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こちらの地方で深夜放送されたコメディドラマ「ヴィレヴァン!名古屋が生んだ奇跡のギリギリな物語」。落合福嗣くん、大きくなったな…。「ひらやすみ」ロスに陥り、岡山天音が出てた「ヴィレヴァン!」を久々に観ました。各エピソードの元ネタは実話ベースで、脚本家がヴィレヴァンの関係者からぶっ飛んだ話を聞いて実話ベースのフィクションとして書いたみたいです。野球人生が終わり空っぽになってしまった杉下(岡山天音)がヴィレヴァンの川上店長(滝藤賢一)に無理矢理バイトに誘われる。好きな世界
X(旧Twitter)の私のタイムラインに、こちらの記事が流れて来ました。https://www.nippon-dream.com/wp-content/uploads/16SK8sotokoto.pdf記事の左隅に記されております通り2016年8月と、少し古い記事です。とはいえ、私は非常に強い違和感を感じた箇所がございます。こちらですね。確かに子宮頸がんワクチンや低線量被爆が有害だってことは実証されていない。でも、逆に言えば、よくわからないってことを
blogに書いたコメントより>sakura-kasaga102さん。こんにちは。お疲れ様です。コメントありがとうございます。先ほどふと思って30代の知人にだけ申し上げましたが、『お金の正体は〈人間の〉ココロの反映である。』と思います。浅田彰さんの『逃走論』の鼎談である『マルクス・貨幣・言語』を昨日、大坂佳巨さんにコメントするために読んでいました。そこから、『sakura-kasagaさんが幾ら頑張ってお金を世の中から無くそうとしても、人間のココロが変わらない限りお金の代理〈
若い頃にアンチ・オイディプスだった浅田彰をオイディプス化してスポイルした犯人は柄谷行人。天才・浅田彰は、ルサンチマンの柄谷行人によってスポイルされて、「大哲学者への道」を絶たれた。浅田彰も間もなく古希。既に大きな仕事はできないと思う。栗本慎一郎や故・西部邁が柄谷行人を批判した理由がいまとなってはよく分かる。〈文中・敬称略〉
LIFE-TEXT●著=坂本龍一,高谷史郎●監修=浅田彰●2010年12月16日初版第1刷発行=NTT出版ブンケンロックサイド🚇地下鉄神保町駅A6出口徒歩1分
3月に書いた拙blogに『いいね』が付いたので、再掲載したい。これは、あくまでも『僕の理解する唯一の言語』であり、いいねを付けてくれたひとの参考になれば良いと思う。因みに僕は1982〜1999年辺りまでクラシック音楽は殆ど聴いていない。家にあったLPRecordやテレビで流れるクラシック音楽は辛うじて聴いたが、その頃溢れるように売られていたCDは聴いていない。音楽よりも哲学と競馬が楽しくてロックのCDすら殆ど聴く機会が暫くなかった。『幕末史における「尊王攘夷思想」は、20世紀にお
blogのコメントより。>gd-fgさんお疲れ様です。…自分も、「差異と反復」の本文が余りにも難し過ぎて…、訳者である財津理さんの解説の方は”いくらかは…”読んでいたんですよ…。自分の理解出来る範囲ナンですが…、gd-fgさんが”今まで仰っていた内容”と重なりますね…。自分のやるべきなのは…、「ドゥルーズを(上手く)理解・解釈する」のではなくて、(恐らく…ですが)「ドゥルーズの言わんとする(ような?)こと」を、(ドゥルーズとは)全く別のやり方で提示していくことだと思っております…。それは
ここのところ、些か先に進み過ぎた感があるので敢えて〈立ち止まり〉たい。「9むすびあるいははじまりウィトゲンシュタインにならって言えば、本稿はのぼったあとで投げ捨てるべき梯子として書かれている。今それをのぼりきったあなたは、さらに高みにむかって歩きはじめることができる。」浅田彰「構想と力」p.109〜ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」6.54〜より「・・・とは言え、ドゥルーズ=ガタリは、精神分析の家族主義(ある種のイデオロギー)から逃れるにあたってラカンの一般的な論理構成に
https://youtube.com/watch?v=C7thOFBAPPE&si=NMmUXpgr1x5y4X0e前回に到るまで、僕は「ジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリ」を理解するために障壁となっている岩として、「フロイト=ラカンの正しい理解の仕方」と「浅田彰と柄谷行人によるD=Gのいい加減な理解の仕方」を批判した。sakura-kasaga102さんには申し訳ないし、世の中に数多くいる「柄谷ファン」の反発を買ってしまった、と思う。「デリダにとってのパロールは、メルロ
〈ドイツ〉音楽の3B『バッハ・ベートーヴェン・ブラームス』に対して、哲学は3H『ヘーゲル・フッサール・ハイデガー』という。ジル・ドゥルーズは、『ヘーゲルと弁証法が嫌いだった。』と語っているが、僕もヘーゲルも弁証法も嫌いだ。何故ならば、「それが何を言わんとしているか、全く分からない。」からである。ヘーゲル哲学に於いて抑圧されていた、副次的なものとされた「差異」の概念は、僕の読んできた本、読まなかった本にそれこそたくさん登場する。そのため「精神現象学」「大論理学」何れも敗れたり!!と
僕は長いこと、ココログの巨大blogである『ハルくんの音楽日記』の影響で、『冬は寒いから、チャイコフスキーやラフマニノフらのロシア音楽。』と思っていたが、『冬はベートーヴェン。』というのも良いかも知れない。ベートーヴェンは、1770年12月16日か17日の生まれとされるし、冬生まれの射手座だ。〈因みに僕も12月生まれである。〉僕は昨夜、moon2288さんにマウリツィオ・ポリーニの「月光」ソナタ第3楽章をYouTubeで紹介されてから、自分の持っている全集を聴き始め、最初は1
本(構造と力)(長文失礼します)1983年に出版されて一大ブームとなった浅田彰著作の文庫本です。当時あまりのブームになったので、個人的にアレルギー反応を示してしまい、単行本は結局読みませんでした。関連の解説本も多く出版されましたが、最も親しんで読んだのは雑誌「宝島」に当時連載され、愛読していた山崎浩一氏の「なぜなにキーワード図鑑」での「ポスト構造主義」であり、スキゾ・パラノの対比、スキゾ・キッズのキーワードを覚えています。今回文庫本化されるにあたり、出版前から話題となり、新聞の書評欄にも紹
以前にも確か書いたが、専制政治と精神分析とカルト教団に共通する「超=コード化」は、主に4つの批判〈される概念〉で成り立っている。それは、1.アイデンティティ2.オイディプス3.ルサンチマン4.ファシズムである。しかし、資本主義社会からそれらが消えたかというと、そうではない。相変わらず、同一性のファシズムは蔓延っている。一方で、カルト教団のファシズムを非難・批判する共産党や共産主義者が、〈自らの対峙するイデオロギーを批判したところで〉正義の使徒なのかと言われたら、僕はそれは寧ろ「逆であ
この数日色々ありました。まず金曜日は今東京で勤務している同期たちとの飲み会。(といってもほんの6人くらい。じゅんちくわ以外の彼らはみんな偉くなっている)その一人が入社した後の研修の名簿写真を持ってきてみんなでみてわいわい♪今ここで偉くなっている子はこのクラスにいたんだ~とか、彼、当時は髪あったんだねとか、とても楽しかった♡(じゅんちくわは当時の髪が長い方が可愛かったとか言われたりして)同期といっても最近のこの会まではじゅんちくわは知らなかったし(あちらはなぜかじゅんちくわを全員
浅田彰『構造と力記号論を超えて』が中公文庫入りした。朝日新聞に大きな広告が打たれ「大反響発売即重版」の文字が躍る。(中略)なぜか文庫化されない出版界の大物はほかにもある。これは無理と思われた埴谷雄高『死霊』が講談社文芸文庫になった時も驚いた。(岡崎武志「愛書狂」「白水社の本棚2024春」白水社)
映画とモダニズム『村上龍対談集存在の耐えがたきサルサ』よりこれは、龍さんと15人の方との対談集。📚龍さんと浅田彰さんとの対談メモ🍀浅田彰さんについて経済、社会思想史学者『構造と地から』『逃走論』出版📝才能について「才能というのは、子供っぽい欲望を保ち続け、それを貫き通すためにはあらゆる妥協を排していかなるコストもリスクも引き受けてみせる意思だ」過去に浅田さんが書いた解説より・浅田さんの言葉「ある時点ではバカみたい
浅田彰さん「構造と力」今回、難解でした。。。。。読みきれなかったけれども描かせて頂きました。ありがとうございました。穏やかな1日となりますように。
前回記事の続きというか補足なのだが,浅田彰が話していたことで,もう一つ興味深い話があった。前回載せたYouTube動画ではカットされていて観ることができないので,私の記憶をたどりながらここで紹介しておきたい。すなわち浅田さんは,マクルーハンというメディア理論家を引き合いに出して,インターネットが世界を覆い,誰もがSNSを利用して発信できるようになった現在の電子空間は,プレモダンな「地球村」だと話していた。それは決してモダンな「世界都市」ではない,と。マクルーハン理論(平凡社ライブラリー
先日,上のBSフジ「プライムニュース」を観たのだが,やっぱり浅田彰はまともなことを言っている。で,やっぱり先崎彰容はダメだと思った。この2人セットの出演は今回で3回目か4回目だと思うのだが,その都度,このブログでもコメントしてきたから,今回も気づいたことを書き残しておこうと思った。観た後の印象や感想はこれまでとそんなに変わらないのだが,今回で2人に対する私の評価が完全に定まったように思う。ちょっと格が違いすぎるから,もうこの2人の共演はやめた方がいいのではないかと思った。前にも書い
プライムニュースに浅田彰さんと先﨑彰容さんが出演している。昨日以降、僕が話してきたこと「平等かどうか・本音と建前等々」が集約されてきている「ただし分かり易いかどうかは別」ので、後追いでみられるひとはみて欲しい。
私の大学時代に出た本です。ニューアカデミズムなどと言う言葉と共に「読んでも何のことか分からない」というような評判で怖いもの「読みたさ」で手に取った人もいたのかと思います。ポスト構造主義などともいわれましたが当時の私は構造主義についての知識もなく読むこともありませんでした。今回本屋で文庫で売っているのを見たのでいつものようにアマゾンで買ってみました。読んでみて感じたのは、ゼミの仲間同士で習いたての専門知識をまくしたてあうような感じ、とでもいうのでしょうか?自己満足、内輪の盛り上がり、自己陶酔
公園で奇声を発してバスケする中学生(高校生?)騒々しいと言えばそれまでだが、この閉鎖的でパラノイア的な世の中から解き放たれ、自由でありたいと願う本能の雄叫びの一端なのかもしれない最近ずっと車で聴いてたグレン・グールドのバッハYouTubeで聴いてたクラフトワークスキゾ・キッズというフレーズがとても印象的だった本著浅田彰氏も私と同じ気持ちでそういう音楽を聴いていたのかなあとヘーゲルと手を切るにはアドルノではなくニーチェをもって、ワグナーと手を切るにはシェーンベルクではな
仲正昌樹さんの『ポストモダンの左旋回』(作品社、2017年)を読了しました。2000年前後に書かれた論考9編をまとめた旧版に、その後執筆された5編を加えた「増補改訂版」です。マルクスから語り始め、柄谷行人と浅田彰、デリダ、ドゥルーズ=ガタリ、リチャード・ローティなどのポスト・モダンの思想家とその政治思想を分析。14の章はそれぞれ独立しているので、自分が読みたい章だけを読めばいい(実際私も、第4章のほとんどと第5章は飛ばしました)。圧巻だったのは、柄谷行人の『マルクス/その可能性の中心
逃げろや逃げろ!どこまでも東京から逃げてきた負け犬だからと告白するアキでもイキイキとして、とても嬉しそう…生きている!という実感とともに自分が生きてゆく原点を、見つけたようだ。アキの言う「逃げてきた」というのは、はたして東京という物理的な場所のことだけだろうか?逃げる言うと、卑怯とか卑屈な負け犬、とかとかくネガティブな印象が先立つでも危険や嫌なものから逃げてどこが悪いの?私たちは逃げたらアカン逃げるな!と、教えられてきた。それは、何のため、
上の娘Mと、デヴィッド・ボウイのドキュメンタリー映画を観に行ってきた。近所の映画館ではやってなくて、少し遠出せねばならず、しかも変な時間しか上映していない😞まぁ、そんなに需要のある作品じゃなさそうだし、仕方ないか…と、珍しく日比谷まで出かけた。小さな会場で、ハリウッド超大作などではなく、こだわりの小作品を上映することが多い、TOHOシネマズシャンテ。Mとは映画館で待ち合わせたんだけど、案の定、大きな施設の方の、TOHOシネマズ日比谷に行ってた😅間違えないで✨って言ってあったのに…小さ
〈コピペより〉浅田彰教授は、『坂本龍一との対談で、「ブラームスなんて、あんなくだらないシンフォニーやらコンチェルトやらを書き散らした作曲家が、よくあんなに素晴らしい作品を作れたと思わない?」と、(ブラームスの)間奏曲集を指して言っていたのが印象的でした。なお、坂本はそれに対し、「思う。」と答えていました。浅田は音楽にも造詣が深く、上に挙げた間奏曲集もグールドのCDを指して言っていますが、私は確かに間奏曲やラプソディーも素晴らしいけれども、少なくともシンフォニーやコンチェルトを「くだ
浅田彰さんの『構造と力』、ほとんど40年ぶりに再読してみました。と言っても「全体」ではありません。今回読み返したのは第四章「コードなき時代の国家――ドゥルーズ=ガタリのテーマによるラフ・スケッチの試み」。『アンチ・オイディプス』第三章「野生人、野蛮人、文明人」に対応する箇所です。前々回書評した仲正本で著者が好意的に触れていたので、読んでみた次第です。まだ邦訳がない時代、あの難解な書物をここまで平易にパラフレーズした「才能」には感服しますが、逆に言えば単純すぎる。原典を深く理解する上で
千葉雅也さんの『動きすぎてはいけない/ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(2013年、河出書房新社)を読了しました。12年に東大に提出した博士論文を改稿したもので、帯では浅田彰さんと東浩紀さんが推薦文を寄せています。刊行当時はかなり話題になって、紀伊國屋じんぶん大賞を受賞。著者は哲学研究にとどまらす、評論も複数出版し、小説『デッドライン』では芥川賞候補にもなった「マルチ」な書き手です。本作では、ドゥルーズの思想を論じつつ、リゾームの接続過剰(=動きすぎること)を戒め、非意味的な「切断」(=
休憩時間は15時25分までであった。『ブラ3』がプログラム通りにしても、終了予定は16時30分であるから、アンコール・ナンバーは長めの曲になるかも知れない、と僕は予想した。僕は左側に座っていた女性3人が席に戻るのを確認してから、席を立ちトイレ休憩に向かった。次は4楽章すべてピアニシモ〈pp〉で終わり消えるようなエピローグを迎えるブラームス交響曲第3番である。断って置くが、ブラームスは少しでもデキの悪い曲は処分してしまったので、遺されている作品は傑作しかない。クルト・ザンデルリンク指揮シュター