ブログ記事21件
建勲神社㉛御祭神織田信長公令和6年3月12日参拝御朱印『猪子兵助』御朱印『河尻秀隆』御朱印『斎藤新五』※以上、織田信長公三十六功臣特別御朱印。建勲神社拝殿「猪子兵助」「河尻秀隆」「斎藤新五」御朱印ランキング※掲出の御朱印はこの日この時頂いた「一期一会の御縁」で、今現在も頂けるとは限りません。観光寺社以外は、基本的にアポイントを取ったうえで、先方の御迷惑にならないよう自己責任でお参り下さい。
※河尻秀隆公の墓「河尻塚」案内板…前は草ぼうぼうで、信玄公火葬墓はきれいに整備されてるのにこの扱いは…ほんとに甲府市指定史跡なんですか?と聞きたくなる有様です河尻秀隆公の墓「河尻塚」戦国武将の墓・供養塔シリーズ戦乱の時代は、おおまかに言うと応仁の乱(1467年応仁元年)から大坂の陣(1615年)までで3つのカテゴリに分類されると思います。1️⃣戦国時代応仁の乱(応仁元年1466年)から室町幕府の滅亡、織田信長政権の成立(天正元年1573年)
※JR甲府駅南口に建つ巨大な「武田信玄公銅像」甲府城に行きました!1️⃣100名城No.45甲府城には、今回初めて行きました。かつての甲府城が巨大な城だったことがよくわかりました😃※幕末時の甲府城全景模型(復元稲荷櫓内)…現在、城の二の丸が明治期に国鉄中央線に分断され、かつては三重の堀に囲まれていた巨大な要塞でしたが、二の堀、三の堀は埋められ、現在は内堀と本丸含む複数の曲輪が残っています甲府城日本100名城No.45甲府城は、J
天海⑤秀満は遠山景行(明智光安)の子として明知城で生まれた。その後、叔父である三宅長閑斎の養子となったのである。若い頃から三宅弥平次として、明智光秀に仕え、その娘を正室に迎えて明智秀満を名乗った。遠山利景は実の弟である。素性から言えば明智氏を名乗るべきであろうが、この時代さすがに明智氏の桔梗紋は憚れたであろう。秀満自身も坂本城で死んでいることになっているので、家紋から出自を問われると困るのである。それに関東の徳川領内で活動するのなら、家康の旗本である明智遠山氏の遠山
いよいよ「岩村城跡」の核心部に向かいます。が、その前にもう一度「岩村城」800年の歴史に触れます。鎌倉時代、源頼朝の重臣「加藤景廉」が文治元年(1185)美濃遠山荘地頭に任じられ築城。長男「景朝」がこの地に移り住み「遠山姓」を名乗ります。以降代々遠山氏がこの地を治めます。鎌倉時代初期頃は、平坦部に築かれた砦あるいは城館的なものだったと思われますが、織田氏・武田氏の抗争が激しくなった戦国時代末期に遠山氏・武田氏の手で本格的な城が構築されていったと思われます。㊟織田氏・徳川氏・武
遠山利景⑥「信長公記」『新府を出て候時、侍分、五、六百も候いキ。路次すがら引き散らし、遁れざる者、僅かに四十一人になるなり。田子と云う所の平屋敷に暫時の柵を付け、居陣候て、足を休まれ候。左を見、右を見るに、余多の女房達、我一人を便りとして、歴々とこれにあり。我身ながらも、僉議区爲方なし。さるほどに、人を誅伐する事、思いながらも、小身業に叶わず、国主に生るる人は、他国を奪取せんと欲するに依りて、人数を殺す事、常の習いなり。信虎、信玄より勝頼まで、三代、人を殺す事数千と云い員
遠山利景④「恵那郡史」『信忠は長篠戦勝の余威を以て、大軍を率いて来り囲んだ。秋山伯耆守は座光寺・大島等城兵二千余を督し,険に據り拒守して屈せず以て勝頼の来援を期した。されば城は容易に抜けない。乃ち信忠囲の策を採り、遠巻きにして城中疲るるを待った。冬十一月上旬、勝頼自ら甲信の士卒を催し来援するの報があった。信忠攻城戦を開始してよりここに至るほとんど半歳、その間、中津川に遠山左衛門、竹折に土岐三兵、大川に小里内作、上村に遠山與助據りて糧道を断つあり、城中糧尽きて支
岐阜タンメンを食べに、犬山城から木曽川を渡り美濃国に乱入しました。岐阜県加茂郡坂祝町勝山美濃・猿啄城(さるばみじょう)別名:猿飛城、勝山城、根尾山城標高275.3mの勝山(城山)の山頂付近にある猿啄城跡は、坂祝町指定史跡となっています。岐阜県と愛知県の境の木曽川の北に位置し、木曽川は急流であり、周辺は山となっています。このため飛騨国、東濃から美濃国、尾張国への重要な地点でありました。猿啄城の築城時期は不明ですが、応永年間(1400年頃)、西村豊前守善政が築城する。嘉吉
こんにちは。先日、午後から岐阜県坂祝町の急峻な勝山(284m)の谷を挟んで向かい、城山(265)にある、猿啄城跡に訪れてみました。岐阜市内から20㌔強になります。車では下の道をよく通りますが、初めて登ります。織田信長が美濃侵攻の際に、丹羽長秀を総大将にして、河尻秀隆が主に攻略した、猿ばみ城。その功により、河尻秀隆は城主となりました。河尻秀隆は最終的に甲斐国22万石の大名となったのですが…僅か750mの行程ですが、最初からジグザグの急な登り坂。風が吹き込まない様な地形の道を
史跡巡りの記事です。今回は、岐阜県坂祝町にある猿啄城です。登るのに健脚を要する急勾配の山城です。マイナーな城と言いたいところですが、第1・第2駐車場も満車と家族連れにも人気のスポットです。猿啄城(さるばみ)応永14年(1407)頃には西村豊前守善政、享禄3年(1530)には土岐氏の一族田原左衛門が在城していました。天文年間(1532〜1555)に、家臣の多治見修理が謀叛をおこして猿啄城を奪って城主となりました。織田信長の中濃攻略が始まると、永禄8年(1565)信長の家臣、丹羽長秀・河尻秀
いい城が多いな。駐車場は市役所です。のんびり。。。
うっちーこと宇都宮芳綱です本城主と影城主で1枚ずつ引きましたまずは本城主から続いて影城主ですグフッ!><最近の特ですが戦くじからも出るので、天下くじからは出て欲しくなかったですねお梶の方さんにそろそろ出て欲しいですブログ更新のモチベアップのためポチッとお願いします♪にほんブログ村戦国IXA(イクサ)ランキング
自分の死体がひとつ転がったことで、事態が急展開することがある。大袈裟に言うと、死が政治の道具になるということだ。1582(天正10)年3月に武田氏が織田氏によって滅ぼされた後、甲斐国は織田家家臣の河尻肥前守秀隆が代官として統治するようになった。ところがわずか3か月も経たない6月2日に本能寺の変が発生し、主君織田信長が討たれてしまった。武田氏の旧領を所領していた他の織田家家臣は、武田家旧臣や一揆の襲撃を恐れ次々と自領を放棄して美濃へ撤退していった。統治わずか3か月。いくら
うっちーこと宇都宮芳綱ですえ~合成ネタとしては大したことありませんが、出来立てのほやほやです今アップしないとお蔵入りしてしまうと思ったので、サクッとアップしちゃいますね影城主の方で先ほどこんな合成をしました今月に追加された河尻さんですが、第1候補の黒母衣衆も良いですが、S1の豪槍御手杵も悪くないと思いましたでも、S1を出そうとしてスキル合わせをすると、黒母衣衆が消えてしますし、どちらか
こんにちは2月はブログ更新が15回。ちょいと少なかったなぁ〜城巡りがあまり思う様に出来ていないのもある。今回は夜勤明けでムチを打って犬山城近くの猿啄城(さるばみしろ)へ運動不足解消に(笑)私は知らなかったが身近なハイキングコースらしく思った以上に人とすれ違いびっくりしました。やすちかさんやヨウランドさんは知っている城かも知れませんね。とにかく遺構が少ないのでいつもの登山道ばかりしかありませんがご了承ねがいたい。【猿啄城】築城1407年頃西村善政廃城1575年城郭
河尻秀隆(1527-1582)織田家・黒母衣衆筆頭。天目山の戦いで貢献して甲斐国主になったものの、国人一揆に巻き込まれ殺された。支配国戦国の動乱×飛躍の時×信長包囲網×覇王の後継者×群雄集結×夢幻大転封×天下布武×手取川合戦×本能寺の変甲斐信玄上洛×戦術速攻・挑発・突破難易度☆☆☆☆☆攻略案本能寺の変のドサクサで本部と切り離されたかわいそうな武将。流れで大名になったはいいけど、政治力も戦闘力も使えないレベル。織田家出身
本能寺の変とはなんだったのか71/95本能寺の変の全体像17/412024/08/17ここでは近い内に「本能寺の変の全体像01~16」を読んでいる前提で、その話を進めていく。織田信長の人事。前回の続き。-仮公認は結局認められなかった、または厳しい処置を受けて当然だった枠-水野信元みずののぶもと※本能寺の変の全体像07で先述荒木村重あらきむらしげ※本能寺の変の全体像07で先述松永久秀まつながひさひで※本能寺の変の全体
「武るる日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」お城めぐりの旅、躑躅ヶ崎城の紹介です。武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」の史跡めぐりの旅ともリンクしていますので、よろしくお願いします。城名(別名)住所関連する人物躑躅ヶ崎城(躑躅ヶ崎館、武田氏館)山梨県甲府市古府中町武田信虎、武田信玄、武田勝頼、長坂釣閑斎、跡部大炊助、秋山摂津守、武田信豊、織田信長、河尻秀隆、徳川家康誤字やリンク切れ等がございましたら、コメントにてお知らせく
岐阜は瑞浪の地にて天目茶碗持ちし織田信長と徳川次郎三郎家康像本日は、瑞浪こいのぼり祭りに出陣昨年も出陣致したが、本年も出陣することが叶った、嬉しく思う400年前は、瑞浪の鶴ヶ城を中心に甲斐信濃から攻めてくる武田軍への防衛戦線としてこの東美濃を使った鶴ヶ城には我が家臣、河尻秀隆を入城させ、岩村城攻防戦を繰り広げた河尻は黒母衣衆筆頭格であり、我が弟、信勝との内乱の際に実際に手を下した信頼置ける兄のような存在であった男実際、1575年あたりからの武田との戦は総大将は我が嫡男信忠が勤めた
4月12日。河尻秀隆が入った城だ。初めて来た。向かいの市役所にみんな停めてた。車。ここのベスポジと言われるところは午後、逆光。午前にくるべきか。お城は午前だな。
例によって、な話ではありますが、先の「桶狭間の戦い」に参戦し、新たに顔グラフィックがリニューアルされた武将たちの登用時の必要石高変更が8月1日に行われます。変更となる武将は以下の通りです。森可成/佐久間信盛/河尻秀隆上記に記載のない武将(岡部元信・朝比奈泰朝)はこれまで通り変更ありません。なお、変更は“新規登用時にのみ”適用となるため、既にこの武将たちを登用済みの場合は影響はありません(つまり7月31日までなら今の石高で登用できるということになります)。また、桶狭間の戦いには全く
ヤング信長にとって重宝された河尻秀隆。黒母衣衆の筆頭。信長公の東美濃攻撃において総大将丹羽長秀の先鋒として河尻秀隆が落城させた。織田家を一つにした事件。清州城で信勝を謀殺した人物。その後すぐ近くの武田氏との国境の岩村城主をまかされておりこのことから重宝されていたことがわかる。斉藤氏攻略の足掛かりに小牧山城築城とともに東美濃を攻略した。今は軽いハ
次の月曜日。4/17は月曜マルシェです。今回は岐阜県坂祝町(さかほぎちょう)にある長蔵寺(ちょうぞうじ)にて。この日はイベントとしてここを菩提寺とする河尻秀隆をめぐるトークセッションが開かれます。河尻秀隆って誰や?私も初めてです。いや歴史上の人物ですね。織田信長の重臣として歴史ファンには貴重な存在なのだそうです。こちらに少し表記があります。河尻秀隆wikipediaお花見も終わったし、ど
アウェイ・ヴァンフォーレ甲府戦を見た後、知り合いのアルディージャサポさんを甲府駅に送りました。甲府駅前には武田信玄の像がありました!2015年に武田神社に行きました!http://ameblo.jp/omiyarealdy/entry-12105153751.html甲府駅の後、武田神社には以前行ったことがあるのでパスし、信玄公火葬塚に行きました。元は信玄の家臣の館だったそうです。そこで信玄は火葬されたそうです。近くに河尻塚というお墓がありました。織田信長の家臣の河尻秀隆の墓だそう
「武るる日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」、戦乱の旅、武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」史跡めぐりの旅です。天正10年も2月に入り、いよいよ武田、織田の両軍が動き出します。両軍の動きは、「信長公記」に詳しいので、図にして紹介しようと思います。以下は「信長公記」に記された内容です。分かりやすくするため、記事を色分けしました。赤は武田、黒が織田、寝返りは青です。図も同色になってます。※一部追記し、図も訂正しました。図の訂正:木曽
【問題】織田家臣河尻秀隆は、主君信長が甲州征伐を行った際、どのような任務を帯びていたか?【選択肢】長宗我部氏に備えるため淡路島に駐留した信長の子信忠を補佐して甲斐へ侵攻した徳川家康の目付として駿河国内にいた諜報のため武田氏に偽りの降伏をしていた【正解】信長の子信忠を補佐して甲斐へ侵攻した【解説】河尻秀隆は信長からの信頼厚く、織田信忠の補佐役を任されていた。甲州征伐においても信忠軍団の中心的存在として活躍した。
↓♪こちらからどうぞ♪↓バリエーション豊富ネットショップ☆FREEDOM☆入口★6月のおすすめ商品★↓!!新生活特集!!↓【アウトラストクール敷パッド】『接触冷感素材』【抗菌防臭・防ダニわた使用】¥5,490【ワイドスタンドミラー】『全身姿見鏡』【ワイドスタンドミラー】『全身姿見鏡ホワイト』¥6,350★注目特設コーナー★↓ナナコポイントも使える!↓↓翌日到着便が便利↓↓書籍からなんでもAmazon↓↓!人気絶頂商品!↓↓引越しはやっぱり「安い」が