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近年、包丁などの刃物で人が殺されたり傷つけられる事件が増えていると感じる。私は刃物で何かをブッ刺したことがないからわからないが、包丁を使って思い切り刺したら、たぶん柄を持つ手を怪我すると思う。包丁を人体に真っ直ぐ刺した場合、厚い肉に包丁を刺したときのことを思い出すと凄い抵抗があると思う。スルッとは刺し込めないと思うのだ。若いころレストランでバイトしたとき、タンシチュー用の牛タン丸まんまにアイスピックで無数の穴を開ける作業をやらされたことがある。塩を刷り込むためだ。
御陵衛士・伊藤甲子太郎の最期をたどって…油小路の変、本光寺を歩く京都駅からほど近くにある「本光寺」に行ってきました🌿ここは、幕末に御陵衛士として活動していた伊藤甲子太郎が、新撰組に襲われ命を落とした場所として知られています。『幕末の風を感じて…御陵衛士屯所跡地高台寺月真院へ』御陵衛士ゆかりの高台寺月真院へ、歴史さんぽ♡伊藤甲子太郎たち御陵衛士が活動していた拠点、「御陵衛士屯所跡」に行ってきました♪御陵衛士は、高台寺の中にある…ameblo.jp本
本日は旧暦十一月十八日ですが、慶応三年(1867年)のこの日は、油小路の変が起きた日で、御陵衛士盟主、伊東甲子太郎をはじめ藤堂平助、服部武雄、毛内有之介が倒れました。新選組に詳しい人ならよくご存じの事件だと思います。2020年に伊東甲子太郎の生家を示す地図が見つかったニュースがありました。顕彰碑を建て地元の歴史的人物を見直す一環で探し出されたということだったのかもしれません。新選組参謀の伊東甲子太郎、生家示す絵図見つかる-日本経済新聞幕末に新選組で参謀を務めた伊東甲子太郎(1835~
〝歴史との時間感覚〟と言えば良いのか、自分の身に起こる時間と歴史との整合性について、ふと考えさせられた。そんな新聞記事を見掛けた。今朝の京都新聞に掲載されていた、「幕末志士伊東らの死悼む「油小路の変」、下京で法要歴史ファン集う」という見出しの記事だった。まずこの記事の登場人物で中心となるのは、「幕末志士伊東」である。伊東甲子太郎という名前。新撰組ファンとか、幕末維新史のファンならご存じの名前だと思う。常陸(茨城県)の出身で、いろいろあって常陸から出て行かざるを得
本日、‘‘新撰組入隊160年記念企画展「伊東甲子太郎と油小路の変」-御陵衛士となった勤王志士-’’を見に、かすみがうら市歴史博物館へ行って参りました。4年前の伊東甲子太郎展にも足を運ぶ予定でしたがコロナ禍で断念しました・・・。なので今回、リベンジ(?)出来て良かったです(´艸`*)www初のかすみがうら市歴史博物館。立派ですね~夫は甲子太郎ではなく近藤さん&土方さん派(´艸`*)w7年前に「志士のかたち」↓「志士のかたち」茨城県立歴史館そしてスタンプと言
京都旅行2日目。(Part1)今回の目的『新選組巡り』のため、朝7時に起床。回る場所を再確認し、8時にホテルを出発まずは、ホテルの近くにある『新選組最後の洛中屋敷跡』の石碑へ。朝早いこともあり通勤の人しかいない中、石碑の前に立ち数分ほど当時の情景を想像しておりました。その後、堀川通にある『不動堂村屯所跡』へと足を運びました。こちらは、リーガロイヤルホテルの入口付近に石碑が。近藤さんの詠の石碑を見ながら、ここに屯所を移してからの新選組の未来を思い出し、鼻の奥がツンとなり少しばかり涙が
いよいよ京都の幕末を訪ねる旅も終わりに近づきました。最後は新選組の話題に戻り幕末京都の史跡巡りを終わりたいと思います。京都に着いたその日に三条大橋、そして“池田屋事件”の話に触れました。そして改めて思っているんですあの“新選組”を一躍有名にした“池田屋事件”がなければ隊士達の運命も大きく変わったのかもしれないと。その事件現場である“池田屋”から600m程のところに、勤王志士の後ろ盾であった古高俊太郎邸がありました。その住居跡に下の写真の通り「説明立て札」と石碑が建立されています。
今回は油小路の変です。上の写真は堀川通(旧醒ヶ井通の一部)です。新選組不動堂屯所を北上した場所で、徒歩にすると5分もかからないです。伊東甲子太郎もここを通っていたものと思われます。見づらいですが右奥にある横断歩道のある道(木津屋橋通)を東(この写真でいうと右折)に進みます。堀川通と木津屋橋通の交差点から東方向を撮影しました。今でも割りと細い道なので当時はもっと道幅が狭かったのかも知れません。止まれの先が油小路と木津屋橋通の交差点です。左折北上すると伊東甲子太郎遭難の地があります。
紙の出版をようやく出版することができました。POD出版は価格を高く設定しなければならないので、割安の電子書籍をお勧めします。電子書籍は申請中ですが、そのうちAmazonに反映される予定です。下記のリンクをクリックして下さい。空と海のキャンバス数年ぶりに来た京都駅のミスタードーナツ。京都に来た頃はお気に入りのカフェをまだ見つけていなかったので、ここに来ることが多かった。いつ来ても京都駅らしからぬ近代的な駅に感じてしまいます。評判もさほど良くはない。小京都の金沢駅もこのような感じ
前に書いていた通り、先日何年ぶりかで京都に行ってきました~~~ヽ(^◇^*)/♪目的はコレ!なーんてったって隠れ新選組ファンだからね。京都のお友達が見つけて誘ってくれたのさ。まずは一念寺と言うお寺に集合して軽くレクチャー。新選組ファンと言えど、年季は入っているけれど、すぐに忘れる私だからね、へぇー!(゚∇゚)ってあたかも初めて聞いたかのような感じ。ポンコツだな・・・( ̄∇ ̄;)ハハハ...そ
本日は旧暦十一月十八日ですが、慶応三年(1867年)のこの日は、油小路の変が起きた日で、御陵衛士盟主、伊東甲子太郎をはじめ藤堂平助、服部武雄、毛内有之介が倒れました。新選組に詳しい人ならよくご存じの事件だと思います。3年前は、伊東甲子太郎の生家を示す地図が見つかったニュースがありました。顕彰碑を建て地元の歴史的人物を見直す一環で探し出されたということだったのかもしれません。新選組参謀の伊東甲子太郎、生家示す絵図見つかる-日本経済新聞幕末に新選組で参謀を務めた伊東甲子太郎(1835~6
前回からの続き(11月18日のこと)ですポルタを後にして、一念寺で貰った地図を見て、駐車場まで載っている所を通ってみます京都駅前の広い通りは塩小路通りそれを西へ歩いて行きますすると油小路通りがあるので、そこを上がって行きます地図にまずあるのは「伊東甲子太郎遭難の地」画像は油小路通りと木津屋橋通りの交差点(北向)油小路通り沿いには、それらしい駒札や石碑は見受けられませんでした😅この辺りで、新選組から脱退した伊東甲子太郎が新選組隊士に襲撃された場所になりますそこから少し上がると
本日は旧暦での「油小路事件」当日。京都では「本光寺」と「戒光寺」で、それぞれ法要が営まれます。私が当blogの「150年前の本日」の記事を書いていた当時まだ「小説風」に書いていた時期と、史資料提示をしながら書く時期とのちょうどはざまというか、切り替え時でした。小説風に書いたあとに、色々とまた記事を書き足していったというようななんだかゴチャゴチャと数本の記事にしていますねそしてこの事件の背景について、今ではまたちょっと違う見解も持っています。そのあたりはいずれきちんと纏めな
「伊藤甲子太郎」大谷選手おめでとうみなさん、おはようございます大谷選手、MVPおめでとうございます高い技術と精神力の賜物ですさあ、今日「11月18日」の國史を学びましょう「油小路の決闘」慶応3年(1867年)新選組と元・新選組の参謀伊藤甲子太郎(かしたろう)との闘いです水戸学を学び学識高く、尊王攘夷思想の伊藤甲子太郎は門弟の藤堂平助に誘われ新選組に入隊しますしかし、伊藤は、新選組の反対派への粛清特に、山南敬介に切腹を命じたことに衝撃を受け
京都駅から徒歩10分足らず、油小路通にある「本光寺」。門前に「伊東甲子太郎外数名殉難の地」という石柱が立っています。新選組の参謀だった伊東甲子太郎は内部対立から脱退し、御陵衛士を結成します。その後、近藤勇らの暗殺を企てたとして襲撃され、このお寺の前で絶命したといいます。伊東の遺体を引き取りにきた伊東の同士も、待ち伏せしていた新選組隊士に討たれました。「七条油小路の変」あるいは「油小路事件」と呼ばれている出来事です。新選組に襲撃され、瀕死の伊東が最後にも
永倉さんがどうしても描けないので藤堂平助さん。下書きの下書きの下書きの下書きくらいの段階です。そんなもんあげるなと言われればそれまでですが、あげてしまったわりと顔面は書き込みます。その方が全体が分かりやすいです。私の場合。藤堂さんは平ちゃんと呼びたくなります。若いのでどうしても弟位置です。伊東さんについて新選組を脱退したときの空気感はどんなものだったんでしょう。じゃ行くねー、遊びに来るからねーなのかごめんなさいごめんなさい裏切ってごめんなさいなのかこんなところでは何やっても
名古屋のシンゾウですおはようございます。合格発表から2日、心は落ち着かれましたでしょうか。合格された方は、是非、次回の試験にも挑戦されるようお願いします。1級受験者は当初から800人程度ですが、その内容が様変わりしていると思います。「京都検定マイスター」が制定されてからは、リピーターの受験比率が大幅に増えたと思います。もし、そのリピーターが減少した場合、即、大幅な受験者数の減に繋がるような気がします。京都検定が中止になると寂しいですからね。「京都検定マイスター」目指して頑張りましょう。私、
慶応三年(1867)十一月十八日の夜亥の刻(午後十時)頃、近藤勇の妾宅を出た伊東甲子太郎は、木津屋橋通油小路の辻に差しかかったところで、新選組の手により殺害されてしまいました。御陵衛士に賄い方(食事係)として雇われていた岡本武兵衛による、事件後の証言とされる『編年雑録』の「山陵の衛士闘死の聞書」によれば、この夜月真院の屯所にいたのは三樹多門(三木三郎)、服部三郎兵衛(武雄)、南部与七郎(藤堂平助)、加納鵰雄、藤井弥七郎(勇七郎=橋本皆助)、毛内監物(有之助)、富山弥兵衛、篠原泰之
一昨日、公開2周年記念で上映の「天外者」を観てきました。チケットの予約をしていなかったので、近いところはみな満席で売り切れていて、いつもは行かない郊外の映画館で観てきました。2年経ちDVD等の発売もされているのに、今もこうして観られているって本当に凄いことだと思います。そして何度も観ているのに、感動を与えてくれるこの作品も素晴らしいと改めて感じてきました。この日だけの特典の田中監督からのメッセージカード。そしてこの日は、三浦春馬さん縁の伊東甲子太郎の命日とも重なっていたんです。新暦
先週、志道塾さんの公演を観に行って来ました。お稽古場での公演で、とても狭い空間なのに殺陣をしながらあれだけ動き回れるって凄いなって思いました。本編の前に30分殺陣の演舞があったのですが、般若の面をつけての殺陣だったり、棒術だったり、扇子を使ったものだったりと色々あってもっと観てたいなって思うくらいどれも素晴らしく楽しかったです。もちろん本編の油小路の変もとても良かったです。志道塾の方々は斬られ方もとても上手いなぁって思いました。それも含めて殺陣と言うのだと思いますが、ホント凄いなぁと思い
伊東甲子太郎の絶命の地に行ってきました
蔵出し京都画像〜京都画像クイズNo.132。今回は従来と違った解説で更新します。ちょっと勉強の時間になるかな🤔。庫裏の画像だけで、よくこの寺院が皆さん分かりましたね😳。こちらの寺院は高台寺塔頭月真院幕末、高台寺党と呼ばれた御陵衛士屯所跡になります。鰻の寝床のような境内。この境内画像は今回の問題の要でした😊。実相山本光寺伊東甲子太郎外数名殉難の地京都市駒札慶応三年(1867)11月18
油小路!ここまで新選組に詳しくなる前は1番好きだった出来事しかし…なんか…甲子太郎が可哀想すぎて…最近はただの悪者になることが多く、これこそ勝てば官軍なんじゃないの〜みたいなドラマではかなり残酷な方法の第一手。びっくりしたーそしてみんなに愛されていた平助。最後に斬ったのは土方ま、栗塚旭主演、って書いてあるからね、仕方ないね。でも平助を土方が…イヤです〜!!!これは殺陣浪士組でやったやつなんだけど、新人が斬ってしまって、職務を全うしただけだから彼を責めれない永倉原田の
■12月31日は「大晦日」旧暦の月末には月が隠れる(篭もる)ので、「月隠」(「月篭」、つきごもり)==「晦」(つごもり)と言った。そして毎月の三十日==「晦日」(みそか)と呼んだ。旧暦の年末は、1年の終わりの日==最後の晦日==「大晦」(おおつごもり)==「大晦日」(おおみそか)と呼んだ。大晦日の夜のことを「除夜」(じょや)と言う。かつては一年の神「歳神」(としがみ)を迎えるため、新年元日の朝、つまり元旦まで眠らずに過ごす習慣があった。「除夜」には---各家庭で年越し蕎麦が食べられ
去年、11月18日伊東甲子太郎の顕彰碑が茨城県かすみがうら市に建てられました。三浦春馬さんがいらっしゃれば、きっとここに招かれたのではないかと思います。なぜなら『銀魂2』で演じた伊東鴨太郎は伊東甲子太郎がモデルとなっているからです。旧中志筑村(現かすみがうら市)出身で新選組幹部の「参謀」として幕末に活躍した伊東甲子太郎(かしたろう)(1835~67年)を顕彰する石碑の除幕式が18日、同市中志筑の志筑城跡で開かれた。碑は地元の歴史的人物に光を当てようと、有志が建てた。この日は甲子太郎の命日で
新選組のファンでなかったら、誰も知らないであろう「油小路の変」。よくもこれをクローズアップした映画を作ったなぁという感想。「CHAINチェイン」もちろん私は知ってるよ、隠れ新選組のファンだからね。( ̄∇ ̄;)隠れる必要はないか・・・でもこれを扱うって・・・確かに面白い試みだと思う。時代劇なんだけれど、映像を‘今’にしている部分もあったりするし。そうよね、今普通に京都の町を歩いているけれど、かつてそこには斬り合いを
小屋入りしました。明日から2日間、よろしくお願い致します!そして、朝マック🍔🍟🥤と、お知らせ映画#文禄三年三月八日本日も御来場いただき、ありがとうございました。改めて、この作品に関わらせていただき、絡ませていただいたことに感謝です。健さんの血ぶり納刀、好きです♥️また何処かで……https://t.co/ZwHsYJHb8Shttps://t.co/9HxJmVI7Cwpic.twitter.com/3JKG0hBiI3—田所Kôno敏弘(@A_choreograph
弘法市のあとは、東海道線をくぐって北側、油小路の本光寺へ。こちらは新選組隊士、伊東甲子太郎殉難の地として知られている、隊内での思想の相違から、近藤勇らと対立、とある日妾邸に呼ばれ接待を受け、したたかに酔わされ、そこを同隊士数名により暗殺、遺体は同地に放置されていたという。なお、墓所は東山区の戒光寺に。70年代風に言えば、“内ゲバ”ってところか、それにしてもね、なんだろう、同士って。きちんと整備されていて、今でも供花が絶えない。さてこちら、もう本トに小ぢんまりとしたお寺さ
昨年の真冬、京都にて学生らと一緒に撮影した”CHAIN/チェイン”が本日から公開です。学生とプロが一緒になって作り上げる北白川派作品で”嵐電”と同じ土台ですが、今度はなんと時代劇にチャレンジしました。物語は新選組終焉の象徴と言える油小路の変を中心に、激動の時代を生き抜いた若者達の群像劇となっております。少々登場人物が多いので整理が大変ですが、根底にあるのは混沌と題名になっている連鎖(CHAIN)によって、若者があの当時を如何に捉えていたかがテーマです。若い俳
あの有名な『本光寺』へって!本光寺が有名と言うよりは、「油小路事件」が起きたこの場所が有名です本光寺さんへは、何年も前に訪れていますが、まだ御朱印を頂いていなかったので久しぶりに訪れました慶応3年3月10日(1867年4月14日)、新選組を離脱し御陵衛士(高台寺党)を結成した伊東甲子太郎が、勤王倒幕運動に勤しみ薩摩藩と通謀して新選組局長・近藤勇を暗殺しようと企んでいることを、新選組が間諜として潜り込ませていた斎藤一から聞き明らかとなった。ただし、当時の伊東の書簡は対