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慶長二年,朝鮮の蔚山籠城戦では日本の鉄砲が威力を発揮し,明・朝鮮連合軍5万7000の軍勢を退けた。日本軍は,14日間に渡り城を守り抜き,ついに援軍が来ると反撃に転じて大勝利をおさめた。この籠城戦には,豊臣秀吉の義理の甥である浅野幸長も加わっていた。幸長は,砲術を稲富一夢に学んだ鉄砲の名手だった。この時,幸長は自ら鉄砲を放って敵を倒すこと夥しく、発射煙で顔の半分が黒く染まるほどだったと伝えられている。浅野幸長像浅野幸長像(東京大学史料編纂所蔵)出典:フリー百科事典『ウィキペディア(W
公式ハッシュタグ令和6年4月19日骨董品ランキング3位朝鮮の役の蔚山籠城戦では,日本の鉄砲が威力を発揮し明朝鮮連合軍を退けた。加藤清正を主将とする日本軍は,慶長二年12月22日,蔚山城に押し寄せた明朝鮮連合軍5万7000の軍勢に包囲された。しかし頑強にこれを阻止し,ついに援軍が来ると反撃に転じて大勝利をおさめた。蔚山城攻防戦出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』蔚山城の戦い-Wikipediaこの籠城戦には,太閤秀吉の妻,北政所の甥である
公式ハッシュタグ令和6年3月21日骨董品ランキング3位なにしろ火薬の燃焼温度は6000度にも達する。膨大な回数の射撃が行なわれれば,いかに鉄で作られた銃身でも激しく劣化するのは当然である。トンネルのある暗いライフル射撃場での実験令和2年5月実験(以上の写真は若旦那提供(インスタID)takenoko.no.yama)しかも銃身末端に位置する火薬が燃焼する薬室部分は,銃身内部ばかりでなく,火皿から逆噴射される火薬ガスにより銃身外側にもダメージが加えられる。このため薬室部
天海(90)明軍は何とか慶州まで遁れたが、日本軍のさらなる追撃を恐れて漢城まで逃走した。飢えと恐怖で敗走した明軍は途中で暴徒と化し、行く先々で暴虐を尽くした。後に揚鎬は万暦帝に対して「蔚山城の加藤清正に壊滅的な打撃を与えたが、兵馬が疲労し、日本軍の援軍も水陸から上陸してきたので撤退した。」との戦勝報告を行った。この報告を受けて万暦帝は「国威、大いに彰わした。」と賞賛したのである。ところが、軍内部から「戦死者が二万に及ぶ。」との報告が上がって来た。明軍の統括・邢玠の部下で
天海(89)既に12月27日、毛利勝信(吉成)ら先行隊が太和江の南岸に現れていた。29日には毛利秀元、黒田長政の兵船が太和江の上流に向かって航行しているのを幸長が発見している。年が明けて1月1日、長政、秀元ら1万3千人が蔚山城近くに現れ、さらに長曾我部水軍が太和江北岸に上陸した。明軍はこれを妨害するため別動隊を派遣したが、上陸を阻止できなかったのである。「其夜天兵,且欲攻城,造大炬,四圍而進。始自子夜,天明乃罷,而賊丸如雨,死傷甚衆,無一人抵城者。」
天海(88)12月24日、明・朝鮮軍は一斉攻撃を再開した。蔚山城の石垣は熊本城と同じ武者返しであったと思われる。「武者返し」とは、石垣の下部は傾斜が緩やかになっていて、上部に行けば行くほど傾斜が強くなる石垣のことである。攻城軍は傾斜の緩い石垣を駆けあがろうとするのだが、次第に傾斜が急になり、上部は反り返っているので登り切れずに落下するのである。このため、「武者返し」と呼ばれていた。その間、攻城軍は絶えず銃弾を浴びるので、甚大な被害を受けることになる。また、各曲輪の出
天海(87)秀吉は西生浦城の在番将を清正から黒田長政に変更するように命じた。そして清正には新たに蔚山城の築城を命じたのである。蔚山城は、日本式城郭群の最東端に位置し、清正自らが縄張りをした。慶長2年(1597年)11月から毛利秀元・浅野幸長・加藤清正の三軍を中心として築城を始めたのである。蔚山城は島山という50m程の小高い丘の上に城郭が築かれた。島山は蔚山湾の奥にあり、南には太和江が流れ、海に繋がっていたのである。清正は城下まで船を着岸できるようにした。「蔚山之
饒津(にぎつ)神社広島市祭神浅野長政命(あさのながまさのみこと)浅野末津姫命(あさのまつひめのみこと)浅野幸長命(あさのよしながのみこと)浅野長晟(あさのながあきらのみこと)浅野長勲(あさのながことのみこと)浅野長政命(あさのながまさのみこと)浅野家初代・五奉行筆頭・若狭の国小浜城主・甲斐の国二十二万五千石常陸国真壁筑波二群五万石へ隠居・慶長16年(1611)4月7日帰幽65歳浅野末津姫命(あさのまつひめのみこと)長政公の奥方・良良(やや)・・
天海(63)この一連の出来事に、秀次を筆頭にした一族衆が快く思わなかったのは当然である。豊臣家の血の継がりがない、淀殿が勝手に産んだ男子を後継者として認める訳にはいかなかった。そのうち、秀吉は天下の4/5を秀次に、1/5を拾丸に与えるなどと言い出した。秀吉にしても秀次たちの反発は理解できるものであったのだ。秀次も、もし拾丸が秀吉の実子であれば、これまでの恩義に報いるためにも、隠棲するのも吝かではない。しかし、豊臣家の血を継がぬ者であれば、それは何とも心外であったろう。そ
※甲斐善光寺金堂…金堂の右を通ると墓所があり、加藤光泰公は案内板があるので分かりますが、浅野長政公の墓は案内板もありません。浅野長政公の墓甲斐善光寺戦国武将の墓・供養塔シリーズ戦乱の時代は、おおまかに言うと応仁の乱(1467年応仁元年)から大坂の陣(1615年)までで3つのカテゴリに分類されると思います。1️⃣戦国時代応仁の乱(応仁元年1466年)から室町幕府の滅亡、織田信長政権の成立(天正元年1573年)2️⃣安土・桃山時代織田政権(
※稲荷櫓から見た甲府城天守台と案内板…5層の大天守が建てられる巨大な天守台です…写真の右手に写っているとがった棒状の柱は明治天皇行幸記念碑です甲府城に行きました!2️⃣100名城No.45甲府城には、今回初めて行きました。かつての甲府城が巨大な城だったことがよくわかりました😃※甲府城稲荷櫓と案内板…大型の二重櫓で明治初期まで残っていたことが古写真にて確認されています…平成16年木造復元※甲府城鉄門と案内板…本丸南大手門であり、巨大な櫓門…平成25年木
※JR甲府駅南口に建つ巨大な「武田信玄公銅像」甲府城に行きました!1️⃣100名城No.45甲府城には、今回初めて行きました。かつての甲府城が巨大な城だったことがよくわかりました😃※幕末時の甲府城全景模型(復元稲荷櫓内)…現在、城の二の丸が明治期に国鉄中央線に分断され、かつては三重の堀に囲まれていた巨大な要塞でしたが、二の堀、三の堀は埋められ、現在は内堀と本丸含む複数の曲輪が残っています甲府城日本100名城No.45甲府城は、J
甲府城:山梨県甲府市1593年(文禄2年)の朝鮮出兵で功績を上げた浅野長政は、「甲斐国」府中に21万5,000石を与えられます。その際、朝鮮出兵で亡くなった「加藤光泰」が治めていた甲府城に入城したのです。甲府は「武田氏の地」というイメージがありますが、実は甲府城は武田氏の城ではありません。築城されたのは武田氏滅亡後。豊臣秀吉が、家臣である加藤光泰や浅野長政・浅野幸長親子に築かせた城です。発掘調査により、城内の各曲輪から浅野家の家紋瓦や、金箔や朱を施された
1600年(慶長5年)に起こった関ヶ原の戦いで、浅野長政は徳川家康を支持して東軍に参加を。浅野長政は初陣であった徳川家康の三男「徳川秀忠」に従軍して中山道を進み、信州平定へと向かいました。「上田城」を攻めるも、「真田昌幸」を前に大敗。また、味方である東軍の「岐阜城」陥落が早かったため残念ながら徳川秀忠軍は関ヶ原開戦に間に合わずに戦いが終了してしまいました。なお、嫡男・浅野幸長は東軍の先鋒として岐阜城を攻め落とし関ヶ原の本戦でも活躍。その功績として、「紀伊国
太閤検地の実施など、内政面で実力を発揮した「浅野長政」は天下統一の過程で諸大名から召し上げた金山や銀山の管理なども任されていました。1587年(天正15年)、豊臣秀吉の「九州平定」でも活躍。翌1588年(天正16年)には、・従五位下(五位以上は貴族の位)・弾正少弼(中央行政の監察役)に叙任されています。1590年(天正18年)の「小田原の役」1593年(文禄2年)の朝鮮出兵には、嫡男・浅野幸長とともに参加。浅野長政は天下統一を目指す豊臣政権の重要人物として尽力しまし
こんにちは。このところようやく秋らしくなってきましたネ。何もしなくても腹が減るので食べてばかり、やや運動不足気味な今日この頃であります。さてさて紀州和歌山城の続きにて。南側の不明門を入るとすぐに南の丸跡の動物園があります。戦の象徴ともいうべき城跡に動物園があるとは何とも平和でいいものです。鳥がたくさんいましたよ。30℃超えにてペンギン達は暑そうでした。天守に向かうため動物園を抜け出して102段の新裏坂を登ります。こう言われると意地になりま
2023年7月7日から『北から南へ「天守」シリーズ』をスタートさせ、初回の「プロローグ」では「天守」についてのエピソード等をお話をしました。『<北から南へ「天守」シリーズ>プロローグ』本日から、『北から南へ「天守」シリーズ』をお届けしようと思います。まずは「プロローグ」から。「天守」については、3年ほど前に、現存、復元、復興、模擬をグルー…ameblo.jpそして2回目以降は、具体的に「天守(御三階櫓含む)」があるお城を、北から順次、現存・復元・復興・模擬の「天守(御三階櫓含む)
【問題】浅野幸長の初陣は、次のうちどの戦役とされるか?【選択肢】小牧・長久手の戦い小田原の役関ヶ原の戦い大坂の陣【正解】小田原の役【解説】浅野幸長(よしなが)の初陣は、天正18年(1590)に起こった小田原の役であったという。幸長は、父・長政とともに岩槻城(埼玉県さいたま市)を攻め、戦功を上げた。
朝鮮の蔚山籠城戦では,日本の鉄砲が,威力を発揮し明・朝鮮連合軍を退けた。加藤清正を主将とする日本軍は,蔚山城に押し寄せた明・朝鮮連合軍五万七千の軍勢に包囲されたが,14日間に渡りこれを阻止し,ついに援軍が来ると反撃に転じ,大勝利をおさめた。この籠城戦には,豊臣秀吉の妻の親族である浅野幸長も加わっていた。幸長は,副将格でありながらこの籠城戦で自ら鉄砲を撃って防戦に当たった。幸長は,砲術を稲富一夢に学んだ鉄砲の名手だったのである。稲富一夢と稲富流の鉄砲稲富流の全長160セン
朝鮮征伐における蔚山籠城戦では,日本の鉄砲が,威力を発揮し明朝鮮連合軍を退けた。加藤清正を主将とする日本軍は,慶長二年12月22日,蔚山城に押し寄せた明鮮連合軍五万七千の軍勢に包囲されたが,頑強にこれを阻止し,ついに援軍が来ると反撃に転じ,大勝利をおさめたのである。朝鮮征伐における蔚山籠城戦出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』この籠城戦では,副将格の浅野幸長も自ら鉄砲を撃って防戦に当たった。そして加藤清正,大田一吉らと共に味方が来援するまでの14
ようやく6月のネタです(*・∀・)遊んでいて忙しくてブログ更新が追いつきません去る6月18日(もう半年前だ~)遠くてなかなか行けなかった新宮城へ行ってきました。問題はどうやって行くか…車で行くと約4時間。運転しんどいなぁ伊勢湾フェリー🚢を使うと、ショートカットできます。伊良湖から鳥羽まで55分です。三重方面へ行く時、いつも思う・・・伊勢湾ジャマ問題伊勢湾のおかげでいつも大回りしなければなりません。伊勢湾岸道トラック多いしいつも煽られるし運転時間を短縮し、体力温存するのならばフェ
石田光成のお墓がある原在中の襖絵がある三玄院(サンゲンイン)非公開のお寺創建;1589年浅野幸長、石田三成、森忠政による開祖;春屋宗園小堀遠州・古田織部・薮内剣仲・長谷川等伯などは、春屋に禅を学んだ人々である。沢庵・千宗旦らも修行をしたと書いてある。凄いお寺なんだ昨雲庭方丈(本堂)の前に広がる枯山水庭園このお庭、座ってみるのがお奨めだという八方睨みの虎原在中の襖絵どこから見ても虎の目が睨んでくる茶室篁庵古田織部の好みを代表する茶室
「天守台シリーズ」第62弾は、「新宮城」です。中国地方へ行く前に、未紹介と補充紹介をしたいお城の「天守台」紹介です。先日「新宮城」に訪城して、「天守台」が存在することを知りました。「お城紀行」では一部をお届けしましたが、本日はもう少し紹介したいと思います。「新宮城天守台」(「天守台」南東隅)現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。「天守台」だけがひっそりと残っている場合
11月11日(木)と12日(金)の2日間、JR西日本の企画切符「関西どこでもきっぷ」を使用して5城巡りをしてきました。11月11日(木)の2城目は、続日本100名城に指定されている「新宮城(前編)」(和歌山県新宮市)をお届けします。「赤木城」を出て、途中「田平子峠刑場跡」と「丸山千枚田」に立ち寄ったことは前回ブログで記載しましたが、その後海岸沿いに車を進めると、左側には青々した「太平洋」が見え続けるので、思わず先日の「高知県安芸」の海岸で体験したように、「太平洋」を見たくなりバス停
徳川家康はこうして北政所の縁つながりで、東軍方の浅野幸長と黒田長政に秀秋を調略させているのです。しかし、北政所が家康を支持していたかどうか今一つはっきりせず、彼らの動きが本当に北政所のためであったかどうかは不明です。ただ、合戦の前日(9月14日)になって家康の重臣である本多忠勝と井伊直政の両名から小早川家の家老二名に宛てて起請文が差し出されているところからみますと、秀秋は幸長と長政の要請に応じたのでしょう。秀秋は、養母の北政所が家康支持だと思いこみ、決断したのかもしれま
秀秋は11歳で中納言任官というスピード昇進を遂げ、朝鮮出兵では現地の大将格をつとめました。小早川家へ養子にだされたとはいっても、誰もが認める豊臣政権のサラブレッドです。そして、いよいよ慶長5年(1600)、天下分け目の年を迎えます。その年の6月16日、家康が会津の上杉景勝(西軍)を討つため大坂を出陣した隙をつき、石田三成が挙兵します。西軍はただちに徳川家康方の伏見城を攻め、秀秋もその城攻めに加わりました。その後、北陸で東軍方の諸城を攻める大谷吉継へ加勢に
只今、「近畿地方」以西の西日本の「櫓門」をお届けしています。「櫓門」といえば、「門」と「櫓」を兼ね備え、特に「大手」等の重要箇所を固めた最強の門でした。東日本の「櫓門」の総集編はこちらからご覧ください↓『<東日本のお城>の”櫓門”前半総集編』5月9日から始めた「櫓門」シリーズは、「東日本(※)」のお城42城の「櫓門」をお届けしてきました。(※)東日本、西日本は、「中部地方」で東西を分けました。こ…ameblo.jp『<東日本のお城>の”櫓門”後半総集編』5月9日から始めた「櫓
只今、「全国の“二重櫓”を巡る」をテーマで、「現存」と「復元・復興・模擬」の「二重櫓」の多様性(構造、形式、用途、目的、名称等)を実感しながら、北から南に向けてお届けしています。本日は第18弾「和歌山城乾櫓、二の門(楠)櫓、時鐘堂」の3基です。①「和歌山城乾櫓、二の門(楠)櫓、時鐘堂」(和歌山県和歌山市)、乾櫓と二の門櫓はRC造りの外観復元、時鐘堂は県指定文化財の現存「和歌山城」は、「豊臣秀吉」が弟の「秀長」に築城するように命じて「藤堂高虎」が縄張りと共に工事に携わりました
9月19日(土)と20日(日)に、旧中山道を美江寺→関ヶ原、関ヶ原→醒ヶ井と二日に分けた歩き旅の記録のその11です。今回歩いた歩行ルートは↓の通り(歩く前に描いたものなので、実際に歩く時には少し違いが出たりしました)歩いた距離は初日が25km程度、二日目が15km程度で併せて40kmほどでした。その10では、垂井の宿場の西側で、しぶい大衆食堂のある建物をしげしげと眺めたところまでをご紹介しました(☟再掲)。壁がとても土っぽいのと、小っちゃい虫籠窓が特徴ですね。更に先に進むと