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さらに伝説の義経を追う。『蝦夷志』は、日本最初の本格的な蝦夷地の地誌で新井白石(1657〜1725)が1720(享保5)年に作成したものだ。白石はこの書に、アイヌ人が義経をまつり、これをオキクルミと呼んで神として崇めていると書いている。彼はこの書にもうひとつ重要なことを書き残している。蝦夷地の西部の地名に弁慶岬というのがある。一説によると、義経はここから北海を越えて去った。彼はどこへ去ったのか。伝説の義経が、蝦夷地から大陸にわたるルートは3つの説があるという。まず、日本海側の
何だか猛暑日続きで全く実感がないが、9月である。先週、帰宅したときに靴下に黒い物体がくっついていて、ギャーッカナブン…と思ったら、コオロギでした秋の虫の声は聞こえてきているから、ゆっくり季節は巡っているんだけど、五郎さんのおっしゃるとおり、今年は夕方にツクツクボウシの声を聞いていないなあ実は8月の最終週が夏休みだったので、運転免許の更新に行ってきました。近くの警察署だと即日交付じゃないので、免許センターまで。バスを乗り継ぐけど、何とか1時間以内で行けるし。…どういうわ
前回の記事で、今回の瀬戸内旅行で、日本の歴史の重要な本質に気づいたことを示唆した。これについて、同じく気づいた自分自身の歴史観へのバイアスについてもセットで、前後半2部構成で書いてみる。瀬戸内旅行は、車・船便・電車・高速バス・徒歩タクシーの組合せで、大雑把に、1日目呉→(とびしま街道経由)岡村港→(船便経由)今治港→日帰りでトンボ帰りし、岡村港→呉→広島2日目広島→宮島・厳島神社→広島市街→(高速バス)出雲3日目出雲大社→松江市内・宍道湖4日目(早朝のみ)出雲市街となっ
新川地区を探索中越前掘児童公園にやってきたこの辺りにかって越前福井藩中屋敷がありぐるりと(三方を)堀囲われていたため、通称「越前堀」といわれたそうです堀の護岸は石積で、積荷の小舟が通れるようになっていたそうですが関東大震災の後、大部分が埋め立てられ残っていた部分も戦後、完全に埋め立てられたそうですやがて、永代通りの新川一丁目交差点付近へ交差点脇に、「河村瑞賢屋敷跡」の案内河村瑞賢は伊勢国の農家の生まれ、江戸に出て材木商人となり明暦3年(1657年)の大火の際に
山形県の一皿が完成。かなりてまひまかかったモノになりました。山形県は日本三大急流のひとつである最上川が流れています。その流れの激しさに、江戸時代の俳人である松尾芭蕉が、「おくのほそ道」で「五月雨(さみだれ)をあつめてはやし最上川」と詠んでいます。その最上川の上流部に位置する米沢盆地で飼育された米沢牛。米沢牛はブランド牛で値がはりました。(笑)米沢牛、山形牛と山形県はブランド牛の産地になります。最上川の下流に広がる庄内平野でとれたお米、はえぬき。はえぬきは
こんにちは。三連休のど真ん中、皆さま如何お過ごしでしょうか?私はいつもと同様、祝祭日は関係ない稼働ですので、いつもと同じペースでやっとります、ハイ。今回は戦国の御仁でもなければ、武人ともいえないお方でございますが、どうぞご容赦くださいませ。では、よろしくお願いします。河村瑞賢(河村瑞賢公園)河村瑞賢さんは江戸時代初期の豪商。元和の生まれですので、家康さん没後すぐにご生誕という感じでしょうか。土木工事や材木屋で財を成し、その後、幕府の公共事業に携わることになったそうです。特に海運
今年は河村瑞賢が日本海、瀬戸内海を経て大阪に至る航路を擁立して350年の年に当たるという。演歌界の大御所五木ひろしさんが北前船という新曲を北前船寄港地フォーラムin秋田で発表という酒田市民の私にとって喜ばしいニュースがyahooニュースを見てたら書かれていました。北前船や河村瑞賢と言えば日和山公園(酒田市)に河村瑞賢の銅像が、そして、北前船(日和丸)の模型が酒田にとっても、北前船は、きってもきれない縁なのである。でも、青森県鯵ヶ沢、深浦、野辺地に行くには、秋田を通らないといけな
一昨日妹と4時間ほど夜中に電話してましておかげさまで寝坊してリハビリをサボりました病院にお休みの電話してまた寝てしまいまして英会話レッスンにギリギリセーフで駆け込みその後エステ行って爆睡しましたおはようございます〜〜〜どんだけ寝るんだって話です昨日はアメ限記事を挟んでしまって〜クイズの答えが遅くなってしまってすみませんでした春色ピンクといえば〜桜かな〜って感じで〜〜あの鯛のオブジェは三重県のものだってわかっちゃうと〜この時期咲く桜といえば〜河津桜ってこと
岡田将生“聖地”は伊勢神宮「パワーをいただける」(オリコン)-Yahoo!ニュースYahoo!ニュース-Yahoo!JAPAN俳優の岡田将生が28日、都内で行われた映画『聖地X』完成披露試写会に登壇した。タイトルにちなみ、自身の“聖地”を聞かれた岡田は毎年、参拝している「伊勢...こころのふるさと伊勢の思い出募集-時事ドットコム時事ドットコム公益社団法人伊勢市観光協会].あなたの記憶の中の伊勢はどんな姿でしょうか?<下へ続く>.伊勢旅行リピーターの方の伊勢の思
本日発売の週刊大衆。日本史ミステリー捜査隊は、江戸時代の商人で航路開拓者の河村瑞賢の特集です。原作/跡部蛮挿絵/萩山明日香次回の掲載は、10月11日(月)です。日本史ミステリー捜査隊をよろしくお願いします。
日和山公園にやって来ました。「日和山公園」は、古くから「酒田」のシンボル公園として親しまれています。「酒田湊」に出入りした船頭衆がここから日和を見て出航の判断をしたことから、「日和山」と呼ばれました。桜の名所でもあり、毎年4月中旬には「酒田日和山桜まつり」が開催され、ソメイヨシノなど約400本の桜が咲き誇り、夜はボンボリでのライトアップも行われます。園内には、日本最古級の「木造六角灯台」や「方角石」、往時活躍した「千石船」などがあり、港町の風情を醸し出して
『近畿の地質的景観』第2回<上町台地>上町台地は大阪平野を南北に伸びる丘陵地・台地である。縄文~室町時代の上町台地周辺は、埋め立ても少なく自然の土砂の堆積で遠浅になっていきました。江戸時代から大地の西側が、埋め立てや安治川治水、大和川すげ替えなどの土木工事が盛んになりました。・「梅田」:大阪駅界隈の大阪の顔。何故,「うめだ」と言う名前?⇒浅瀬を埋め立てたので「埋めた」→「うめだ」。・「大坂城」:大阪のど真ん中の城。何故,本願寺や大坂城がここにあったの?⇒北東西が遠浅の海や湖
●オススメ本『江戸を造った男』こんにちは!変革メンタルコーチKAORIです。→初めての方はブログ総合目次へどうぞ♪あなたの隠れている魅力度がわかる「ブラックテスト」はこちら歴史小説を久しぶりに読みました。そんなに期待していなかったのですが、けっこう分厚い本ですが、感動しながら、一気に読んじゃいました^^この本です♪歴史小説の大家、伊東潤氏による『江戸を造った男』という歴史小説。
6月28日月曜日~その514時半から16時まで四度寝。首のストレッチ。四股10回。体重67・5キロ。飲料は、Coop's毎日続けるカルシウム、のむヨーグルト、GREENDAKARAすっきりしたトマト、松谷化学希少糖含有シロップレアシュガースウィートを加えたアメリカン珈琲。八千蜜屋国産純粋蜂蜜を口に含む。HDDをチェック。(写真)CD-BOX『河内家菊水丸大全集新聞詠み&古典ネタ三十五席十枚組』DISC9~1.「元禄繚乱大石書き損じ掛け軸」2.「伊勢侠客伝神戸長吉」3.「河
6月20日日曜日~その7(写真)CDシングル『豪商河村瑞賢物語』河内家菊水丸(H11年6月10日ロックレコード)をモニター。レコーディングは、5月19日八尾市文化会館プリズム練習室。★外題・153★小品・73★まくら唄・21★ご当地音頭・2★河内音頭以外の歌・24★甚句・2★カラオケ・22★カバー・5
満開の海津大崎の桜。雨模様で観光客も少なく、ゆっくりと楽しめた。4月4日日曜日。予報が的中して小雨が降っている。9時10分家族の見送りを背に、宿泊したルポゼマキノを出発。孫たちは子供の王国が楽しかったようで、午前中はそこで遊ぶという。マキノは8日目にマキノサニービーチ高木浜まで歩いているので、2kmほど重複するが、12時には皆と合流する大浦園地に着くことが出来そうだ。マキノ町は合併されて現在は高島市となっているが、町名として残されている。もともとは、昭和30年(1955)海津、剣
幕府は1年後、今度は出羽国最上郡の直轄地からの御城米の回漕を依頼した。江戸に遁ぶには津軽海峡を経由して東廻り航路を使えば距離は短くなるが難所か多く、安定輸送は困難なため、日本海を西に進む航路を検討した。瑞賢は本州の西端・下関を経由する海路を検討。最上郡から日本海側の出羽国酒田(山形県酒田市)に運び、ここを起点に佐渡島、能登半島、但馬国(兵庫県北部)と日本海を西進し、下関へ。ここから瀬戸内海に入り大坂に届けた。江戸へは大坂から紀伊半島を回って、太平洋を西進し下田を経て入った。江戸まで約3
大阪平野は大小の河川が流れ込み、古来、水害に悩まされてきた。そこで江戸時代前期、治水事茉を展開し、大坂の水害防止に貢献したことで知られるのが江戸の豪商で土木家の河村瑞賢だ。冶水工事で生まれた新たな水路は、船運に貢献し、商都・大坂の発展を支えた。瑞賢は本州の大半をカバーする航路を初めて開発し、物流を飛躍的に砿大することにも貢献しており、その多彩な活動から、国土開発の先駆者だったといえそうだ。「琵琶湖に端を発する淀川は上流から流出する土砂が滞留して、川底が高くなって氾濫する。淀川が海に注ぐとこ
これからは江戸よ。まだうすひげも生えないような13歳の若者は、伊勢国東宮村の故郷をあとにした。貧農の子だったというが、長男だったので口減らしに家を出たのではない。父がこの子の才智を見込んで、次男に家を守らせることにし、江戸に向かわせたという。時に徳川家光の治世である。名を十右衛門といった。十右衛門は江戸へ出て、車力になった。車力とは、大八車を牽いて米俵やあらゆる物資を運ぶ労働者である。いまならさしずめ軽トラの運転手といったところだろう。しかし、この車力生活は細々としたもので、あ
3月6日土曜日~その8(写真)続いて聴いたのは、浪曲カセットテープ『河村瑞賢翁立志伝』真山一郎(H元年キングレコード)です。(写真)H元年6月18日、真山師匠が河村瑞賢生誕地の三重県度会郡南島町の体育館で開催の『第八回河村瑞賢顕彰祭』で此の外題をご披露された際の広報なんとう7月号掲載記事。(写真)それから10年後、伊勢音頭保存会畑嘉也会長を通じて没後三百年記念事業の一環として河内音頭版『豪商河村瑞賢物語』の制作依頼を受けて、ロックレコードよりシングルCDでの発売が決定。レコーディ
山梨独特の「横沢びな」南アの安藤家住宅で公開始まる朝日新聞デジタル1708(宝永5)年に建てられた国の重要文化財、山梨県南アルプス市西南湖の安藤家住宅でひなまつりの展示が始まった。山梨独自の「横沢びな」...80字世界史祝田秀全・著大和書房47NEWS世界史といえば暗記」「いつ、どこで何が起こっているのか、分かりづらくて苦手」「複雑な国際事情が理解できない」―。そんなふうに思っている...『鬼滅の刃』しのぶ、カナヲは実在した?「江戸・幕末」の女性剣士3人日刊大衆
2021年2月21日(日)撮影南伊勢町東宮(国道260号線沿い)の河村瑞賢(かわむらずいけん)公園では河津桜が満開と情報を貰ったので今年も行って来ました。狭い範囲に毎年出かけていますので同じ様な河津桜風景となりますが様子を紹介します。登山道中腹より道路沿い南斜面に咲く河津桜を望む登山道中腹より道路沿い南斜面に咲く河津桜を望む河村瑞賢さんの銅像も今年はマスクをしていました。(関連記事)河津桜&メジロ(南伊勢町東
南伊勢町早咲きカワヅザクラ見頃一足早い春の訪れ三重https://www.isenp.co.jp/2021/02/12/56136/南伊勢町早咲きカワヅザクラ見頃一足早い春の訪れ三重-伊勢新聞【度会郡】三重県南伊勢町東宮の河村瑞賢公園で、早咲きのカワヅザクラが見頃を迎えている。3月上旬まで楽しめそう。カワヅザクラは、オオシマザクラとカンヒザクラの自[…続きを読む]www.isenp.co.jp南伊勢じゃー河津桜、見頃なんかぁー。エエなぁ。同期が今、あの辺りで
2019年5月中旬の門前仲町散策の続き。「伊能忠敬住居跡」「渋澤栄一宅跡」「佐久間象山砲術塾跡」「赤穂義士休息の地」と回った後は、永代橋を渡り、東京都中央区側の史跡を探して散策しました。伊能忠敬住居跡・渋澤栄一宅跡・佐久間象山砲術塾跡・赤穂義士休息の地のレポ『伊能忠敬住居跡と、渋澤栄一宅跡と、佐久間象山砲術塾跡と、赤穂義士休息の地と~東京都江東区の史跡』2019年5月中旬に、仕事で、門前仲町方面に出かける用事があり、またまた、仕事の合間に、歴史散策しちゃいました…(^^;
大阪近辺のお散歩シリーズ。コロナ第三波が吹き荒れる晩秋、大阪市内にある、国土地理院地図上の「記念碑」計17か所を訪ね、写真を撮ってきましたので、その覚書を残しておきます。国土地理院発行の地図には様々な地図記号が記載されていますが、その中に「記念碑」という地図記号があります。以下のような地図記号です。定義は以下で確認できます。https://www.gsi.go.jp/KIDS/map-sign-tizukigou-h07-01-02kinenhi.htm「記念碑の記号は、立像(りつぞ
アカデミー賞受賞で知られる映画「おくりびと」のロケ地として知られる港町「酒田(さかた)」そういえば「おしん」もそうだった・・・山居倉庫(さんきょそうこ)北前船地域貢献に力を尽くしたで面影を観る本間広丘(ほんまみつおか)江戸時代では「西の堺、東の酒田」と称された湊町、河村瑞賢(かわむらずいけん)が西廻り航路を開いてから北前船の拠点として栄え、諸国からの荷で賑わったという当時の繁栄を伝える歴史
定休日の今日は天気も良いし暇なのでひとりで南伊勢方面をドライブしました☺️途中、国道沿いに佇む河村瑞賢さん❗大阪商業の発展に寄与した方❗しっかりコロナ対策なさってます✨さてそこから南海展望公園🎄駐車場🅿️から急な階段を結構上る😅暑かった~😓美しい空と海❗去年行った天橋立を思わせる絶景🙆展望公園の住人とツーショット❤️近くに恋人の聖地見江島展望台がありますが今日はスルー🎵恋人が出来た時、二人で来るとしょう😁おそらく一度も来れずに生涯を終える気がする😅
「霊厳(岸)島(現在の新川1~2丁目)」は、江戸時代初期は北の箱崎島と併せて「江戸中島」と呼ばれていました。その後、「河村瑞賢」により「新川(現在は日本橋川の一部)」が開削され、「江戸中島」とは分離され、四方を運河に囲まれた「霊厳島」となりました。寛永元年(1624)に、霊厳上人により「霊厳寺(浄土宗の大寺。関東18檀林の一)」が創建され、門前町として発展しました。開運の便が良かったことから、「清酒」の倉庫が林立した時期もありました。明暦の大火後、「霊厳寺」は深川へ移転し、代わりに当
江戸時代、物流は主に”水路”を利用して行われましたが、”海路輸送”については、「東廻り航路」および「西廻り航路」を開拓した「河村瑞賢」に負う処大です。瑞賢は伊勢の生まれですが江戸へ出て、車力や人頭頭を務め大変苦労しました。明暦の大火後の”普請ブーム”に乗り大儲けをし経済基盤を固めた後、”東廻り航路”を開拓、そして「西廻り航路」を整備しました。ときの老中/稲葉正則の指示を得て、天領の産米を無事に江戸へ運搬するための航路開拓でした。大業を成し遂げた後、畿内の”治水工事”なども完成させ、御