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川越城本丸御殿
相変らず、睡眠サイクルが狂ってるUp主です。轟沈した後に3時間くらい寝て、変な時間に起きちゃうからですが。ちゃんと7時間寝たい・・・眠れるときもありますけれど、轟沈した時は無理ですね。と言う事で、先ずは散財。楽天のセールでしこたま、食料品と飲料水を買い込みました。そろそろサバイバルモードになってきてますので、今のうちに備蓄は沢山しませんと。【400g送料無料】カビなしコーヒー豆カビ毒カビ無し完全無欠コーヒー深煎りバターコーヒーMCTオイルココナッツオイルグ
最近手を負傷してからほとんど出かけておらず、非日常がどうしても恋しくなったことから近場に癒しを求めて出かけることにしました。久し振りの本物シリーズ。注目は、本物の江戸城の建物群となります。(いつもの通り写真は当方のスマホ撮影です)朝早くから出かけたので、途中所沢で朝食。私の住むところは、南南西から海軍のホーネットが飛んでくるわ、南からC-130飛んでくるわ、北からC-130やらF-15やオスプレイが飛んでくるわの沖縄県人も真っ青な、24時間航空機騒音のあるところです。夜中の2時だろ
※こちらの記事は、平成30年3月24日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は「各合戦の動員人数について」シリーズの5回目で「川越(かわごえ)城の合戦」についてです。『歴史と旅』増刊「日本合戦総覧(昭和63年1/10臨時増刊、秋田書店)」の長谷圭剛氏の記事を参考にしています。※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。「川越城の合戦」も収録されている『関八州古戦録』に興味のある方は、下記リンクをタップしてください:『関八州古戦録』今までの記事第1弾江古田原沼袋合
喜多院・仙波日枝神社から川越城へ喜多院参拝者駐車場近くに明星社と明星杉鎌倉時代の永仁4年(1296年)尊海僧正が喜多院再興の為に訪れた時ここに池があったと言われ、尊海がその池の前を通った時に池の中から光が浮び上がり、そばにあった杉の木の上でしばらく光り耀いた後空高く飛び立ったという伝説があるそうですその伝説から、喜多院の山号は星野山(せいやさん)としこの地名を明星としたそうです現在は、霊地跡に社殿を建て、杉の木が植えられているそうです川越成田山を横に見ながら、川越の市街を歩
※こちらの記事は、令和2年10月3日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第31弾として、「河越(かわごえ)城の戦い」について、ビジネス的視点で見直していこうと思います。この合戦の動員人数を知りたい方は下記リンクをタップしてください(参考記事に飛びます):各合戦の動員人数について(5)川越城の合戦※以前は「川越(かわごえ)城」と表記していましたが、今回より、当時の表記に倣い「河越城」と表記することにしました。関連記事:『関八州古戦録』【ビジネス
※こちらの記事は、平成20年10月15日に書かれたものです。こんばんは。今回は『関八州古戦録(かんはっしゅうこせんろく)』という本についてです。これは、享保(きょうほう)11年(1726年)に槙島昭武(まきしま・てるたけ)という人がまとめた軍記物(ぐんきもの)で、天文(てんぶん)15年(1546年)の河越の夜襲(かわごえのやしゅう)から、天正(てんしょう)18年(1590年)の小田原北条氏(おだわら・ほうじょうし)滅亡までの間の関東(かんとう)での戦闘について書かれたものです。まず「関八
※2023年5月21日訪問※田曲輪門跡から西側に歩いて来ました【川越城南大手門跡】の石碑が建てられていますが、現在は『川越第一小学校』の校門となっています現在では学校の通学路や市街地となっている為、南大手門の痕跡は残されていませんただ、絵図と見比べて見ると、門の前に設置されていた【馬出】部分の名残と思われる屈折した道が残されていました✨という事で、川越城跡の散策は以上となります川越城と聞くと、『本丸御殿だけが残っているお城』と言うイメージでしたが、絵図などと照らし合わせてながら散策す
※2023年5月21日訪問※富士見櫓跡のすぐ南側には【川越城田曲輪門跡】の石碑が建てられています田曲輪門は川越城の南側に広がる田曲輪の西端に置かれた門との事絵図と照らし合わせて見ると、実際の田曲輪門跡は、もう少し西側に建てられていたようで、石碑が建てられている場所は、田曲輪と本丸の間の堀跡であると思われます✨◆武蔵国・川越城(初雁城)南大手門跡/埼玉県指定史跡◆に続く
※2023年5月21日訪問※整備された階段を登って、富士見櫓跡へと向かいます現在では小さな小山のようになっている富士見櫓跡ですが、登って行く道中には【川越城跡】の案内板や、石碑も建てられています▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼県指定・史跡川越城跡川越城は、長禄元年(一四五七)に太田道真・道灌父子によって築城され、上杉氏六代、北条氏四代の持城であったが、当時は後の本丸、二の丸を合わせた程度のものであった。江戸時代になって、松平信綱が城地を拡大し、八郭・三櫓、十二門をもつ徳川家
※2023年5月21日訪問※川越城本丸の南西部に建てられていた【富士見櫓跡】までやって来ました【川越城富士見櫓跡】という石碑が建てられていますが、実際の櫓跡は石碑の後方の丘で、石碑が建つ場所はかつての水堀跡なんですね✨【富士見櫓跡】の説明板が設置されていますね✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼富士見櫓跡御嶽神社が祀られているこの高台は、かつては川越城の富士見櫓が建てられていた所である。櫓は矢倉とも書いて、合戦の際に物見として、あるいは防戦の足場として、城壁や城門の高い場所に設
※2023年5月21日訪問※天神門の南側には【田曲輪】と呼ばれる東西に細長い曲輪が設けられていました✨かつての田曲輪跡を西に進むと、高台の緑地部分と道路の間に東西に広がる平地が見えて来ますこの平地部分はかつての【堀跡】で、田曲輪と本丸の間を仕切る水堀であったと思われます✨◆武蔵国・川越城(初雁城)富士見櫓跡/埼玉県指定史跡◆①に続く
※2023年5月21日訪問※天神曲輪への入口でもある【天神門跡】の周辺を見て行きます絵図によると、恐らくこの辺りに天神門が建てられていたと思われますが、遺構はなく、市街地になっていますねちなみに、藩政期には川越城内の天神曲輪に建てられている三芳野神社(お城の天神さま)にお参りする為、領民達が年一度の大祭か七五三祝いの際にのみ参拝する事を許されていました川越城の南大手門から城内に入り、田郭門を通り富士見櫓を通過、さらに天神門をくぐり、東に向う小道を進み、三芳野神社へお参りしていたようですが
※2023年5月21日訪問※本丸御殿を見学し、本丸の東側の【天神曲輪跡】へと向かいます✨藩政時代から鎮座する三芳野神社、そして、小さな公園として現在は利用されているようです✨本丸との間は【土塁】で仕切られていたようですが、この土塁の一部を現在でも見る事が出来ますね✨生い茂る木々に埋もれてしまっていますが、結構な高さの有る土塁です◆武蔵国・川越城(初雁城)天神門跡/埼玉県指定史跡◆に続く
※2023年5月21日訪問※川越城本丸御殿の主要な部屋である【広間】部分を見て行きます▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼正面に大きな壁をもつ床の間が設えられた36畳の座敷です。建具として入れられた杉戸は、藩の御用絵師舩津蘭山が描いたもので、当時は廊下の間仕切りに使われていました。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲立派な【釘隠し】✨川越藩の御用絵師、舩津蘭山による杉戸も間近で拝見する事が出来ます広間内には甲冑の複製や、槍の複製が置かれていました✨ふと天井を見上げると、何や
※2023年5月21日訪問※家老詰所の建物から本丸御殿の建物に戻り、本丸御殿北側の【中ノ口】と呼ばれる小玄関を見て行きます建物の外側から見てみると、庇の有る小さな玄関部分を確認する事が出来ますね✨建物内部には【中ノ口】の案内板▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼正面玄関に比べて間口2間半の一回り小さな玄関です。正面の壁の柱は、玄関からの見た目を整える装飾のための柱で、「半柱」と呼ばれる屋根の荷重のかからない柱です。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲【徒詰所】には警備の兵など
※2023年5月21日訪問※本丸御殿から渡り廊下を通って【家老詰所】の建物までやって来ました【家老詰所案内図】と書かれた案内図には部屋割りが描かれているので、見学の際の参考にさせて頂きました家老詰所は藩の政治を取り仕切った家老たちが常駐する場所です。建物内には他に年寄りや記録方の詰所も設けられ、本丸御殿の中でも重要な役割を果たしていたと考えられます。この建物は明治初期に解体され、福岡村(現・ふじみ野市)の商家に移築されていましたが、昭和62年に川越城の遺構であることが確認されたため、現
※2023年5月21日訪問※坊主当番詰所(第2展示室)から渡り廊下を歩いて家老詰所に向かいます現在の家老詰所は、かつて建てられていた場所から本丸御殿に近い位置に移築されており、本来は今の場所よりも西側に建てられていました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼家老詰所への廊下建築当時の家老詰所は、本丸御殿の西の端にありました。庭に埋め込んだ丸瓦は、詰所方向に続く廊下の柱の位置を示しています。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲画像では少しわかりづらいのですが、地表部分に丸瓦が等間
※2023年5月21日訪問※【使者之間】続いて【坊主当番詰(第2展示室)】へと向かいます↑中ノ口←家老詰所の案内板が有るので、家老詰所側に曲がると坊主当番詰(第2展示室)ですかつての本丸御殿を表した大きな絵図か壁に掲げられており、絵図の南側の赤い線で縁取られた部分が現存する本丸御殿部分、絵図の北側に有る赤い線で縁取られた部分が、現存する家老詰所部分との事城内で使われたとされる【釘隠し】の展示も有りました◆武蔵国・川越城(初雁城)本丸御殿大廊下跡/埼玉県指定有形文化財◆に続く
※2023年5月21日訪問※本丸御殿の【明治棟(第1展示室)】を見学して行きます第1展示室内部には、平成20年8月から約2年半に渡って行われた【川越城本丸御殿保存修理工事】にまつわる写真パネルや部品の展示が行われていました✨一際目を引くのが、この『葵の紋』の鬼瓦▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼交換した南側鬼瓦今回の工事で交換した大棟南側にあった鬼瓦です。建築当初は南側に「書院」が続いていたので、鬼瓦はありませんでした。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲展示では、屋根の
※2023年5月21日訪問※玄関で靴を脱いで、いよいよ本丸御殿内部へ玄関を入って左手の受付で入館料を支払い、本丸御殿内部を見学させて頂きます✨😌✨まずは【使番詰所】【番抜老体詰所】【物頭詰所】板敷きの廊下も歴史を感じますよね✨◆武蔵国・川越城(初雁城)本丸御殿明治棟(第1展示室)/埼玉県指定有形文化財◆に続く
※2023年5月21日訪問※本丸御殿の玄関の左右には【櫛形塀】という美しい塀を見る事が出来ます✨建築当初の本丸御殿の南東隅には【目付役所】が突き出していて、櫛形塀もそれに沿って湾曲していましたが、昭和の修理の際に、現在のように一直線に改修されたようです✨瓦には徳川家の《葵の門》が施されていましたこちらは櫛形塀を本丸御殿内部から見た様子です櫛形の部分が透かしになっており、装飾性の高い塀で有る事がわかりますね✨◆武蔵国・川越城(初雁城)本丸御殿使番詰所・番抜老体詰所・物頭詰所/埼玉県
埼玉県指定有形文化財川越城本丸御殿築城は1457年(長禄元年)扇谷上杉持朝が太田道真・太田道灌父子ら家臣に命じて築城させた城です。江戸期の現存本丸御殿正面の唐破風には「三つ葉葵」の御紋が輝いている。中世は河越城近世は川越城と文字が変わっている。
※2023年5月21日訪問※川越城散策のメインとも言える【本丸御殿】を観て行きましょう✨玄関部分正面から建物を見てみると、まさに『威風堂々』という言葉がぴったり長い長い歴史の中で、日本国内には数多くの城郭が建てられましたが、その多くは明治の廃城令やその後の戦災などで失われてしまい、建物が残されているのは一握り御殿建築に至っては、日本国内で4城のみ(川越城・掛川城・二条城・高知城)が現存しており、その中で《本丸御殿》に限っては川越城と高知城のわずか2城のみと言うことで、この川越城本丸御殿が
※2023年5月21日訪問※本丸御殿周辺広場の入り口から本丸御殿に向かって歩いていると、急に道が狭くなり、両脇に緑が生い茂る箇所が見えて来ますかつて、この場所には【本丸北門】という門が建てられており、現在は【川越城本丸門跡】の石碑が建てられていました【北門・土塁】と書かれた案内板も設置されていました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼北門・土塁本丸御殿の北側には土塁と堀が築かれており、本丸と二ノ丸を隔てる北門が設けられていました。発掘調査では堀跡から粘土やローム等を何層にも重ねて
※2023年5月21日訪問※川越城の【本丸御殿周辺広場】までやって来ました✨その名の通り、現存する本丸御殿の周辺を整備した広場で、駐車場・トイレ・休憩所など、様々な設備が整っていますね✨【埼玉県指定史跡川越城跡】の案内板には、川越城の歴史や縄張り図、市街地に残るわずかな遺構などが写真付きで掲示されているので、散策の際の手助けになりました【県指定史跡川越城跡】の石碑もこちらに置かれていますね◆武蔵国・川越城(初雁城)本丸北門跡・土塁/埼玉県指定史跡◆に続く
※2023年5月21日訪問※川越市立博物館と、隣接する武道館の間には【川越城蓮池門跡】の石碑が建てられています✨城の北東に位置していた門ですが、遺構は確認出来ず、石碑だけが建てられていますちなみに、川越市内にある雲興山榮林寺さんの山門は、この蓮池門を移築した物と伝わっていますが、今回は時間の都合で榮林寺さんへ訪問出来なかったので、またの機会に訪問出来ればと思います✨◆武蔵国・川越城(初雁城)本丸御殿周辺広場/埼玉県指定史跡◆に続く
※2023年5月21日訪問※川越市立博物館と隣接する武道館の間の細長い駐車場を進んで行くと、ひっそりと【川越城虎櫓跡】の石碑か建てられていますかつては二層の堂々たる櫓が建てられていたようですが、現在では武道館の空調設備や、生い茂る木々によって肩身の狭いような石碑の設置場所となってしまっていますね今回、川越城散策の為、事前に地図のアプリを眺めていて偶然に発見し訪問する事が出来ましたが、事前にこの石碑の存在を知らなければ、この場所を訪問する事人はなかなか居ないでしょうね◆武蔵国・川越城(初雁
※2023年5月21日訪問※川越城の【二ノ丸跡】までやって来ました✨現在二ノ丸跡には《川越市立博物館》《川越市立美術館》が建てられています✨川越市立博物館の敷地内に、何やら案内板が設置されており、【霧吹きの井戸】と書かれていました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼現在、川越市立博物館のエントランスの前に古い井戸が残されています。これを霧吹きの井戸といいます。昔、川越城は、たびたび戦の行われた場所でした。いつもは井戸にふたをしていますが敵が攻めて来て、城が危ないという時には井戸の
※2023年5月21日訪問※太鼓櫓跡から東側には【三ノ門】という門が建てられていたようです現在は道路が通り、完全に市街地になっていますね◆武蔵国・川越城(初雁城)二ノ丸跡・霧吹きの井戸/埼玉県指定史跡◆に続く