ブログ記事23件
今年は養老鉄道を創った立川勇次郎氏の没後100年になります。これを機に、養老鉄道開通前後の養老駅付近の様子を記録しておこうと思います。内容の殆どが父や長老から聞いていた話を思い出しながらの記載で、中には思い違いがあるかもしれませんが、ご容赦を。ーーーーーーーーーー養老鉄道開通前の養老駅前付近は殆ど家がなく雑木林の中に、数軒点在するのみ。昔から多くの家が密集していたのは駅東方の専明寺を中心とした鷲巣地区でした。当時、鷲巣地区から養老の滝への道は
御在所岳登山を挟みましたが再び街道に。***前回の記事、その3より続きです***是より西つしま、の道標を眺めて街道は津島の町に入っていきます。お腹空いた、ずーっとコンビニすらなかったのです。愛知県民お馴染みのヨシヅヤでなんかないかな・・・!「ヨシヅヤ」「YOSHIZUYA」なのですが変換するには「YOSIDUYA」なんだなあ笑。ハイ愛知県民お馴染みのスガキヤがありました!愛知県民のソウルフードなどといわれていますが食べたのは何十年ぶりなのか。子供の
前回の佐屋街道と津島街道の分岐点、埋田の追分から津島街道を歩いて行きます津島街道は、名古屋から津島神社までを結ぶ街道で、津島上街道と津島下街道の二つがあり、今から歩くのは下街道の方佐屋街道と津島下街道は、ここまでは同じルートで、この埋田の追分から分かれるみたい伊勢湾台風で壊れた鳥居を通り過ぎて、真っすぐ歩きますしばらくして、十字路に出るので、ここを右に曲がり、すぐの交差点を左に曲がります少し歩くと、右手に津島一里塚がありました一里塚を通り
佐屋街道を歩き始めた翌日、2/24に、前日の続きからまた歩き始めますまた、国玉神社(くにたまじんじゃ)にやって来ました昨日とは打って変わって、今日は快晴だ国玉神社に参拝し、無事、桑名宿まで行けますようにお願いしましたここから再スタート!国玉神社の角を右に曲がりますすぐに分かれ道があるので、ここを左しばらく歩くと、T字路があるので、ここを右に曲がりますすると、大きな通りに出るので、この横断歩道を渡って、向こう側に真っすぐ進みま
上画像は、甚目寺の南大門(仁王門)。『尾張名所図会』巻七(1844年)によれば、二王門本堂の南にあり。建久七年再建のまゝにて、今も猶存す。鎌倉時代の建築で、国の重要文化財です。その二王門をくぐると、左手に、これも重文の「三重塔」。三重塔本尊愛染明王(略)擬寶珠銘に『尾州甚目寺三重塔。寛永4年丁卯九月吉辰。施主名護屋両替町吉田半十郎政次』とあり。欄干の擬宝珠の銘によれば、寛永四年(1627)の建立。かつては塔内に、木造
(前回「津島上街道:津島から勝幡へ」より続く)勝幡城跡を見た後、再び津島街道(上街道)に戻り、勝幡町塩畑の集落に入りました。勝幡は、旧海部郡佐織村。『佐織村誌』(佐織村教育会、1930年)によれば、「上ミ街道」は、自海部郡津島至西枇杷島町で、延長「二里三三町五二間」。勝幡で右折すると、甚目寺までは右左折することなく、ほぼ名鉄津島線沿いに進むことになります。その中で、旧街道の面影を残す
上画像は、津島神社参宮道と、津島下街道・上街道が交わる橋詰町三叉路。この日は、津島神社に参拝した後、上街道を勝幡に向かいました。本町筋は、旧街道であるとともに、かつての津島のメインストリート。現在も古い町家が残り、往時を偲ばせます。上画像に見える看板は「足袋のツモヤ」。続けて、上画像は1929年建築で、国登録有形文化財の「旧津島信用金庫本店」。『尾張名所図会』(1844年)巻七が「津島里」について、尾西第一の大邑に
愛知県清須市にある「堀江山長谷院」の石造物一覧。今回は駐車場エリアです。長谷院には、江戸時代に造られた石造物がたくさんあります。長谷院を訪れた際、これら素晴らしい石造物を逃すことなく、ぜひ見てください[駐車場エリア]■津島街道道標(北側)嘉永7年(1854)2月「名古屋通抜往来安全」佐藤九右衛門、堀部市左衛門、近藤三重郎、太田孫八、近藤□□、横井□□門の6名による寄進。※2023/08/24追記嘉永7年は2月18日から4月8日まで長谷院で開帳が行われた
愛知県清須市にある「堀江山長谷院」には、江戸時代に造られた石造物がたくさんあります。長谷院を訪れた際、これら素晴らしい石造物を逃すことなく、ぜひ見てほしいと思います石造物はエリア毎に概ね纏まって配置されていますが、物によってはわかりにくい場所にあったりします。私も数回通って初めて気付いたものもありました。初めて参詣される方にもわかりやすいように、これから数回に分けて石造物一覧を掲載していこうと思います最初に「長谷院」とは、どのようなお寺なのでしょうか。境内にある解説板には下
津島市内散歩の第二回です。再び天王川公園の駐車場から歩き始めます。カモメにエサやりしてる人が何人かいて、カモメ激しくテンションアップ中。濃尾地震の記録を伝える石碑がありました。解説板はありますが、記録を伝承するためには記録されている文面もわかったら良いな。公園中の松の木に絶賛お薬中です。薬打ちまくり。QRコードで調べてみた、松枯れになるマツノザイセンチュウという病害の防止の薬という事でした。この公園だけでも凄い本数が必要だなぁ。で前回の終了地点に向かう途
ナマズと雷魚を釣りに行きます最初は護岸工事をしてガラリと姿を変えた用水です用水の東側にかなり大きな建物を建設してます何が建つのか見に行ったら市庁舎だそうですこちらに移転ですねそれで田んぼの中の用水を整備したり周りに遊歩道を作ったんですねこの近くに住宅も無いし遊歩道を歩いている人を見たことないので変だなぁと思ってました水は満水で小エビは沢山いるけど反応無しカメもコイもだいぶ少なくなりました移動します蟹江川を覗くとコイがいっぱいで
東海道脇往還「佐屋路」を歩いています。今回は近鉄烏森駅からです。烏森駅から佐屋路起点までは一直線ですから、間違うことはありません。「明治天皇御駐輦之所碑」が立っています。駐輦(ちゅうれん)とは、「天子が車をとめる。天子がご滞在になる」との意味です。背面には「明治二年三月、車駕東幸ノ・・・此所ニ御小休シ・・・」と刻まれています。明治天皇は、3度この佐屋路を通っています。昭和の雰囲気が漂う街道です。
「佐屋路」歩きの再開です。この日は名鉄「津島駅」からです。「津島街道(赤線部分)」を進みます。浄土宗のお寺「清光院」がありました。その境内に「津島一里塚跡碑」が立っていました。大正時代までは塚の中央に赤松が植わっていたそうで、塚の高さは1.8mあったそうです。津島は織物の町でもありました。「埋田追分」に着きました。ここは「佐屋路」と「津島街道」の追分です。ここには「津島神社一之
「佐屋路」歩きは、「津島街道」に合流したところで終わり、帰宅のため名鉄津島駅に向かうのですが、多少の時間があり、津島の町並みと津島神社を参拝します。「津島」は、平安末期より木曽三川を使って尾張と伊勢を結ぶ要衝の地として発展します。佐屋川の上流部「津島湊」でしたが、土砂の堆積により湊の使命を終え、湊の使命は佐屋湊に移っていきます。ここには全国の天王信仰の中心地「津島神社」もあり、尾張一豊かな町であった時期もありました。中野町交差点角に立派なお屋敷がありました。
今回の杉屋佐助さんは①道標②名号碑を探しにいきます。というわけで、愛知県あま市にある甚目寺(じもくじ)にやってきましたよ!このようなお寺の名前の入った石柱を「寺標(じひょう)」と呼ぶんですね。ピカピカで立派です!ところで、この寺標の彫を見て気づいたのですが、横のラインより縦のラインの方が深く彫られています。何か意味があるのでしょうが、わかりませんなんとなく、陰によって縦ラインが強調されて力強くみえるような気もしますが...。--------------------
めでたく常滑街道歩きは終わりましたが、見逃したとこ&中嶋楼の調べた事&小ネタを。師崎羽豆岬展望台からの景色から。ここここ、このいかにも埋め立て地の中の怪しげな緑のポコン。ここは戦前の地図で見ると・・・。林崎と書かれている岬なのです。岬全体をぐるりと埋め立てられてどうなってるかを見に行くつもりでしたが行けませんでした。そこはさんざん頭を悩んしてくれるGooglemap先生門下生のストリートビュー君の出番です。・・・わははははは、すんごい、そのまま岬の崖がコンクリート漬けに
愛知県津島市を訪れた続きです津島街道(本町筋)にある、津島交流観光センターを出発しますちなみに、津島にも石採祭車が4台あり、10月の尾張津島秋祭に、21台の神楽屋形の山車と共に、まちを練るそうです南方向に歩いていきましょう天王通りを横断して、まっすぐですこの辺りは、津島銀座街として賑わった場所です津島のメインストリートでした右側には、堤下神社が祀られていました天王川が流れていた頃の遥拝所で、祭神は、須佐之男命、古来より、幼児の
愛知県津島市を訪れました名鉄尾西線津島駅を下車します乗ってきた列車は、3700系4両編成弥富駅から乗ってきました津島駅は、愛知県津島市錦町になります津島線の終着駅でもありますが、津島線の列車は、そのまま、佐屋、弥富方面へ一方、一宮方面からの尾西線の列車は、津島駅発着がほとんどです駅の西側に出てきました西方向に延びる道を、歩いていきましょうこの道は、天王通りと呼ばれ、”津島の天王さま”として知られる津島神社に通じる大通りです
根古地の堤防から一路、養老の滝方面に進路を取ります。雪がみぞれ混じりに変わりややテンション下がりながら、国道を渡り天照寺。ここは河川工事時に命を落とした薩摩の人たちが眠っています。再び東海地方の人間として手を合わせてきました。天照寺から少し先にも薩摩の人たちの何人かが眠る墓所。多分こちらは天照寺の人たちより身分の低い人たちなんでしょう。みたび合唱。元宮跡という碑、どんな宮があったんかな。これは枕木コンクリートですね、車止めとして第二の人生を歩んでるようです
先日今尾街道(仮称)を歩き終えた所にあった、今尾の渡しの道標。当然この先にも道が続いているんだなぁと思ってましたが、こんなんみつけました。養老町の古道ウォーキングマップ津島街道養老町の古道川の向こうの養老の地では津島に向かうこの今尾までの道を津島街道と呼んでいたそうです。上のHPのタギゾウくん(養老町のキャラクター?)のおすすめ、養老の津島街道?に進んでみることにしました。ちょいちょいタギゾウくんの解説を聞きながら出発です。ということで、今尾。おーい、天気予報どうなって
前回あとちょっとのとこでバスの時間が迫ったということで切り上げた目的地、高須の町。なので、改めて今日は車で訪ねて、高須街道歩きグランドフィナーレとします。まずは海津市歴史民俗資料館でお勉強です。建物はお城か代官所かをモデルに作られてるのでなかなか貫禄があります。この外にあった堀田ってなに?というのもお勉強後は何かわかりました。こんな機関車も。これも河川改修時に使われたもの。こういう施設は大体どこでも弥生時代の土器やら古墳やらから始まるのが定番で、ここもそういうのから
高須街道に突入して、すぐに橋がありました、その名は巡見橋。明治の地図にはあった先ほどの位置の巡見街道の橋は今はありませんが、普通はそれが巡見橋ですよね。昔なかったこの位置に新たに架橋したときに巡見橋の名を譲ったのでしょうか。さてこの後は基本的に堤防の道が高須街道で、計画時はいろんな地図で確認していたのですが・・・。なんだか急に怪しくなってきました。グーグルマップでも国土地理院の地形図でも道があることになってるのですが・・・。不安ですが進んでみます。まだいけるけど。あー
名古屋ではいまだ初雪が観測されていないそうです。蝋梅は満開でそろそろ梅も咲き始めてしまうのでは?でも寒いことには変わりなくて曇り空では山には足が向かず、また街道歩きです。今回は資料が少なく調査を重ねて重ねての高須街道。前回書いた通り尾張藩にとって高須藩までの重要な街道のはずですが・・・。高須4兄弟の波乱のストーリーは大河ドラマになってもいいくらいの話ですが、どうかな?スタートは名鉄勝幡駅。信長生誕の町としてPRの駅前。この模型にある勝幡城跡をまずは見に
二年前の今日投稿した記事です。
足元のマンホールを見れば、信長や秀吉も見たという津島を象徴する天王祭の絵です(でもまだ見たことない)。戦国時代にはもう豊かな町だったという津島市中心部に入ってきました。元々は川湊として始まった町だからか海に面していたからか、こんぴらさん。こうして街道って書いてあるとなんだかうれしい、加藤塗元さんありがとう。ヨシヅヤさんの横に小さなお堂。味のあるお姿のお地蔵さまだー。どんどんいい感じの街並みになってきました、街道だねー。このお宅の横が更地になっ
随分寒くなりました、朝早くお山を見ると・・・。伊吹。御嶽。伊吹、御嶽に負けてない白さじゃないか~。中央アルプス。あ、藤原岳も。秋短すぎだろー。さて、雪山はしないので?巡見街道シリーズ、今回は名鉄の渕高駅から続けます。前回は見所が少なくてちょっとまあ、ストレスの多い区間でしたが・・・。今回は、目指せ津島編です。電車の車窓からイチョウ、もうそろそろ紅葉終盤。渕高駅からリスタート。駅から巡見街道に戻り途中、随分立派なお屋敷、なんだかいろんな時代
美濃路津島街道道標新川開削新川橋家族旅行で行きたい場所教えて!▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう
息子のハンドボールの試合が津島である。どうせ1回戦で負けるから、そうだ、今日は津島街道歩こう。是より西つしま急遽、事情により今日はここまで〜
先日、今年の初詣も兼ねて(というにはやや遅かったのですが)、甚目寺へ行きました。上図は、1923年鐵道補入の二十万分一帝國圖「名古屋」。新川橋の西詰で美濃街道と分かれ、西進する津島街道(上街道)が、甚目寺村で屈曲しています。この屈曲している角にあるのが村名の由来ともなった、甚目寺です。上画像は、『尾張名所圖會』前編巻七(片野東四郎、1880年)の挿圖「甚目寺」*。東から来た津島街道(上街道)が、甚目寺東門の門前で、南に左折していきます。
10月29日前回歩き終えたJR清洲駅から国際センター駅まで歩き、地下鉄で名古屋駅へ。歩行ルートJR清洲駅に9時半頃着いたところ、名古屋駅から二人、もう一人は岐阜駅からとちょうどホームに降りたところ偶然にも合流。駅近くの喫茶店でモーニングの後、歩き始めます。前回歩き終えた所から、街道歩きを始めます。9:56古いたたずまいのある家屋が結構見られます。10:00美濃路清洲宿本陣跡。(1878年明治天皇一行も小休した。1891年の濃尾地震で建物が倒壊、火災に遭い、わずかに