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「鉄炮鍛冶屋敷」見学を終え、次に向かった先は・・・「清学院」「向かう」って言ったって、隣に隣接してるんで、移動0mって感じ。江戸初期?には修験道の道場であったココ。江戸後期から明治初期には寺子屋になっていて、日本人で初めてヒマラヤ山脈を越えてチベットに入った河口慧海(かわぐちえかい)と言う方もここで学ばれたとか。寺子屋!ヽ(`∀´)ノ5つ玉のそろばんや、使い込んだ硯が渋い!小さな敷地内
(旧Twitter)に投稿した、書籍『チベット旅行記』の自己感想の転載です。読了日9/26:『チベット旅行記』Kindle版明治時代に”日本人として初めてチベットへの入国”を果たした僧侶・河口慧海の紀行作。仏教への飽くなき探究心と執念に基づく行動はすごいが、河口目線による現地状況への蔑視もすごいなというのが通読しての感想...(;ーωー)2)著者河口がチベットへと出発したのは明治30年(1897年)、ラサ到達は明治34年(1901年)、当時のチベットは法王領と清朝の領土とが存
京都のくぼちゃんです。今月6日から、ネパール最北部のムスタン王国を10日間旅しました。2008年まで国王が治めていたこの地は、かつて「禁断の王国」と呼ばれ、現在でも入域には特別許可が必要です。日本を発ち、デリーを経由してカトマンズへ到着。翌朝、プロペラ機でポカラ(800m)に飛び、そこからはジープだけが頼りでした。カリガンダキ川の深い谷を遡る未舗装路は、岩と砂利のガタガタで、車内では体がシートから浮くほど跳ね上がりました。道中の揺れは想像以上で、ただジープの激しい跳ねに身を任せるばかり
現在の世界は民主主義でほぼ整備されている。もちろん共産主義の国もあれば100年ほど前までは王制も多かったが、いずれにしてもほぼ秩序だっていた。だが世界4大文明よりもっと前の人および人の集団はあるがその集団の規範はまだまちまちであったころ、このような「秩序以前の状態」はどんな世界にもあって、これをここでは初期混迷期と呼ぶことにする。本日の話題は、バラバラの個別がどうやって初期混迷期と言う過渡期を経て秩序に至るかである。このことを話題にするのは初期混迷期の方が現状のような固まった秩序期より
地味に食べたかった食品。来年のフィンランド旅行の予習にも良さげな学習教材な“麦こがし“大麦を炒ってから、挽いて粉末状にしたものです。予め炒っているので、再加熱せず食べられる。『はったい粉』という呼び名を漫画“じゃりン子チエ“で見かけたな……地域差?日本では麦落雁といった和菓子に使われますが、昔は広くは栄養食といった認識だったらしい(/ノε`))おかゆと同列?秋田県では駄菓子としてビニールの小袋に入った、砂糖添加の麦こがしが商品化されていたとか。フィンランドで食べられる類似品が
「漫画家・森薫と入江亜季展ーペン先が描く緻密なる世界ー」を堪能した後『【展覧会鑑賞記録】漫画家・森薫と入江亜季展ーペン先が描く緻密なる世界ー@世田谷文学館』漫画家・森薫と入江亜季展ーペン先が描く緻密なる世界ー平日の10時。長丁場になることを予測して早く来たぞい。展示室は2階。チケットはオンラインで購入したが、入…ameblo.jpこの企画展チケットにはコレクション展のチケットも付帯していた。現在開催しているのは「寺山修司展」とのこと。寺山修司か。。己の厨二時代が想起され、いたたま
わが町堺をご案内!本日の来客は、若かりし頃より堺に深いご縁があった業界の大大先輩❣️ネパールの学校建設ボランティアをしている建築関係団体の展示を見に市役所へ行ったり、河口慧海関係のご案内をしたり、日本一低い一等三角点の山に登ったりと山絡みを熱めに❣️堺のうまいものをさらにさらに熱めに🤣9時前集合、真っ暗になるまで、市中引き回しの刑にて七道駅で無事終了!堺市の市役所最上階(21階)から仁徳天皇陵をのぞむ。南海の堺駅近くにある橋上ポルト之助と自称その彼女笑!大昔、私が小学生だった頃に、N
だから、戸惑いがある。楽していたい訳じゃないんだ。分かってるさ、睡眠障害、身体の不調、高くそびえてる壁?まるで、ヒマラヤの中で、ドルポに、ティンギュウ村に向かっているようなんだ。でも、カンツァさんはいないし。河口慧海は、どう乗り越えたんだろ・・!?信念??独り言。愛と感謝をもって。ありがとう!
夫はネパール人🇳🇵夫を知るためにはネパールを知る必要がある。先にも書いたが当時はネット環境がなかったので、本屋、古本屋、図書館でネパールに関する本を読みあさった。河口慧海、川喜田二郎、平尾和雄、トニーハーゲン…懐かしい…。ネパールに1年ほど住んだこともある。ネパールは多民族国家で多言語、多文化、知れば知るほどカオスだった。唯一ネパールに関して断言できるのは経済的に貧しい国であると言うことだった。写真は若かりし頃の夫。
河口慧海河口慧海(かわぐちえかい、1866年2月26日-1945年2月24日)は、日本の仏教僧侶であり、特にチベット研究で知られる人物です。河口慧海は、近代日本において初めてチベットを訪れた日本人であり、その探検と研究はチベット学の発展に大きく貢献しました。経歴河口慧海は、大阪府に生まれ、若くして仏教の道に入りました。仏教の教義と実践を深めるため、インドとチベットへの留学を志し、特にチベット仏教に強い関心を持っていました。チベット探検1900年、河口慧海はチベットに向かい、困難な
***鉄炮鍛治屋敷/お庭/座敷***江戸時代、井上関右衛門さんの鉄砲製造販売は右肩上がり(20年158-1)。だからでしょうね、仕事場と同じ棟の私宅のしつらえも調度も渋カッコいいのよ💛江戸?明治?の武者人形たちも素敵です。当時の人気は三韓征伐の神功皇后&武内宿禰さんや後醍醐天皇&後の南朝忠臣児島高徳さんだったようね。昨今だと金太郎くん?鍾馗さん?ってトコかしら。/三韓征伐=さんかんせいばつ。神功皇后=じんぐう・こうごう(実在すれば300年代?に生きた女性)。武内宿禰=た
今月は大阪の堺市街巡りしてきましたよ思いのほかたくさん巡れたのでまだまだブログネタが続きます3月にOPENした鉄砲鍛冶屋敷資料館のあとは『3月にOPENしたばかりの堺市、鉄砲鍛冶屋敷資料館!』おはようございます。いやぁ、桜が咲きそうでまだ咲かないどころか雨嵐が続く3月下旬、今日はようやく晴れそうね。それにしても春は眠い!眠いわりに何故か早くに目が覚…ameblo.jp『鉄砲鍛冶屋敷でまさかの方に直々説明していただきました。』3月にOPENした大阪府堺市の鉄砲鍛冶屋敷町家歴史館!
明日は祝日なので、今夜はお茶でも淹れてゆっくり本を読んだり映画を観たりして、夜更かししようかな~、、、と、キッチンの棚をあさっていたら、奥からいつの日にか買ったお土産が出てきた。昔、チベットへ行った時に買ったお茶。チベット文字(まったく読めない)の下に"金叶巴扎・蔵茶"って中国語で書いてあり、英語で"TIBETANBRICKTEA"と書かれてある。中身はこんな感じ。↓お茶の葉を固めたもので、団茶と言われる。これは一回分に小分けされているけれど、もっと大きいも
昨日の続きで...鉄炮鍛冶屋敷の裏手から直接、清学院へ入場できるようになっていました。清学院(せいがくいん)1573年に開かれた修験道(しゅげんどう)の道場で、現在見る建物は、江戸時代後期に建築されたものだそうです。左側のお堂の中には不動明王が安置されていました。江戸時代後期から明治5年まで「清光堂」という寺子屋が営まれていたとのこと。この寺小屋に通ったのが河口慧海明治34(1901)年、日本人で初めてチベット・ラサに到達した人です。河
10日目(11月17日)鎮魂の旅の最後の1日はカトマンズ観光をして、夜中の便で帰国の途に就きます。市内観光は78年に行った処と同じ場所で当時に比べて人で混んでいましたが世界遺産に登録されたので建物は殆んど変わっていませんでした。パシュパティナート(ヴァ神を祀るネパール最大のヒンドゥー教寺院)寺院に併設した火葬場で荼毘に付した後の灰は聖なるガンジス川の支流(手前の川)に流し、川では子供達が遊んでいるので生と死が同じ空間にある感じがします。荼毘の順番待ちの遺体が袋に入れられ横た
12月27日満月🌕天之御中主神がお祀りされている神社に行きたくなり、調べていたら堺の月洲神社に繋がったので参拝してきました。南海線七道駅から徒歩8分ほど歩いていると、『鉄砲町』が目に飛び込んできました。さすが堺…堺は平安時代の末期から鋳物事業が盛んで、河内鋳物師と呼ばれる集団が堺に住んでいたので、鉄砲を作る下地があったのだそうです。詳細はコチラ↓中世(鎌倉時代~室町時代)|堺の鉄砲鍛冶について|中学社会|定期テスト対策サイト中世(鎌倉時代~室町時代)|堺の鉄砲鍛冶について。|
河口慧海の「チベット旅行記」を読みました。本当はもう少し前に読んでいたのですが、感想を書くのが遅くなりました。『チベット旅行記(上)』(河口慧海):講談社学術文庫製品詳細講談社BOOK倶楽部仏教の原典を求めて、1900年当時厳重な鎖国をしていたチベットに、困難を乗り越えて、単身入国・帰国を果たした河口慧海師の旅行記です。最高の旅行記かつ、生活・風俗・習慣の的確な記録として、チベット研究の第一級の基本文献です。『西蔵旅行記』(1904、博文館)を底本とし、挿絵も全点収録しています。また
■■転送歓迎■■No.3407■■R05.08.■■4,078部■■■1.「これは世界最大のコレクションであろう」■明治37(1904)年、日露戦争の最中、英国遠征隊がチベットに侵入し戦闘を始めた、というニュースが伝えられた。帰国して2年、慧海は講演と執筆の多忙な日々を送っていたが、このニュースに再度のチベット入りを決意した。戦争の混乱の中では鎖国体制もほころびが出ているだろう、前回の探検では十分収集できなかった仏典
__________(伊勢雅臣)YouTubeの動画制作者が体調不良のため、1ヶ月ほどお休みをいただきました。だいぶ回復してきましたので、そろそろと再スタートさせていただきます。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄■1.「雪と岩の間を旅する」■1900(明治33)年7月4日、河口慧海(えかい)はネパールとチベットを分ける峠の頂上に立った。岩場の雪を払って、荷物をおろし、一息ついて南方のネパール側を眺めると、ヒマラヤ山脈の白い峰々が虚空にそびえている。北
東京国立博物館で開催中の「日本初のチベット探検ー僧河口慧海の見た世界ー」展へ行って来ました。ヒマラヤ山脈の北側に位置するチベットは、19世紀後半から20世紀にかけて、ユーラシア大陸に覇権を争ったイギリスやロシアの侵出を警戒し、外国人の入国を禁じていました。その一方で、政教一致の方針に基づき、生まれ変わりにより継承される転生僧ダライ・ラマが統治することから、知られざる仏教の聖地と捉えられ、世界各国から探検隊が派遣されました。日本からも仏教の源流を求める僧侶が競って当地を目指すなか、明治34年
ちわーっす!!スナメリー☆ジョーでーす(^^)/急に暑さが過ぎ去り、涼しい風が吹いていますそろそろ葉っぱも色づくのかな?この日のランチは上野池之端のベトナム料理おいしいフォーをいただきました不忍池は蓮に覆われています「アタイらも乗っかれるんだよ」ダックちゃん、落ちないでね食後は上野公園を散策涼しいせいか、人でいっぱい上野公園では中秋節のお祭りが中国関連のイベントかと思いきやアイドルのショーが行われていたりカオスな世界を垣間見ましたそして東
堺市博物館で「河口慧海仏教探求の旅」という企画展が開かれています。それと連動企画で講演会がありました。河口慧海は堺市出身の仏教僧。日本の漢語仏典に疑問を覚え、原典を求めるようになり、サンスクリットあるいはチベットの仏典を求めてインドからチベットに行きました。特にチベットは当時鎖国で外国人は入れないため、最初は中国僧として、ラサに入ってからはチベット僧として仏典の習得に励み、大量の仏典を持ち帰ってきた人です。今日は午前中に用事があったので昼から博物館に行きました。講演会は14時からで、1
30日(水)、午前中にテレワークを終えて、午後から鎌倉に行ってきました✨今回の目的は江ノ電のベビースターラッピングトレインの撮影です時刻は午後3時56分当日は市役所通りを歩いて、鎌倉大仏・長谷寺方面へ鎌倉の郵便局は、どこも趣があっていい感じ✨御霊神社へ向かう通りここでは、たまに座って休憩しています✨極楽寺坂の途中にある成就院に到着しました時刻は午後4時40分源氏山から徒歩40分位掛かりますこの時期は5時閉門なので、今回も間に合いました✨当日は強風が吹き荒れて(と言うか穏やか
ようやく下巻読了。上巻に感動し調子に乗って図書館に予約を入れたら届いたのが講談社文庫判だった。読んでしまえとも思ったが、私の読んでいる白水社版とは違って随分とページを飛ばすことになる。それではつまらないので、面倒だが予約しなおした次第。間違えて借りた講談社版と4年前チベットで買ってきた曼荼羅Tシャツさて、下巻、河口慧海はチベットに入国するとシナ人を装ってセラ大学に入学する。ひょんなことから法王ダライ・ラマに召され侍従医にまで上りつめる。そして仏法を学び目的を達成する。が、日本人であることがバ
今日は晴れ☀️蒸し暑いです残暑ですね!初めての東京国立博物館特別展として『故宮博物館展(紫禁城)』が開催中(チケット別売り)でしたが連れの目的はこちらのチケットで入れる『チベット仏教の美術』の企画展河口慧海さんがチケット方面へ旅した時に持ち帰ってきたものなども展示されてました連れは結婚前にチベットへ行った事があって大変興味があるのです展示ブースは小さいものでしたが見応え充分この『総合文化展』チケットで国立博物館内の展示室の殆どを見る事が出来ますおお〜
河口慧海(かわぐちえかい)1866年大阪堺生まれ。哲学館などに学び、東京本所の五百羅漢寺の住職となる。のち僧籍を離れ、仏教の原典を求めて1900年チベットに入る。我が国最初のヒマラヤ踏破者。日本チベット学の始祖。その後も中国、インド、ネパール、チベットを訪れ、「在家仏教」を起こす。1945年没。チベットへ行きたい。チベットの地へ我が身を連れて行ってあげたい。仏教の原典を肌で感じたい。私自身仏教徒ではないのですが…来秋を目標にチベットへ行って来ようと思います😊そんなふうに
時々会う友人(4)照葉樹林文化、植物園に行って飲んで帰る電車を乗り継いで長居植物園にやって来た。ここは大阪市営の自然史博物館も備えている公園だ。時に陸上競技、J1のサッカーもある。週の真ん中で人手は少ないと思っていたがなかなか来園者が多い。入園料は200円と安い。家にある雑木の葉刈もある程度終えたのでのんびりと遊びに来た。それに時々会う友人とも飲み会がある。入口付近には見終えた小学生の団体が見えた。本当はもっと静かな雰囲気を期待したがこの都会では難しい。植物は豊
以前、ここに書いた河口慧海(かわぐちえかい)『チベット旅行記』を読み終わりました。けっこう長かったのですが、とても面白かったです。自分が面白く感じるのは、文章や内容が面白いこともありますが、自分自身が探検にあこがれを持っているからだろうなと思います。慧海がチベットに行った目的は仏典を求めてでしたが、当時チベットは鎖国しており、そこに入っていくのに南からヒマラヤ山脈を越えていきましたので、チベットに入るまでは登山家のようなことをしなければなりませんでした。またそれだけでなく、チベットに入るために中
こんにちは。ご訪問ありがとうございます。幸水晶光音(こうみずきりのん)です*はじめての方はこちら(自己紹介)をご覧くださいねチベット旅行のもう一つの出会い勇敢で情熱的🔥日本人僧侶河口慧海2016年にチベットを旅した際に僧侶の学校セラ寺を訪れました中庭では、僧侶たちによる仏教教義問答が行われていましたセラ寺には日本人僧侶、河口慧海の写真があり、師匠が慧海の弟子だったという僧侶に偶然出会いました明治時代、真の仏典を求めて当時
明治30年(1897年)にチベットを目指す泉州(現在の大阪府)・堺の出身河口慧海さん(明治36年-昭和20年80年の生涯)仏教を学ぶうちに訳されたものではなく本当の仏教を知るために経典を求めインド→ネパール→チベットへ旅をしました日本人で初めてネパールやチベットに入った人です彼の自伝を買い読みました自由な旅ができる時代ではなかったのでスパイと疑われないようにいろいろ画策をしてインドでまず三年かけてチベット語を勉強してから。。ほとんど徒歩で(時々馬、ヤク