、あるかな。上海には、まだ日本人があまりいない頃から、ご縁があって、コロナになるまでは毎年1〜2回は必ず訪れていました。上海でいちばんお気に入りだった場所も健在バンド(外灘)の眺めが絶景の、イタリアンレストラン🍽✨✨本当に大好きな場所ホテルも、大好きな浦東エリアのシャングリラ♡お部屋からも東方
無事に上海に到着してます日曜日の夜の飛行機で、上海に着いたのが深夜1時半くらいで、彼の実家に着いたのは深夜3時前という感じ。彼父の親しい友人であるおばさまも一緒でおばさまのお兄さんが上海の空港のお迎えをしてくれました。3人でスーツケース9個(私たち2人で7個)だったので大きな車で迎えに来てくれてありがたかったです。深夜3時近くにも関わらず彼父が小区の入口まで迎えに来てくれて、家に入り、彼の部屋に私が寝れるようにしてくれてあったのですぐに寝させてもらいました。昨日の月曜
土曜日の朝5時半、上海市長寧区のBINGO広場UNIQLO前に集合初めて上海にある日本人のランニングクラブのメンバーと一緒にジョギングします浦東新区にある『世紀公園』まで約17kmの道のりです他のメンバーとは朝8時に世紀公園で集合ですそれに間に合うよう、細かくタイムスケジュールが組まれています信号も多いので6分半/kmペースでも間に合うようになっています途中で合流する方もいてだんだん人数が増えていきました12km地点、運河を渡るフェリー乗り場に着きましたここで数人とはお別れしまし
自宅マンションの隔離は、間もなく1ヶ月。新たなルールが出る度に市民は、右往左往な日々だが、中央政府のお偉い方が指導にいらっしゃり、4月9日、隔離解除に向けて、段階的な指針が発表された。9日の一斉PCR検査結果により以下3グループに分ける。1.防範区(過去14日間、団地で感染者が出ていない)行政区内で自由に活動可能。2.管控区(過去7日間、団地で感染者が出ていない)原則、在宅で7日間健康観察。密にならなければ、団地内で活動可能。3.封控区(過去7日間以内に団地で感染者が
中秋節の昨日は朝ジョギングの後、買い物をしました🛒ジョギング終了地点からは2kmほど、浦東新区にあるショッピングモールですブログで情報を入手した日本式スーパー『Apio』へ開店時間の10時に合わせて向かいました🚶♂️吹き抜けには日本をやや誇張した飾り付けApioは南通市の日本人にはまだ浸透しておらず、『アピオ』と言っても『アピタやろ?』と訂正されるほどの認知度ですベーカリーショップ『ドンク』も入っています値段も味も日本のお店と遜色ないと思いますよ品揃えが豊富です食べたい物は沢山
昨日の朝は上海のテレビ塔近くの「黄浦江」沿いを少しジョギングしました🏃♂️7分/kmペースで15km川沿いにハーフマラソンほどの距離のサイクリング&ジョギングコースがあるようです北(東)端を目指して行きました👟百度地図を拡大するとジョギングコースも点線で表示されています地図の通り、「杨浦大桥」の下がコースの北(東)の端でした分かりやすい表示変わった笛を吹く自由なサイクリスト🚴♂️😅天気は悪くても気持ちの良い景色です子供のジョギング教室もやっていて、ガンガン抜かされます観光
上海では、連日、海外からの帰国者や入国者による”海外輸入型”の新型コロナ感染者が、見つかっているが、隔離ホテルや隔離中の自宅からそのまま専用医療施設へ移送されるため、我々市民とは、接触しない。11月9日、ついに上海で”現地発生型”の感染者が、1名確認された。上海東部の浦東空港で貨物運搬作業に従事している安徽省(上海西隣の省)出身者で直近、上海からの移動履歴はない。この感染者が住む空港近くの小区(団地)は、即座に閉鎖され、隔離観察対象となり、”中リスクエリア”に認定された。更に
2020年8月に、私は無印良品が好きだなぁ。と、ハッキリと自覚したので、ブログを書きました。・クレンジング、洗顔、オールインワン、化粧水、乳液、ボディジェル・シリコン製品、お椀、お箸、(家族人数分)・歯ブラシスタンド、チーク、・ポンプヘッド(スキンケア用品用)・ウレタンフォーム三層スポンジ・手袋・シャープペンシル・シングル布団シーツ(枕、掛け、敷のワンセット。他はニトリ)・コロコロ(←って言う?)・メイクボックス大*↑この二つ書き忘れ!5〜6年前から愛用
「国家大事」については、それほどの説明は必要ないだろう。雄安は国家級新区としては19番目であるが、国務院と中共中央の双方が承認している新区としては浦東新区に続いて2つめである。浦東と同様の期待をしており、力を入れているということである。また、ほかの18の新区と違い、これは首都を含む複数の市・省をまたがったプロジェクトである。そこに「都市群」を形成するためには、省と省の間の調整だけでなく、国家・中央が積極的に介入し、推し進める必要がある。さらに、これは長期政権を狙う習近平自身が推進してい
千年大計、国家大事。この言葉は、雄安新区の紹介には枕詞のように使われているが、その示すところは具体的にはあまり述べられることはない。まず「千年大計」とは、具体的に何を指すのか。「戦略p.18」では、以下のように説明されている。「歴史上、唐朝以来、中国の北方は経済の中心ではない。経済の中心は長江流域以南である。元、明、清の首都は北京だったが、それは南北にあった経済的なアンバランスを、政治的にバランスを取ろうとしたに過ぎない。政治上の北寄りの傾斜は、決して南北の経済的なアンバランスを解決し
「京津冀協同発展」について、まず2015年6月に配意された「京津冀協同発展規画綱要」に書かれている内容を簡単に紹介しておく。この「綱要」で発展目標として記されているのは北京の人口を5年後に2300万人以内に抑えることである。また、主要任務とされているのは、北京の大都市病の解決である。これだけを見ると、「協同発展」という看板と、ずいぶん内容が異なると感じられるだろう。後にも述べる通り、この「協同発展」という国家プロジェクトは、この本質の部分で、少々誤解を招くような題名がつけられている。あとに
(1-2)深圳経済特区、上海浦東新区に続く全国的な意義のある新区(1-2-1)深圳から浦東へまず、最初に深圳経済特区と浦東新区について、簡単に整理しておく。広東省の深圳経済特区ができたのは1980年である。この時、同時に4つの経済特区ができたが、その後最も発展したのが広東省の深圳である。(他の3つは、珠海、スワトウ、アモイ)深圳経済特区は、鄧小平の始めた改革開放路線を象徴する都市である。鄧小平は、毛沢東時代の自力更生、計画経済といった考え方を大きく変え、対外的な開放と社会主義市場
主な参考文献をあげておきます。钟坚《大试验:中国经济特区创办始末》北京:商务印书馆,2010谢国平《中国传奇:浦东开发史》、上海人民出版社,2017(Kindle版)上海市浦东新区管理委员会,浦东新区年鉴编辑部,浦东之窗丛书编辑部编《浦东开发开放论文选1985年-1995年》政协上海市委员会文史资料委员会,中共上海市党史研究室,政协上海市浦东新区委员会编著《浦东开发开放口述上海》上海教育出版社、2014《十三大以来重要文献编》人民出版社,1991谢伟民《上海浦东开发的决策
(1)はじめに(2)1980年ごろまでの状況について(2-1)経済特区の成立(2-2)華国鋒体制から鄧小平体制へ(3)上海の歴史と浦東(3-1)上海の歴史と浦東①(3-2)上海の歴史と浦東②(3-3)上海の歴史と浦東③(3-4)上海の歴史と浦東④(4)1984年の経済技術開発区の指定まで(4-1)解放軍報の上海の現状に関する記事(4-2)陳坤龍の浦東開発計画案(4-3)浦東開発の決定をめぐる議論(北上、南下、東進)(4-4)鄧小平の南方視察(1984年)(
なお、浦東新区の成立日について、最後に少しだけのべておく。浦東新区の成立日は1992年10月11日とされているものが多い。この日は、行政区域としての浦東新区が発表された日である。それまで川沙県という県だった地区を、上海県の三林郷、黄浦区、南市区、楊浦区の浦東部分と合わせて正式な行政地区として浦東新区とすると発表したのである。ただし、行政地区としての浦東新区が始まったのは1993年1月1日である。この日に党工委(党工作委員会:党機関)と管委会(管理委員会:行政機関)ができた。これが正式な
以下では、浦東関係の主な建造物などについて、ごく簡単に触れておくことにする。まず黄浦江の下を通るトンネルであるが、先に述べた通り、外灘のやや南側に延安東路トンネル(延安东路隧道)が作られた。1982年に着工、1984年に本格的工事が始まり、1989年に完成している。全長2261メートル、黄浦江部分は1476メートルである。南北二本のトンネルからなり、各2車線、合計4車線である。http://www.shtong.gov.cn/Newsite/node2/node2245/node68
1990年6月2日に国務院から「浦東の開発と開放問題についての国務院の批准回答」(国务院关于开发和开放浦东问题的批复)が出された。「浦東の開発と開放は全体の局面に関係する大きな事業であり、適切にうまくやらなければならない。上海市委員会と市人民政府は4つの基本原則と改革開放の方針を堅持し、浦東の開発と開放を国家の政治の安定と経済の繁栄発展に有利になるようにしなければならない。組織の力量を掴み、各方面の意見を真剣に聞き、科学的な論証を十分に行い、全体の局面から出発して長期的に考え、浦東の開
4月15日から18日まで、国務院総理の李鵬が上海を訪問した。18日には上海のフォルクスワーゲン社へ行き、設立5周年の式典に参加した。その場で党中央・国務院が浦東の開発開放を決定したことを正式に発表した。この1990年4月18日が浦東新区にとって特別な意味のある日となる。李鵬は以下のように述べた。「このたび、中共中央国務院は、上海浦東地区の開発を加速するべく、浦東地区で経済技術開発区といくつかの経済特区の政策を実施することを決めた。これは、我々が改革を深化し、開放を拡大するするためにおこ
天安門事件が直接浦東新区の建設に影響を与えたかどうかは定かではない。しかし、これによって、海外の企業が浦東への投資を控えるようになる可能性は大いにあったわけであり、中央や上海市のリーダーは、それを気にかけたはずである。浦東の開発に必要な資金は、深圳などの経済特区と同様、海外からの投資によって賄うことになっていたからである。この時期は鄧小平は、改革開放という考え方は間違っていないのだから、既定の基本路線、方針、政策はこれまで通りで変えないということを繰り返し述べている。実際、浦東の開発も
1987年に失脚した胡耀邦は1989年4月15日に死去する。胡耀邦が亡くなると、4月15日ごろから胡耀邦を慕う学生や市民による自主的な追悼活動が行われるようになった。北京では彼らは天安門広場に集まるようになった。それは次第に胡耀邦の名誉回復運動になり、さらには言論の自由や民主化を求める運動に発展していった。彼らの多くは改革開放という経済改革が、民主化という政治改革につながることを期待していたのである。こうした運動に対し、中央では趙紫陽が学生の期待に応えようして動いていた。趙紫陽も政治の民
1988年4月25日、江沢民の後継として朱鎔基が市長に就任した。江沢民は上海市党委員会書記になり、その後6月に中央へ行き、総書記に抜擢される。その新市長である朱鎔基のもとで、1988年5月、浦東新区開発国際研究討論会が開催された。市委員会書記の江沢民、市長の朱鎔基、市政府顧問の汪道涵も参加し、内外の150名あまりの専門家が集まり、浦東開発について、どのように土地改革を行うか、外資をどうやって引き寄せるか、などの浦東の全面的な開発開放の構想が討論された。王網懐は陳坤龍とともに、この検
1988年3月4日に北京で沿海地区対外開放工作会議が開かれた。この会議では、これまで行われてきた経済特区から内地へと開放を進めてゆこうという局面をさらに進め、さらに外向きの経済に転換してゆき、投資環境をさらに改善してゆこうという考えが示された。そしてそのためには沿海経済開放区の範囲を広げることが提案された。拡大の範囲は、改革開放が始まってからの9年間に開放した地域の総和に相当する範囲だとした。つまり、面積を2倍にしようというのである。これを受けて1988年3月18日に国務院は「沿海経済開発